2016/2/24

続・浪商  学校紹介

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 先日ブログで紹介した「浪商」について、さらに調査を進めようと東淀川図書館で記念誌的なものを探したが発見できず。途方に暮れていたところ、なんと本校職員室の自分が座っているところから10mもしない本棚に『創立90周年記念誌 学校法人浪商学園』(平成23=2011年)なるものを発見。まさに「燈台もと暗し」である。

 記念誌に掲載されている創立から戦後にかけての記述は以下のとおり。

第1章 1921〜1940年

(創立記念日)

 学校法人浪商学園の創立記念日は、11月15日に制定されている。これは90年前の大正10(1921)年、当学園が大阪府より浪華商業実修学校として認可を受けた日で、学年が第一歩を踏み出したことを記念する日である。

 その生誕の地は、大阪市天王寺区堂ヶ芝町(当時の南区細工谷町)である。校舎は工場の建物を間借りしたもので、夜間部として発足している。当時の新聞には「夜学生募集」の広告が散見できる。

(乙種から甲種へ)

 大阪市南区(現中央区)瓦屋町への移転を経て、大正13(1924)年4月、大阪市東淀川区山口町(阪急崇禅寺駅前)において、文部省告示第253号をもって甲種商業学校規程による浪華商業学校として認可を得た。当初は、高等学校卒業を入学資格とする3年制コースであった。
 
 マッチ工場の建物を改装した仮校舎ではあったが、当時の言葉でいう乙種から甲種への格上げであり、関係者の喜びがしのばれる。

 認可以降も本校者の建築は遅れ、その後、啓発小学校跡地等での仮校舎生活を余儀なくされた。

(夢ふくらむ本校舎落成)

 大正15(1926)年5月、東淀川区国次町(現淡路本町)に待望の新校舎が竣工した。淡路時代の幕開けである。同月、尋常小学校卒業を入学資格とする5年制の併置も認可され、(中略)

 この大正15年は、野球部が大阪の代表として全国中等学校優勝大会に初出場した年でもある。これ以後、毎年のように甲子園出場を果たし、野球の名門校として全国にその名を知られるようになった。優秀な生徒も集まるようになり、志願者も年を追って増加した。(中略)

(校舎焼失と復興)

 昭和9(1934)年11月20日、原因不明の出火により国次町の校舎が全焼した。急きょ、高等商業学校の校舎(東淀川区大隅通)の一部を仮校舎として授業を再開したが、(中略)

 昭和10年8月30日に就任した野田三郎校長は、校舎の復興に着手、11年9月1日に第一期工事が完了し、校舎は国次町に復帰した。(中略)


○なんといっても驚くのが、仮校舎とはいえ、「大正13(1924)年4月、大阪市東淀川区山口町(阪急崇禅寺駅前)において・・・浪華商業学校として認可を得た」「マッチ工場の建物を改装した仮校舎ではあったが、・・・」という部分。

○現在、崇禅寺駅前でマンションの建設工事が行われているが、おそらくそのあたりに「マッチ工場の建物を改装した仮校舎」があった。記念誌には下の写真が「崇禅寺仮校舎」として紹介されている。

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○例によって「山口町」の名残を確かめるべく、崇禅寺駅前の電信柱に注目する。半信半疑で行ってみたら、ありましたで、ありました。やっぱりありました。ほんまに電信柱のプレートは面白い。感動しました。

○ここらへんに、上の写真で紹介したようなレンガ造のマッチ工場があったんだ。

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以下次号

2016/2/24

卒業式予行準備  学校紹介

 明日は39期生3年生卒業式の予行。考査期間中でもあり、1・2年生の生徒の力を借りることはできない。この時期、毎年恒例であるが、老いも若きも教職員総動員で会場の準備をした。

 卒業式の主役は3年卒業生であることは言うまでもないが、保護者の方々、そして最前線で卒業生と3年間接してきた3年担任団もメインではないが主役である。

 3年卒業生諸君は、卒業式での我が子の晴れ姿をみてしみじみと3年間の苦楽に思いをはせる保護者、担任した生徒が無事卒業するまで日々頑張ってきた担任団、そしてこの卒業式が12年間の学生生活の最後となる就職するクラスメートがいることを忘れてはいけない。

 明日は予行であるが、真摯な気持ちでのぞんでほしい。

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 いよいよ来たでー。それにしてもプロジェクターとは思えないぐらいの大きさ。

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 手前のスクリーンより、舞台一番奥の白い布に投影したらこんな感じ。まるで映画館だ。

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 柴高初お目見えの9000ルーメンのプロジェクター。まさに威力絶大である。

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 例によって木工職人A&Bが、トンテンカントンテンカンと階段を修理。

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2016/2/24

久々の晴天 のち曇天  学校紹介

 最近今一つの天気が続いたが、今日は久しぶりに冬の陽光を拝むことができた。2月13日に植えた花苗もより元気になってくれるのではないか。

 本校屋上より

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 長柄橋のアーチのはるか向こうに阿倍野ハルカスが見える。残念ながら大阪城はここからは見えないが、ハルカスがみえるのでよしとしよう。

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 午後からは曇天。明後日の卒業式は「こんもり」は無理か。「こんもり」咲き乱れるのは3月18日午後からの合格者登校日、4月8日の入学式の頃だろう。

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 卒業を控えた本校3年生が私服ゆえに正門の外で友人を待っている。彼に「なんでわざわざ学校の前で待ち合わせするんや」「駅で待ち合わせたらええんとちゃうん」と伝えた。

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 進路指導室前の梅。真っ赤な花がほころびだした。

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2016/2/24

海難1890  学校紹介

 今回の日本史A期末考査でテスト範囲に含まれる日露戦争(1904=明治37年)。

 その授業で、極寒の大国・ロシアは「不凍港を求めて南へ南へ行きたがる」、いわゆるロシアの「南下政策」について話をした。そんなロシアを脅威に感じていた日本とイギリスが1902(明治35)年に日英同盟を結んだのは有名だが、同じくロシアを嫌がっていたトルコのことはあまり知られていない。

 トルコは当時オスマン帝国といいイスラム教の国。日本と同じくロシアの南下を嫌がっており、ロシアへの対抗上、日本は1887(明治30)年に皇族の小松宮夫妻をイスタンブルに派遣して友好関係を築きたいと思っていた。そのお返しとして、またイスラム教のリーダーとして東南アジアのイスラム教徒にその偉大さをみせるために、オスマン帝国は軍艦エルトゥールル号を日本に派遣した。

 『プロムナード世界史』(浜島書店)より 赤矢印がロシアの南下政策

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 1889年7月14日、イスタンブルを出港。苦難の続く航海の途中、立ち寄ったイスラム諸国で歓迎を受けつつ、11ヶ月をかけて1890年6月7日、ようやく日本の横浜に到着。一行は6月13日に皇帝の親書を明治天皇に渡し、オスマン帝国最初の親善使節団として歓迎を受けた。

 しかし、エルトゥールル号はイスタンブル出港以来、船体の消耗や乗員の疲労、資金不足による物資不足が限界に達していた。また、多くの船員がコレラとなったため、9月15日になってようやく横浜を出港した。

 このようなことから、エルトゥールル号は今後の苦難の航海に耐えることはできないと、日本は台風の季節をやり過ごすように勧告したが、オスマン帝国はその制止を振り切って出港したという。

 9月16日21時頃、台風による強風にあおられ紀伊半島南端の大島あたりの岩礁に激突、座礁したエルトゥールル号は水蒸気爆発を起こし22時30分ごろに沈没した。これにより、司令官をはじめとする600名以上の乗員が海へ投げ出された。

 以下『海難1890』のパンフレットより。

 1890年、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が和歌山県樫野崎沖(現・串本町)で座礁・沈没。トルコ人乗組員600名以上が荒れ狂う海に投げ出される。当時としては世界最大規模の海難事故が発生した。村人たちは惜しげもなく、食糧や衣服を与え、総出で救助・手当を行った。

 そして時は流れて1985年、イラン・テヘラン。イラン・イラク戦争が激化する最中、サダム・フセイン(イラク大統領)による、イラン上空無差別攻撃が宣言される。タイムリミットが迫る中、日本からの救援隊は来ず、テヘランに閉じ込められた在留日本人たち。彼らに救いの手を差し伸べたのは、トルコだった。

 なぜトルコが助けてくれるのか? そこには、95年前のあの事故から生まれた”人を想う心”があった。

 1890年「エルトゥールル号海難事故」、1985年「テヘラン邦人救出劇」。2つの真実のドラマが、日本・トルコ友好125周年という節目の年に、両国の支援のもと遂にビッグプロジェクトの映画となって誕生!

 日本とトルコ、9000kmも離れた両国が政治、経済、宗教の違い・・・全てを超えて生み出した友情よ絆。世界に放つ”希望”の物語が今冬スクリーンに登場する。


 この事件があった1890(明治23)年は、第1回衆議院議員総選挙があり、それを受けて第1回帝国議会があった。前年には大日本帝国憲法が制定されている。日本がアジアで初めての、憲法と議会を持った国になった年だ。

 いわゆる授業のよもやま話として、「実はこの年に、『エルトゥールル号事件』というのがあったのです」「トルコもロシアの南下を恐れていました」「この事件で名もなき日本人が多くのトルコ人を救助したことが、今もなおトルコの教科書に掲載されています」「よってトルコは世界でも有数の親日国なんです」とかなんとか説明して、YouTubeで公開されている『海難1890』の予告編を見せた。

 するとどうであろう、いつもより増して興味関心の目でスクリーンに見入る生徒諸君、そして数人の生徒が「いつ上映しているのか」「いつになればレンタルできるのか」などと質問しにくるではないか。

 数は少ないがこういう生徒の熱気に応えねばと、あと数日で上映が終了する「淡路東宝」に頼んで映画のポスターをいただき、はがき大のパンフレットもたくさんいただいた。

 この映画について興味を持った生徒諸君は、現在上映中の映画館についてはスマホで調べてほしい。そして、参考文献として以下の本をあげておこう。

 国と国と友好関係は、政府首脳同士の交流だけでなく、名もなき一般ピープル同士の草の根の交流も大切であることをこの事件は教えてくれる。

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 『エルトゥールル号の遭難』小学館 寮美千子 2013  

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 『海の翼』PHP文芸文庫 秋月達郎 2014

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 『海難1890』 小学館文庫 2015

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(追伸)今年の夏休み中に上記『エルトゥールル号の遭難』を紹介しています。あわせてご覧ください。

(追伸)十数年前の30期生1年生の世界史Aの授業で、同じく「エルトゥールル号事件」の話をして、「イラン・イラク戦争」でのトルコ旅客機による日本人救出劇をテーマにしたNHK「その時歴史が動いた」を見せたことがある。最初の自分の話が長すぎて実質42分の中身のうちラスト15分ぐらい残してチャイムが鳴った時、女子生徒2人が「昼休みでもいいから続きを見たい」と訴え出て、昼休みに社会科教室で一緒に見たことを思い出した。



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