Kさんはずっとマドンナを求めていたのかも知れない。
少年の頃に失ってしまった内なる母の不在を、大人になって、聖母マリアのような女性を求めることで埋めようとするのは自然なことだ。
聖母マリア・母イメージとはどんなものであろうか?
世話し、尽くし、奉仕し、どんなことも受け入れてくれる慈悲深く、愛情に満ちた人のイメージであろうか?
そんなイメージ通りの、自分にとって都合の良い人など、どこにいるというのだろう。
聖母マリアがもはやこの世に存在しないのと同じように、この世に存在しはしない。
あるのは、いるかも知れないという幻想だけだ。
そして、人は幻想に惑わされあこがれる。
求めれば求めるほど、幻想に気づき失望していくだけだ。
しかし、哀しいかな、人は幻想にすがらないと生きていけないこともある。
男性は、母親イメージ(現実の母ではなく、理想的母親像)を、女性に投影しやすい。
憧れの女性を「マドンナ」と呼ぶのも、うなづける。
マドンナ(母・女)を手に入れたと思った男性は、彼女(母・女)が自分の思うようにならない、してほしいのにできないということになったとき、どうするであろうか?
思えば、Kさんの家族は父親の暴力が支配する家庭だった。
そこでは、おんな子どもは弱い立場に置かれ、見捨てられ、無視された。
そうすることで、父親はかろうじて自分の自尊感情を取り繕えたのかもしれない。
父親は、どこかで傷ついた自尊感情を、他者の自尊感情を奪いつくすことで保てた。
Kさんが自分の新しい家族を持ち、父親になり、家庭の中で幻想が崩れていったとき、父と同じように、自分を保つために暴力で支配するようになってしまった。
父と同じように、アルコールの力を借りた。
Kさんと私が知り合ったとき、彼はジムに通って身体を鍛えていた。
奪われ失った自尊感情=生きていく力や権力、ステータスといった「目に見えない力」への固執が、「身体の力」に転換されたものだったのかもしれない。
彼は、ひとに負けない強い力を求めていた。
力の支配で無力化されると、人は無感情になる。
と言っても、感情は内在化されただけで、こころの片隅でくすぶり続ける。
そして、何かのきっかけで爆発することがある。いろんな形で。
私は目上の者から力をかさにきた不当な扱いを受けたとき、冷静さを欠き身体がかっと熱くなる。
物を投げつけるか、机をひっくり返したくなる。
これは子どもの頃に受けた傷を、くすぶるままに放って置いたからに他ならない。
もっともっとと物事を追求する上昇志向癖も、見返してやりたい、上のレベルに行きたいと思うのも、言ってみれば力への希求だ。
言い換えれば、支配欲だ。
「自分」などとかっこつけてはいても、失い、取り戻したいと思うのは「力」なのだ。
Kさんと同じ穴のむじなである。
さて、ここまで書いてしまったら、崩れた母親像に、もはや、すがるすべはなくなってしまった。
力の支配がいかに虚しいものか、Kさんの末路を見れば歴然としている。
「力」が無力化されなくては、取り逃がしたマドンナは帰っては来ない。
母の不在を埋めようとすればするほど、母の不在という穴が埋まらないなら、不在は不在のまま「自己」を育てるしかない。
「自己」が広がり深まれば、その穴がいつか小さくなってしまうかもしれない。
子どもの頃、あんなに大きくて危険だと思った池が、大人になって久しぶりに見たら、そんなにも大きくはなかったというふうに。
「力」を無力化するとともに、くすぶった感情を心の隅から放さなくてはいけない。
誰かに話すこと。
離して見つめてみること。
放すには、心でいったんつかまなければならない。
つかんだものに泣き、怒り、叫んでいい。
言葉や絵や音楽で表現することで、封印された感情は開放される。
Kさん。
文章を書く仲間、語り合う仲間として長くおつきあいしたかった人である。

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