2016/2/25

水をください  学校紹介

 久々の陽光を思いっきり浴びて、「水をください」と訴えかけている花たち。今日も生物部の部員が水をまいてくれた。ありがとう。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

2016/2/25

重要連絡あれこれ 過去ログ   学校紹介

(2)卒業式舞台の花
○卒業式前日の2月25日(木)午後2時より、体育館にて舞台の花の装飾をしてもらいます。
○本校10期生の卒業生で、2011年ブライダルブーケコンペで内閣総理大臣賞を受賞した林豊蔵氏(東淀川区・蘭光園代表)に装飾してもらいます。
○林氏は、日本フラワーデザイナー協会講師、一級フラワー技能士、フラワー装飾技能検定の検定委員でもあり、業界では大阪府を代表する人です。
○生徒諸君の中で、偉大なる先輩の装飾作業を見学したい人がいれば、当日現場に集合してください。「後輩の中で興味ある人がいれば、見てもらってもいいです」とのことでした。
○もちろん、保護者の中で興味ある人がいれば、現場に来ていただいても結構です。

2016/2/25

電信柱の謎(2)   学校紹介

 今日も昼食の買い出しついでに柴島中学校周辺の電信柱に注目したが、非常に面白いプレートを発見。あきらかなミステイクに、「なんでプレートを設置した人は気付かんかったのか」とつっこみを入れたくなる。

 コンビニ辺りから見た柴島中学校。道路右側の電信柱は「浜町」だが、

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

 道路左側は「柴島町」が続くが・・・

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

 NTTさん、まちがってますよ。「紫島町」と書く人はたまにいますが。

2016/2/25

卒業式予行  学校行事・生徒会

 今日は卒業式の予行。久しぶりに登校した3年生は柴島での高校生活もあと2日。今日は雲ひとつない晴天であったが、風は冷たかった。明日は今日より1度低い予報が出ている。

 体育館は例年と同じくストーブ数台をレンタルしていますが、寒さ対策はぬかりなきよう宜しくお願いします。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

2016/2/24

続・浪商  学校紹介

クリックすると元のサイズで表示します

 先日ブログで紹介した「浪商」について、さらに調査を進めようと東淀川図書館で記念誌的なものを探したが発見できず。途方に暮れていたところ、なんと本校職員室の自分が座っているところから10mもしない本棚に『創立90周年記念誌 学校法人浪商学園』(平成23=2011年)なるものを発見。まさに「燈台もと暗し」である。

 記念誌に掲載されている創立から戦後にかけての記述は以下のとおり。

第1章 1921〜1940年

(創立記念日)

 学校法人浪商学園の創立記念日は、11月15日に制定されている。これは90年前の大正10(1921)年、当学園が大阪府より浪華商業実修学校として認可を受けた日で、学年が第一歩を踏み出したことを記念する日である。

 その生誕の地は、大阪市天王寺区堂ヶ芝町(当時の南区細工谷町)である。校舎は工場の建物を間借りしたもので、夜間部として発足している。当時の新聞には「夜学生募集」の広告が散見できる。

(乙種から甲種へ)

 大阪市南区(現中央区)瓦屋町への移転を経て、大正13(1924)年4月、大阪市東淀川区山口町(阪急崇禅寺駅前)において、文部省告示第253号をもって甲種商業学校規程による浪華商業学校として認可を得た。当初は、高等学校卒業を入学資格とする3年制コースであった。
 
 マッチ工場の建物を改装した仮校舎ではあったが、当時の言葉でいう乙種から甲種への格上げであり、関係者の喜びがしのばれる。

 認可以降も本校者の建築は遅れ、その後、啓発小学校跡地等での仮校舎生活を余儀なくされた。

(夢ふくらむ本校舎落成)

 大正15(1926)年5月、東淀川区国次町(現淡路本町)に待望の新校舎が竣工した。淡路時代の幕開けである。同月、尋常小学校卒業を入学資格とする5年制の併置も認可され、(中略)

 この大正15年は、野球部が大阪の代表として全国中等学校優勝大会に初出場した年でもある。これ以後、毎年のように甲子園出場を果たし、野球の名門校として全国にその名を知られるようになった。優秀な生徒も集まるようになり、志願者も年を追って増加した。(中略)

(校舎焼失と復興)

 昭和9(1934)年11月20日、原因不明の出火により国次町の校舎が全焼した。急きょ、高等商業学校の校舎(東淀川区大隅通)の一部を仮校舎として授業を再開したが、(中略)

 昭和10年8月30日に就任した野田三郎校長は、校舎の復興に着手、11年9月1日に第一期工事が完了し、校舎は国次町に復帰した。(中略)


○なんといっても驚くのが、仮校舎とはいえ、「大正13(1924)年4月、大阪市東淀川区山口町(阪急崇禅寺駅前)において・・・浪華商業学校として認可を得た」「マッチ工場の建物を改装した仮校舎ではあったが、・・・」という部分。

○現在、崇禅寺駅前でマンションの建設工事が行われているが、おそらくそのあたりに「マッチ工場の建物を改装した仮校舎」があった。記念誌には下の写真が「崇禅寺仮校舎」として紹介されている。

クリックすると元のサイズで表示します

○例によって「山口町」の名残を確かめるべく、崇禅寺駅前の電信柱に注目する。半信半疑で行ってみたら、ありましたで、ありました。やっぱりありました。ほんまに電信柱のプレートは面白い。感動しました。

○ここらへんに、上の写真で紹介したようなレンガ造のマッチ工場があったんだ。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

以下次号

2016/2/24

卒業式予行準備  学校紹介

 明日は39期生3年生卒業式の予行。考査期間中でもあり、1・2年生の生徒の力を借りることはできない。この時期、毎年恒例であるが、老いも若きも教職員総動員で会場の準備をした。

 卒業式の主役は3年卒業生であることは言うまでもないが、保護者の方々、そして最前線で卒業生と3年間接してきた3年担任団もメインではないが主役である。

 3年卒業生諸君は、卒業式での我が子の晴れ姿をみてしみじみと3年間の苦楽に思いをはせる保護者、担任した生徒が無事卒業するまで日々頑張ってきた担任団、そしてこの卒業式が12年間の学生生活の最後となる就職するクラスメートがいることを忘れてはいけない。

 明日は予行であるが、真摯な気持ちでのぞんでほしい。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

 いよいよ来たでー。それにしてもプロジェクターとは思えないぐらいの大きさ。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

 手前のスクリーンより、舞台一番奥の白い布に投影したらこんな感じ。まるで映画館だ。

クリックすると元のサイズで表示します

 柴高初お目見えの9000ルーメンのプロジェクター。まさに威力絶大である。

クリックすると元のサイズで表示します

 例によって木工職人A&Bが、トンテンカントンテンカンと階段を修理。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

2016/2/24

久々の晴天 のち曇天  学校紹介

 最近今一つの天気が続いたが、今日は久しぶりに冬の陽光を拝むことができた。2月13日に植えた花苗もより元気になってくれるのではないか。

 本校屋上より

クリックすると元のサイズで表示します

 長柄橋のアーチのはるか向こうに阿倍野ハルカスが見える。残念ながら大阪城はここからは見えないが、ハルカスがみえるのでよしとしよう。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

 午後からは曇天。明後日の卒業式は「こんもり」は無理か。「こんもり」咲き乱れるのは3月18日午後からの合格者登校日、4月8日の入学式の頃だろう。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

 卒業を控えた本校3年生が私服ゆえに正門の外で友人を待っている。彼に「なんでわざわざ学校の前で待ち合わせするんや」「駅で待ち合わせたらええんとちゃうん」と伝えた。

クリックすると元のサイズで表示します

 進路指導室前の梅。真っ赤な花がほころびだした。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

2016/2/24

海難1890  学校紹介

 今回の日本史A期末考査でテスト範囲に含まれる日露戦争(1904=明治37年)。

 その授業で、極寒の大国・ロシアは「不凍港を求めて南へ南へ行きたがる」、いわゆるロシアの「南下政策」について話をした。そんなロシアを脅威に感じていた日本とイギリスが1902(明治35)年に日英同盟を結んだのは有名だが、同じくロシアを嫌がっていたトルコのことはあまり知られていない。

 トルコは当時オスマン帝国といいイスラム教の国。日本と同じくロシアの南下を嫌がっており、ロシアへの対抗上、日本は1887(明治30)年に皇族の小松宮夫妻をイスタンブルに派遣して友好関係を築きたいと思っていた。そのお返しとして、またイスラム教のリーダーとして東南アジアのイスラム教徒にその偉大さをみせるために、オスマン帝国は軍艦エルトゥールル号を日本に派遣した。

 『プロムナード世界史』(浜島書店)より 赤矢印がロシアの南下政策

クリックすると元のサイズで表示します

 1889年7月14日、イスタンブルを出港。苦難の続く航海の途中、立ち寄ったイスラム諸国で歓迎を受けつつ、11ヶ月をかけて1890年6月7日、ようやく日本の横浜に到着。一行は6月13日に皇帝の親書を明治天皇に渡し、オスマン帝国最初の親善使節団として歓迎を受けた。

 しかし、エルトゥールル号はイスタンブル出港以来、船体の消耗や乗員の疲労、資金不足による物資不足が限界に達していた。また、多くの船員がコレラとなったため、9月15日になってようやく横浜を出港した。

 このようなことから、エルトゥールル号は今後の苦難の航海に耐えることはできないと、日本は台風の季節をやり過ごすように勧告したが、オスマン帝国はその制止を振り切って出港したという。

 9月16日21時頃、台風による強風にあおられ紀伊半島南端の大島あたりの岩礁に激突、座礁したエルトゥールル号は水蒸気爆発を起こし22時30分ごろに沈没した。これにより、司令官をはじめとする600名以上の乗員が海へ投げ出された。

 以下『海難1890』のパンフレットより。

 1890年、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が和歌山県樫野崎沖(現・串本町)で座礁・沈没。トルコ人乗組員600名以上が荒れ狂う海に投げ出される。当時としては世界最大規模の海難事故が発生した。村人たちは惜しげもなく、食糧や衣服を与え、総出で救助・手当を行った。

 そして時は流れて1985年、イラン・テヘラン。イラン・イラク戦争が激化する最中、サダム・フセイン(イラク大統領)による、イラン上空無差別攻撃が宣言される。タイムリミットが迫る中、日本からの救援隊は来ず、テヘランに閉じ込められた在留日本人たち。彼らに救いの手を差し伸べたのは、トルコだった。

 なぜトルコが助けてくれるのか? そこには、95年前のあの事故から生まれた”人を想う心”があった。

 1890年「エルトゥールル号海難事故」、1985年「テヘラン邦人救出劇」。2つの真実のドラマが、日本・トルコ友好125周年という節目の年に、両国の支援のもと遂にビッグプロジェクトの映画となって誕生!

 日本とトルコ、9000kmも離れた両国が政治、経済、宗教の違い・・・全てを超えて生み出した友情よ絆。世界に放つ”希望”の物語が今冬スクリーンに登場する。


 この事件があった1890(明治23)年は、第1回衆議院議員総選挙があり、それを受けて第1回帝国議会があった。前年には大日本帝国憲法が制定されている。日本がアジアで初めての、憲法と議会を持った国になった年だ。

 いわゆる授業のよもやま話として、「実はこの年に、『エルトゥールル号事件』というのがあったのです」「トルコもロシアの南下を恐れていました」「この事件で名もなき日本人が多くのトルコ人を救助したことが、今もなおトルコの教科書に掲載されています」「よってトルコは世界でも有数の親日国なんです」とかなんとか説明して、YouTubeで公開されている『海難1890』の予告編を見せた。

 するとどうであろう、いつもより増して興味関心の目でスクリーンに見入る生徒諸君、そして数人の生徒が「いつ上映しているのか」「いつになればレンタルできるのか」などと質問しにくるではないか。

 数は少ないがこういう生徒の熱気に応えねばと、あと数日で上映が終了する「淡路東宝」に頼んで映画のポスターをいただき、はがき大のパンフレットもたくさんいただいた。

 この映画について興味を持った生徒諸君は、現在上映中の映画館についてはスマホで調べてほしい。そして、参考文献として以下の本をあげておこう。

 国と国と友好関係は、政府首脳同士の交流だけでなく、名もなき一般ピープル同士の草の根の交流も大切であることをこの事件は教えてくれる。

クリックすると元のサイズで表示します

 『エルトゥールル号の遭難』小学館 寮美千子 2013  

クリックすると元のサイズで表示します

 『海の翼』PHP文芸文庫 秋月達郎 2014

クリックすると元のサイズで表示します

 『海難1890』 小学館文庫 2015

 クリックすると元のサイズで表示します

(追伸)今年の夏休み中に上記『エルトゥールル号の遭難』を紹介しています。あわせてご覧ください。

(追伸)十数年前の30期生1年生の世界史Aの授業で、同じく「エルトゥールル号事件」の話をして、「イラン・イラク戦争」でのトルコ旅客機による日本人救出劇をテーマにしたNHK「その時歴史が動いた」を見せたことがある。最初の自分の話が長すぎて実質42分の中身のうちラスト15分ぐらい残してチャイムが鳴った時、女子生徒2人が「昼休みでもいいから続きを見たい」と訴え出て、昼休みに社会科教室で一緒に見たことを思い出した。

2016/2/23

電信柱の謎(1)  学校紹介

 先日の「浪商(なみしょう)」のブログで、浪商が「東淀川区国次町」にあったと紹介した。「国次町」という名称は後年の町名変更でなくなってしまったことは明白で、今やその名を留めるものは何もないと思っていたが、ありました、ありました。さすがです。阪急淡路駅から梅田方面すぐの踏切です。ほんまに感動しました。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

 本校正門出て右の踏切は「飛鳥橋踏切」といい、その昔、この辺りに浄水場から小川が流れていて踏切のところに橋があった、と以前ブログでも紹介した。それと同じことで、おそらく踏切の名称は、その創設以来の名称を便宜上ずっと続けているのかもしれない。

 踏切と同じような理由で昔の地名をとどめているものに電信柱がある。一度電信柱をじっくり見てほしい。地面から3メートルあたりのところに白いプレートが固定されており、そこに電信柱の固有の名称が記されていることがある。

 さっそく検証してみた。

 柴島中学校近くのコンビニに昼食を買いに行ったついでに撮影。さてさてここの電信柱はどうなんかというと、なんと「浜町」とある。当然現在はどこをみてもない地名だ。「さっそくやないか」とひとり悦に入る。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

 体育館前の電信柱も「浜町」

クリックすると元のサイズで表示します

 むむむ、巨大なグリーンカーテン。何を植えているのだろうか。
 
クリックすると元のサイズで表示します

 その前の電信柱も「浜町」

クリックすると元のサイズで表示します

 ところがすぐ近くの電信柱には「浜町」に加えて「柴島」がある。

クリックすると元のサイズで表示します

 「春休みに時間ができたら徹底的に検証する必要があるなあ」と思いながら帰校したら、なんと本校の敷地内に電信柱があるではないか。しかも外につながっている本格的なやつ。こんなところに電信柱があったなんて。

 さっそくプレートを見てみると「水源地」とある。「浄水場」ではなく「水源地」というのが面白い。地元の古老から聞いた話で、「水源地」という表現は何度か聞いたことがある。

 「電信柱のプレートの名前は設置以来の名称を使っているんや」と確信した。今度さらに検証の範囲を広げて、そのつどブログでレポートしていきたい。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

2016/2/23

ユキヤナギ  学校紹介

 正面玄関左の花壇にあるユキヤナギが開花しそうである。以下ユキヤナギのプロフィール。いつもの[ヤサシイエンゲイ]より。

科名:バラ科
学名:Spiraea thunbergii
原産地:日本 中国
樹高:1〜2m
開花期:3月〜4月

 日本や中国に分布する落葉性の低木です。株元から枝をたくさん出してわさわさと茂ります。緩やかなアールを描きながら長くしなやかに枝垂れる枝と株を被うほど咲く白い花が特長です。

 丈夫で適応力が強く病害虫が少ない、春に咲く花がきれい、比較的場所をとらずにまとまりがよいなど利点が多く、古くから庭園や生け花に利用されてきました。今でも公園などで広く植えられており、切り花としても普及しています。

 枝が弓状に湾曲して真っ白い花を咲かせるのでユキヤナギ(雪柳)の名前があります。ヤナギのように枝が枝垂れると言うだけで、ヤナギの仲間ではありません。


 春の到来を告げる花は数多くあるが、ユキヤナギもそのひとつなのだ。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

(おまけ)本校に生息する鳩族の中に、他のオーソドックスな鳩に比べてひときわ白いのがいる。色からくるイメージなのか、他の鳩と違って何かしら気品を感じる。他のオーソドックスと一緒に移動しているので、鳩族の中でのイジメなどはないようだ。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

2016/2/23

鐘淵紡績中島工場  学校紹介

 1929(昭和4)年の地図をみると、むかし「鐘淵紡績中島工場」であった地に、現在「エバーグリーン」なる巨大マンションや、旧クレオ北大阪、東淀川区図書館が建っている。

1929(昭和4)年 地図

クリックすると元のサイズで表示します

[上の地図の拡大図]  skm_454e16021915540_0001.jpg

 以下『東淀川区史』(昭和31=1956年)の復刻版(昭和62年)より。

 紡績業は往昔より晒(さらし)工業殷盛の糸を引き、まさに二十二区中、事業所数・従業者数・生産額の何れを比較しても断然たる優位を示している。(中略)

 まず鐘淵紡績株式会社中島工場はその沿革特に古く明治32(1899)年12月当時の西成郡西中島村大字柴島に設立、鐘紡中島支店工場と呼ばれ、初め男工140人、女工692人運転錘数(すいすう)15,081(明治34年統計)で郡内有力の工場であったが、昭和初期に2万錘、ついで間もなく5万錘となった。

 しかし昭和17(1942)年2月大阪陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)へ貸与一時中断したが、幸い戦災をまぬがれ、21(1946)年5月復元初めて織機が据えつけられ、紡績2万錘、織機618台の綿紡績工場として再出発した。

 その後、昭和26(1951)年3月、新工場を増設同時に化繊を行い、全錘数30,368錘・織機790台となり、市内唯一の紡織一貫工場としてその偉容を示している。



紡績(ぼうせき)
○原料の繊維から糸の状態にするまでの工程。
○「紡」(紡ぐ/つむぐ)は寄り合わせること。「績」(績む/うむ)は引き伸ばすこと。
○主に綿や羊毛、麻などの短繊維を非常に長い糸にする工程をいう。

○要するに「紡績」といえば、主に「綿糸」「コットン」をつくることをいう。

○日本で最初の本格的紡績工場「大阪紡績会社」が建設されたのが明治16(1883)年7月。場所は現在の大阪市大正区三軒家東。発電機を使用して24時間操業を実施。あかあかと電灯がともり工場全体が不夜城のように浮かびあがっていたという。「大阪紡績会社」が現在の「東洋紡」となる。
○明治20年代、ここを中心に数多くの紡績・繊維会社ができ、日清戦争(明治27=1894年)から日露戦争(明治37=1904年)にかけて、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるにふさわしい発展をとげた。
○我らが鐘紡中島工場は、そういった時代の流れの中で建設された工場だった。

錘(すい=おもり)
○紡績に使う糸巻きのこと。当然たくさんあればあるほど事業規模が大きいことになる。
○下の写真は「大阪紡績会社」の工場内。白い筒のようなものが縦にたくさんあるが、「5万錘」とはこれが「5万」あるということ。

クリックすると元のサイズで表示します

 鐘淵紡績中島工場 『東淀川区史』より 残念ながらいつ中島工場が閉鎖となり、この地にマンションが建設されたのかは不明。さらに調べてみる必要がある。

クリックすると元のサイズで表示します

 左は東淀川図書館 真ん中に独特の段々が特徴のエバーグリーン 右は社会福祉法人メゾンリベルテ 

クリックすると元のサイズで表示します

 現在のエバーグリーン東淀川 1976(昭和51)年築造

クリックすると元のサイズで表示します

 同じ場所より撮影。数年前まで城東貨物線の老朽化した鉄橋と崩れ落ちそうな盛り土だったが、2018(平成30)年末の「おおさか東線(新大阪〜放出)」開業をめざし、真新しいコンクリートの鉄橋と盛り土に変身していた。「淡路」に新しい駅ができるそうだ。

 それにしてもその昔、淀川にかかっていた城東貨物線「赤川鉄橋」の橋の上を一度は歩きたかった。

クリックすると元のサイズで表示します

2016/2/23

生物部、がんばってます!!  クラブ

 町を歩いていてプランターやハンギングバスケットなどに花が美しくこんもりと咲いているのを見かけるが、その陰には土壌改良、水やり、肥料、そして花柄摘みなど、常日頃からのたえまない世話があるのである。

 そしてその世話が、すぐに「美しく」「こんもり」に直結するのがガーデニングの面白いところである。

 今日も水やり、花摘みに精を出す生物部の面々。よう頑張っとる。ありがとう。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

 心なしか「こんもり」としだしたように思いますが、どうでしょうか。

クリックすると元のサイズで表示します

2016/2/22

少人数授業  学校紹介

 本日後期の期末考査2日目。写真は1時間目の2年生英語構文中級のテスト風景。受講者数は23名である。自分が教えている必修日本史Aの3講座も、32人、32人、32人で、教室フル人数である40人授業と比較して、何かと余裕があってむちゃくちゃ教えやすい。

 1年生の大半の授業はHR教室にて40人授業だが、2・3年生になるとほとんどが選択科目となり、その多くの授業はこのような少人数となる。これも選択科目数の多さに対応できるよう、普通科同規模校の約1.5倍の教員数が確保されているからできるのだ。

 広い広い校舎とグラウンドといい、こんな少人数授業といい、君たち生徒諸君は本当に恵まれているぞ。その恵みに感謝し、それをフルに活用して進路目標実現にむけて頑張ってほしい。

クリックすると元のサイズで表示します

 梅田の高層ビル群の遠景は、夕焼けに染まるころが一番美しい。

クリックすると元のサイズで表示します

2016/2/22

こんな使い方もあったんや  授業・HR

 2月13日(土)、最後の1年6組&7組にPJが設置され、これで全普通教室21室にPJが黒板上に常設された。
 
 後期の期末考査2日目、1年6組朝のHRの風景。

 担任がその日のテスト科目と時間帯を黒板に書いて毎朝確認していたが、PJを利用したこの方法ならいちいち消さなくてもいいのできれいだし、JPEG画像をUSBに保存して黒板下のPJボックスにさせばいいだけ。文字だけなのでスクリーンなしでもOKだ。

 若者の柔軟な発想に、なるほどこんな使用方法もあるのかと感心した次第。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

2016/2/22

がんばれ淡路東宝  学校紹介

 昨日のブログで再開発進む淡路界隈にいまだに「昭和」が残っていることを書いたが、淡路本町商店街の一角に営業中の映画館「淡路東宝」もまさに昭和的だ。生徒諸君にとって映画館といえば大型シネコンというイメージかもしれないが、1970年代ぐらいまでこのような地元の映画館がそこかしこにあったのだ。

 少子化、娯楽や趣味の多様化、レンタルビデオの普及、シネコンの出現などにより、地元の映画館は年々入場者が減少、経営難から閉館するところが増加した。昔の地図を見ると、淡路界隈には「淡路東映」「淡路松竹」などがあったようだが、今残る映画館は「淡路東宝」のみ。

 淡路駅から歩いて3分、本校から自転車で約7分。生徒諸君、身近なところにある地元の映画館に一度は足を運んでほしい。公式ホームーページを見ると、「全席スーパーシート」「客席数は226席」「自由席」「音響:SRD」「デジタルサウンド」「ブランケット貸出あり」と紹介されており、シネコンとほとんど変わらんやないか。

 月曜日は男性1100円、水曜日は女性1100円の割引サービスがあり、高校生料金は1000円だ。

 明日ブログで紹介予定の『海難1890』もつい最近までここで上映していた。現在上映中は『人生の約束』、3月5日からは『ドラえもん 新・のび太の日本誕生』が予定されている。

 地元の映画館には、今後も頑張ってほしいと思う。『海難1890』のポスター、ありがとうございました。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

 昔はここ「淡路東宝2」でも映画を上映していたが、現在は休館中?

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ