子ども達に、光でなく熱を。
北海道のヤンキー先生、こと、義家先生がそう言う。
光を当てれば当てるほど、影ができる、と。
冬になれば、どんな子も暖を求めてだるまストーブに集まってくる。
子どもにはぬくもりが必要だ、と。
いつのころから、光は暖かさを失い、冷たい光になってしまったのだろう。
親の自己愛やコンプレックスが投影された子どもは、
親から愛と言う名の熱い光が注がれる。
「みんな、あなたのため」
けれども、いつかこう思われる。
「あなたのせいで」
あんなに熱かった光は、冷たい光に姿を変える。
冷たい光は、冷たい視線になり、子どもは引きこもってしまう。
冷たい視線に耐え切れず、子どもは荒れてしまう。
こころのなかには自己愛と劣等感ばかりが大きく育っていってしまう。
肥大した自己愛にとって、
外の世界は、自己愛を傷つける世界だ。
わざわざ傷つくために出かけはしない。
傷つかない方法は、虚勢をはることくらい。
それでも劣等感は居続ける。
その先に、間違いが起きる。
影の世界にまっしぐらだ。
だのに、まだ多くの子どもに光を当てようとする。。。
例えば、子どもを必要以上に学習に追い立てること。
コンビニで、冷たい中食を買い、塾に急ぐ。
遠くの、レベルの高い学校に通う。
コンビニや塾や電車や、
蛍光灯に照らされるこどもの顔は、
知的だけども、どこか冷たく、青く、無表情だ。
きっと、手も冷たいだろう。
子ども達は、昼も夜も活動し、疲れ果てる。
家に帰りついても、会話はつながってはいかない。
夜の闇の中で、どんな夢を見ているのか。。。
どんな自分を育てているのか、
どんな自分の影を育てているのか。。。
その冷たい手のまま、
誰とつながろうとするのか。。。
何とつながろうとするのか。。。
片や、親に愛と言う名の光を当ててもらえない子どももいる。
いつか大切なものに出会っても、
その凍えた手では不器用に扱うことしかできない。
取りこぼしてしまうこともある。
そうして、哀しく淋しく荒れていく。
光の当たった子どもの冷たい手。
光の当たらない子どもの凍えた手。
大人が暖めてやらなくて、誰が暖めてやれるというのか。
大人の大きな暖かい手で子どもの手をつないでやらなくて、
どうして、子どもは安心して外の世界を歩けるというのか。
社会が本当に成熟した社会なら、
社会が大人の役を務められるはず。
何をするか。
何ができるか。
自分は何ができるか。
問われている。

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