昔昔、ずっと昔。
貧しくて育てられなかった子どもの命が、
いくつもいくつも消えていった時代があった。
この世に生まれることも、この世で育つことも、
生やさしいことではなく、
自分が今、ここに、こうしていることは、
何人もの自分につながる祖先が生き延びてきた証しのようなものだ。
そういうふうに、与えられた命だと思えば、
どんなことがあったって、生きることを粗末にはできない。
平成。
昔昔ほど、貧しくはない。
貧しいから子どもを育てられないような時代ではない。
だのに、子どもの存在はおびやかされている。
子どもが生まれたときの、
ただ生まれてきてくれたことを喜べたときのことを、
いつの間にか忘れ、
自分の価値観や、社会の価値観という檻の中で育てようとする。
ただ、そこに、そうして、
生きていてくれればいい。
自分が生きることを、大事にできたらいい。
自分を大事にできるくらい、他者を大事にできたらいい。
ただそれだけのことが、忘れられている。
檻の中で育つ子どもは、
小さな小さな狭い世界で、生きなければならない。
その中で、自分がなくなってしまわないために、
せめてもの、自分の世界を作ろうとする。
そうして、こどもが引きこもる部屋は、
自分が自分であるための唯一の部屋になる。
けれども、その部屋も安全ではない。
自分を守るために引きこもった部屋の安全がおびやかされることは、存在を否定されたに等しい。
自らの存在の否定と、すべてのものの否定と。
生きることが否定することにすりかわる。
生きていることの価値は、
今ここにこうして自分が存在しているという事実。
そして、自分以外のものも存在しているということ。
ここに、ただ、そうして、存在していること。
それを忘れてはいけない。
自分の身体やこころの声に耳を澄ませてみると、
自分の命につながる、過去からのものや、
今つながっているものの声が聴ける。
その声は、決して存在をおびやかすような声ではないはず。
存在をおびやかされず、
存在をおびやかさず、
ただ、そこに、そうして、
自分が生きることを、大事にできたらいい。
自分を大事にできるくらい、他者を大事にできたらいい。

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