2016/9/25

FILE2 深淵に見つめ返される恐怖  先輩 K先生の映画学ガイド


担当者 国語科 小柳優斗

 
 前回の映画学ガイド、いかがでしたか? 映画や映像が、「錯視」を前提としているというところから映画創生と映画そのものの魅力について語りました。今回も「視る」ということにこだわって、話を進めていきますが、趣向は大いに違います。大切なのは「視る――視られる」という関係です。映画が、いかにそれを巧みに物語の中に活用してきたか、その絶妙な手腕のほどをいくつか紹介して、私たちが映画に対して抱く「スリル」や「恐怖」の謎に、肉薄してみたいと思います。
 それではどうぞ、お楽しみください。


ガイド3「深淵に見つめ返される恐怖――支配関係の逆転」

 2016年現在で007シリーズの最新作といえば、2015年に公開された『スペクター』。個人的にはその前の作品である『スカイフォール』が超良くて(オールタイムベストにも入れているくらい)、それに比べると『スペクター』は期待を100%満足させてくれる映画とは評し難かった。が、グッとくるところはいくつもあって、その中でも特に忘れがたい1シーンがある。それを取り上げて、今回の導入としたい。


 物語中盤。007ジェームズ・ボンドは、敵のアジトに潜入する。そこは大聖堂のごとき広間で、中央に大きく長い机が置いてあり、十数名の幹部が向かいあうようにして椅子に腰かけ、悪事の計画を練っている。二階の廊下には部下と思われる者たちが物言わずずらりと並んで、下で行われる会議の様子を見守っている。ボンドは部下たちの中に潜り込んで、成り行きを見定めることにする。

 ――と、下に集う者たちの中で、首領らしき男が口を開く。男の顔は影に覆われていて、声だけで辛うじて性別がわかるようになっている。むろん表情はうかがえない。何気ない口調で男は言葉を紡ぐが、それは2階に潜入しているジェームズ・ボンドに向けられたものであった。そして男はゆっくりと首を持ち上げ、こちらを――ボンドを見上げるのである。
 
 ボンドは戦慄する。誰にも気付かれず潜入したはずが、男にはっきりと視られていた。彼は大急ぎでその場を逃げ去る。その後息つく間もないカーチェイスが展開され、それはそれで楽しめるのだが、個人的にはこの会議のシーンが、『スペクター』全シーン上で、最も強く印象に残ることになった。


 同じようなシーン、そして同じような心の動揺を、以前にも味わったことがあった。2001年の『ジュラシック・パークV』。恐竜たちの新天地、人間にとっては悪夢の楽園イスラ・ソルナ島では、必死の逃走劇が展開されている。物語も中盤をやや過ぎた頃の見せ場として設定されているのが、翼竜プテラノドンからの逃走――「鳥カゴ」のシーンである。プテラノドンは前作『ロストワールド ジュラシック・パークU』の最後にも登場して、そのクオリティの高さから恐竜ファンを唸らせたキャラクターだが、本作では『恐竜100万年』にも見られたような、獲物を掴んで飛び去る悪役として位置づけられている。『V』ではこのプテラノドンに、エリック少年が連れ去られ、それを勇敢な若者ビリーがパラシュートで救出する。主人公アラン・グラントやエリック少年の両親は、地上(鳥カゴの中)から、二人を追いかけている。

 ビリーはエリック少年の救出に成功するが、今度は自分がプテラノドンに狙われる。パラシュートが崖に引っかかり、何とか川に着水したものの、濁流に足を取られて流される。上空からはプテラノドンの嘴に啄まれ、川の水は赤く染まる。グラント博士たちは川岸までは行けたものの、そこから先に行くことができず見ているばかり。

 カメラは川の流れに乗るように右へと移動していくが、途中から川岸手前に妙なものが映り込む。すらりと長い、何かの影――カメラは川の奥にピントを合わせているのでややぼけているが、その妙な影が中央に移動したところでこっちにピントが合って、それが別のプテラノドンであることを知らせる。観客含め人間サイドがハッとすると同時に、プテラノドンがゆっくりと首を回して、爬虫類の無機質な目で、じっとこちらを睨みつける

 視られていた……戦慄が背中を走り抜ける。

 『ジュラシック・パークV』は90分という時間のほとんどを、恐竜からの逃走に費やしている。スピノサウルス、ヴェロキラプトル、プテラノドン……そのほかさまざまな恐竜との遭遇、そしてそこからの脱出を描く。これでもか、これでもかと見せ場を用意するサービス精神は、まるで遊園地のライドのごとく爽快なものだが、恐怖演出となると心底怖くなるようなシーンは少ない(グロいとか、でっかい音で驚かせるとか、そうしたものでは心底の恐怖は得られない)。そんな中でこのプテラノドンの「睨み」は、恐怖演出としては随一のものであった。特に派手なわけではない。大きな音がするわけではない。カメラスピードはむしろ緩慢なくらいだ。にもかかわらず、あの時背中をつたった冷たい汗の感触は、なかなかに忘れることができないものであった。


 

 この「視られていた」とわかった瞬間に覚える恐怖やスリルというのをひも解いてみると、中々に白いことが分かってきそうだ。それは次元を超え、スクリーンを超え、映画を「視て」いる観客に直接訴えかけてくるスリルであり、恐怖である。安心してシートに座り、ポップコーン片手に映画を楽しんでいる我々の心を刹那、不安におとしめるテクニックである。絶対的安全圏にいる――そんな確信を揺るがすことのできる、素晴らしき効果である。


 実はここには「心霊写真」に我々が感じる恐怖と近いものがある。映画だけでピンとこない場合は、こんな感じのものを想定してみたらどうだろうか。

 海辺ではしゃぐ友だちを映した、何気ない旅の写真。ところがよくよく眺めてみると、水面に見たこともない女の顔が写っている。血の気の失せた、青白い顔。感情のうかがえない目で女は、こっちを見つめている……。

 この時なにゆえに恐怖を感じるのか。女――幽霊の顔が怖いから。いるはずのないところに映っているから。むろん、そうした恐怖もあるだろう。ならば問いを変えて、この心霊写真に対して、一番恐怖を感じなければならない立場にあるのは誰か。撮影した自分か幽霊と一緒に映ってしまった友だちか……。

 これは心霊写真の種類にもよる。被写体の体の一部が消えているなどすると、それは霊傷などと言って、近日中にそこを害する予兆なのだという話もある。が、今回の想定例に限って言えば、恐怖しなければならないのは、カメラを構えていた撮影者である。なぜか。視られているからだ。

 写真を撮影するという行為において、空間支配というやや仰々しい観点から考えてみたい。写真撮影の場合は、空間の支配権は撮影者にある。アイドルの写真集などでも同じだ。撮影者の指示に従ってポーズや表情を変えたり、立ち位置を変えたりする。撮影というのはそうしたもので、どんなものを撮ったって、撮影者の意識なり意図なりがどこかしらに顕れてくる。そもそも「この風景を撮ろう」という選択こそ、「撮影者の意図」そのものではないか。写真撮影において、そこに映されるものの支配権は、ある程度撮影者にある。風の向きや日光、波の具合など自然物に干渉することは不可能だから「ある程度」としておいたが、少なくとも「被写体」である友だちに対する支配権だけは備えている。

 ところがここに――まったく干渉されない異物が紛れ込んで、しかもこちらをじっと視ている。カメラを通して、こっちが視ていると思っていたはずの世界だったが、実は視られていた。ここで空間の支配関係ががらりと逆転する。だから怖いのである。これは人類が生まれながらにして持っている、異的な存在への恐怖、嫌悪と同じ類のものである。自分が支配していたはずだった場所の中に、自分の力ではどうにもならない存在がいる。そいつは確かに自分を見つめている。自分を害する気持ちなのかも分からなければ、仮にそうだとした場合に、どうすれば良いのかも分からない。

この、「日常性から乖離した異物」に対して持つ「わからない」という感情ほど、恐ろしいものはない。人間が抱く恐怖の根源は、ほとんどこれである。

 冒頭で紹介した映画の1シーンは、こうした、人間が根源的に持っている恐怖を引き出してくる。スクリーンを前に、シートに座り、映画を楽しむ我々観客は、自分が絶対の安全圏にいると思っている。目の前でどんな恐ろしいことになっても、それが自分にまで及ぶことはないと思っている。それは真実、その通りである。映画というのは、日常では経験できない(というかしたくない)ものを、見せてくれるものだ。だから観客は、映画を視るということにおいて、支配権は自分にあると思っている。映画に限らず、本でも同じことだ。嫌だったら、本を閉じてしまえば良い。嫌だったら、視るのを止めてしまえばよい。「視る」ということは、自分の意思ひとつで自由にできるものだと思っている。


 そこに、前述したようなシーンが効果的に入ってくると、「視る――視られる」の関係が逆転して、観客はどきりとする。もちろん、物語上の演出としては、首領に視られたのは007であり、プテラノドンに視られたのはグラント博士だ。しかし演出としては、首領もプテラノドンも、こちらを――観客を視た。スクリーンを超え、次元を超え、まるで我々の存在に気付いているかのように……。視られている……そこに恐怖を覚える。これは映画が、一度にさまざまな視点を扱えるからこそ成立する効果である。一つの作品の中で、映画は実に多くの視点を持っている。その視点を巧みにコントロールすることで、感情移入とはまた違った形で、劇中のキャラクターが感じている恐怖やスリルを、我々観客にも追体験させることが可能となる。


 怪物と戦う者は、その過程で自らも怪物とならぬよう心掛けよ。
 深淵を覗き込むとき、深淵もまた、お前を見つめているのだ

 ニーチェが『善悪の彼岸』に記したこの警句は、これまで様々な物語で扱われている。映画のテクニックとして、これを巧みに扱ったものは多い。我々は、映画をただ一方的に視ているわけではない。スクリーンの奥に広がるその世界もまた、我々を視て、訴えかけてくる。様々な手を使って、観客を中に引き込もうとしてくる。観客にとって、それは目の前で展開され、過ぎ去ってゆく虚構の――作り物の世界ではない。たとえ体は安全圏に置いて行っても、心は現実を離れ、スクリーンの中にある。

 視ているのは我々だけではない。映画は常に、我々を見返してくる。





 ちなみに、カメラが映し出す視点――ということを考えた時に特におススメしたいのが『ブラック・スワン』という作品。バレエの主役に選ばれた少女が、そのプレッシャーから次第に狂気に走ってゆく過程を描いているが、これがまた面白い。CG全盛期の現在、我々観客も目が肥えて、ちょっとやそっとの視覚効果では驚けなくなってしまった。『ブラック・スワン』はそれを逆手に取り、観客を惑わす。カメラは少女の視点から多くのものを映しだすが、それが現実か、それとも狂気の妄想なのか、まったく判断がつかない。すべては現実に起こったことなのかもしれず、また一方で、すべては少女の病んだ精神が見せた一切の幻だったのかもしれない。前回のガイドでも触れたように、人間はすべて心でものを見ている。『ブラック・スワン』が描き出すのは、一人の人間の、次第に狂気へと走る心の在り様である。何をどうしたって、絶対に覗き見することのできない世界である。我々はそれを見つめる。そして映画のほう――ありとあらゆる手を使って、我々のことを、見つめ返してくる。


2016/9/25

聖地巡礼  学校紹介

 最近ネット各所で「聖地巡礼」という言葉を見かけることがある。

 「聖地巡礼」というと、自分などは「イスラム教徒による聖地メッカへの巡礼」を思い浮かべるのだが、最近の若者の解釈では「アニメや漫画などの物語の舞台やモデルとなった場所、ゆかりのある場所を訪問すること」を意味するようだ。

 現在、大ヒット中の『君の名は。』であるが、さっそくファンの間で「聖地巡礼」が始まっており、映画の象徴的な場面のモデルとなった東京都新宿区の階段では記念撮影しているファンの姿が見られるという。

 ならば学校の近辺に「聖地」はないかと探したら、なんとなんと『君の名は。』の監督・新海誠氏が関係するアニメの「聖地」が淀川区にあることが判明した。アンビリーバブル!!

 新海氏が2000(平成12)年につくった自主制作アニメ『彼女と彼女の猫』(モノクロ)を原作とした1話約8分で全4話の同名テレビアニメで、今年の3月に放映された。

 「聖地」の舞台は、JR塚本駅周辺やその近くの淀川右岸河川敷で、すでにネットでは「聖地」に関連するホームページがアップされている。このアニメも『君の名は。』に負けないような美しい風景が随所に描かれており、鉄橋近くの河川敷にたつ「彼女」と「猫」、そして対岸にみえる梅田の風景と積乱雲のシーンなどは息をのむような美しさだ。

 東淀川区にはないんかなと思っていたら、自分が大学生の頃に貪り読んだ『バイトくん』をふと思い出した。4コマ漫画の巨匠「いしいひさいち」の名作で、彼が関西大学に在学中だった1972(昭和47)年に関西のアルバイト情報誌に連載された漫画だ。

 「東淀川大学」(関西大学がモデル)に在籍する3人の貧乏な下宿学生が、バイトやマージャンに明け暮れる滑稽かつ自堕落な学生生活を描いており、たしか1979(昭和54)年の大学2年生の時に単行本2冊を購入して爆笑しながら読んだ覚えがある。

 3人は東淀川区下新庄の老朽アパート「仲野荘」に下宿しており、ネットで調べてみるとモデルとなったアパートは2011年の時点で現存しているが、高架工事でおそらく取り壊されたのではないか。一番印象に残っているのが、3人が「腹へった時の阪急千里線は厳しいなあ」とかなんとか言って、「下新庄駅」では「ひもじいよう」、「吹田駅」では「すいた、すいた、腹がすいた」、「豊津駅」では「とよつ、とよつ、とよつのあられ」とホームの構内放送が聞こえてしまうという4コマ漫画だ。

 その後、「いしいひさいち」は『がんばれ!!タrブチくん!!』が大ヒットして有名になり、朝日新聞で『となりのやまだ君』が連載されたりしたが、今もなおほとんどマスコミには登場していない。

 「アニメツーリズム」というホームページもあるぐらいだから、一度観光学の授業で「聖地巡礼」フィールドワークをやっても面白いかもしれない。やるとしたら、まず生徒に『彼女と彼女の猫』と『バイトくん』のどっちがええかアンケートを取ろうかな。

[アニメツーリズム]

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2016/9/25

生徒にみてほしい映画(13) その2  一般

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 例によって「(  )な時におすすめの映画」の(  )に入れる言葉であるが、この映画の場合は「教師になりたいなあと思った」にしておこう。

 破天荒なロックオタクのデューイは友人ネッドになりすまして名門小学校の代用教員として赴任。いわゆる「偽物教師」で、このあたり、いとも簡単に女性校長をだませるなんてありえないと突っ込みたくなるが、「まあ映画やからしゃあない」とスルー。

 最初はまったくの「やる気なしデューイ」であったが、生徒たちの楽器のテクニックのすごさに驚愕、「この生徒たちとバンドを組んで、もう一度ロックの世界に戻りたい」と思うようになる。そして、すべての授業を放棄して彼のクラスは「バンド」練習に終始する。「隣の教室にまる聞こえやないか」の突っ込みは無粋だ。

 要するに自分の夢のために「生徒を利用」した訳で、とてもほめられたものではないが、練習の過程でみせる指導者としての手腕は見習うべきところが多々ある。例えば・・・

(1)外見は風采のあがらない中年おやじだが一旦ロック的なスイッチが入ると、卓越したギターテクニックとオーバーすぎるジェスチャーで生徒たちを魅了する。

○教師になりたての頃、「社会科教師は俳優みたいな要素も必要や」と先輩に言われたことがある。「行ったこともないエジプトやけど、生徒に『そこにピラミッドがあるやん』と思わせなアカン」と言うわけだ。「なるほど」と思った自分は、それ以降、テレビを見てもラジオを聞いてもすべてが手本と思えるようになり、その成果を授業で披露したりしたこともある。

○とある期の卒業生が「先生の日本史の授業で一番覚えているのが、享保の飢饉(江戸時代/1732年)のときに、イナゴが大量発生して西日本の稲を食い荒らしたやつです」「先生の説明と身振りで、なんか向こうからイナゴの大群が来るのがほんまに見えました」と言ってくれた。他はほとんど覚えていないようだったが、なぜか「イナゴ」は強烈な印象として残っているという。喜んでいいのかどうかわからないが、やっぱり嬉しかった。

○映画ではその「俳優みたいな要素」を極端に描いているが、デューイの暑苦しいまでのジェスチャーの10分の1でも十分だから、これから教師を目指す人は参考にしてほしいものだ。

(2)常にポジティブ。生徒を怒ったときもフォローを忘れない。

○人間は年齢に関係なく、ほめられもせず非難されくさされ続けたらネガティブ思考になるものである。デューイが赴任した私立小学校は厳格な教育で知られており、行儀や成績はいいが、覇気と笑顔のない生徒集団だった。それとは対極をなすキャラクターのデューイは、生徒を怒ったときも最後に「ロックしようぜ」と必ずポジティブな言葉を投げかける。これは素晴らしい。

○身体にコンプレックスをかかえるアジア系男子や黒人女子が「やめたい」と言い出した時に、彼らを励ます言葉もいい。映画の見所のひとつなので紹介するのは控えるが、彼自身も身体にコンプレックスを持っているがゆえに生徒の素晴らしいところをうまく引き出すのが上手いのかもしれない。

○このあたり、自分の教師生活を振り返って猛省する次第であるが、これから教師を目指す人には是非とも見習ってほしいところだ。

(3)クラスの全員に得意分野での活躍の場所を与えている。

○演奏に卓越した技術を持っている生徒をデューイが指名して、リードギター、ベース、ドラム、キーボードを担当する生徒が決定する。次にコーラスをやりたい生徒が手を上げてその場で歌わせたとき、『トゥモロー』(アニー)、『アメイジンググレイス』、『メモリー』(キャッツ)を3人の女子生徒が歌う。『トゥモロー』と『アメイジンググレイス』に対するデューイの反応が笑ってしまうが、共に抜群の歌唱力で合格。しかし『メモリー』はかなり音痴で即刻不合格となるが、学級委員長の彼女にはバンドの「マネージャー」に指名する。

○残されたメンバーに「あとは見とけ」みたないことを言うと、おとなしそうな黒人男子が「のけ者にされた」的な反応をポツリと言う。言われるまで気づかない教師もどうかと思うが、それに対してデューイは、バンドを裏で支える「警備」「衣装」「照明」「背景デザイン」などの役を次々に振り分けて、生徒の活躍の場所を提供。バンドの演奏が終わった後、裏方の生徒に対する慰労の言葉も忘れない。

○一見、破天荒で無神経に見えるデューイだが、意識していたかどうかはともかく、生徒に対する細やかな指導は見習うべきものがある。そのデューイも自分の得意とする分野だから、ここまで生徒を指導することができたのかもしれない。もしも「すまんけどサッカー部の顧問になってくれへんか」と言われたら、完全にやる気をなくして生徒を導くなんてとてもできなかっただろう。

(4)自分の趣味や得意分野を生徒に還元している。

○デューイは最初から「還元」しようという気はさらさらなく、生徒を「利用」する利己的なものだったが、結果的に生徒に「還元」したことになった。

○「ロックの魂」をデューイに叩き込まれた生徒たちは、いつの間にか学校のいいなりではなく自分の意見を主張するようになる。映画のラストでは、弱気になったデューイを逆に生徒たちが奮い立たせ、大観衆の前で「スクール・オブ・ロック」というバンド名で堂々とした演奏を披露、保護者を感激させるシーンがあるが、小学校の普通の授業だけではここまでの成長はなかっただろう。

○せっかくの趣味や得意分野を自己の楽しみとして残しておくのはもったいない。教科担当者、クラブ顧問、担任、分掌の一員、学校の一員など、どんな立場からでもいいから、学校や生徒に還元してくれたらと思う。



 デューイが生徒に伝えたかった「ロックの魂」を一言で説明するなら「抑圧からの解放」かな。
 
 人間は日常生活の中で、何らかの「抑圧」を受けて生活している。個人によってその「抑圧」の大小の差はあるが、完全に「解放」されている人間なんて誰もいない。

 常に「解放」されたいと思っているデューイの生き方は、生徒諸君にはお勧めできないが、人間は時々の「解放」は絶対に必要であり、それで気分を新たにして再び「抑圧」の日常に戻ればいいのだ。



 最後に。この映画のエンディングは他の映画ではめったに見られない個性的な方法で、即興で演奏したのかどうか分からないが、一見の価値あり。

 日本の小学校でデューイと同じ方法をやれば、他のクラス担任からの猛反対(当然自分も「静かに勉強でけへんやろ」と激怒)と保護者からのクレームの嵐で上手くいくことは絶対にないが、「そら映画やから」とか「現実は違うよ」の一言で片づけるには惜しい映画だ。

 教師以外の職業についたとしても、生徒諸君はいつか後輩や部下を指導する時が必ず来る。要するに教師を目指している人だけでなく、みんなに見てほしい映画でもあるのだ。

2016/9/24

9月24日土曜日の風景  クラブ

 部室前のイチョウの葉っぱが端っこから色づき始めた。部室を利用している部員たちはその変化に気付いているだろうか。

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 その近くで和太鼓部がエアー太鼓の練習をしていた。

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 そんな秋の気配がただよう校内で、ケイオン女子が自転車のカギを溝に落としてしまった。みんなで寄ってたかって探している光景がほほえましい。

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 トイレの片隅にあったビニール手袋が到着して作業効率もアップ。この写真を「友情」と名付けてコンクールに出展しようか。

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 ついにカギが発見された。どこからともなく拍手が湧き上がり、忘れ主のもとにカギが返され「無事帰宅することができる」と、彼女の頬に一筋の涙が伝った(と思う)。

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2016/9/24

阪急京都線高架工事  学校紹介

 阪急崇禅寺駅の本校グラウンド側の出入口の近くに、下のようなイケてるイラストがあるのを生徒諸君は見たことがありますか?

 おそらく実際のデジタル写真に高架工事完成後の想像図を合成したもので、非常にリアリティのあるイラストとなっている。今日初めて見たのでさっそくブログで紹介しよう。

 昨年度に7年間の工事延長が決定されたので、おそらく高架や新駅の完成はあと6年ぐらいかかると思われる。残念。

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 高架の下はイラストでは空き地となっているが、現在の駅前の違法駐輪をなんとかしてほしいので、ぜひとも自転車置き場を設置すべきである。

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 崇禅寺駅を出た電車が南方駅へ向かうが、今の踏切のあるあたりで徐々に勾配をさげて、現在走っている線路と合体して、南方駅手前のJR京都線の高架をくぐるはずだ。

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 さすがにこのJRの高架をまたぐ計画は無理だった。この写真の辺りで高架から地面におりて今の線路と合流するのだろう。

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(おまけ)見ないうちにえらい咲いているではありませんか。しかし、太陽光を遮るにはあまりにしょぼすぎる。反省。

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2016/9/24

生徒にみてほしい映画(13) その1   一般

 ケイオンの顧問として学校外のライブの付き添いに行ったとき、当然ながら他校の演奏も含めてそのパフォーマンスをすべてではないが見ざるを得ない。たいていは自分の知らない曲ばかりでボーっと見ているのだが、教師の悪い癖だろう、「このシャウトしている生徒は学校ではどんな生徒なんだろう」「後ろで一緒にリズムとってキーボード弾いてる生徒は・・・」などとふと想像したりする。

 会場の大小はあるが、少なくとも日頃教室にいる人数よりはるかに多い観衆を前にして歌ったり演奏したりするのは緊張はするだろうが、同世代でこういう経験をしている生徒はそうはいない。

 楽器というものにまったく縁のない人生を送ってきた自分としては、演奏や歌を通して「自分」を発揮し、「自分」をさらけ出している、時には見るもの聞くものを感動させることもあるケイオンの生徒たちをみて、「演奏が終わった後は気持ちええやろなあ」とジェラシーを感じる。またその演奏を支える多数の裏方がいるからこそライブができるということも、ケイオンの付き添いで初めて知った。

 今回紹介する「生徒にみてほしい映画」は、『スクール・オブ・ロック』(2003/アメリカ)。以下そのあらすじ。[all cinema ]より。

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 ロックの心を全身で体現するギタリスト、デューイ・フィン。しかし、そのあまりの破天荒ぶりがアダとなり、ついにバンドをクビになってしまう。一方私生活でも、家賃の滞納が原因で居候していた親友ネッドのアパートを追い出されようとしていた。

 そんな時、ネッドのもとに名門私立小学校から代用教員の話が舞い込む。たまたま電話に出たデューイはお金欲しさから自分がネッドになりすまし、臨時教師の職に就いてしまうのだった。ところが、いざ小学校へ行ってみると、そこは厳しい管理教育がなされ、従順な生徒たちにはまるで覇気も個性も感じられなかった。

 まともに授業をする気もないデューイにとってそれはどうでもいいことだったが、そんな生徒たちが音楽の才能にあふれていると知ったとき、彼の頭にはあるよこしまなアイデアが浮かぶのだった。


 とりあえずいつものように感じたことを羅列してみよう。

○舞台はアメリカの某都市。かなり伝統的な校舎の名門私立小学校が登場するので、おそらくボストンあたりの東海岸かな。

○この映画には「デューイ」が担当するクラスの小学生が15名ぐらい登場する。「多民族国家」らしく、白人、黒人、アジア系などの生徒が在籍。同じ白人でも、金髪ブルーアイの「WASP(ワスプ)」もいれば、黒髪の学級委員長(アイルランド系?)、「マルコ」という名前のイタリア系らしき生徒もいる。エレキギターの名手「ザック」はおそらく「ユダヤ系」。アジア系(日本?中国?韓国?)の生徒の名前は「ローレンス」といいキーボードの名手だ。

 この映画に登場する生徒たちは約1万人のオーディションで選ばれ、当然それぞれ楽器や歌の上手な子供たちだ。その配役の名前を決める際、おそらくアメリカではかなり気をつかわねばならない。金髪ブルーアイの「WASP」の子役が演じる役に、まさか中国系の「マイケル・チャン」とかアラブ系の「アリ」などの名前をつけることはできないからだ。

 イスラム教徒の役に、ユダヤ系の俳優をあてるのも相当困難をともなうだろう。

 残念ながらアジア系のキーボードの名手「ローレンス」の名字(ファミリーネーム)は何かは映画では出てこない。

 10年ごとに実施されるアメリカの国勢調査(2010年)によれば、在米アジア人は1467万人、在米日本人は76万人、在米韓国人は142万人、在米中国人は334万人。10年前と比較して、日本人は4%減少、韓国人は32%増加、中国人は37%増加ということだ。

○「WASP」とは「ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント」の頭文字で、アメリカにおける白人の支配階級、エリート層を意味する。ゲルマン民族の一派「アングロサクソン」、つまり「イングランド」からアメリカ大陸に移民してアメリカ建国に携わった人々の子孫という意味だが、同じゲルマン民族の「ドイツ系」や「オランダ系」、北欧をルーツとする人々も含む。当然時代の経過とともに他民族との「混血」もあるから、今のアメリカには「純血WASP」はほとんどいないだろう。

 初代ワシントンをはじめ、アメリカの歴代大統領は「WASP」が独占していたが、その慣例を初めて破ったのが1961(昭和36)年に就任した第35代の「JFK」=「ジョン・F・ケネディ」。ルーツはアイルランドで同じキリスト教でもカトリックであったが、1963(昭和38)年にダラスで暗殺された。彼の長女が、現在アメリカの駐日大使であるキャロライン・ケネディ。

 アメリカの映画やテレビでは支配階級である「WASP」を風刺したりおちょくったりするのがあるが、その代表的なのがNHKで放映されて日本でも大ヒットした『刑事コロンボ』だ。

 犯人はたいていセレブで勝ち組の「WASP」。その犯人を、よれよれコートを着て風采の上がらない刑事コロンボ(イタリア系)がこれでもかと追いつめて、最後に「あなたには黙秘権があります」と「WASP」が連行される話の筋が、セレブでないアメリカ中間層の共感を呼んだとされる。

 アメリカの若者像をリアルに描いた『ビバリーヒルズ高校白書』『同青春白書』にもそんな描写があるが、今の高校生は「ビバヒル」といっても知らんやろなあ。

 HKT48が歌う『アインシュタインよりディアナ・アグロン』の「ディアナ・アグロン」が登場する『glee/グリー』は生徒諸君も知っているかもしれないので、アメリカ「多民族社会」という観点も含めてみるとより面白くなるかもしれない。

○この名門小学校の校長は女性で「WASP」。権威主義的な堅物として描かれているが、本来は「ロックの歌姫」と呼ばれた「スティーヴィー・ニックス」が大好きで、最後はデューイや生徒たちのロックバンド「スクール・オブ・ロック」の演奏をみて「解放」される。

 「スティーヴィー・ニックス」は、1967(昭和42)年にイギリスで結成されたロック・バンド「フリートウッド・マック」の女性ボーカル。「ロック」にあまり興味のなかった自分は、「フリートウッド・マック」というバンド名は聞いたことはあるが曲は知らない、ましてや女性ボーカルの名前など知らなかった。

 今から20年以上昔に「"Stevie" Nicks」の歌う「Silent Night」を聞いたことがある。以来、いろいろな歌手がカバーしている「Silent Nigh」=「きよしこの夜」の中でこれが一番のお気に入りとなった。なんか他とまったく違うアレンジと彼女のだみ声がカッコいいのだ。ぜひ一度聞いてほしい。この映画を見て「ひょっとしたら」と調べて、はじめて「"Stevie" Nicks」が「スティーヴィー・ニックス」であることが判明して嬉しい。

 その歌は、エチオピアの飢餓救済のためにイギリスとアイルランドのアーティストが1984(昭和59)年に結成した「バンド・エイド」チャリティー・プロジェクトで発売された2枚目のCDにある。

 これに影響を受けて、アメリカではUSAフォー・アフリカが結成され、生徒諸君の保護者が小学生や中学生の頃に大ヒットした『ウィ・アー・ザ・ワールド(We Are The World)』につながっていく。

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 映画の中には「レッド・ツェッペリン」や「ディープ・パープル」など世界的に有名なバンド名や曲も登場するので、ロック好きの生徒やその保護者にはたまらない内容かもしれない。

○映画の本筋からそれるのはここまで。次回は映画の本筋に迫る予定。

以下次号

2016/9/23

体育館 電球交換 その2  クラブ

さてさて切れた電球はというと…

その交換作業は、業者ではなくなんと先生たちが行います。

あんな高いところの電球をいったいどうやって交換するのだろうと疑問を抱く人もいるでしょう。

あるスイッチをポチッと押すと、写真のように天井の照明が人の手の届く高さまでワイヤーで降りてくるのです。

そしてドライバーでカチャカチャし、電球をキュルキュル回すとポンッと外れます。一方まだまだ元気な電球を触ると高温でアツアツです。
また、手に持つと結構大きいのです。

新しい電球を取り付けてあとは逆の手順をたどるだけ。交換後はいつもの明るい体育館に戻っていました。

毎日当たり前のように点く照明も、目に見える変化はないけれど、少しずつ少しずつ消耗しているのですね。永遠ではないのです。
そんなことも心のどこかで感じながら体育館を使わせていただきましょう。ありがたやありがたや。

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2016/9/23

体育館 電球交換 その1  クラブ

以前一度ブログにあげたことがありますが、今日は4つの電球を交換したこともあり、再び紹介します。

体育館の天井の電球にも寿命があります。
実は6年前の夏、柴島高校の体育館は耐震工事の為に1ヶ月余り使えなくなりました。
その時の体育館内クラブの苦労は言うまでもなく、近隣の小中学校や市民体育館の割り当て、他の高校にお世話になり活動することができ一夏を乗り越えたものです。
その工事のおかげで館内の壁面や、天井の照明も今のように綺麗になったのです。

そんな天井の電球のいくつかが、この夏から秋にかけて寿命を迎えています。
あの広い体育館をたった48つの電球で明るく照らしているので、1つ2つ付いていないだけでその真下は周囲より明らかに薄暗くなっています。

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2016/9/23

生徒会活動 文化祭へ向けて  学校行事・生徒会

何やらベニヤ板に色付けをしています。
さて、何を作っているのでしょうか。
完成までの様子は随時ブログにアップしていく予定です。
お披露目は文化祭当日!皆さん、お楽しみに!

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2016/9/23

FILE1 映像の発見  先輩 K先生の映画学ガイド

担当者 国語科 小柳優斗



 今回から映画に関する様々なことを紹介していきます。まずは映画創成にまで遡ることにしましょう。映画誕生のためにはもちろん「映像の発明」が必要不可欠。そして映像の発明のためには、目の前の光景を一枚の静止画に写し取る「写真技術の発明」が欠かせません。ただ、そこまでいくと話が伸びすぎて収集つかなくなるので、今回は「映像の誕生」までにとどめて話をしたいと思います。どうぞ、お楽しみください。


ガイド2「映画創成――映像の発見」

 映画の魅力ってなんだろう? 映画の持つ本質的な面白さとは――それを探るために、映画誕生にまで時空をさかのぼって考えてみよう。いかにして、あのすばらしき魔法は生まれたのか。……。

 1872年のこと。カリフォルニア州元知事であるリーランド・スタンフォードは、当時一般に議論されていたことについて、友人と賭けをした。その内容というのは、

 ギャロップする馬の脚運びで、4本すべての脚が地面から離れる瞬間はあるか ないか」

 というもの。スタンフォードは「ある」側に立ち、立証するためにイギリス生まれの写真家エドワード・マイブリッジに協力を依頼する。マイブリッジは5年と5000ドルという莫大な期間と費用を費やして(賭けとか忘れてるレベルじゃないかしら)、特殊な写真装置を制作。それによって撮影された写真が、長きにわたる論議に決着をつけることとなった。
 それがこちら。
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 マイブリッジの写真装置は、高速シャッタースピード、大口径レンズ、高感度感光材料を備えた撮影機を等間隔に12台並べ、馬のギャロップに合わせて次々にシャッターを切る仕掛けを組み込んだもの。このいわゆる連続写真は、論議に決着をつけてスタンフォードを賭けに勝利させたのみならず(2枚目見たら、あきらか浮いてますよね)、多くの人々から素晴らしき発明と喝采を浴びた。特にこの写真の動的錯覚に目をつけた人は多く、さまざまな幻灯機に、これを基にした写真や絵が使われることになる。
 やがてこの技術に触発され、より洗練されたものを発明した天才がいた。
 発明王――メロンパークの魔法使い――トーマス・エジソンである。

 この12枚の写真を続けてみると、馬が動いて見えるという点にエジソンは眼をつけた。そうして発明されたのが映写機キネトスコープである。ここに映画の萌芽がある。

 「映像」はいかにして動いているように見えるのか、ここでおさらいしておこう。要はパラパラ漫画である。上記の馬の絵を1枚ずつ切り取って12枚重ね、指ではじくようにパラパラしていくと、馬がまるで走っているように見える。−−この見えるというのが曲者なのだがそれは後で説明するとして、フィルムと呼ばれるものはどれほどハイフレームであろうと、基本的にはこの原理に基づく。1枚1枚の静止画が高速で投影されることによって、動いているように見える――それが映像である。

 エジソンのキネトスコープは素晴らしい発明であったが、今の映画とは趣を大きく異にする娯楽でもあった。まず形状の問題がある。キネトスコープは箱の中を覗き込むようにし、内部に投影される映像を楽しむ、「のぞきからくり」のようなものであった。映像をスクリーンに投影し、多くの人々が一緒になって楽しむ「映画」はシネマトグラフという複合機によって撮影されるもので、フランスのリュミエール兄弟による発明であった。このシネマトグラフが、現在まで続く「映画」の起源となる。

 斯様にして映画は誕生した。そのすべては、本当に思いがけない、一つの「賭け」から始まったのである。

 今回のガイドで注目したいところは「映像」が動的錯覚によるものだということに尽きる。映像は、普段われわれが世界を見ているのと同じように、事物の連続した動きをそのまま写し取ったものであると考えている人が多いが、実はそんなことは決してない。上記の映像の説明でも、動いているように「見える」という表現が何度も出てきたように、実は映像を細かく解剖していくと、その基本にあるのは一枚一枚は決して動くことのない静止画の寄せ集めである。それを続けて、高速で展開していくことで、我々にはそれが動いているように見える――ここが面白いところだ。
 
 マイブリッジの上の写真に戻ってみよう。1枚目と2枚目。馬の脚のポーズは明らかに違っている。ここで一つ疑問を持つ。1枚目と2枚目の間には、何があるのか。馬は1枚目のポーズの次の瞬間には、2枚目のポーズになったのだろうか。

 答えは明らかである。1枚目と2枚目の間には、撮影されなかった過程があるはずだ。マイブリッジは12台の撮影機を並べて撮影に臨んだが、これが倍の24台だったら、同じ馬の同じ動きを、同じ時間だけ撮影したとしても、もっと細かい過程を撮影することが可能だったはずである。その倍の48台だったら、それぞれの写真に現れる違いは、おそらく肉眼では確認できないほど微細なものとなるだろう。だがここで注意したいのは、カメラを増やせば増やすほど微細な動きをとらえることはできるが、それでも、次の写真に至るまでに「撮影されなかった過程」が消えるわけでは決してないということである。つまり、1枚目と2枚目は――いや、その二つだけに限らず、連続写真は、連続しているようで実はやはり、刹那の単位でみれば連続してはいないのである。
 
これは静止画の寄せ集めであるという映像の原理の立場からすると、決して逃れられない宿命のようなものだ。1秒間の動きを撮影するのにどれほど多くのフレームを費やしたとしても、細かい間隙はどうしたってできてしまう。人間の目には見えないほど細かい間隙だとしても、人間よりもっと鋭敏な視覚を持つ動物の目には、それがどう映るだろう? 我々には映像と見えるものも、「1枚ずつの写真が、一定の間隔で次々と移り変わるもの」としか映らないかもしれない。

 我々の目が、連続する静止画を「動画」「映像」と認識してしまう、それは錯視である。1枚1枚の静止画、その刹那の狭間にある「撮影されなかった過程」を脳が無意識に補うことで初めて、「映像」は「映像」として認識することが可能になる。それはセルアニメやストップ・モーションアニメーションに限ったことではなく、動いているものをそのまま撮影しているはずのライブ・アクションでも同様であり、映像であるためには人間がこのような「錯視」をもっていることが絶対の条件であった。


さて――ここで映画の魅力というところに立ち返ってみる。


 映画創生・映像の誕生――これらの点から浮かび上がってくるのは、人間の実に信用ならない視覚の特性というやつと、映画が、映像技術がその特性を逆手に取ることで完成される、実に魔幻的な娯楽であるということである。だがこの魔幻的な性質は、映画という娯楽の本質そのものとも非常に相性が良かった。物語であろうと視覚上のものであろうと聴覚上のものであろうと、「現実に起こりえぬことを、さも本当に目の前にあるかのごとく錯覚させ、楽しませる」のが映画の本質である。それは虚構と分かっていても、作り物だとわかっていても、観客の目を奪い、心を弾ませる最高の魅力に他ならない。そこに、映画の持つ力がある。

映画は錯視から始まった。そしてこれからも我々を騙し続ける。我々はそれが虚構であると知りながらも、スクリーンから目を離すことができない。映画は上映が始まったその瞬間から目を耳を、心を現実から引き剥がす。そして夢幻に――無限に――続く恐るべき空想の世界へと我々をいざなう。果てしなき可能性の探求へと、人々を駆り立てる。
 
 映画は人を惑わせ続ける。だからこそ、映画は面白い。





2016/9/23

動画4題  クラブ

○久しぶりの睡蓮鉢。キレキレの水面付近でメダカが悠然と泳いでます。

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○顧問はこれらの幼虫を全部地面に埋めようという意見だったが、部長の提案で腐葉土の入った虫かごでも育てることにした。

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○昨日ATCで開催された軽音楽チャリティーコンサート。他校の演奏中であるが、雨にも負けずに参加した学校みんなが応援しようとする姿に胸を打たれる。

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○やっとこさ我らがケイオンが登場。かなりの雨が降っているのに舞台前や3階バルコニーで応援している。オリジナル曲ということだが、誰が作詞作曲したんや。なかなかイケてるやないか。このパワーを結集して、たまにはケイオン全員が参加するパフォーマンスを見てみたい。

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2016/9/23

9月23日金曜日の風景  学校紹介

 今日は本来は登校日ではなかったが、台風の休校の代替日として2年生全クラスと1年生3クラスが登校、文化祭準備や教科書販売、科目選択入力などを行った。

 江戸時代チックなフィッシングスタイル。ようこんな竹かごを見つけてきたなと感心する。このクラスの映画か演劇の題名が気になる。

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 このクラスはダンスをするんかな。

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 食堂にて教科書販売。その後、廊下を校舎に向かって前進する毛虫に見入る生徒たち。校舎に入らせないようにしたいが、どうしたらええか思案中。

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 その後、この毛虫がどうなったか知りたい人は彼女らに聞くこと。

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 校内各所でこのような文化祭準備の光景あり。「たかが小道具」ではなく、同じやるんやったら徹底的に何かにこだわってほしいなあ。

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 今日登校でない某クラスは、正門前で待ち合わせて映画撮影の準備。

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 ここ数日の雨で水をたっぷり含んだ柴島の花たち。明日以降の晴天でおそらくより元気になって咲き乱れるはず。10月22日(土)の文化祭では、満開の花たちが多くの人々を出迎えるはずだ。

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2016/9/23

重要連絡過去ログ  学校行事・生徒会

保護者の皆さまへ

(1)9月20日(火)21日(水)の2日間にわたって予定されている芸術鑑賞会「エリザベート」に関して。残念ながら保護者の方は鑑賞できません。付き添いの教職員も20余名に限られ、担任のどちらかは鑑賞できません。会場の催し全部を購入しているわけではなく、他の観客と同時に鑑賞するシステムです。よろしくお願いします。

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2016/9/23

緊急連絡 過去ログ 暴風警報発令に伴う9月20・21日の動きについて  学校行事・生徒会

[気象庁 気象警報・注意報 大阪府]

【2016/09/20 12:15 以下を更新】

 9月20日(火)21日(水)に芸術鑑賞が予定されていますが、現在、暴風警報が出ております。以下のように応対して下さい。

9月20日(火)

 登校クラス 2年生 1−1 1−2 1−4

     ※9:00 現在、暴風警報が発令されているので、本日は休校となります。

     → 明日21日(水)は予定通りに芸術鑑賞会です。
     
     →→ 本日予定されていた内容を、23日(金)に行いますので、
        9:30までに登校してください。



 芸術鑑賞クラス 3年生 1−3 1−5 1−6 1−7

   ※12:00 現在、暴風警報が発令中ですので、本日の芸術鑑賞会は中止となります。

    → 明日21日(水)は予定通りの登校です(9:30教室点呼)

     なお、以下の点を注意して下さい。
       @ 本日のチケットを持って劇場に行っても、入場できません。
       A 明日の登校日にチケットを回収しますので、忘れず持って来てください。



9月21日(水)

 登校クラス 3年生 1−3 1−5 1−6 1−7
 芸術鑑賞クラス 2年生 1−1 1−2 1−4  

   ※それぞれ、当初の連絡通りの予定です。


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また、台風での休校に伴う明日以降の変更点について、以下のPDFファイルに
まとめていますので、
ご参照ください。

 9/20の休校に伴う措置について.pdf

 芸術鑑賞に関して緊急連絡がある場合は、今後もブログに掲載しますのでご注意ください。 

2016/9/23

ケイオンの歌声が南港にこだまする!!  クラブ

 昨日大阪南港のATC(アジア太平洋ドレードセンター)の海辺のステージにて、「東日本復興支援チャリティーコンサート」が行われた。もちろん我らがケイオンも参加して、堂々の演奏を披露した。

 最後に主催者の先生もコメントされていたが、あいにくの雨天でときおり強い雨が降る中、「自分たちのコンサートをいいものにしたい」という生徒たちの熱意が伝わってきて、見ているこちらも爽やかな気持ちになった。

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 他校の生徒が演奏しているにもかかわらずこのノリが高校軽音楽部の特徴で、雨が降る中で傘を有効に使って応援している学校もあった。2枚目は我がケイオンの面々。前回もこの場所で応援していた。

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 やっとこさ我らがケイオンが登場。舞台の目の前と3階の真正面からの応援を受けて、演奏者たちも心強かったに違いない。

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 ATCはアジア貿易の拠点として大阪市が1465億円をかけて1994(平成6)年に完成した施設。海沿いを散策できたり日没が正面に見えるなどの魅力はあるが、高い賃料や都心からのアクセスの不便さなどで企業が相次いで撤退、資金繰りが悪化して経営破綻したことがある。背後にそびえるWTCコスモタワーとともに、大阪市の公共事業政策のあり方が問われた。

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 我らがケイオンには、某私立高校がみせたような部員全員が参加するようなパフォーマンスを一度は見てみたいと伝えた。日頃はバンドごとにバラバラに練習しているが、たまには全員が参加して「チームケイオン即ち数は力なり」で観衆を魅了してほしいものだ。

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 午後6時ごろ。コンサート終了後の海辺のステージ付近にて。休日の夕食時にもかかわらずATCの内部は閑散としていた。免税店もあって外国人観光客の誘致にも取り組んでいるが、やっぱり交通の便が悪いのがネックなんかもしれんなあ。 

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