『差別語不快語』 これはある本のタイトルである。
詳細は、
ウェブ連動式 管理職検定02
「差別語不快語」
著者 小林健治
監修 内海愛子・上村英明
企画・制作 人材育成技術研究所
発売 株式会社にんげん出版
2011年6月20日初版第一刷発行
定価1600円+税
「はじめに」から抜粋。
――社会生活や企業活動を営むうえで、コミュニケーションは極めて大切な事柄です。コミュニケーションの巧拙は、その人の人生を大きく左右する、といっても過言ではありません。
――コミュニケーション〜基本は言葉です〜言葉は話者の人間性を媒介にして発せられます。つまり、言葉は〜話者の人格と品格をも、同時に相手に伝えるのです。どんな言葉を選んで話すかが、肝腎といわれるゆえんです。
――言葉にふくまれるさまざまな要素のうちで、とくに注意しなければならないのは、差別語・不快語と呼ばれるものです〜差別語・不快語を使用することは、話者の文化程度や人権意識の低さを露呈するばかりでなく、他者の心を痛め、傷つけ、とりかえしのつかない事態を招きかねません。そして、結局は、その発した言葉の責任を、話者自身がとらねばならなくなるのです。ビジネスパーソンとして、また社会人として、最低限の知識をもち、最大限に注意をはらうべき事柄です。
――本書は、とくにマスメディアと企業・公共団体の広報関係者には必修すべき知識といえるでしょう。本カリキュラムは〜職場の人間関係、対外的な企業・団体行動を円滑にすすめ、企業・団体の社会的評価を高めるために不可欠なものと信じています。
と、これを読むと、差別語などを使ってしまって何か問題が起きないようにしようという、姑息なマニュアル本のようにも思えるが、中身は結構真摯に差別の感覚や実態を観察し、その間違いや不足を指摘しており、差別問題にありがちな(臭いものに蓋)的な虎の巻ではない。
目次を見てみると、
■はじめに
■1■基礎編
@差別語
A不快語
B差別語と差別表現
C避けたい差別語・不快語の使用
Dまとめ
■2■実践編
【差別語】
@障害者差別
A病気(HIV感染症・ハンセン病・被曝者)差別
B性差別
C部落差別
D職業差別
E地域差別
F人種・民族にかかわる差別語
G宗教差別
【不快語】
@精神的
A肉体的
B文化的
C性的
D高齢者
■3■具体的な対応策
@抗議を受けたときにどう向きあうか
(差別表現問題解決の基本)
A職場での差別表現にどう対応するか
B「断り書き」について
おわりに
※参考文献リスト
※差別語索引
以上、全269ページの本である。
さて、この本をどうするか。ま、簡単に言えば感想を書いて行こうというのである。ともかく、一度は読んだ本だが、もう一度頭から読み直して、感じた疑問や、賛意や、反感、抵抗、窮屈、怒り、何でも片っ端から書いて行こうというのだ。
ここで、僕の差別に対する根本的な姿勢、考え方を書いておきたい。そのひとつは、「完全な差別はあるか?」という問いかけである。誰が見ても、誰が聞いても、それは差別だという言動、視点、著述。そう言ったものはあるのかという問いだ。男から見ても、女から見ても、日本人から見ても、アフリカ人から見ても、老人から見ても、少女から見ても、天皇から見ても、ヤクザから見ても、手の無い人から見ても、お金の無い人から見てもである。ある?ありそう?無さそう?無いかも・・・・
これを更に広げて、宇宙人から見てもと考えた時、誰が見ても、誰が聞いても差別だという事態、事柄が成立するのは難しいことであることが判るのではないだろうか。
そんな、誇大妄想のような、居るか居ないか判らない存在まで引き合いに出して来て、差別は成立しないのではないかと言われても、現実の差別に晒され、訴えている人達からすれば、空言、無茶、為にする言としか思えないかもしれないが・・・・
だが、僕の因って立つところはそこなのだ。それぐらいのフラットな地平から差別を見る。例え、差別を地球だけの、人間だけの産物であるとして、人間の愚かさや悲しみをある者は糾弾により、またある者は文学的脈絡によって追究しようとするのだとしても、地球の外からも差別を見る目を持っていたいのである。
本当のことを言おう。僕は地球上に人間がいる以上、差別は無くならないと考えている。差別をなくそうと頑張っている人たちはいるが、その願いはきっと叶わないだろうと考える。大阪人がふたり寄れば漫才になると言ったのは、確か大先達漫才作家・秋田実だったと思うが、僕は、人間がふたりいれば差別は起きると言おう。顔、身長、足、ペニス、乳房、肌、視力、学力、歌声、などなど、当然のように、且つ自然に差が出来、片方が有利を得、片方が不利を託ち、優劣が生じ、やがて羨望や卑下や優越が生まれる。差別の誕生だ。だが、誰もが同じ判定をする訳ではない。
つまり、いや多分、いや絶対、差別は心の問題だ。分かり易い話だが、両腕の無い人を見て誰もが同じ感想を持つ訳は無いのだ。「気の毒に!」「私でなくて良かった!」「頑張れ!」「カッコ悪い!」「何故!」「見たくない!」「凄い根性!」「エロッ!」。そして、そのどれが差別的で、どれがそうでないかは決められない。決める必要もなく、ただ、その人の心に在るだけだ。
結局、人は何を差別するか。何を蔑視するか。また何を尊敬崇拝するか。それぞれ、さまざまだ。平たく言えば、或いはその大元にあるのは‘好き・嫌い’でしかないのではないか・・・・・
だが、問題は、疑うべきはその‘好き・嫌い’だ。何を好きになろうと、何を嫌いになろうと、勝手だし、自由だが、その根拠となる歴史認識に間違いがあっては勝手だ、自由だと言ってもそれは保証されない。しかし、では正しい歴史認識とはどういうものかという問題が瞬く間に起こって来る。誰もが納得する歴史認識なんてあるものではない。
事ほど左様に、差別とは好き嫌いという自由裁量から、科学的根拠のある事実の間で揺れる複雑怪奇で非解決な認識問題なのである。一筋縄でいくわけがないのだ。
結局、この本もある立場から書かれたものでしかない。誰からも、どんな人からも文句の出ない差別の正解集という訳ではない。だから、誰が読んでもその人なりの疑問は出て来る。で、僕の疑問を書こうというのだ。それは、僕の差別心を探る、僕自身がそれを知る行為でもある。
しかし、それを果たすだけの力が僕にあるかだ。生兵法は怪我の元。大ヤケドをするかもしれない。つまり、無知をさらけ出して、差別の上塗りをしてしまい、僕自身が差別者として批判、断罪されることになるかもしれない。だが、批判を恐れず、批判を覚悟で書く。当たり前だ、僕は神でも完璧な人間でもないのだから、間違いは付きもの、呼びもの、お手のものだ。
しかし、そう開き直るのではなく、今後僕が更に‘差別’を理解することを前提に、現状の僕の素直であからさまな差別観を吐露するのである。だが、僕も迷っている。差別とはこうだとか、これが差別だとかはない。しかもきっとそれは死ぬまで続く。それは差別は時間的、空間的に限定されるからだ。江戸時代のある差別が今は通用しないように、100年後にはまた別の差別が生み出されるのだ。そう、人間は差別を産み出す動物なのだ。あいだみつおなら言うだろう。「人間、差別好きだもの」
では、ページをめくって行くことにしよう!
【17p】
――たとえば、障害者に対する差別語を無自覚に使用していたテレビ・ラジオ・新聞に対して、大阪府の精神障害者団体などから、「『キチガイ』といったことばをテレビやラジオ等でもちいないでほしい」という要望がなされたのは、1974年のことでした。その主旨を下記に抜粋します。
「すべての障害者とその家族は、心身障害にかかわりのある表現が、興味本位やその欠陥を無能悲惨な状態を示すものとしてあつかわれることに対し、被差別者としての憤りを感じている。・・・・・興味本位のゼスチャーゲームはろうあ者に対する軽蔑であり〜」――
ふむふむ。「興味本位のゼスチャーゲームは」か。
僕はお笑い放送作家なので、こういう指摘はよく耳にする。しかも、このところ「コンプライアンス=法令遵守」の嵐が吹きまくって、所謂罰ゲームを中心に、いろんなゲームが「ダメダメ!」と言われる。その理由の多くが、イジメをイメージさせ、助長させるというものだ。
しかも、疑心が暗鬼を呼び、「罰ゲーム」という言い方さえダメだなどという現場の人間も出てくる始末である。この国のもの作りは何処まで行っても臭いものには蓋の精神が行き届いてる。迷惑千万である。
さて、そこで「ゼスチャーゲーム」だ。「ろうあ者に対する軽蔑」と言われた。
では、ゲームを点検してみよう。その障害者団体が指摘するゼスチャーゲームが、あのNHKの『ジェスチャー』(1953年2月〜1968年3月)を指しているか、その他の番組のものを指しているかは判らないが、ゲームの根本は同じだ。つまり、ある言葉、文章を、身振り手振りだけで伝えるゲームだ。NHKのそれは、男女2チームが対戦。時間制限があり、問題は段々と長文になり難しくなっていく。正解(成功)数が多いチームが勝ち。
僕は少年時代、実際にその番組を見ている。女性チームのキャプテンは元タカラヅカのトップスターで、あの石原裕次郎を発掘したことで知られる水の江滝子。男性側のキャプテンは落語家でテレビ俳優で喜劇人でもあった柳家金語楼。
問題は、「寝坊をした熊」「蛇の苦手な白雪姫」などと言うものから、「夢の中で美女に囲まれてお酒を飲んでいたが、目が覚めると古びたお寺でお墓に抱きついている猪八戒」と言うような長いものまである。
ともかく、こうした文章を身振り手振りで味方チームに伝え、味方チームはその文面通りの答を引き出さねばならない。
だが、時代なのかNHKだからなのか、他愛もない、ましてや時事性も社会性もない至って平和な問題ばかりだった。要するに茶の間で子供からお年寄りまで楽しめるゲームである訳だ。
さてその問題性・・・・・
先ず、言っておきたいのは、制作者が決して、それ=ろうあ者に対する軽蔑を目的としてやっている訳はないことである。飽くまでも、それを見たろうあ者、或いは家族、或いはその他の障害を持つ人たちが、それを見てそう受け取ったのである。
だが!その人達にはそう受け取る事情と環境があったのである。そしてそれは尊厳であり、正義である。しかし、そのどちらも、主張すれば自分のものになるというものではない。相手が認めなければ一歩通行で、成果は得られない。そこで彼らは抗議し、指摘し始めたのである。時には喧嘩別れ、実力行使になることも恐れず。それは理解しているつもりだ。
だが、僕は「踏まれた者の痛みは踏まれた者にしかわからない」という差別を糾弾する人たちの言い分は傲慢だと思っている。人間、みな愛に溢れ、他人を理解し、あらゆることに平等に接することが出来る神のような生きものではない。それぞれに克ち獲った考えがあり、個があり、信念がある。時にはそれは人生は金だとか、ウソをつかない人間はいないとか、正義の戦争はあるとか、悪意と嫌悪に満ちたものだとしても、一個の人間の信念として尊重されなければならない。そういう個人への尊重なしに、「お前は俺に苦しみを与えた。それはお前の差別心だ」と言っても、反撥があるだけで、通じない。そのことが如何にその人にとって正義であっても、それを認めない人がいることは判らねばならない。相手を理解しようとしないところに差別問題の進展はない。
結局、抗議者は、「ジェスチャーは、喋れないという条件でゲームをやり、その伝わらなさ、歯がゆさを滑稽なものとし、それによって笑いを取っている」と言うのだろう。
だが、「ジェスチャー」を点検していくと、結構そうではないことが分かる。
先ず、ゲームは聾唖者の「唖」=喋れないは条件に入れているが、「聾」=聞こえないは入れていない。「ジェスチャー」をする人(プレイヤー)は、味方の言葉=答えを聞いて、次の文章へ行く。また、司会者が「もう一回正しく」などと言えば、もう一回やり直しをする。つまり、プレイヤーは聞こえている。ただ、喋ってはいけないだけだ。
結局、そこに出ている人達は「聾唖者」を真似た人、真似させられた人ではなく、動きだけで言葉を伝えるべくゲームに出てきた人でしかないのだ。それを口のきけない人の真似をして、ゲームが上手く行かないことを笑いにしていると言われるのは、明らかに違うし、いっそ逆に、そういう体験をして、口のきけない人の苦労を体験しているのだとも言おうと思えば言える。言わないが。
※これらは聾者には「聾」「難聴」「中途失聴」など様々な形態があることは認識したうえで・・・
そして、喋れないという条件=不自由はあるが、それが即、恥や苦痛に繋がっているわけではない。その時のプレイヤーに与えらえた不自由は守らなければならない条件なわけで、喋らないで上手くやれた時には嬉しくなる類のものなのである。自ずと障害者が持つ不自由感とは違うものなのである。実際プレイヤーはうっかり声を出すと司会者に怒られ、自分でも(イケナイッ)と言う顔をする。楽しいゲームだ。そこを「私達は声を出したくても出せないのだ」と言うとしたら、道で会った親子連れに、「私は親がいません、親子連れで歩かれるとつらい」と訴えるようなものだ。そこから更に、「生まれながら」か、「望んで」か、「自分のせいで」か、など差別を査定する要素は色々あるのだろうけど、僕はゲームにしか見えない。
何故そう思うか、敢えてだが、そこには僕が人生の大部分で被差別者でないことがあろう。たまさか僕に於けるその要素をあげるなら、<チビ、ハゲ、メガネ、短小、老い、バツイチ、田舎者・・・>と言ったところか。但し、これは今時の日本の世間的な優劣基準に当てはめてみただけで、本人(僕)がこの全てにおいて差別されていると思っている訳ではない。つまり、僕は「踏まれた者の痛みを判ってはいない」者なのだ。だが、それを認めたうえで、人間であるが故に差別者である僕を点検しようとしているのだ。
更に僕は、差別される者の痛みは例え同じ差別を受けている人であっても同じようには判らないと考える人間なのだ。人間はそう言う悲しく傲慢な生き物だと考えるのである。悲観的な人間観を持つ僕の悲観的思考でしかないが、だが、それは「踏まれたもの痛みは!」と訴える人々よりは客観的であると思うし、僕はそう言う根底から笑いを作ろうとしている人間なのだ。
そして、「それによって笑いを取ってる」であるが、僕はあの番組は笑いを取りに言ってる番組だとは思わない。皆で楽しいゲームをやってますよと言うぐらいだ。ひょっとすると、「ご家庭で、職場でやってみて下さい」というぐらいの気持ちはあるかもしれない。
そして、そして、「それによって笑いを取っている」という抗議は、やはり「笑い」を下に見ている姿勢だと思うのだ。「笑い」にしないでと言うが、「笑い」にしてこそだという思いが僕にはある。真面目な映画やドラマだったり、ドキュメントだったりすると問題ないのに、「笑い」にされると怒る。言っておく、笑いにするには愛と知恵と技術がいるんだ!無論、出来は重要だ。全編、差別映画になっていたら堪ったものではないだろう。
だが、更に僕は思うのだ。映画でも、テレビでも、文学でも、写真でも、音楽でも、あらゆる作品は、それが差別満載であろうと、暴力過剰であろうと、堕落芬々であろうと、性描写異常であろうと、ダメなモノは誰かが規制したり、禁止したりしなくても、自然淘汰されるだろうと思うのだ。人間を舐めちゃあいけない。良いモノと悪いモノを見分ける力ぐらいは持っている。それを国民はバカだから我々が良いか悪いか判断して教えてあげなければいけないと、お節介、傲慢、強制、押し売りと勝手放題の御乱行!国がお上が、あれこれと難癖を付け、時代錯誤の、チンポも立たぬ老人どもが法律や条例を楯に取り締まりに漸く自分の居所を見つけるのだ!要らぬお世話だ!
差別について書いたり、喋ったりすると、いつもついついここまで行ってしまう!
さて「ジェスチャー」。あれで足を踏まれた人がいるとしたら、その人は踏まれることに警戒し過ぎて、自分が誰かの足を踏んでいることに気が付かない人ではないだろうか。
可なり言い切った点もあるが、行ったり来たり、右往左往しながら何とかここまで書いた。最後は、逆切れみたいになってしまったが、「ジェスチャー差別」については現在はここまで。
けれど、これ、2012年中に終わるだろうか・・・・

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