たくらだ堂〜ytv漫才維新2014〜15・Round3〜
現在、2015年1月27日、火曜日の17時半。たった今、仕事から帰ってきたところ。その仕事とは、YTVの漫才維新2015・Vol.3の審査員だ。
本日は15組のコンビのネタを見せてもらい、採点し、少々――実際には4組について――の感想を述べて帰って来たわけである。
だが、一応、審査員として15組を見たので、その感想を伝えたいと、お節介で我儘なことを知りつつ、ほぼ1年ぶりのこの‘たくらだ堂’である。
そして今日は2月21日。感想は書き終えたもの、オンエアより先に審査の情報等を公表することは、個人的ブログといえど、業界のルール違反であり、倫理に反することで、オンエア後の今日になったというわけです。
今回、僕の思いや意見を一番伝えたいのは、笑止ながら、当日の出演者である若手の漫才師の方々にである。だから、コンビによってはネタに詳しく立ち入ってる場合もあり、あの日スタジオに行ってない方、番組を見ていない方には訳が分からない部分もあると思いますがご容赦頂きたい。そして、ついつい思い余って、随分忌憚なく、且つ腹蔵なく書きました。
先ずは、ご一読、よろしく。
尚、一部敬称略です。
@プリマ旦那
「おかんは中身のないことをいう」というふりから、野村のおかんあるある的なボケの連発。
それなりにリアリティはあるものの、徹底して「中身のないこと」ではなかった。
本当に中身のないこととはどんなことか?その時、それはおかんにとっても中身がないことなのか?それとも、意外と中身があることなのか?或は、本当におかんにとって中身が無いこととはどんなことなのか?しかし、それが人間にとって最も中身のあることだったりして・・・勿論、それだけに限らないが、例えばそういう視点を持ち得たなら、このネタはもっと伝わるものとなり、爆笑へ繋がるのではと思うのだ。
結局、いつもの彼らのこってり考えられ、たっぷり練られたネタとは違って、薄味!敢えて言うなら、お茶を濁したネタだと言わせてもらう。どうしたプリマ旦那!こんなネタをやってる場合ではない!
Aインディアンズ
僕は以前からこのコンビの漫才が気になっていた。正直に言うなら面白くなかった。何だか、所構わずわめいているだけで、ネタの核のようなものが無かったからだ。それが今日は、「弟子入りという文化」などという、視点のある言葉とともに、一本の筋にまつわるように田淵のボケが有効に機能し、やっぱりこれくらいはできるコンビなのだと溜飲を下げた思いで見たのだった。
惜しむらくは、「弟子入りミニコント」に入るまでが少々長かった。
だが、巨人さんが気に入っていた「逆再生」(正しくは逆再生ではないが)も決まり、「地球上の誰一人として!」というフレーズや、「何かやってるでしょ!」という自己告発も全て笑いにつながっていた。
結果は3位だったが、次回に期待しています!
Bフラワーズオブロマンス
ボケのたわたが「雑学」が得意だから「雑学」を言わせてくれと「雑学」を言い始める。ところが、その冒頭に出てくる「西郷隆盛」を相方(中道)が知らなくて、教えてくれと言い出して、たわたと揉める。だが、執拗な中道についつい「西郷隆盛」の説明をたわたがするのだが、彼も「西郷隆盛」を知らなくて、それが全てボケになっていて、西郷ドンは「単に着物を着たデブ」であり、「オレ、そっくり」であり、「戦う犬を始めて育てたトップブリーダー」となってしまう。
それらのボケは笑いをっていたのだが、問題は「西郷隆盛」でボケようとした点であろう。‘ネタです感’が出てしまったと僕は見る。若い彼らがボケるなら、他にいくらでもあるはずだ。無論、たわたの外見を利用しようという目論見があっての西郷ドンなのだろうが、犠牲が大きかったのではと思ってしまう。
更に、もう一点。表情、発声、動きなど、中道は芸人として人前に立つとはどういうことかを再度考えていただきたい。こう言う人は他にもいますが・・・
Cダブルアート
失礼な言い方だが、やはり賞レースは違うのか、彼らも今回はそれなりにテーマ(?)のあるネタで登場だ。いつもはもっと雑な感じなのに・・・・
さて、そのネタは「森の妖精」。入りは田口が「漫才辞めたらなりたいものがある。それは森の妖精」。
そこからは案の定のミニコント。「オレ、妖精やりたいから、お前、森に迷った人やってくれ」。僕はこの時点で安易だ、そして危ないとさえ思った。
先ずは、何故、田口が森の妖精になりたいかは聞きたい。それが在ると無いとでは作品のレベルは雲泥の差だ。何故かというと、「僕(田口)が森の妖精になりたいと思ったわけ」という大喜利に素晴らしい答えを持っているという勝算ありきのネタだからだである。
さて、ミニコントだが、弱い。
――妖精の名前「うん」は自分たちで面白い名前を付けておいて、遊ぶんだから、マッチポンプである。
――130kgの池田を妖精が背負おうとするが、予想通り背負えない。客は「どうせ背負えないだろう」か「え?背負えるの!」と思っている。だが、結果はどちらの予測も上回らない。やれば損なことをやっている。
――妖精が「木の実」を食べるが、これもやはり「うんこ」。客の予想を上回らない。
彼らには、僕が何度か彼らから感じて来た、お笑い、もしくは芸へのこだわり、或は芸人としての意地のようなものを、是非!ネタで見せつけて欲しいと願うばかりだ。
Dヒガシ逢ウサカ
「エレベーターでおならをした時に誤魔化す」ネタだ。おならを誤魔化すだけで、どこまで行けるかと危惧したが、次々と誤魔化し案が展開され、ジェームズまで登場。更に立場交代があり、最後は「屁こきたい!」の絶叫だ!
僕は可なり面白いと思ったのだが、お客さんの反応は思ったほどではなかったのが残念。
大の男が、いや、一青年が「屁こきたい!」と叫ぶのは、相当アホで面白い。
ところで、僕は漫才という芸の演じ方そのものに疑問を持っている人間だ。そこで、この二人の漫才を題材にその疑問の一つを提示するなら、「何故、このネタを漫才にして、人前でやるのか。その必然性をものにしているか?」であり、それに対する答えを用意できるかである。
最後に、当日は気付かなかったことで、細かいことだが、2回目の展開の「臭い」の時は「ぷー」という音は要らない。
Eアルミカン
女性コンビなのに、結構エロかった(赤坂のみだが)ので、少し感心した。「カベドン」は勿論、「アゴクイ」とか、流行のフレーズもあり台本上の出来は悪くない。
まず気になったのは、高橋の言葉遣い。「流行るか、そんなもん!」「何で、しゃくれんねん!」「そんな言葉遣いせえへんやろが!」「只のセクハラやないかそんなもん!」などと外見に似合わない結構きつ目の大阪弁でツッコム。かと思うと、普通の女子が使う大阪弁で優しかったり、時にはぶりっ子(古いか)にもなる。その変化に対し相方が突っ込むわけでもない。結局、その使い訳の狙いどころは?根拠はあるのか?要するに計算の上であの言葉遣いなのかという疑問だ。
結局、再度言うが――番組中も言ったので――高橋のキャラ作り或はテンションの持ち方を再考したうえで、今暫くは、演出として圧倒的に赤坂の喋る量を多くすべきだ。
Fセルライトスパ
「世の中、物騒な事件が多い」という始まり。・・・だが、ボキャブラリーが少ない大須賀なのだ。
飛行機が行方不明になり、その中に一人の日本人が。それが大須賀の弟らしい。報道のインタビューに答える被害者の兄の大須賀である。だが、ボキャブラリーが少ない・・・
僕は「ボキャブラリーが少ない」というフリだけで、大須賀はもっともっと、しかも確実に笑いを取りながらボケられたのではと思ったのだが、途中から、彼らの目論見としては「平常心でいられない大須賀」ということでインタビューが進んでいく。ところが、どんな質問にも割合淡々と答える大須賀なのである。笑いは取っていたが、「平常心」さが薄かった。この時の大須賀の答えはもっと錬られる必要があると思ったのだ。
それはさておき、ここで、二つの設定の分断が明確でなくなり、「ボキャブラリーが少ない」」と「平常心でいられない」という二つのフリが重なり合って、ボケの方向が不確かになり損をしてしまった気がする。
結局最後は「平常心過ぎるやろ!」というツッコミに行きつくのだが、勿体ないネタになってしまったのであった。もっと遊べる、いいネタだと思ったのだが・・・
更に、番組内でも言わせていただいた「イスラム国」はさておき、飛行機事故だというなら「ナッツリターン」などが入っていると、僕は更に大歓迎するのだが。ま、好みでしかありませんが・・・
G男性ブランコ
収録時に言った事を、傲慢を承知で、多くの若手漫才コンビの為にもう一度説明しておこう。
(浦井:ツッコミ)と(平井:ボケ)。
浦井(A)「引越ししたけど、隣の人に挨拶するの苦手や」
平井(B)「ほんなら、どうしたらええか教えてやるわ。俺が挨拶にいくからやってみ」
・・・で、平井が挨拶に行き、ぼける。
これも漫才である。だが、これではAの悩みを解決する方向にはいってない。だって、Bは教えてあげると言いながら、ボケ倒すのだから。それなら、Aは途中で、ボケはいらんねん!か、お前も挨拶下手やないか!と突っ込まなくてはならない。
だが、そういう展開に持っていくコンビをお見かけしたことはない。悪いが、適当にフッて、好きなようにボケているだけだ。それは僕に言わせれば漫才芸を漫才師自身が自ら貶(おとし)めている有様だ。
だから、だから漫才のいい加減さを――それも漫才の魅力の一端だとは思うが――払拭して、良い漫才にするためには、Aに挨拶をやらせて、そのダメなところをBが指摘してやるか、最初からBが正しい挨拶をするかだ。分かってます。それでは漫才にならない。では、どうするか?簡単だ。「引越しの挨拶が苦手だ」というフリをボケのBがすればいいのだ。そうすれば、Bはいきなりボケても問題はない。だって、ボケなんだから。
但し、これは一方法でしかない。他にゴキブリの数ぐらいはやりようはある。だが、その中に、安易なフリの、ボケられたらいいというだけの、亡国の頭の悪い漫才は入れてはならない。
もっと、意図的に確信的に漫才を作るということを習性化するべきだ。
Hワイルドピッチ
ボケの田中が「世の中にこんな美味いものがあったのか!」と思ったもの、それは「魚!」と始まる。以下、「ブリの照り焼き」〜「電気なまずの開き」〜「ネオンテトラの」〜「深海魚のおどり」〜「ダイバーの足ひれ」・・・途中で方向転換するだろうと思っていたが、最後までそのボケで通された(敬語ではない)。巨人さんが言われたように、その前の審査員の高評で僕がきつい批評を言い、ややスタジオの空気を変えた事もあって、お客さんが沈み、受けにくかったとしたら、申し訳ないが・・・・正直に言う。だとしてもあのネタでは苦しかったろう。健闘を祈ります!
Iマルセイユ
随分受けてました。勿論、面白かったからだ。
津田(ツッコミ)が「この前友達と歩いてたら、急に友達が倒れた!」というネタフリで。その時の再現に入る。「救急車を呼ぶ」「お医者さんはいませんか!」「救急車が来る」「病院へ行く」「手術を待つ」「手術終了」「回復」。その間に別府のボケがふんだんに入る。どのボケも笑いを取っていた。
だが僕は勿体ないなと思ったのだ。それは設定だ。「歩いていたら友達が倒れた」ではユルい!例えば、「アフリカのバスツアーに参加していた時」でも「叔父さんの銀婚式のパーティ」でも「銀行強盗の最中」でも。それが飛び過ぎだというなら、「ふたりで100tのバイクでツーリング中」でもいい。とにかくより具体的で個別的な、いっそ特殊な設定を与えることで、別府のダメさや、邪魔の度合いが増幅し、彼らの遊びが増大するのだ。
更に、相手が友達よりは、彼女だったり、母親だったり、お爺ちゃんだったりすると、その具体性はより大きい笑へと繋がるはずだ。
とは言え、間も、テンポもあって、「すぐそやって言うやろ!」も効いている。力のあるコンビニ、彼らがやるべきネタを期待したい!
Jラフ次元
梅村(ツッコミ?)が帰国子女(カナダ)で、直ぐ英語を使うことを相方(空・ボケ?)が責めるのだが、それ以上に空の言い方もおかしいというネタだ。
しかし、ネタはさておこう。漫才の容貌だ。僕が見て、残念だが、空のボケ具合は弱い。明らかに相方・梅村のほうがボケ度が強く見える。敢えて言うなら華がある。この壁は漫才には大きいと言わざるを得ない。だから、役どころを変わるという手もあるが、そこはお二人にお任せして、もし、このままいくというなら、空は自らのボケに何かを足すか、背負うか、化けるか、はたまた狂うか、意図的な演出と確たる覚悟が要ると思う。
もう少し具体的に書く。漫才師は芸人だ。プロだ。客の期待や予測を超えて面白く、上手い必要がある。ある意味、素人には出来ないと思わせる技量だ。それをデビューの時から既にものにしている人もいるが、稀だ。多くの人は今の自分に更に何かが必要だ。しかし、それに気が付いていない人が多い。私はこれで、このままで行けると思っているのだ。それは甚だしい勘違いだ。
望むのは、客観からの再構築だ!
但し、これは空に限ったことではない。今回の15組30人の中に1、2、3、4、5、6、7、8、9、10、11・・・・人はいる。
K霜降り明星
せいや(ボケ)が言う。「思い出って色々あるけど、高校生活の思い出って特に・・」とネタへ。
1学期=入学式で新任先生の紹介。
2学期=プール。
3学期=マラソンの授業。
何だか散漫だ。せめて、3学期とも、思い出は何かに固まっている=偏っている方がボケの面目が立つと思う。例えば、思い出が好きな子ばかり、トイレばかり、犯罪ばかり、理科室ばかり・・・無論、1学期より2学期、2学期より3学期のほうがボケ度は上がる。
しかも疑問だったのは、せいやが言い始めたことなのに、2学期のプールも、3学期のマラソンも相方の粗品が言い出すのだ。
これでいいかではなく。もっとやり方があるはずだ!と、ネタの追求と追究を怠らないで頂きたい。
L尼神インター
このところの彼女らがよくやっているパターンの漫才だ。恐らく、受けるのだろう。僕も面白いとは思うが、賞を狙うなら、このままでは足らない。
誠子が「今度デートをするのだけれど、外見も中身も自信がないので、今から食事へ行くシミュレーションして、やったらあかんとこや、こうしたらいいということがあったら言うてほしい」と、相方(渚)をデート相手にしてミニコントに入る。
結局、誠子はほぼ完ぺきで。最後に「どうやった?」と聞くが「完璧やないか!」と頭をはたかれる!
@先ずはフリだ。もっと強く自信がないことを言うべきだ。「デートの経験が無い」「相手を好き過ぎて多分喋れないし、食事ものどを通るかどうか」「デートにならないと思う」「っていうか、デートって何?」ま、何処までフルか、サジ加減は要るが。そこまで言っておいてこその「完璧やないか!」だと思うのだが。
A居酒屋へ行くが、ふたりは中腰でコントを進める。姿勢がおかしいし、しんどそうにも見えて気になる。マイナスだ。店を変えるか、食事自体を変えるか、解消すべきだ。
B誠子のやりかたは完璧だというが、見ている客の多くにちゃんとそれが伝わっているだろうか?見様によっては、誠子のやり方は、可愛子ぶりすぎで、ウソっぽくもあり、客は完璧だと思っているか、僕は疑う。恐らく、それほど笑いが来ないのはそこだろう。ふたりの計算が客に伝わっていないと思う。このネタの最も大きな欠陥、乃至は課題だ。
CBの問題への一つの対処として、渚のリアクションはあると思う。彼女は誠子のやり方に最後まで何も言わず、最後に「完璧やないか」というのだが、よっぽどダメかと思っていたら、結構できているという反応が、所々にあってもよいのでは。更に、これは作家的な提案だが、途中、誠子から「どう、ここまでの私?」と聞くような場面を入れるのは効果的だと思うのだが。無論、渚の返事は「悪ないと思うよ」「まあまあかな」「いいと思うよ」そして最後は「完璧やないか!」である。持ち時間もあるから入れられない場合もありましょうが・・・
ともかく、もう1段も、2段もパワーのある、面白いものにしないと低迷(失礼!)続くばかりだ。
Mタナからイケダ
相変わらず上手いと思う。だが物足りなさは半端ない!しかも今日のネタは相当に不満だ!
田辺がフル。「ちょっと思うんですけど、OLさんて、結構ウワサ話が好きやなってイメージがあるんですけど、どんな感じでやってるかよう分からんからさ、今日、ちょっとふたりでやってみよう・・・」
このフリは意味不明だ。無論、漫才だから田辺は本気でOLの噂話の様子を再現したいと思ったはずはない。だが、やりたくないことをやっているはずもない。だとしたら、やっぱり彼らは漫才でOLの立ち話をやりたかったのだ。では、何故やりたいと思ったのか?それが分からない。そんなことを、30代の男が、しかも芸人が、思うわけがないと僕は思うのだが。
しかし、ふたりはOLの社内のあちこちでの立ち話のミニコントに入っていくのだ。
僕にはその意味が解らない!ネタが分からないのではない。何故それをやるのか、何でこんなネタをやろうと思ったのか、そして、何故やれるのか、分からないのだ!彼らにとって漫才は何だというのか!
冒頭に書いたが、彼らは上手い。武士になぞらえるなら、彼らは腕もよく、持っている刀も相当なものを持っている。だが、それで何を切っているかと言えば、道端の草や切っても刃こぼれのしないゴミだ。勿体ない。木を斬れ。大木を斬れ。森を斬れ。森に棲む化け物を斬れ。いや、斬れない石を斬れ。水を斬れ。空を斬れ。
Nヤマグチ県モリカワ市
何故「ツチノコ」を題材に選らんだか全く解せない!
当日僕は、多分、彼らのどちらかか両方が岡山か広島というツチノコが生息すると言われている県の出身なのかなと思って見たのだが、森川は三重、山口は大阪出身だった。勿論、もし出身がそうだったとしても、ツチノコは今時でなさすぎる。
追い打ちを掛けるようで申しわけないが、ツチノコブームは1970年代前半だ。45年前である。勿論ふたりも生まれていないし、会場の客の殆どは1990年代以降の生まれだと思う。
では、何故そのネタにしたか、客を納得させる、つまり引き込むフリがいるだろう。そこはリアルな理由があるならそれが一番だし、荒唐無稽なでっち上げでも構わない。いずれにせよ、それは要る!
最後に、山口の喋り方が霜降り明神の粗品に似ていたのが気になる。改善したほうがと思うが・・・しかし、考えれば、粗品もまだまだ売れてるわけではないから、山口が早く売れて、あのキャラを取ってしまえばいいだけか。
以上。
勿論、勝手な個人の意見ではあるが、漫才という芸がもっと面白く、そしてもう少しは深くなってほしいという思いからのあれやこれやである。
それが思い余って、可なりきついことも書かせて頂いた。
反発はあるだろうし、否定もあるかもしれない。だが、発言に責任は持ちます。
これを読まれた芸人の方で、僕に聞きたいことや言いたいことがある人は、何かの機会に呼び止めて鬱憤や思いを晴らしていただいて構いません。真摯に答える所存でおります。
では、どなた様も、面白深い漫才の為に、乾杯!
2015・2・22(日)

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