『となり町戦争』
渡辺 謙作 (監督)
江口 洋介 (主演男優)
原田 知世 (主演女優)
2006年制作
2007年公開
☆☆☆☆

「まち興し」業務の一環として粛々と遂行されていく「隣町との戦争」というシュールな「行政事業」を描き、第17回小説すばる新人賞(2005年)を受賞した三崎亜紀による同名小説(集英社 2004年)を、江口洋介・原田知世の主演で映画化した作品。現代的な「見えない戦争」を描いた異色作。
四国ののどかな田舎町に暮らす、ツアー会社勤務の北原は、町の広報誌の片隅に「戦争のお知らせ」という奇妙な記事を見つける。開戦日から2週間が過ぎたある日、いつもと変わらぬ日常を送っていた北原のもとに、町役場の女性職員から「戦時特別偵察業務」への従事を依頼する電話がかかってくる。事情を聞けば、出勤途中に見聞きした隣町の様子をメモし郵送で報告するだけでよいという。それくらいのことなら、とわけのわからぬまま引き受けた北原だったが…。

第1印象は、奇妙な映画、というもの。ヒップホップかぶれの若い駅員、どことなく風変りな会社の同僚たち、極端に戯画化された町役場の職員…、登場人物だけでなく、映像や音声、等、冒頭からいろいろな「仕掛け」が散りばめられていて、この映画のシュールな世界が構築されていく。これはアメリカ映画『マルコビッチの穴』(スパイク・ジョーンズ監督 1999年)でも採られていた方法で、少しずつ奇妙な世界に観客を慣れさせていくことで、その後に用意されている到底信じ難い設定(本作であれば「行政事業として隣町との戦争が行われている」ということ、『マルコビッチの穴』であれば「マルコビッチの頭の中に続く細い道が見つかった」ということ)に違和感を感じなくさせる効果を発揮している。
異色作。戦争を描いた映画なのに、戦闘シーンが皆無なのだ。それどころか、本当に戦争が行われているという実感が物語の最後になるまでほとんど感じられない映画なのだ(その実感は、物語終盤で主人公の生命が危機にさらされて初めてもたらされる)。しかも、実にいろいろな観点から観直すことができる映画であるにも関わらず、観終わった後「う〜ん」と頭を悩ませるような映画ではなく、デートで観に行くなら「無難な選択」とまで言い切れるほどの完璧なエンターテイメント作品として成り立っている。

この映画の面白いところは、「戦争映画としてのリアリティ」を全く感じさせないところではないかと思う。ここで描かれている「戦争」とはまさに「お役所仕事」なのである。普通、戦争映画と言えば、戦闘シーンで泥だらけ血だらけになったり、おさげ髪の少女が泣き叫んだり、怒り・悲しみ・憎しみといった強烈な感情が渦巻くものである。しかし、考えてみれば、それこそそれは「フィクションとしての戦争シーン」であって、「我々の日常における戦争」の姿を描いていない。戦争シーンをリアルに描けば描くほど、むしろその映画の虚構性は高まってしまう。映画の中でも言及されているが、日本は自衛隊を紛争地域に派遣しており(あるいは、派遣していたことがあり)、我々は税金を払うというかたちで戦争に協力している。しかし、自分が戦争に協力しているとは全く感じないまま日々生活している。そういった日常感覚を、この映画は見事にすくいとっていると思うのだ。

この映画、必ず2度観てみるべき映画だと思う。それというのも、1度目と2度目で物語前半の印象がかなり変わってしまうからだ。1度目は映画の趣旨そのものがまだよくわかっていないから、「本当に戦争が行われているのかな?」と主人公の北原と同じ目線で状況を眺めることになる。2度目は、実際に戦争が行われていることを実感した上で観直すので、「『本当に戦争が行われているのかな?』だなんて、政治的無関心も甚だしい。なんて呑気なヤツらなんだ!」と、もう1人の主人公の属する、役所の立場から観直すことになる。
様々な観点から観直すことができる映画。「戦争を描いた映画」としてだけでなく、国政レベル・地方行政レベルでの政治的無関心を批判した映画としても、法律に定められた通りに動く公務員(それが彼らの仕事なのだが)を批判的に描いた映画としても、また、江口洋介の体現する素朴なヒューマニズムを描いた映画としても、観ることができると思う。意地の悪いブラックジョークの塊のようにも思える。そういった様々な論点を含んでいるにも関わらず、映画として全く破綻していないばかりか、安心して観ていられる安定感まで感じさせるのは見事。監督はまだ若い人のようだが…。

原作小説の著者である三崎氏は、地方公務員として働きながら小説を書いていた人で、今も公務員の仕事を続けているのだとか。本作は彼の処女作で、原田知世演じる公務員女性の人物造形や、役所仕事の描写、それにそもそも本作の着眼点に、地方公務員としての経験が直接的に役立っているのだろうと思う。そのことを踏まえて考えれば、理論武装し正論しか吐かないがゆえに非の打ちどころがない、しかし、そのことによって自らに逃れられない呪縛を課してしまっている公務員女性と、地方行政にも町議会の決定にも完全に無関心、しかし、そうした現実の政治に無関心であるが故に生じえる(「やっぱり戦争はいけないんじゃないか」という)素朴なヒューマニズムを体現する一庶民の男性との対比が、大きな軸となっている。この2人が交わってしまったところから物語は始まる。
役場の「戦争推進室」で働く公務員を演じた原田知世が良かった。彼女、もう若くはなく(劇中何度も「あぁ、原田知世も年取ったなぁ…」と過ぎ去った年月の大きさに想いを馳せた)、公務員らしい地味なスーツに身を包み(しかし、それは逆に彼女の「戦闘服」にも見える)、小さな身体をシャンと伸ばして事業推進に邁進する必死さがうまく表現されていたように思う。江口洋介との身長差が25cmくらいあり、一層引き立てられる彼女の小ささが、どれだけ大きな犠牲を払っても「お役所仕事」と批判されるばかりの公務員の悲哀を表わしているようにも見える(ちなみに、風呂上がり、ほんのり頬を上気させた彼女の姿は必見。わずか30秒ほどの短いシーンですが)。

対する江口洋介、ときどき時任三郎に見えたが、彼は彼で素朴な青年(と言うか、2人とも撮影時40才弱ですが)を好演していると思う。ラブストーリー色はかなり弱いが、政治的無関心層という、正論には決して敵うことのない立場に身を置きながらも、正論闘争の真っ只中で疲弊する1人の女性を目の前にして、思わず素朴なヒューマニズムの滴のようなものを発露してしまう姿につい共感をおぼえてしまった。あまりにナイーブな「ヒューマニズム」はそれはそれで欺瞞的なものであるような気もするが、「本物のヒューマニズムとは何か」なんて議論を始めると、それが本来もっていたはずの素朴な力が失われてしまうような気もするし、素朴なものは素朴なままにしておいた方がよい場合もあるような気もする。
もちろん素朴なヒューマニズムの力で戦争を止められるかと言えば、この映画でも止められない。ハッピーエンドで終わらない(かと言って、最悪の事態を迎えて終わるわけでもない)というところも、この映画のよく出来ている点だと思う。
原作小説も読んでみたいと思う。

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