2015/12/16

和太鼓部、カレンダーに登場す!!  クラブ

 和太鼓部の顧問のもとに、大阪港振興協会から来年のカレンダーが送られてきた。その10月、11月に我が和太鼓部の雄姿が、天保山の桟橋に到着した大型客船(SKYSEA GOLDEN ERA)とともに掲載されている。

 やや逆光の中で、背景の大型客船にも和太鼓部の面々にもピントがあっている素晴らしい写真だ。ある時はグランフロント大阪、ある時は老人ホーム、またある時はリーガロイヤルホテルなどなど、各所で演奏の経験を積んでいる彼らにとって、この写真は高校時代の忘れられない1枚となるだろう。

 よう頑張っとる。みんなで和太鼓部を応援しよう。

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2015/12/16

鐘淵紡績中島工場  学校紹介

 先日アミティエ社会の授業で柴島駅界隈のフィールドワークを実施。参加生徒は2名。漢字の勉強も兼ねて神社の周囲を囲む瑞垣(みずがき)の人名を読んでいたら、「○吉」「○蔵」的な古めかしい固有名詞に交じって、な、なんとなんと「鐘紡中島支?」なる瑞垣を発見。思わず生徒のことを忘れてひとり興奮しまくって歓喜した。

 一番下の1929(昭和4)年の地図にあるように、現在、エバグリーン淀川の巨大マンション群や大阪市立東淀川図書館、クレオ北大阪などがある場所に、鐘淵紡績(=鐘紡)中島工場があった。

 西洋列強に遅れること約100年、明治半ばから日本でも産業革命が始まる。その過程で大阪が紡績業(綿)の拠点となり「東洋のマンチェスター」と呼ばれた時代に、おそらく鐘紡中島工場の前身、柴島紡績も建設されたと思われる。

 1899(明治32)年に鐘紡が柴島紡績を買収して鐘紡中島工場となり、鐘紡淀川工場(現在の都島区のベル・パークシティー)とともにフルスロットル全開の操業であったと思われる。

 しかし、戦後の産業転換の流れの中で紡績業は衰退。たしか昭和50年代に操業を中止した中島工場は、いつしか現在のエバーグリーン淀川なる巨大マンション群に姿を変えた。

 1883(明治26)年の大阪紡績会社(大阪市大正区三軒屋)の操業以来、大阪市内各所に存在した紡績工場だが、今も操業中の工場は自分の知る範囲では皆無だ。

 その名残をとどめる高いレンガ壁や女工寮入口であることを示す門柱なども、年々その姿を消している。そんな時代の流れの中で、この地に「鐘紡中島工場」があったことを証明する瑞垣が、柴島神社が続く限り永久に残り続けることは喜ばしい限りだ。

(追記)あえて書くべきことではないが、その昔日本を代表する企業であった鐘紡が、個人と同額の「金100円」を柴島神社に献金したことに少し違和感を覚えてしまった。

 この瑞垣自体いつのものかは不明だが、もしかしたら大不況の最中で鐘紡としては精一杯の出費だったのかもしれない。

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1929(昭和4)年 @崇禅寺駅 A柴島駅

 地図の上に「こんなところに学校があった」とあるが、現在はグラウンドとなっているこの地に、3000本安打と「喝!」で有名な張本勲が通った「浪商」があった。現在、大阪南部の熊取にある大体大浪商の前身である。

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2015/12/16

アミティエ理科  授業・HR

 今日は、「エコキャップで植物を育てるキット」を使ってバジル・パセリなどの栽培を始めました。

 時期がちょっと寒いんだけど…芽がでるように水やり頑張ろう??

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