『解夏』
磯村一路 (監督)
大沢たかお (主演男優)
石田ゆり子 (主演女優)
富司純子 (女優)
松村達雄 (男優)
2003年制作
☆☆☆
さだまさしによる同名小説を映画化した作品。他の映画のDVDで観た予告編が印象に残っていたのと、複数の人に薦められたこともあって観てみたのだが・・・。キーワードは「苦行」「覚悟」「長崎」。この3つが有機的に結びつけられていれば、傑作になっていただろうと思う。

1つ目のキーワードは「苦行」。この映画が描いているのは、場合によってはある日突然失明する可能性のある難病にかかった、30代前半の男の苦しみ。「解夏」とは禅寺の言葉で、夏の修行の終わる日を言うそうだ。この映画は、ついに彼が失明してしまう日で終わるのだが、それは絶望の瞬間ではなく、彼にとって「いずれ失明する」という恐怖から開放される日(苦しい修行が終わる日)として描かれている。
2つ目のキーワードは「覚悟」。彼は、恋人を愛しているが故に、彼女とは別れる決心をする。彼女には彼女の人生があり、自分の人生に巻き込んでしまうことを避けようとしてだ。この話、その彼が、(「あなたの目になりたい」と言ってくれる彼女に)「僕の目になって欲しい」と言う覚悟を決める、という話でもある。
で、だ。問題は、その覚悟を決めた経緯が全く描かれていない、ということだ。この決断は、おそらく彼の価値観を揺るがす一大決心だったに違いない(彼は己の信念に従って生きるタイプの人間として描かれているように思う)。だから、彼が己の苦行の中で、対人関係のあり方についての己の価値観の大転換を経験したのだとすれば、それを描くことこそ本作の課題であったはず。そこが完全に抜け落ちている(と思う)。

3つ目のキーワードは「長崎」。この映画の本当の主人公は「長崎の街」だとも言える。監督は『がんばっていきまっしょい』(1998年)を撮った人で、おそらく「故郷」というものを非常に大切にしているだろう人。数ヵ月後には失明していることを知った主人公が、懸命に故郷の風景を脳裏に焼きつけようとする姿に、大いに心動かされたのではないだろうか。
で、だ。またしても問題は、この映画の舞台が(他のどこでもない)長崎である、ということが、「苦行」とも「覚悟」とも関係しているようには思えない、というところだ。例えば、恋人の女性は、彼のいる長崎で彼と生活を伴にし、長崎の人にとっての長崎の街というものを肌で実感していく。そのことが、彼女が長崎での生活に慣れてきたことを示す単なる1エピソードとしてしか用いられていない(ように思う)。僕は長崎に行ったことがないので、フィルムの中の美しい風景を存分に楽しんだが、「どうして長崎なんだろう?」という疑問が観終わった後フツフツと沸いてきた(おそらく単に原作者のさだまさしが長崎県出身だからだろうけど)。
実は、エンドロールを見ていて、さだまさしの原作だとわかった瞬間に、何だか興冷めしてしまった。考えてみると、本作にはさだまさしテイストが充満している(中学の時に一緒にフォークギターをジャカジャカやっていた仲間の中にさだまさしを好きなやつがいて、僕は昔のさだまさしの曲をわりとよく知っている。彼がパーソナリティを務めていたラジオ番組も聞いていたし)。もしこの映画が、辻仁成原作の函館の話だったら、僕は何を感じたんだろう?

実はとんでもない勘違いをしていて、最後まで主演女優を竹内結子だと思い込んで観ていた。竹内結子ってこんな感じだったっけ? やっぱり女優さんは役によって感じがかわるなぁ、なんて思っていたので、エンドロールを見て椅子から転げ落ちそうになった。そりゃ、感じ違うよね。
ちなみに、石田ゆり子の役柄は、首都圏の大学の教育学部(?)助手。どう考えても、こんなに時間的に余裕のある助手がこの世に存在するとは思えない(休職したとしか考えられない)。この映画、主人公の男性1人に完全に焦点を絞っていて、彼の恋人や母親については充分に描いてはいない。彼女についても、今後の人生についてどう考えているのか、彼とどう生きていくつもりなのか、さっぱりわからない。お母さんなんて、息子のことはもちろん、その恋人のことまで随分心配していて、ときどき非常に印象深い表情を見せるのだけど、その姿が宙に浮いてしまっている。そのへんが人間ドラマとしては非常に手薄だと思う。
映像は正統派で非常に美しい。画面の構図の決まり具合とか、日本映画ってのはクォリティーが高いもんなんだなぁとシミジミ思ったのだけど、シナリオがイマイチな印象。本当に傑作になり得た映画だと思うんだけど・・・。逆に言えば、そういう奇跡というものは滅多に起きないということなんだな、とも思う。

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