白鵬が負けた。
今日、11月15日、大相撲九州場所2日目の結びの一番、昨日まで63連勝中だった横綱白鵬が黒星を喫した。
対戦相手は平幕の稀勢の里。決まり手は寄り切りだった。
目指していたのは大横綱双葉山の69連勝。白鵬の敗戦はその偉業を際だたせる出来事でもあった。
そして双葉山は70連勝ならなかったその日、「我、未だ木鶏(もっけい)たり得ず」と恩師に打電したという。
‘木鶏’とは、『荘子』にでてくる話で、鍛えられた闘鶏が木彫りの鶏のように静かであるさまを言い、双葉山はそうあるべく目標に定め相撲道に精進していたのである。
謂わば、双葉山自身が己が心の至らなさを痛感したわけである。
ところで、今日の結びの一番直前、NHKのアナウンサーが白鵬の言葉としてこんな事を伝えていた。
「私は今、心技体のなかでは一番‘心’に自信があります」
僕は思ったものだ。‘こころ’に自信?それは言い過ぎだろうと。
勿論、僕などは横綱の苦悩や重責や大きさを分かるものではないが、‘こころ’に自信などと誰が言えるであろうかと。その言葉は甘さの現れであり、ある種の傲慢であり、言ってみればスキなのではないだろうかと。
果たして、白鵬は立ち会い直後、稀勢の里の張り手に平常心を失ったように、顔を真っ赤にして同じ張り手で応戦した。解説者も我を忘れたように言った。そして稀勢の里に得意の左を差され、土俵下に転がった。
‘心’は難しい。白鵬に驕りがあったと僕は見る。
負けた己を「木鶏たり得ず」と言った双葉山。白鵬はなんと銘じるのだろう。
これで、大相撲から大きな話題が無くなったことも事実。あの観客の入り。大丈夫か日本の国技、大相撲!
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そんな相撲の喧騒の数日前、谷啓さんが亡くなった日から2カ月後の11月11日、『谷啓さんとお別れする会』が都内で開かれた。
その日僕はたまたま東京にいたが、関係者のみに限られたそれには参列できなかった。
テレビのニュースでも新聞でもそれは取り上げられていた。その中から2件抜粋してその模様を伝えたい。
先ずは
‘gooニュース’より。
自宅で転倒し、9月11日に脳挫傷で亡くなった、タレント谷啓さん(享年78)のお別れ会が11日、都内のザ・プリンスタワー東京で行われた。会にはクレージーキャッツのメンバーで、残された犬塚弘(81)桜井センリ(80)のほか、所属事務所の後輩ら、多くの芸能人を含む約800人が参列。口々に「シャイな人」と振り返り、涙で谷さんとの別れを惜しんだ。
生前、谷さんが演奏した「スターダスト」が、会場内に懐かしくも寂しげに流れ、参列者の涙を誘った。享年と同じ78本のロウソクに彩られた祭壇には、17年ほど前に撮影した、柔らかく包み込むような笑みを浮かべた谷さんの遺影が飾られた。さらに、最後まで愛用したトロンボーンが立てられ、新品の譜面、鉛筆も供えられた。
犬塚は弔辞で「2、3年たったらみんなのところに行くから、向こうでクレージーキャッツを再開しよう」と呼びかけた。報道陣の取材にも「ハナ肇が最初に逝ったときもショックだったし、植木等のときも…でも今回が一番つらかった」と声を詰まらせた。
谷さんはネタ作りの最中に「こんなの、どう?」と裏からネタを出し、決して自分の手柄にしなかった。また住んでいた寮でハナ肇さんから「クソしに行くのか?」と聞かれると、「そんなこと、するわけないでしょ」と激怒するほどシャイだった。一方で93年にハナさんの通夜が終わった後、犬塚と植木さんが話をしていると、目前に現れた谷さんは突然右足の靴下を脱いだ。足の裏には「お先に失礼」と書いていたという。そうした思い切った笑いのセンスが魅力だった。
後輩らも、シャイで笑いに貪欲(どんよく)な谷さんをしのんだ。中山秀征(43)は「あの笑顔で、すべて和むエンターテインメントの神髄」と脱帽した。恵俊彰(45)は「ホンジャマカを組んだとき(事務所の)トイレでごあいさつしてから、ずっとさん付けで呼んでいただいた」と話した。アグネス・チャン(55)は「クイズ番組でコンビを組むことが多かった。『思いついたことを言えばいいんだ』と励ましてくれて落ち着けた」と涙した。
お別れの会が終わった後、犬塚と桜井が2ショットで報道陣の撮影に応じた。桜井は「オレ、ガチョーンじゃないもん」と、谷さんのギャグを披露。谷さんは亡くなったが、心の中で生きている…そう言いたいかのようだった。
そして、もう一報、‘
中日スポーツ’から。
9月11日に自宅階段で転落し、脳挫傷のため亡くなったミュージシャンで俳優の谷啓さん(享年78)の追悼会「谷啓さんとお別れする会」が11日、東京・芝のザ・プリンスパークタワー東京で行われ、約800人が列席し、冥福を祈った。
クレージーキャッツのメンバーとして55年間にわたり親交があった犬塚弘(81)は、友人を代表してあいさつ。7人だったかつてのメンバーは次々に旅立ち、いまは桜井センリ(80)と2人になった。犬塚は「桜井と2人っきりになっちゃったよ。寂しいよ。あと2、3年でみんなのところに行くから。また向こうでクレージーを再開しよう」と涙ながらに天を仰いだ。
ランやキキョウの白い花々で飾られた祭壇には、谷さんが最後まで愛用したトロンボーン、真っさらの譜面や鉛筆が置かれた。また、享年に合わせて78本のろうそくがちりばめられ、遺影をほのかに照らした。遺影は、17年前に芸能活動用に撮影された一枚だった。
参列者が花を手向ける中、谷さんのトロンボーン演奏や、所属した渡辺プロダクション50周年記念として、06年に谷さんと松任谷由実(56)がデュエットした「STILL CRAZY for YOU」などがBGMとして流された。
同曲をプロデュースした由実の夫の松任谷正隆氏(58)も来賓としてあいさつ。「一緒に作った歌は僕たちの大切な宝物になりました。永久磁石のように心に刻まれています。きょうの会は谷さんのギャグのような気がして、いまにも谷さんが出てきそうな気がします。どこにいても人気者でいてください」と語りかけた。
映画「釣りバカ日誌」シリーズで05年まで、谷さんと共演した西田敏行(63)は「谷さんとは演技をしているというより、音のセッションをしているような楽しさがあった。05年の共演で、なんとなく、これが最後になるのかなという雰囲気はあったのですが…」と目頭をぬらしていた。
◆加山雄三(73)の話 同じ時代をすごしたものとして寂しくなります。一緒にステージに立ったこともあり、すっごく親切でいい人だった。口数は少なかったけど、的確なことをおっしゃってましたね。
◆小松政夫(68)の話 クレージーキャッツも7人いたのにね…。言葉がないです。谷さんらしくない死に方で、天寿を全うしたとは思えない。シャイでやさしかった。信じられなくて、まだお別れの気分にはなれません。
◆内田裕也(70)の話 クレージーキャッツの前座として、谷さんとは全国を一緒に回ったこともあった。ある時、谷さんに顔は笑ってるけど、目はきついねって言ってしまったことがあって。そのことをずっと後悔していたので、きょうは遺影に謝ってきました。
◆主な参列者 アグネス・チャン、いしのようこ、犬塚弘、内田裕也、加山雄三、小柳ルミ子、桜井センリ、せんだみつお、高見恭子、仲本工事、中山秀征、西田敏行、ビビる大木、布施明、藤村俊二、松任谷由実、松本明子、ミッキー・カーチス、恵俊彰、モト冬樹、ネプチューン、RAGFAIR、我が家
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そして2ヵ月前、谷さんが亡くなられた直後にも多くの人が新聞や週刊誌上で追悼の言葉を述べていた。今、改めて、それらをここに載せる。
――先ずはとうとうふたりになってしまったクレイジーキャッツのメンバーである
犬塚弘(81歳)さん。
「先ほど、谷のマネジャーから連絡を受けた。大切な友が突然、消えてしまった。ショックで寂しい。谷とは相性が良かったし、互いに酒が飲めないこともあって、黙っていても気が合った。地方公演でみんなが遊びに出掛けても、2人で部屋に残って自然でいられた。よく動物園に行っては動物をからかったりした。あうんの関係だった」
谷さんは恥ずかしがり屋だった。ペギー葉山のマネジャーだった妻和子さんになかなかプロポーズできず、業を煮やした和子さんの方からプロポーズしたという。
「引っ込み思案の方だった。出しゃばらないし、自慢話もせず。目立たないように振る舞う人。優しくて周囲に気を使い、いつも静かに楽しませてくれた」。
最後に会ったのは昨年初め。谷さんが案内役を務めたNHK教育「美の壺」にゲスト出演した時だった。
「普段と変わらない感じで、『どう?』と聞いたら『大丈夫だよ』と言っていた。まさかこんなに早く逝ってしまうとは思わなかった。谷と会うと、いつも互いに顔を指さして『うんっ』と聞くと『うんっ』と答えた。このしぐさで『元気か』『良かったな』というあいさつになっていた。言葉に出さなくても、すべてを分かり合えた」。
仕事を離れてもいい仲間だった。いたずらっ子だった谷さんは大好きなホラーもののマスクをかぶってクレージーの仲間を驚かした。みんなの前でトランクを開けると、中に1000円札の束でぎっしり詰まっていたが、もちろん本物は上の1枚だけで、あとは新聞紙。驚かせようと前日から準備していたという。
「よく仕事が終わると離れ離れになるお笑いコンビがいるけど、クレージーは仕事が終わってから、みんなで集まって騒いでいた。本当に仲が良かった。今ごろは天国でハナ(肇)や植木(等)と会って、互いの顔を指さし合っている姿が目に浮かぶよ。今日は谷の家の方角に手を合わせて冥福を祈ります」
◆桜井センリ
なんで?谷啓が・・・・
僕より若い谷啓が・・・・
イタズラ好きで。コーヒー好きな谷啓が逝っちゃうなんてまだ信じないよ僕は。なにほら吹いてんだよ?谷啓。なんでだよ谷啓。
――続いて、クレージーキャッツのお弟子さん達。
◆なべおさみ(71)
最後に会ったのは今年の春。僕のことが分からない状況で、ずっと泣きました。
ハナ(肇)さんの付き人だったが、いつも遊んでいたのは谷さん。ハナさんから「お前俺の付き人だろ!俺のこともやれよ!」と年中怒られました。1週間ほど谷さん宅に泊まり込んで麻雀をやり続ける日もありました。
ある時、お金を借りに言ったら貸してくれないんです。後日、「(渡された)本の36ページを見てみろ」と言われ、本を開くと30万円が。そういう人が谷啓なんです。
思い出は、山ほど私の青春の中に埋め込まれています。芸能界で1番失いたくなかった人でした。
◆小松政夫
思慮深くてそう明で、そしてとてもシャイな人でした。簡単に逝ってしまう人じゃないと思っていたんで、本当に頭の中が混乱しています。
◆島崎俊郎
谷さんには作家・島崎藤村から取って「とうそん」と呼ばれていた。「何万回も『とうそん』と呼ばれ、数え切れないほどの思い出がある。その言葉の響きが今でも頭に残っています」。付き人に対しても、同じ目線に立ってフランクに話してくれる人だった。
――続いて、兄弟分でもあった『ドリフターズ』の面々。
◆加藤茶(67)
残念です。天国であのトロンボーンの音色を響かせてください。
◆志村けん(60)
音楽ギャグを考えさせたら日本で右に出る人はいないくらい好きだった方です。残念でなりません。
◆高木ブー(77)
私と同じ中央大学音楽研究会で同じ釜の飯を食べた先輩であり、尊敬していた先輩であります。谷さん、まだ早いんじゃないの?
◆仲本工事(69)
コミックグループの大先輩、クレージーキャッツ、僕たちが目標にしていた谷さん…。とても悲しいです。
――そして、日本テレビのドラマ『シャボン玉が消えた日』で谷啓役をやった俳優・
小倉久寛(55)
大変驚きました。そして大変ショックです。お人柄、芸風ともに大好きでした。谷さんの役を演じさせていただきました。緊張しましたがワクワクしながらやらせていただいたことを覚えております。
――更に、関係の深かった人々。
◆小野やすし(70)
先日、谷さんのお宅にうかがおうと電話したら、奥さんから『主人の具合があまりよくなくて…』と言われ。無理にうかがうのも失礼と思ったんですが、今となっては行っていればよかった」。弟のようにかわいがってくださいました。谷さんのような天才的な人は出てこない。バンドでおもしろいことをやっていたクレージーキャッツを追いかけていた僕にとって、谷さんに声をかけてもらえた時、すごくうれしかったのを覚えています。
もう10年以上前になるけど、自宅がすぐ近くにあった時は、しょっちゅう谷さん宅でマージャンをやってました。仕事よりむしろ、遊んでいる時の方が冗談がポンポン出た。根っから、人を笑わせることが好きな人だったですね。
◆堺正章
温かみと洒落っ気があった。トロンボーンを吹き、ちらっと見せる笑顔が良かった。『(トークには)リズム感がすごく大事だよ』って、よく言われました。同じミュージシャン出身だから、同じモノを感じてくれていたのかな。
◆小堺一機(54)
あこがれのクレージーキャッツ、すてきなトロンボーン奏者、味のある役者として尊敬する先輩でした。ドラマで共演させていただき、1度はトロンボーンを一緒に吹かせていただき、とてもうれしかった思い出があります。とても寂しいです。
◆中村玉緒 2003年にNHK大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』で共演させて頂き、しょっちゅうお話させて頂きました。とても優しい方で、思い出が甦ってきます。
――谷さんと同じ渡辺プロダクションのタレントさん達。
◆恵俊彰(45)
突然の訃報に言葉を失いました。本当に残念でなりません。
◆石塚英彦(48)
谷さんにお会いしたのは、今から20年以上前のテレビドラマが最初でした。あれだけ偉大な方なのに腰が低く、ボクのような若手が、控室で席を譲ろうとしても座らない方でした。芸能界の大先輩というコト以前に、人として尊敬できる方でした。大変残念です。ご冥福(めいふく)をお祈りします。
◆中山秀征
いつも優しく話しかけてくれた谷さんが、お亡くなりになられてとても残念です。とにかくお洒落で、音楽の大好きな谷さん、天国でまたハナさん、植木さんとクレージーを続けてください。
◆ビビる大木(35)
谷さんはお会いすると『○○見たよ!』、『○○おもしろいね!』と僕が出演した番組を見てくださって、ほめてくださる大先輩でした。コント番組で共演させていただいた時に、『生』ガチョーンを見たときの興奮をハッキリと覚えています。心優しきエンターテイナーの谷啓さん。ありがとうございました。
◆マルシア(41)
デビューしたときから谷さんはご活躍されていて右も左もわからなかった私は大変お世話になりました。今はただただ、谷さんのご冥福をお祈りするばかりです。
◆中村豪(やるせなす)
たまに会ったときには優しい笑顔を見せてくれました。谷さんからは、真面目にふざけるということを学びました。遺(のこ)してくれた多くのものを皆で大切にしていきたいと思います。今まで芸能界の先頭、お疲れ様でした。
◆原千晶
突然の訃報に驚きと悲しみと、気持ちがまだ整理できていない状態です。大先輩である谷啓さんと、ドラマで共演させていただいたことがありました。単なる共演ではなく、なんと自分のおじいちゃん役が谷さんでした。谷さんはどんなときも穏やかでどっしりとされていて、本当に温かい存在でした。この共演が最初で最後になってしまいましたが、すてきな大先輩の胸を借りることができた大変貴重な時間でした。私たちはまた大変大きな存在とお別れしなければならなくなりましたが、谷啓さんの生前の功績を忘れません。心よりご冥福をお祈りいたします。
◆RAG FAIR
突然の訃報に接し、ただただ驚いています。偉大なエンターテイナーとして、そしてミュージシャンとして尊敬する先輩でした。僕たちがクレージーキャッツ役を演じさせていただいたミュージカル『ザ・ヒットパレード』で伝説のギャグ『ガチョーン』も伝授していただいたことが思い出に残っています。日本のエンターテインメントの礎を作られた大先輩、ご冥福をお祈りいたします。
――そして、映画「釣りバカ日誌」で共演した人達。
◆西田敏行(62)
日本のエンターテインメントの世界において、素晴らしい足跡を残した偉大な先輩です。アメリカのダニー・ケイをこよなく敬愛し、ご自身の芸名を『谷啓』とまでした谷啓さんのお人柄とトロンボーンのあの音色を決して忘れません。ご冥福(めいふく)をお祈りいたします。
◆三国連太郎(87)
突然の話で大変びっくりしています。行くところに行くのでしょうがありませんが、何とも言えません。
◆朝原雄三監督
撮影ではいつもおだやか、にこやかな谷さんでしたが、お芝居のセンスは飛び抜けて高踏。すべてのテイクに玄人好みのオカシな演技をさらりと紛れ込ませる名人でした。長い間、ありがとうございました。ご冥福をお祈りします。
この他にも、自らのブログで谷さんへの追悼を表した人々が多くいたようだ。
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何故僕は谷啓か。それは@にも書いたが、それを根源に僕と谷啓さんの間にはちょっとした出来事が介在する。
そう書くのもおこがましく、気恥ずかしいのだが、書くことにする。
18歳、僕は田舎の高校を卒業、そして就職。その先は大阪。1943年の3月だった。そして4月。初めての給料で僕は東京へ向かった。目的は、谷啓さんの弟子になる為である。
何時に新大阪を発ったのだろう。当時、東京〜大阪間はひかりが3時間10分、こだまが3時間半であった。「田園調布に住んでいる」という雑誌の情報だけを頼りに東京へという無謀であった。田園調布に着いた時はもう夜だった。しかも雨。ところが親切なタクシーの運転手さんで、その雨の中、田園調布の街をあちこちと谷啓さんの家を探して走ってくれた。
しかし、僕は何処でこのタクシーに乗ったのかを覚えていない。東京駅から?それとも田園調布の駅から? だとすると何をどう乗り換えてそうなったのか。覚えているのは、漸く探し当てた谷啓さんのお宅に本人がいなかったということだ。奥さんの話では「福島へ映画の仕事で行っている」と言うことだった。目当ての本人がいない!全く調べも用意も無い、賢くない訪問だったのである。これ以上そこにいることはできないし、本人がいないのでは意味もない。しかし、もうその日の内には大阪へは帰れない時間になっていた。そして、僕の持ち金はほぼ帰りの新幹線代だけだった。何が起きるか予測ゼロの愚挙である。確かその時の給料は9千円程だった。そして、今回改めて調べると、新幹線代は運賃と特急代合わせて3030円。僕の財布には4千も無かったはずである。
多分、そんな懐具合を僕は奥さんに話したのだと思う。奥さんは車を出し、僕を駅前の木賃宿まで連れて行き、宿代を払ってくれたのだ。無論お礼は言っただろうが、どんな顔で言ったのだろう。そして奥さんはきっと呆れていたに違いない。今、思い出した。そのお金を大阪へ着いたら返したいので住所を教えて下さいといったら、それはいいからと断れたのだった。
そして、その夜中、ぬるく、少なくなった木の風呂になるべく音をたてないように入り、薄い布団で寝たことを覚えている。手応えの無い、空しい夜だった。
それにしても、こんな大きな出来事を何故こんなにも覚えていないのだろう。東京駅からどう動いたのか。帰りは何で東京駅へ来たのか。何時頃新幹線に乗ったのか、そして、僕は東京の何処かで何かを食べたはずだ。それすらも全く記憶がない。
しかし、この旅で僕は更に重要で残念なことを知らされたのだった。それは「谷啓さんの弟子になりたいのです」と言った僕に、奥さんが「谷は弟子を取らない人なんです」と言ったのだ。
奥さんにとって、僕は迷惑千万な田舎者だったに違いない。
無論、それ以上押しの無い僕の敗北である。
次の日から、再び僕のサラリーマン生活は始まった。
その8年後、僕は再び大阪へ出てお笑いを書き始めた。
そして、今、その谷啓さんが亡くなった。
今僕がこうしている原点には谷啓さんがあると僕は思っている。「ありがとうございました」と言うには、僕と谷啓さんとの間には何も無さ過ぎるし、向こうも関知しないだろう。せめて、こうして、思い出を書くことが僕の追悼である。
そして僕は、この業界に30年以上いるが、その間に一度だけ谷啓さんにお会いした。いや、お会いしたというには一瞬過ぎるのだが、時は2002年のいつか。谷啓さんはドラマの出演者として、僕はある番組の構成者として。残念ながら同じ番組ではない。谷さんは「ドラマ30 おかみさんドスコイ!」の役者さんであり、僕は「痛快!明石家電視台」の構成作家であった。
場所はトイレ!
僕が先で、後から谷さんが入ってこられた。よっぽど声を掛けようかと、「実は、僕、昭和43年に・・・」と切り出そうかと思ったが、頭の悪い僕は、「お笑い作家なんだから、いつか、そういう立場でコメディアンの谷さんと話をしたい」などと謳い上げ、ドラマを夢見て、そこは見限ったのだった。
今となってはそれを悔やまないではないが、では、あの時何を話すのか。突然、小用中にそんな一方的な思い出を話しかけられても、シャイな谷啓さんは困るだけだったろうし、結局、夢はかなわなかったが、せめて憧れの人に迷惑は掛けないで済んだということに留まる一瞬であったということなのだろう。
そして、さっき録画しておいた「NHKアーカイブス 『谷啓〜瓢々と時代を駆け抜けた名脇役〜』」を見た。
若き谷さんがクレイジーの面々と楽しそうに暴れていた。コントもやっていた。トロンボーンも吹いていた。ガチョーンを何度もやっていた。
谷啓さん、ありがとうございました。

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