心配だったイチロー選手が可なり大丈夫なところまで来た。9月19日現在、残り15試合で7本の安打で10年連続200本安打の記録更新となる。でも、打撃は不意にノーヒットの陥穽にはまることがある。2試合に1本でいいペースだが、2試合で達成しても構わないのだから、一日も早く安心させて欲しいモノだ。無論、それはイチロー本人が一番思っていることだろう。
記録と言えば、大相撲も大変だ。白鵬が今日、中日、旭天鵬に勝って55連勝!名横綱双葉山の69連勝にあと14と迫った。いやいや、14連勝ですら至難の技なのだが、果たして、モンゴル力士が日本人横綱の記録を塗り替えるのか!相撲協会も微妙だろうな。
大相撲と言えば、大関魁皇も様々に記録更新中だ。通算勝ち星、幕内勝ち星、大関在位、カド番脱出回数等々。満身創痍で奮闘している!
しかし、残念なことに僕には誇れる記録は何もない。せめてもの記憶の羅列が今回も続く。
■遊びの中に在ったWAR!■
――『ぼっかんすいれい』。小学校の校庭でよくやった男の子だけの遊びで、僕はこれが好きだった。二組に分かれ、帽子のかぶり方でその役割を決め、相手の親玉をやっつければ勝ちだ。「ぼっかんすいれい」は「すいらい」というところもあるようだが、では「ぼっかん」とは?「すいれい」とは?それに興じていた僕たちでさえその意味を把握していた訳ではなかった。ところが、大阪辺りではこれを「すいらいかんちょう」と言う。漢字にしよう。『水雷艦長』である。こう書くと、遊びの色が見えて来る。これがウィキペディアにあった!
『水雷艦長(すいらいかんちょう)または駆逐戦艦(くちくせんかん)・駆逐水雷(くちくすいらい)』
〜軍艦の艦種ごとの特性をじゃんけんのような三すくみで応用した、鬼ごっこと戦争ごっこを併せた日本の子どもの屋外遊びの一種。第二次世界大戦前から昭和40年代に入った頃まで男の子の間で盛んに遊ばれたが、遊び方の重要な小道具となった前つばのある帽子を男の子がかぶらなくなるのに合わせたかのように廃れた〜
まさしく、戦争が生みだした男の遊びだ!
――しかし、如何せん記憶が曖昧だ。帽子のかぶり方は、つば――これを僕の生まれた飛騨地方では‘ひさし(庇)’と言っていたのだが――を前、横、後ともうひとつ斜め前に被り分け、役を決めていたはずだ。「水雷艦長」より一役多い。その呼び名は「たい」「すい」「もく」「かん」????どうも自信が無い。
――だが、「ぼっかんすいれい」という呼び名が意味不明な分、僕たちもそれが軍艦から来ていて、ましてや海戦を体現したものだなどとは思ってもいなかった。
――親玉がやられると、組を変えて、役を決め直し再開。そのうち授業開始のベルが鳴って教室に戻るのだった。僕はひさしを後ろに被り、結構自由が利く「すい」が好きだった。
――家に「戦争カルタ」というモノがあった。絵札は戦闘シーンか銃後の生活であったと思う。字札(言葉)の方は殆ど覚えてないが、当然、戦争に関する事、それも鼓舞推奨する文句だっただろう。
例えば、「い=慰問袋の御礼は鬼畜米英皆殺し」
「ろ=盧溝橋から始まった聖戦の末の世界平和」
「は=八紘一宇は東亜の夢、日本の使命は果てないぞ」
とかいったとんでもないものではなかったかと思う。
――そんな中に加藤隼戦闘隊のものもあったと記憶するが、どれも漢字が多くて読みづらく、聞きなれない言葉(用語)もあって子供には親しめるものではなかったのでこれで遊んだ記憶はない。
――ついでに、カルタではないが、今で言うカードゲームがあった。『家族合わせ』という名前で。きっと少女雑誌かなんかの付録だったと思う。確か父、母、子供ふたり(男女)という家族が7〜8組あって、馬場抜きの要領で家族を揃えるゲームだったと思う。直接に戦争の要素はなかったが、家族は「金満家」「政治家」「医者」「先生」などがあって、その名前が「金満家」だと金田欲太郎みたいな感じで、そのあからさま感が時代を思わせるゲームだった。
――これを姉と遊んだことは確かだが、その他は誰だったのだろう?お盆とかに来ていた従兄弟たちだったろうか。ともかく、「家族合わせ」と言うタイトルだったが、両親とかとはやったことはない。それは間違いない。貧乏暇なしで、仕事と家事に追いまくられている栄太郎さんと幸さんには、子供たちとゲームをする、そんな時間はなかったのだ。
――遊びと言えば、絵を描くこと。従兄弟に優夫(まさお)さんがいた。僕より4つぐらい上だったろうか。何かと器用な人で、その人が絵を描いてくれたことがあった。
――但し、その時は地面にだった。僕の家の風呂場の前の細かい土の上。描いてくれたのはプロペラ戦闘機。真正面からと、横から。地面だから陰影とか、奥行きと言うような微妙さはないが、あっという間に2機を描き上げ、まさおちゃん(※飛騨地方では近しい年上をちゃん付けで呼ぶ。それが全国的には変だということを知ったのは18歳で大阪に出て来た時だった。今でもそうなんだろうか)は手に持っていた木片を捨てた。
――シンプルな線だけの絵、僕はその正面からの絵は今でも描ける。岡上優夫ちゃん。亡くなってもう何年になるのか。
――そう言えば、この頃の遊びは基本的に屋外で、何かしら地面に描いて始まった。『相撲』や『三角ベース』『チョンベース』など、ありもののスポーツは勿論だし、『元大中小』『イモ取り※イモ出し、だったか?』『下駄隠し』などの、結構体を張るものから、『障子取り』『丸取り』『箱入れ』『チョンパ※名前が違うかも』まで、とにかく土の上がゲーム盤だった。
――しかし、そう言う中には戦争が混入したり、臭ったりしたものは殆ど無かった。
――僕は時折、少年雑誌を買った。当時の少年にとって漫画は娯楽の王道だった。僕が一番好きだったのは『少年』。次が『少年画報』、そして『少年クラブ』。他に『日の丸』『ボクラ』『冒険王』などがあったが、なんせ「鉄人28号」と「鉄腕アトム」がある『少年』は圧倒的だった。つけ加えると、そのビッグ2と並んで、僕は堀江卓の「矢車剣之介」も好きだった。
――そういう少年雑誌の付録に紙で作る車や飛行機があり、その中に「戦闘機」や「戦車」や「戦艦」が入っていることがあった。しかし、その殆どは戦時中のそれらではなく、最新鋭の武器であった。例えば、僕が良く覚えている物に「F104Jスターファイター」があった。それは航空自衛隊が1962年から採用するようになった主力戦闘機で、マッハ2という最高速度から「最後の有人戦闘機」ともいわれた代物である。『少年』はその機を捉え、恐らくその前後に付録として採用したと思われる。台紙にF104が部分ごとに印刷されている。本体、主翼、尾翼、車輪、操縦席・・・・。それらはミシン目によって切り取り易くなっていて、それぞれを取り出し、‘のりしろ’に糊を付けて貼り合わせて作るのだ。製作時間、3時間ほどだろうか、完成する。しかし、飛びもしないし、音も出ない。そのまま、勉強机の上に置かれるのだが、不思議なことに、2、3カ月後、いつの間にか無くなっている。捨てた記憶は無い。いつの間にかだ。
――但し、そういうモノに戦争の脅威や影を感じたり読み取ったりすることは全く無かった。戦争の恐怖や罪悪、非人間性など誰も教えてくれなかった。歴史の先生さえ。
――更にこの手の付録にトランプが多かったのだが、今なら歌手や、お笑い芸人や、俳優、アイドルなどのそれが横行するのだろうが、そういう派手で、軟弱で、下手をすると不埒とも言われそうなモノは例え大衆少年雑誌といえども扱ってなかった。ひょっとすると、当時の少年への世間的な目や期待は何かと言えば‘明るく元気な男の子’であったから、そうした戦後的、希望的思惑を壊すと思われる価値観の導入は出版社のほうから意図的に避けたのであろうか。それとも、文部省の方から通達があったりして。
――で、付録のトランプだが、その絵柄に戦闘機や戦車などの武器が採用されることは少なくなかった。しかも、そこには第二次大戦中のゼロ戦や飛燕や隼、紫電改などが雄姿を表し、それに負けじと外国のグラマン、スピットファイア、ユンカース、メッサーシュミットなども登場していた。しかし、それで遊ぶ僕らには、紙で作ったF104と同じように、ゼロ戦より飛燕のほうが、グラマンよりスピットファイアのほうが強い、かっこいいという次元の頭しかなかった。戦争の何をも思わず普通に7ならべやババ抜きを楽しんでいた。
――戦争と言えば、子供には(戦争ごっこ)。ところが僕たちは(チャンバラごっこ)はよくやったが、(戦争ごっこ)は皆目と言っていいほどやらなかった。何故かはわからないが、遊び道具は買って貰うのではなく、自分で作る世代の僕らには、銃よりも剣の方が作り易かったということはあると思う。
――昭和30年代、家の周囲や通学路で製材してある木片を見つけることは難しくなかったし、山へ行けば恰好の枝で直ぐに剣は作れるのだった。更に、鍔(つば)を付けようと思えば、釘は何処にでも落ちていたのだった。それに比べると、銃は拳銃でも兵隊銃でも、全部が木では盛り上がらないし、かと言って、銃身に持ってこいの金属棒などおいそれと見つからない。更に長さの問題がある。短いのは論外だが、長い時にそれを切る手立てが無い。勿論、弾巣や撃鉄は作るのも、取り付けるのも不可能に近い。そんなこんなで、剣に走り、チャンバラごっことなったようだ。
――その裏には、先ず、映画全盛の当時、チャンバラ映画が大衆娯楽の大目玉として君臨していた事実がある。時代劇とその俳優たちは東映と大映の大ドル箱だったのだ。奇羅星のごとくと言われた俳優たちがスクリーン狭しと刀を振るい、悪人どもを斬り捨て、美女を救い、事件を解決していた。長谷川一夫、嵐寛十郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、高田浩吉、鶴田浩二、中村錦之助、市川雷蔵、大川橋蔵、東千代之助、勝新太郎、そして山本富士子に美空ひばり。松方弘樹や北大路欣也はまだ若手だった。
――また漫画にチャンバラモノ、剣士モノが多かったことも挙げられるだろう。御存じ『赤胴鈴之介』、前掲『矢車剣之介』、そして、『白馬童子』『高丸・菊丸』などがあるが、それに加え、この頃忍者漫画が登場したことも後押しになったはずだ、『サスケ』『カムイ伝』『伊賀の影丸』などがあり、ちょっと異色なモノに『少年忍者部隊月光』とかがあった。
――これに勢いを与えたのはテレビ。『赤胴鈴之助』『白馬童子』『矢車剣之助』などは漫画原作のテレビドラマとして直ぐにテレビに登場したし、他に『風小僧』『新吾十番勝負』『変幻三日月丸』などがあった。
――ところが、今回調べたら、僕の知らない番組がワンサカと出て来た!どうやら、家にテレビの無かった僕はチャンバラに限らず、平均以上にはテレビ番組を見ていなかったようだ。更に、中部地方の山間部ということもあり、もともと放映数が少なかったこともあると思われる。テレビ黎明期の日本の少年の一断面である。
――と、‘昭和30年代のチャンバラ’を映画と漫画とテレビについて書いたが、これは田舎の少年の記憶の一遍で、日本を席巻したチャンバラの実態はこんなものではない。それを書く余裕はないが、往時の雑把であることをお断りしておく。
――しかも、‘戦争’からそれた。結局、戦争ごっこはやらなかったし、流行ってなかったのだから書くことがない。戦争への批判や反省は日本中に溢れていたのだが、だからと言って、戦争ごっこをやっていて先生や大人たちに咎められたというような記憶もない。男の子が戦争ごっこをやらなかった。道具が作りにくかっただけではないはずだ。何故だったのだろう。
以下、『僕の周りのWAR』、次回以降に続く。
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さて、9月10日、無事(?)魁塾全体公演『ドレミテ・モ・ナゲテル』終了。御来場下さいました皆様、本当にありがとうございました。
次回、全体公演をお楽しみに!
そして、3回連続の宣伝!
かわら長介Produce『コント衛門』2・望郷篇〜あと53回〜
10月9日(土) 弁天町「世界館」
18時開場 18時半開演
前売り2000円 当日2300円
所謂コントライブです。その全容が漸く明らかに!コントのタイトルとその見どころ!
●『出動刑事』〜犯人逮捕に向かう刑事達に送られる、紅署名物赤坂巡査部長の必ず士気を高める訓示とは!
●『ロープ』〜見合いの席に太く長いロープを持った男が!
●『腕相撲親子』〜息子が生れて以来父子の間で闘われてきた腕相撲。オヤジ越えを願う親父が、その日正体を現わす!
●『怪々駐々車々場!』〜全体公演で上演されたものが役者を代えて甦る!嗚呼、駐車場の奇怪!
●『癌治癒』〜死刑囚が癌に!余命と執行日の間で生きる男に国家権力の下した答えは!
●『引きずる人々』〜犯罪により娘を失った家族とその恋人の最後の刹那!
●『それぞれの愛のカタチ』〜忘れ難い昔の恋人を求めてもう一度旅発つ男。その悲しみの事情は体の内と外にあった!
●『小さな小さな・・・本当に小さな世界』〜名監督と名俳優織りなす、プライベートフィルムへの情熱とこだわり!
●『What Are You Doing?』〜世界中からやってきた何をやっているか不思議な人間ども!
と、現在9本!必死に稽古中!真剣に覚え中!皆が憑依中!そして苦闘中!
自由度が増し、その分過激さも増しました。生ぬるいテレビとは違う、必笑コントをお楽しみに!
ええ、ご迷惑とは思いますが、近しい方にはメール、或いは手紙でお願いともども御連絡致します!お待ちください!!!!!!

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