変えようかな〜、という事で。
幼い頃、上の姉が私をからかうために使っていたのが「泣き虫びぃちゃん」でした。
妹に対する愛と羨ましさが混じっていました。
びぃちゃんと言われることがなくなっても、びぃちゃんを引きずって大きくなりました。
私の本当の名前は、父の教え子の名前をいただいたものです。
父が教え子として好ましく思った人がどんな人なのか、私は知りません。
けれども、名前には親の思いが込められているので、きっとその人を投影されて育てられたような気がします。
で、今では、きょうだいの中で一番父の考えや生き方を踏襲しているのが私かも知れません。
さて、私も人生の秋を迎えています。
びぃちゃんとして出来たこと出来なかったこと、いろいろ思うのですが、びぃちゃんである限り出来ないこともあるわけです。
何と言っても、もうびぃびぃ泣くような歳ではありません。
自分をいかに甘やかしてきたか、今になって思い知ったところもあります。
いろいろ理屈を並べてみても、自分の付けは自分で払わなくちゃならないし、自分の蒔いた種は自分で刈り取らなきゃ仕方がありません。
と言うより、それをしないと「自分の人生これで善かった」と思って、あの世に行けない様な気がします。
父のつけた名前でもなく、姉のつけた呼び方でもなく、ネット上では自分の名前を自由に付けられます。
純粋に自分の思いを込めて、あるいは気軽に、そして適当に。
いろんな意味を考えることなく、つまり、責任やしんどさを抱えないで生きることを求める人が多くなってるかも知れません。
でも、意味を忌避しながら、生きる意味を求める気持ちはどこかに残っているのではないでしょうか。
この秋、「びぃ」から「bee」へ、名前を辞書に載ってる言葉に変えることにします。
昔、男子には幼名があり、大きくなると名前が変わっていきました。
大きくなり名前が変わるということは、それなりに自己の責任が重くなるということです。
と同時に、社会的立場を承認されるということでもあります。
私ももう少し成長したいと思います。
よろしくお付き合い下さい。

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