今回も不平不満、アングリーハングリーダンプティーだ!
■監視カメラ
その精度の低さに驚く。
銀行のATMのカメラ。オレオレ詐欺にしろ、単なるATM強盗にしろ、公開される犯人の映っている画像の悪いこと、見にくいこと、判りにくいこと!
このところ、銀行も嘗てほどは優良企業でもなく、儲かってる企業でもないようで、そんなところに金を使っていられないのかもしれないが、あの画像が鮮明なだけで、もっと迅速に犯人は捕まえられるだろうし、それはATMでの犯罪は成立しないということを、今から犯罪を企んでいる人々に教え、犯罪を減らすことにも役立つ筈である。
是非、性能の良い監視カメラを設置して欲しいものである。
或いは、街頭の監視カメラ、それも同じだ。
例えば、3年前の京都府舞鶴の事件。
2008年5月6日夜遅く自宅を出た15歳の女子高生が、友人に「国道沿いのドラッグストア付近にいる」と携帯電話で話し、直後に東京に住む兄に携帯メールを送信したのを最後に行方が途絶える。家族が捜索願を出すが、翌日早朝、女子高生は遺体として発見される。死因は失血死。死亡時刻は5月7日未明とされた。
という事件だが、覚えておいでか?
この事件にも監視(防犯)カメラが関与してくる。
実は、5月7日未明に女子高生と黒い服を着て自転車を押す男が一緒に現場に向かう府道を歩いているのが複数の防犯カメラの記録に残っていたのだ。聞き込みを続けた結果、現場近くに住む男(事件当時59歳)が容疑者として浮上。この男は5月6日夜から7日未明に市内の飲食店二店を自転車で訪れ、帰途のコースと時間帯が女子高生が通過したものと重なり、また、防犯カメラに映った「自転車の男」と体格で同一人物とみて矛盾しないとの鑑定結果も出て、さらに男が当日は黒い服を着ていたことも判明した・・・のだが。
状況証拠の積み重ねだけで、直接の物証がないまま、検察側は死刑を求刑、弁護側は無罪を主張した。
そして、2011年5月18日、京都地裁は防犯カメラの画像の検察側の画像鑑定は「単なる印象に基づくものが多い」として証拠能力を否定。偶発的な犯罪であることから死刑を回避して無期懲役判決を下した。弁護側は判決を不服として大阪高裁に即日控訴した。
その監視カメラの画像をテレビで何度か見たが、いや写りが悪い。不鮮明だ。あれがもし、クッキリハッキリだったら。最低限その男性が犯人かどうかは直ぐに判るのに。勿論、その男の顔が明確で、何処の誰か一目瞭然であっても、その人が犯人と決まったわけではないが。
どうせ設置するなら、防犯カメラとしての役目を十分に果たせるような精度の高いモノにすればいいのにと思うのである。
ただ、監視カメラにせよ、防犯カメラにせよ、街頭カメラに関しては、監視社会という恐怖政治に思いを致すと、実は僕は反対なのだ。犯罪の追及はそこそこでいいなどと言う訳ではない。地域共同体、つまりはお隣さん、ご近所さん、面倒見の良い町内会長さん、若い者に小言を言う魚屋の恐いおっちゃん、そうした目や耳の有効性の復活という方向に選択肢はないものだろうかと、今時、悠長なことを思うのである。
そして、もうひとつ。テレビ番組にも監視カメラの映像が登場することがある。どちらかというとバラエティ番組、それも海外のものが多い。
コンビニやドラッグストアーの強盗。交通警官の追跡、逮捕。立て籠もり犯。などだが、その映像は100%近く悪い。犯人の顔は見えないし、「銃を持ってます」と言われなければそうだと判らないモノもある。
下手をすると、アメリカなどは、不鮮明な映像だからこそ、映っている人物は誰であろうと、日頃から目を付けている危ない奴をこの際だからと逮捕したり、映っているのが白人でも黒人だという事にしてふん捕まえる、というようなアメリカならではのことが出来るわけで、映像が鮮明では、警官たちは既に分かっている犯人の逮捕に向かえばいいだけ、誰でもできる事をやっているだけで、それでは市民の生活を守っているのは監視カメラだという事になってしまって、警察の立つ瀬がなくなってしまう!と思っているのではあるまいか、という勘繰りである。
話しが飛んだが、やはり不鮮明な画像はイライラする。あんな画像で2時間も3時間も番組を作るなら、もっと気の利いたバラエティをやって欲しいのである。無論、この不況下、製作費が安いからああいう番組をやっているであろう裏事情はわかっているのだが・・・・・
■タクシー
@「MKタクシー」というタクシーがある。今更ながら、実はこのタクシー、乗り降りが煩わしい。そう言ってしまうと、運転手さんには申し訳ない気もするが、いらちの僕には要らないサービスであり、マニュアルだ。
ご存知の方も多いだろう。MKタクシーは乗り降りの際、運転手がいちいちドアの外に立って開け閉めしてくれる。先ず、気恥ずかしい。周りの人に見られていると、何だか偉そうに見られてる気がして苦手だ。その応対に悦に行ってるように思われるのが嫌なのだ。更に、いらちの僕はさっさとしたいのだ。タクシーにそんなご丁寧に、高級に扱われなくていい。僕がタクシーを使うのは、ごく日常、平時だ。何か儀式へ出たり、厳粛な場へ駆けつけたりするようなことはない。気楽に乗って、何の気持ちを鎮めたり、整理させたりする必要も無く、只、目的地に送って頂ければいいのだ。判り易く言うと、安っぽい居酒屋なのに、言葉や服装が丁寧な店だ。オヤジの顔も品がある訳ではない。遠慮なく言わせて頂くなら‘慇懃無礼’。只、その居酒屋も安い。MKタクシーも安い。ので、必要な時に見つければ使わせて頂いている。
Aタクシーに関しては以前、この欄で「ラジオのボリューム」について文句を言ったことがあるが、正直、「そこまで言うことか?」という類の‘難癖’であった。以下はそれに勝る‘難癖’である。
タクシーに乗っていると、信号の無い十字路などで、そのタクシーが道を譲ることがある。それは勿論運転手の親切心である。状況的には、どちらかが優先道路であったり、交通ルールとして右左折のどちらを優先させるか決まっている場合などがあるが、それらとは関係なく、運転手が自主判断で道を譲る時がある。下手をするとこちらが優先道路なのに譲る。その時僕はカチンと来る!「それはあなたの満足度の問題でしょ。あなたは今、客を乗せているのだから、そのことを第一に仕事をすればいいだけであって、つまり、客を送り届けることを優先すべきで、あなたの優しさを発揮している場合ではない。増してや時間毎に、距離毎にお金を頂いているというタクシーならば、あなたの判断はプロとして間違っている!」と。
果たして、この傍若無人に納得する方はおられるだろうか?
■自動車事故とCMと
これは僕が見たあるドキュメント番組の冒頭である。少々長いが・・・
――国道であるような大きな道。カメラは高さ60pぐらいに固定され、こちらへ向かって来る車の列を正面から映している。トラック、普通車、軽、トラック、トラック・・・車種は判別できるが、夕刻と見えてライトを点けている車もある。騒音が聞こえる。
――画面左はじには橋の欄干が見えていて、そこに白菊ともみえる花束が掛けられている。
――そこへ画面下に文字が出る。
「去年の交通事故死は4914人」。続いて、
「57年ぶりに5000人を下回った」
「しかし、数字では語れないものがある――」
――画面は白くなりタイトルが出る。
報道スペシャル
手紙 交通事故―それぞれの10年
※「手紙」という字だけ手書きで文字が大きい。
――場面が変わりナレーション(以下Na)が入る。
「140のオブジェが並んでいます」
――『生命のメッセージ展』と題された展示会々場。番組では説明されないが、大阪扇町にある「キッズプラザ大阪」という建物だ。そこにはこの番組を制作した関西テレビも入っている。
展示物は交通事故で亡くなった人たちの写真や故人に関する書きもの――故人の日記や遺族のメッセージなどであろうか――を、その人達と同じ背の高さの人間型の紙型に一体一体貼りつけたもので、足元には彼らが事故の時に履いていた靴など遺品が置いてある。
何人もの人たちが、それぞれにその展示物の前に立ち見入っている。
――カメラはある2体のオブジェに近づき足元を映す。小さな靴が2足並んでいる。
Na:「居眠り運転のトラックに追突され亡くなった姉弟の靴です」
――カメラは展示されている写真に行く。姉と弟がおどけて写っている。
Na:「12歳の姉はデザイナー。7歳の弟はロボコップのような強いロボットになるのが夢でした」
――再び姉弟の靴が映され、続いて、別の茶色のハイヒール。
Na:「突然、目の前を塞いだ暴走車・・・」
――画面はハイヒールから、その持ち主であった女性の写真に・・・
Na:「成人式も、片思いの人に告白することも叶いませんでした」
――カメラは再び会場内を歩く。展示物に覆いかぶさるように泣いている人もいる。(ピアノの音が単音で切れ切れに入って来る)
Na:「命のメッセージ展は、事件や事故などで理不尽に命を絶たれた140人の同じ背丈のオブジェを展示しています」
「あまりに多い交通事故。日常的な悲劇は人の記憶にすら残りません。靴は生きた証です」
――展示を見つめる人々のアップ。そして遠景。(ピアノは和音になっている)
――展示の中の別の1枚の写真をカメラが捉える。ギターを持ちマイクの前で歌う青年。笑顔だ。そのオブジェにはワイン色のマフラーが巻かれている。
Na:「このマフラーええやろ。彼女に借りてんねん。あの朝見せた、最期の笑顔が忘れられません」
――その青年の両親が語る。名前も出る。米村純子・幸純さん。場所は二人が住む家の食卓。
母「出かける時にそのマフラーをしてたのを見せにわざわざ戻って来て、これぬくいねんでって、彼女に借りてるねんでって、ほんでクリスマスには手編みのマフラーをプレゼントして貰うからそれまで彼女のをかりてるんや。ええやろ、ぬくいねんでって、そのマフラーの自慢をして・・」
父「ほんとに、別に合わしたわけやないのに、はよ行きって、勿論、笑いながら、はよ行きって、大きな声だしたんやけど。そしたら、ハーイって言って、嬉しそうに行きましたけどね・・・」
母「その時の笑顔が、ホントに忘れられない笑顔でしたね」
――再び青年の写真のアップ。そこに彼の唄声がかぶさる。
『お月さまが言いました』 作詞・作曲 米村康彦
♪お月さまが言いました 彼の明るい微笑みが
人の心を・・・
更にナレーションが重なる。
Na:「父から教わったギター。彼が残した歌は、靴と共に全国を回っています」
――唄が続き、会場のオブジェや遺品が映される。
――画面が一挙に変わる。発泡スチロールの板をカッターで切る女性。
Na:「神奈川県座間市の造形作家、鈴木共子さん。オブジェは彼女のアトリエで作られます」
――仲間たちと、そのアトリエでオブジェを作る鈴木さん。
――と、額に納められた一枚の青年の写真。「長男 零さん 当時19歳」というテロップが入る。
Na:「ひとり息子の零(れい)さんは、10年前の春、 友人と共に飲酒運転の車に撥ねられました。友達と大学の入学祝いをするから遅くなる。その晩、電話で母にそう告げていました」
――母、共子さんが語る。
「その時私は、ともかく、遅くなるから車で迎えに来いなんて言わないでよって、甘えるんじゃないと、あんたも大学生になったんだから、いい加減甘えないでよとかって言って、断ったんですね。凄く不貞腐れて、ハイハイ判りましたよ共子さんって、ガチャンって切れたんですね。それが最期になっちゃったんですね。だから、やっぱり後悔しましたよね。あの時私が、普段いつも迎えに行くのに、何でよりにもよってあの時、私は迎えに行かなかったのかなっていう事で、凄く後悔しましたね」
――画面は変わって、夜の霧雨の国道。ライトを輝かせて車が通り過ぎる。
Na:「10年経った今も消えない傷があります。歩道に乗り上げた暴走車はコンクリートの柱2本を抉りました」
――抉り取られ、そのままになっている橋の欄干。
Na:「そして、若者ふたりの命を断ちました。
――前出、鈴木共子さんの古い家族の写真。共子さんと夫とそして2歳ぐらいの零くんがお母さんの膝に抱かれている。
Na:「中学生の時、癌で父を亡くしてから、母を共子さんと呼ぶようになった我が子。支え合って生きてきた二人の暮らしは、突然終わりました」
――その裁判当時、裁判所へ入って行く共子さんの姿。
Na:「加害者の男は飲酒、無免許、スピード違反。過去にも轢き逃げ事件を起こしていました。しかし、下された刑は懲役5年6ヶ月。当時の法律ではそれが限界でした。
――往時を語る共子さん。
「ウソって思いました。ホント正直、ウソって。ふたりですよ。何の落ち度もないのに。何十年も刑務所に入ってるんだろうって、全然思ってたんですよね。何十年もですよ、それこそ、何十年て言うのは具体的な数じゃなかったけれど、いずれにしても何十年だと思っていた、ところが、そうじゃない・・・・そんな法律っておかしいじゃないですか。その時に、警察官の方も自分たちもそう思いますけどって(笑)。でもどうすることもできませんとかって・・・」
――街頭で、行き交う人達に呼びかけ署名運動を行う共子さん。
Na:「共子さんは法の理不尽さを訴え、同じ痛みを持つ遺族たちと共に署名活動を始めました」
――遺影を胸に法廷へ入って行く共子さんたち。
Na:「彼女を突き動かしたのは怒りと憎しみ。求めたのは厳しい罰でした。当時の共子さんが書いた手紙があります」
――その手紙。
Na:「(その文面)街行く一見幸せそうな人々の中に、抱えきれない程の悲しみを背負っている人が必ずいるのです。でも私の目には、みんなが幸せ、脳天気に見えてしまいます。かなり僻んでいます。鏡に映る私は生気の無い中年女の顔をしています。そのくせ、息子をこのまま犬死にはさせないという復讐心に燃えて、まるで鬼婆ですよ」
――画面にひとりの女性が映る。
Na:「息子を失った母の手紙。受け取ったのは大阪に住むひとりの母。彼女の息子は10年間意識が戻らないままです」
――その息子が映し出される。車椅子に座っている。手首は不自然に曲がり、口は開けっ放し。その体と心の自由を奪われているのが判る。
さて、長々と書いてきたが、番組はここでCMが入る。
実は、この番組は去年の3月に放送されたもので、僕はその時も見た。その時もこのタイミングでCMが入っていたかどうかまでは覚えていないが、入っていたとしても、今回のCMでは無かった筈だ。もしそうだとしたら、その時も僕は必ずや同じことを感じ、「たくらだ堂」に書いていたであろう。
勿体つけたが、そのCMは・・・・・車のそれであった!
勿論、その会社の名は明らかにする。
――バイオリンの独奏と共に、空撮された風景が広がる。むき出しの岩肌の中を舗装された道路が走る。と、一台の白い車が現れる。軽快なる疾走だ。車の前が映し出される!フロントに大きく誰でも知ってるあのマーク!ベンツだ!
――画面に文字!「美しい衝撃」!
――走り続ける白いガイ車!正体は「C−Class COUPE」!
――女性の声が説明を加える。「メルセデスのCに始めてのクーペ。週末はお店へ」
無い!絶対無い!
恐らく、ベンツもこんなことが起きているなんて知らないであろうが・・・
しかし、この無節操、この不始末、不出来、不都合、いや、傲慢の張本人は誰なのか!無論、誰かが気が付いてCMを差し換えれば済んだのである。だが、何処にどのCMを入れるかというシステム、或いはその心根に在る問題は残ったままである。そして、「車」という問題も。
世間は、車は走る凶器だなどと訳知り顔に言うが、車を作っている人々や会社は、車を作るということは凶器を作っていることだと何処まで認識しているであろうか。
更に、遺族の怒りと悲しみを何処まで知っているのであろうか。或いは、知ろうとしているのであろうか。
だが、考えれば、トヨタでも、日産でも、HONDAでも、勿論ベンツでも、社長から平社員まで、交通事故に遭った人がいないということはあるまい。その報告はどうされるのであろう?その葬式はどうなるであろう。その会社の車にその会社の社員が轢かれた時、ライバル会社の車に自社の社員が轢かれた時、遺族の挨拶は?社長は顔を出すのだろうか?
申し訳ないが、絶妙のコントが出来る!
にしても、この番組中のこのCM。予期せぬ二重被害。出来過ぎた悪意。テレビの不条理。未必の故意。重刑である。
因みに、車椅子のその息子さんも交通事故の被害者である。

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