昨日、拾い上げた言葉。
『過去は、未来に役立つ参考資料なんだ。
過去をいろいろとよく分かっていくことが目的になったらいかんの。
手段に過ぎないの。
そのためには、目的を確かにし、目標に向かって歩いているという意識が、いつもしっかりしていなければいけない。
その線に合うように自然に過去は思い出されるの。
過去は文献みたいなもの。参照だ。
古きを訪ねて現在の前向きの行動のヒントにしている。
過去ばっかり見てたら、文献学者みたいなもんで、何にも新しいアイデアは浮かばんわけ。
生きるプラン。自分の人生のプランを持たせる。
病気を持ってても、自分の追求する人生のプランを持つ。
病気はときどきそれを中断するだけで、治ること以外に人生の目的がなくなってしまったらあぶない。
「治療のこころ」 神田橋 條治』
二つの気づきを得た。
人生の目的なしに、過去ばかりに目をやることの危険性。
治ることだけに人生の目標を置くことの危険性。
このふたつ。
人生の目的があれば、病気はその目的を中断するだけであって、目的はなくならない。
病気がなくなることを、人生の目標にしてしまったら、治った時点で生きる目標がなくなってしまう。
病気が治って、病気を手放して、人生の目的を失って、立ちすくむくらいなら、
過去や病気を自分の中に内包しつつ、自分の人生の目標に向かって歩こう。
過去や病気のせいで、前に進めないのではない。
人生の目標を明らかにしていないだけなのだ。
では、どうやって明らかにしていくのか?
例えば、音楽に親しめないとする。
音楽に価値を見出せないのだ。
音楽は無駄だと思う。一文の得にもならないと。
その価値観は、自分の体験から得たものなのか?
違う。
刷り込まれたものだ。
その刷り込みの裏で、
「音楽は楽しい。楽しみたい。無駄は楽しい」
という、本当の自分の気持ちが見捨てられたままある。
刷り込まれたものを、ひとつひとつ脱ぎ捨てていくと、
どこかで、置き去りにされ見捨てられた自分の本当の気持ちに出会うことがある。
自分は本当はこんな風に生きたかったんだ、と気づくかもしれない。
これがしたかったんだ。あれがしたかったんだ。と。
それらが、自分の人生の目標になり得る。
気づいたら、自分の人生の目標に向かって歩こう。

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