私の父は明治35年生まれでした。
自給自足、循環生活という暮らしの基本が身体に染み付いた人でした。
私が生まれたのは戦後10年近く経ってのことです。
子どもの頃、おばあさんが手押し車で行商に来ていました。
白身魚のすり身を揚げた天ぷらだけの商いで、ほんの僅かな儲けだったのではないでしょうか。
天ぷらを買うと、新聞紙に包んで渡してくれました。
お豆腐屋さんは自転車で来ました。
一軒一軒訪ねてくれることはなく、ベル型の鐘の音を聞きつけて、走って呼び止めに行かないと買えませんでした。
何十円かのお金と鍋を持って走るのは、私達子どもでした。
魚屋さんは自転車で定期的にやってきて、庭先で魚をおろしてくれました。
猫達も心待ちにしていて、魚の端っこやアラをもらうのでした。
これが田舎の村ののどかな暮らしでした。
こういう暮らしの中には、有害なゴミの問題は発生しません。
工場で食べモノがたくさん作られるようになって家庭に流通しはじめると、包材がビニールやポリプロピレンなどの石油製品から作られるものになっていきました。
小学校一年の頃のことです。
町に近いところに住んでいる友達のところに遊びに行くと、飴玉の包み紙のコレクションを見せてもらいました。
その頃は個包装というのは珍しく、ちょっと高級感のある飴でないと包装はしていないのでした。
一枚一枚丁寧にしわを伸ばしてあって、色とりどりで、一枚一枚のデザインは単純なのですが、鮮やかな色の少ない暮らしをしていた子どもには、それはそれは美しく見えました。
個包装なんて、今では当たり前で珍しくも何ともありませんし、単にゴミになるだけですが、当時の子どものささやかな楽しみのひとつだったのです。
その楽しみが楽しみでなくなって、ゴミでしかなくなる日はそう遠くはありませんでした。
高度経済成長の時代の入り口に立っていましたが、子どもにわかるはずもなく、人々の暮らしは急激に変化していきました。
モノを買うと、当然一緒に家にやってくるゴミ。
父からは、土に還らないものを畑に捨てないように言い聴かされて育ちました。
私は今でもそれが染み付いてしまっています。
結婚して子どもが生まれ、プラスチック製品にお世話にはなりました。
プラスチックは自由自在に美しい色が付けられ、形も自在です。
子どもは鮮やかな色に引きつけられます。
色の豊かさは子どもを育ててくれます。
結婚当時買ったキッチン用品、軽くてきれいで安いプラ製品が多くありました。
それらはいつの間にか薄汚れて古ぼけて、使うのがおっくうで、使い勝手も悪くなっていました。
ちょうどその頃、燃やすと有害なダイオキシンのことがクローズアップされてきていました。
原色のきれいなおもちゃや、軽くて便利な子供用食器。
メーカーが、「ホルモンかく乱剤は使っていません、子どもがなめても大丈夫」と一言付け加えるようになった頃でもありました。
土に還らないものはちょっとどうなんだろう?と思い始めてから、ぼつぼつ家のものを変えていきました。
ザルなどは、竹ザルのほうがダントツに水切りがいいし、乾きも早く、どういうわけか汚れがつきにくいことに使ってみて気づきました。
木のしゃもじ、スプーン、へら、鍋敷き。。。
竹や木のものになじんでしまったら、もう化学製品にはあまり魅力は感じません。
父が育った時代には竹や木やわらで作られたものが普通にありました。
また、そういうものしかなく、すべてはそのまま、あるいは灰になって土に還っていきました。
土から生まれ、そのものを生ききり、土に還っていく。
ゆるやかな循環がありました。
私の血と骨は、明治に生まれた父から作られたと思い知るこの頃ですが、自分で育ててしまった欲望という余分な贅肉、あの世に還る身支度にもうちょっと減らしていかないと。。。

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