年が明けました。西暦2014年です。平成は26年。僕は64歳。64歳の自覚は・・・「時間がない!」と「愛がない!」と「○○○がない!」
さてさて、去年などは全6回で終わったたくらだ堂。本年は何とかその3倍はものにしたいと思っておるところでございます。その分、日常に堕するというか、安易に陥るやもしれませんが、御容赦のほど。
などと言いつつ、本日は既に2月の9日。この2、3日の雪風凛々たる冷え込みは64歳の身には警戒警報なのであります。
♪春よこい 早くこい〜
さて、映画『キングコング』2005年版を見た。映画館ではなくWOWOWだ。特に今回は劇場版ではカットされていた特別シーンが17分あるという宣伝に乗せられてのことである。因みに今回は全編201分。ヒロインのアン・ダロウはナオミ・ワッツが37歳の時に演じている。
僕はオリジナルである白黒の1933年版も見ているし、ジョン・ギラーミン監督の1976年版も見た。こちらはヒロインを「郵便配達は二度ベルを鳴らす」「ブルースカイ」(こちらはアカデミー主演女優賞獲得)のジェシカ・ラングが27歳で演じている。因みに彼女は1949年生まれで僕と同い年。その10年後の1986年には『キングコング2』が作られ、それも見たが、中身は頂けなかった。そして、2005年版は今回が4回目だった。
要するに、僕は『キングコング』は好きな映画ではあるのだ。
だから相応に好きなシーンもある。
◆先ずはコングのいるスカル・アイランド。日本語では「髑髏島」が霧の中から現れるところ!あの怒濤と崖壁。その後の困難な冒険と巨大な危険を予感させる。
◆次は生贄を求めてコングがジャングルの木々を揺さぶりながら登場するシーン!そのでかさに圧倒、納得させられる。
◆船に連れ戻されたアンを奪回しようと荒れ狂う海の巨岩から巨岩へ棒高跳びのように判って来る原住民!息を飲む逆襲だ。勿論CGだが。
◆ここからは、再びアンを奪回しようと島へ上陸した撮影隊が怪獣や巨大な魚、巨大な虫に襲われるシーンが続々だ。少年にとっては垂涎のSFの醍醐味。
◆そんな中、コングに芽生えたアンヘの愛と、それを理解していくアンの変化が64歳の情感を刺激する。
〜コングの前で自分の価値を見せつけるように踊るショーダンサーのアン。
〜3頭のパスタトサウルス(ティラノザウルスの進化形)に襲われたアンを激闘の末、救いだすコング!コングはヒーローであり、恋の虜である。
〜コングの棲み家だろうか、崖の上で夕陽を見るコングとアン。「ビューティフル」というアンの言葉はこの上ない意味を持つ。
◆だが、ついにコングは麻酔薬クロロホルムにより人間の手に落ちる。アンの叫びは悲痛だ。そしてそれは既に人間どもに投げかけられている!
◆映画は終演が近い。舞台はニューヨーク。見世物小屋(劇場)から拘束の鎖をブチ切って街へ飛び出し、アンを探し求めるコング!その前に静かに現れるアン!ふたりは喧騒を走り抜け、氷の張った公園の池でしばしアイスダンスに戯れる!
◆しかし、一発の砲弾がふたりの歓喜を断絶させる!・・・・逃げ惑うコングとアン。やがてアメリカの富の象徴エンパイアステートビルに登りゆくコング。最早末路哀れは見え見えだ。軍隊が出動。飛行機からの機銃掃射がコングの体を貫く!必死でコングを庇うアンだが、遂にコングの体からは意志と力が抜け、地上へ落ちて行く・・・・『キングコング』全巻の終わり!
ま、ご存知のストーリーなのだが、その骨格は、南海の孤島で、庇護神、もしくはその化身として畏れられ、且つ崇められて平和に生きていたコング。だがその存在を嗅ぎ付けた男(映画監督)に金儲けの為に生け捕りにされ、忽然たる愛にも翻弄され、遂には人間の手で殺される。異端怪異の純情を人間の傲慢が破壊するという悲劇の映画である。というのは僕の解釈であるのだが、今回、この映画の途中である言葉を思い出した。
それは東日本大震災における福島第一原発の事故に対するある文章であった。
その文章が載っていたのは、ご存知岩波書店の雑誌『世界』の別冊No・826だ。その号は「東日本大震災特集・破局の後を生きる」と題された特集号で、2012年1月1日の発行だ。
因みに、僕が「世界」を買ったのは1979年9月号以来である。しかも驚くなかれその号の特集は!「原発を選ぶべきか」だったのである!この偶然は、僕も驚いた!
そして今回のその特集号の中に「被災の手記〜私の体験」という一般の人の被災体験を載せたページがあり、15の手記が選ばれていた。その中の一稿が、
『ここにいる意味』北村みどり(宮城県伊具郡丸森町・54歳)であった。
僕が思いだしたのはその冒頭部分である。
放射能汚染、汚染値、汚染地、汚染食品、汚染牛・・・・・こうして三・一一以降のことを書いていたら、「汚染」という言葉を使っていいものだろうかとわからなくなりました。そして、ウランに対して申し訳ないような気持ちが湧き上がってくるのでした。
ウランは、土の中、奥深くで眠っていました。ずっと、そうするはずでした。それなのに人間が掘り出し、力を加え、分裂させ、利用し、地上の生命の世界に出してしまい、手におえなくなりました。「セシウムがね、土の奥深くに還って行きたいって言ってるのが聞こえたの」、少し前に私よりずっと若いお友達がそんなことを言っていました。
私もそう思います。自然農の畑で働いていると、そうとしか思えなくなってくるのです。
※文章はまだ続きます。そして無断掲載、すいません。
だからと言って、僕はここで、コングとウランは同じだ。コングはウランだ。ウランはコングだ。などと言いたいのではない。多分、『キングコング』の作者にはそんな思いはなかったであろうし、人間の傲慢さが生んだ悲劇という点は共通する、しかもそれは大きく重要であるとは思うが、ふたつの非合致は見逃せないほど多い。
●コングは人を愛するが、ウランは?
●コングはニューヨークの一部を破壊しただけだが、ウランは?
●コングは愛する人の為に闘うが、ウランが人間の為に働くのは愛か?
なにより、大きな違いは、
●コングは死ぬが、ウランは死なない。だ。
結局、何故僕が「世界」を引っ張り出してきたかといえば、北村みどりさんのウランへの視点であり、核への発想だ。
彼女と同じ思いを手にした時、アメリカを絶対善とし、原発を絶対神としようとした中曽根康弘 一派、そして電気は誰のものか全く分かっていない九電力、とりわけ事前の甘さと事後の覚悟の無さで人災を極まりないものにした東京電力らへの見方が、一層の悲哀と憤怒をもってくるのである。
そして、北村みどりさんの思いに刺激、感化され、僕は更に思うのだ。
引きずり出されたウラン。核分裂だの核融合だのと、思っても見ない我が体内の業火を燃やされ、彼らは、「やめてくれ!」と「やめてください!」と、世界にも届く悲鳴を上げて泣き叫んでいたのではないか!
あの光と熱と風は、彼らの嗚咽・血涙の吐瀉物ではなかったのか!
つまりまた彼らも、人と同じく、抗えぬ本能を持つ悲しみ体ではなかっただろうか!
そして僕は思う。
そこに神話があるとすれば、古来より曰く、「さわらぬべし」と。

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