2016/2/21

浪商(なみしょう)  学校紹介

 みなさんは、本校から淡路方面に向かって自転車で5分ぐらいのところに、その昔、「浪商」と呼ばれた高校があったことを知っているだろうか。

 現在、「浪商」は「大阪体育大学浪商高等学校」と名称を変え、場所も大阪府南部の「熊取」に移転したが、自分の頭の中では「大阪府茨木市」「大阪・甲子園=浪商」というイメージが長くあった。「兵庫=報徳」「京都=平安」「奈良=天理」「和歌山=箕島」・・・そんなイメージである。

 「浪商」は甲子園の常連校で有名な卒業生に、張本勲(3000本安打・毎週日曜日の朝、4chの「サンデーモーニング」で「喝!!」と声をあげている)、尾崎行雄(怪童)、大熊忠義(阪急ブレーブスのいぶし銀)、高田繁(巨人V9戦士・横浜DeNAジェネラルマネージャー)、牛島和彦(中日&ロッテ・元横浜ベイ監督)、香川伸行(南海・ドカベン)など、50歳代なら誰でも知っているスター選手が綺羅星のごとく居並ぶ。


 以前ブログでも紹介した下の地図(1929年=昭和4年)で、阪急の京都線と千里線が狭まる淡路駅の手前、「こんなところに学校があった」の地点に学校のマークがあり、「現在は野球グラウンドになっとるあたりやなあ」「さて何ちゅう学校なんやろ」と興味があった。

1929(昭和4)年 地図

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[上の地図の拡大図]  skm_454e16021915540_0001.jpg

現在の地図(Googleより)

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現在の空中写真(Googleより)

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 その後、たまたま『東淀川区史』(昭和31=1956年)の復刻版(昭和62=1987年)を読む機会があり、なんとあの「浪商」が東淀川区の淡路にあったことを知り、「えーっ、ホームセンターに買い出しに行く途中にあるこのグラウンドが、昔は『浪商』やったんや」とひとり早合点(はやがてん)して、生徒にも「ここで張本や尾崎、高田が練習しとってんぞ」とウンチクをたれていた(それを聞いて「えー、うそーっ」と感動した生徒は当然誰もいなかった)。

 柴島浄水場 北口

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 右は建設中の阪急千里線の高架 

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 ところが最近、東淀川区の図書館で前出の『東淀川区史(復刻版)』を再度見る機会があり、添付された地図(昭和31=1956年当時)を見ると、下のように極小の文字だが「浪商」という学校を発見した(昭和31年の地図なので、当然創立昭和50年の柴島高校は地図にはない)。

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 「あれ、自分の思っていた野球グラウンドと場所が違うやん」と驚愕。「これはいったいどういうことなのか」「自分は間違ったことを生徒に教えていたのか」「えらいこっちゃ」と調べてみたら以下のことが判明した。

1921(大正10)年 浪華商業実修学校として大阪市天王寺区堂ヶ芝に設立。
1923(大正12)年 浪華商業学校に校名変更。
1926(昭和元)年 大阪市東淀川区「国次町」に移転。
1945(昭和20)年 6月7日 校舎が空襲で全焼
1959(昭和34)年 浪商高等学校に校名変更。普通科設置。
1963(昭和38)年 茨木市に移転
1989(昭和64)年 泉南郡熊取町(現在地)に移転


 「国次町?」 さっそくあれやこれやで調べてみると、なんたる勘違い、その昔「浪商」のあったところは、現在の町名で「淡路3丁目」、「社会福祉法人ノーマライゼーション協会」がある場所であることが判明。トホホである。

 そして自分が「浪商」と思っていた野球グラウンドは正式名は「柴島浄水場グラウンド」という名前で、図書館で昭和30年代の地図をみたら「水道局公舎」「浄水場」とあった。ならば(1929=昭和4年)の地図に「こんなところに学校があった」の「学校」はなんだったのだろうか?


 さっそくその昔、「浪商」があったところに行ってみた。

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 学校近くの「ライフ」、そして「こどもホスピス」を道なりに行くと昔の「淀キリ」がある。その向こうにある幅の広い道を横断する。

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 ほどなく昭和の雰囲気を漂わせている、そして所々空地のある一角に出る。そこに「淡路3公園」なる公園がある。まさにこれが「浪商」の跡地だ。

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 公園でほっこりしていた地元の古老に聞くと、むこうの白い校舎は「浪商」の頃からあったとのこと。

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 「淡路地域 福祉・生活支援センター」とある。

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 古老のいう「白い校舎」の正面にまわってみた。なんと「西淡路小学校」と看板にあるではないか。

 後で調べてみると、「浪商」が茨木市に移転した1963(昭和38)年から4年後の1967(昭和42)年の地図には「京阪神急行電鉄KK(=阪急)運輸部教習所」、1980(昭和55)年の地図には「西淡路小学校分校」とあった。

 「これ、ほんまに『浪商』の校舎やったんやろか」と少々の疑問は残る。

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 十数年前に「老人福祉」かなんかの授業で付き添った「東淀川区老人福祉センター」が目の前にある。

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 むかしは小学校や中学校の前に必ず「文房具屋さん」があった。いつの日か、スーパーやコンビニにとって代わられたが、この辺りはいまだ「昭和」の名残をとどめている。

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 貴重な昭和の遺産を記録に残すことができてよかった。

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 「浪商同窓会」のホームページによれば、1945(昭和20)年6月の大空襲で校舎が全焼していた。さらにネットで調べてみると、上記「綺羅星」のうち、張本勲、尾崎行雄、大熊忠義、高田繁などがここ「東淀川区国次町」で高校生活を送っていたのだ。

 彼らは野球の練習はどこでやっていたのだろうか。おそらく今と違って校外に専用グラウンドなど持っていないだろうから、この地で野球の練習をしていたと思われる。

 フリーバッティングで張本の打った球は、フェンスを越えて周辺の民家の瓦を直撃したのではないか。

 50歳代後半の自分も名前しかしらない、今や伝説となっている「怪童・尾崎」が、ビュンビュン160km台のスピードで投球練習をしていたかと思うと、なんかわくわくする。

 ちょうど90年前にここ「東淀川区国次町」に移転した「浪商」は、「団塊の世代」が高校生となる生徒急増期に手狭な「東淀川区」から「茨木市」に1963(昭和38)年に移転するまで、37年間もこの地に存在していた。

 現在、「浪商」の校地の一角であったところに、「淡路3公園」「社会福祉法人ノーマライゼーション協会」があり、若者がサッカーを楽しんでいた。甲子園の常連校でスポーツ強豪校であった「浪商」の遺産は、もうこの地には何も残っていない。

(追伸)おそらく誰も覚えていないと思うが、間違ったことを教えて申し訳なかった。「柴島浄水場グラウンド」は元「浪商」の敷地ではなかったです。

2016/2/21

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(1)2月20日(土)21日(日)はともに生徒の登校は禁止。正門から校内には入ることはできません。忘れ物がある場合は、2月22日月曜日に取りにきてください。



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