2016/2/28

動画MP4はOK 音声MP3はダメ  学校行事・生徒会

 39期生卒業式のブログ。校歌や卒業の歌「3月9日」の動画を何度も何度も編集して、ようやく2MB未満にして再度アップしました。ご覧ください。卒業式の校歌はやっぱりええなあ。

 さらに曲の最初から最後までをMP3に変換してアップを試みましたが、なんとこのブログではMP3はアップできないとのこと。残念。

 卒業式から2日経過した39期生諸君。もしかすると人生において、今の時期が一番時間的に余裕がある、要するに暇な時かもしれません。無駄に過ごすことがないように注意されたし。進学先に関係するようなことに取り組んで有意義に過ごして下さい。

 就職する人へ。もしかしたら明日入社式の人もいるかもしれんなあ。社会人になるんやからしっかり責任もって頑張らなあかんぞ。とりあえず、高校時代のような話し言葉で通用するかどうか自分で考えよ。

 もしも、頑張って頑張って頑張ったけどアカン時は、まずは進路指導室を訪ねよ。ひとりで悩むことはない。君たちの母校はいつまでもこの地にあるぞ。

 39期生諸君の健闘を祈る。

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2016/2/28

2月28日 快晴  学校紹介

 本日2月28日は快晴。春の到来を思わせる陽気。やや風はあったが、卒業式の舞台の花を玄関に出す。生徒諸君の大先輩によれば、切り花のためには太陽の光に当てないほうがいいらしい。そして水は花瓶一杯に。よって本日以降、正面玄関の軒下に置くことにした。

 枝の向こうでプレーするハンドボール部。どうしても枝にピントがあってしまう。こんな時はどうしたらいいのだろうか。

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 春のトゥルベールコンサートを控えた吹奏楽部。

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 しばらく主のいないHR教室はひっそりと静まり返っていた。

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 ハンギングバスケットはやっぱり「ハンギング」するのが一番です。ひとつ加えました。

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 背景にある正面玄関の丸窓がなんか粋な感じ。

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 モデル 38期生 吹奏楽部OG

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2016/2/28

続々・浪商  学校紹介

 2月24日のブログ「続・浪商」で紹介した記念誌に掲載されている創立から戦後にかけての記述の続きは以下のとおり。

第1章 1941〜1962年

(第二次世界大戦 戦後の光、野球部優勝へ)

 昭和16(1941)年、第二次世界大戦が始まった。軍事教練や学徒動員令がくだり、18年3月には淡路工業学校と校名変更を命じられた。20年6月7日、戦災により校舎が全焼した。20年8月15日の終戦を迎えると、9月1日より南方小学校の一部を借りて授業を再開した。後に、東淡路小学校に仮校舎を移した。

 昭和21年3月、浪華商業学校に校名が復帰した。この年の夏、野球部は全国制覇を成し遂げた。野球部は同年11月の第1回国民体育大会にも優勝し、士気が上がった。22年9月1日、国次町にバラック建て校舎を建設し復帰する。23年4月1日、学制改革により浪華商業高等学校の設立が認可された。続く25年3月14日、浪商附属幼稚園が設立認可となった。

(校舎増改築・改称・移転計画)

 昭和31(1956)年3月までに順次校舎の増改築を手がけ、3階建て鉄筋校舎、2階建て木造校舎、体育館兼用の講堂などが完成した。34年4月1日、学校法人浪商学園 浪商高等学校と改称し、普通科を増設した。これに伴い、15歳人口の増加と進学率の高まりに対する対応策が練られ、校舎移転の話がもち上がった。校地の広さ、教育環境などを考慮しながら移転先の候補地として、羽曳野・豊中など物色の後、移転先は茨木市に決定した。(以下省略)


○野球部初の全国制覇 昭和12(1937)年4月(浪商記念誌より)

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○第一校舎全景(浪商記念誌より)

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○淡路校舎玄関(浪商記念誌より)

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○上の校舎の写真は、「昭和31(1956)年3月までに順次校舎の増改築を手がけ、3階建て鉄筋校舎・・・」とあるので、戦後に建設されたもの。おそらくこの校舎で「張本」「尾崎」「大熊」「高田」らが高校生活を送っていたのだ。

○以下の写真は、現在この地に残っている校舎の写真。浪商の記念誌には「3階建て」とあったが、これは「4階建て」である。そして窓の構造の違いなどから、明らかに現在残っている「4階建て」は浪商時代の「3階建て」とは異なる建物。

○よって地元の古老による「これは浪商の頃からあった」という証言は間違いであった。おそらく浪商が茨木市に移転後、しばらく「京阪神急行電鉄KK(=阪急)運輸部教習所」として使用され、「西淡路小学校」となった時に新しく建設されたのではないか。この辺りは、西淡路小学校の歴史をたどる必要がある。

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 相変わらず電信柱は歴史の証言者としての役割を果たしてくれている。正門前の電信柱だけでなく、そこかしこの電信柱に「国次」のプレートがあった。

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 1階の廊下の構造がいかにも大阪市の小学校らしくていい。現在は使用されていない模様。「大阪市フィルムコミッション」なるものがあれば、昭和を舞台とした映画のロケ地として売り出し、日頃は京都市のように文化活動のスペースとしてレンタルしたらいいと思うがどうだろうか。

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○「張本が下宿していたところを知っている」「びゅんびゅんいわしながら素振りしていた」という目撃者の話を聞いた人がいたり、今回の調査で「淡路時代」の浪商の様子をうかがい知ることができた。



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