2016/9/15

『OKU NO HOSOMICHI』 第15回   国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

国語科 副島勇夫

第15回「そもそも、なぜ『奥の細道』を歩くことになったのか」

 第15回ということで、少し振り返ってみたい。

 私は教師になった年、つまり1986年の夏に、かつて松尾芭蕉が歩いた「奥の細道」を歩こうと、東京深川の芭蕉庵跡(今は芭蕉稲荷神社になっている)を出発した。カルロス・トシキ&オメガトライブの「君は1000%」やKUWATA・BANDの「BANBANBAN」が流行り、台風が関東地方に猛威を振った暑い夏だった。

 この計画は大学時代(教員養成系の大学です)から考えていたことだったのだが、結局バイトばかりで実行に移せないまま教師になっていた。この旅を思いついたのは大学1年生で出会ったある友人の影響からだ。

 彼の名前は、あえてイニシャルで記すとIという。しかし、その名前よりも「万蔵(まんぞう)」という呼び名で知られていた男だった。彼は2浪、私は1浪で同じ大学の小学校教員を養成する学科に入学した。彼は人脈を広げるために、浪人時代から予備校や模試会場で、裏に「万蔵」と記された名刺を配り回っており、そのため浪人生の中では有名な人物だった。私も初対面の時に「万蔵や、よろしゅうな。」と名刺を渡されたが、「何やねんこいつ。俺、こんなやつと友達にならんで。」というのが第一印象だった。彼は角刈りに黒縁眼鏡、そしてピンクのトレーナーがトレードマークの、一見して独特な、そしてどこか修行僧を思わせる男だった。

 大学入学後も彼の人脈作りは盛んで、また一方で様々な行事を企画、実行していった。ハイキング、コンパ、ボーリング大会、スポーツ大会、学園祭はもちろん、梅田から和歌山までの85キロをぶつ通しで歩く徹夜ハイク。途中の数キロは親切な?暴走族に乗せられて、パトカーに追われたりのおまけつきだったが、26時間26分後に南海和歌山駅に到着した。

 あと2、3キロで着くという時に道を間違えて同じ道をひき返し、誰が間違えたかという些細なことで喧嘩になりかけ、メンバー間に険悪ムードが流れたり、11名で歩き始めたのが、夜が明ける頃から1人また1人とリタイアしていったりもした。

 夜の道を歩く中で、様々な組み合わせで話をした。時間はたっぷりある、話でもしていないと気が重くなる。家の事、将来のこと、高校時代のこと、普通の話もあればかなりヘビーな話もあった。夜という雰囲気の中で20歳の私たちは、まさに「歩くクラスミーティング」をしていたようなものだ。、これが私の歩く旅の原点だった。恩田陸の『夜のピクニック』そのものだった。(よかったら読んでください)

 その後も、彼は姫路までの100キロハイクを企画実行。大学を休学し、「日本見てくるわ。」の言葉を残し、日本一周自転車の旅に出た。数か月後、大学に戻ってくると今度は「外から見てくるわ。」と台湾へ自転車ごと移動、現地の大学の寮に潜り込み、台湾から見た日本人とはどのような存在なのか、アジアの中で日本の何が問われているのかを体感して戻ってきた。その後はインドへ渡ったが、この時は病気で送り返されてしまった。さらに、その後、中学生対象の小さな塾を経営し、当然のごとく大学は留年し、卒業後は奈良と和歌山の県境の山奥で臨時の教員を努め、次は離島で教えたいと考えていたところまでは知っているが、その後は消息不明だった。

 ところが、最近、柴島高校の某先生(この先生と私と万蔵は大学時代のバイトが同じ。誰かは内緒。)から、大阪市の小学校でちゃんと教員をし、学年代表だかなんだかをしているという情報を入手。「なあんだ、普通やん」となぜか思ってしまった。山小屋の主や仙人にでもなっていてほしかった。

 話は戻るが、私は彼の行動力にすっかり圧倒されてしまった。そして変化を求めない自分の小ささがつくづく嫌になった。彼は常々語っていた。「みんな教師になるって言うてるけど、どんな教師になりたいんや。」「日本の教育は俺に任せろとウソでも言えるヤツはおらんか。」この自信に満ちた言葉と行動力に、何となく憧れだけで教師になろうと思っていた自分が恥ずかしくなってしまった。

 そう私は「熱中時代」と「金八先生」という教師を主人公にしたドラマに影響された熱中教師ブームの時代の学生だった。そして私は彼の行動力を少しでも身につけたいと思い、旅の本を読み漁った。『深夜特急』『印度放浪』『全東洋街道』など、そしていつか自分も旅に出ようと決めたのだった。

 「お前は何すんねん」と迫られ、彼との約束で、勢いで「俺、教師になったら、夏休みの度に『奥の細道』歩くわ。」そう言ってしまったのが、この旅のきっかけだ。歩く旅、その魅力を知ったのが大学時代の彼との出会いであり、歩き始めて、次第にはまっていく自分がいた。

 結局旅は(自分も含めた)人なんだ。

 名所観光もいいが、どんな出会いがあり、何を考えるか。そのためには、電車や車は速すぎる。私が歩こうと思ったのは、多くの人に出会い、また自分を見直す時間を必要とし、そしてあくせくした時間からの解放を味わいたかったのだと思う。

 旅の初めの数年間は時計を付けず、身元を証明するものも持たず旅をしていた。もちろんその頃は携帯電話さえなかった時代だ。自分が誰なのか、それは誰も知らない。そういう状況になってみたかった。(こういうのを「若気の至り」というのだろう。その後は万一のことを考え、保険証さえ携行するようになった。結婚してからは、毎日、所在地を報告し安否確認された。)

 とにかく芭蕉の記した「風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。」という心境で、この広い日本をふらふらとしてみたかったのだ。1986年夏。こうして、私は旅に出た。

 次回は、第16回「ジェイソンの恐怖、A・K牧場の決闘、八百年前の墓標」(平泉、岩手県。1989年 夏)です。

 多賀城跡にある「つぼのいしぶみ」。この中に奈良時代に造られた石碑がある。江戸時代に土の中に埋もれていたのを発見され、かの松尾芭蕉もこれを見たことが『奥の細道』でも紹介されている。

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 松島にある瑞巌寺

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2016/9/15

9月15日木曜日の風景  学校紹介

 今日の朝は夏の終わりを思わせるような爽やかさで「あーっ、ついに猛暑も終わったなあ」と感慨深かったが、いざ学校に登校してみると蒸し暑さは相変わらずだった。しかし「猛暑」という表現はもう終わってもいいかな。

 明日は前期の期末考査最終日。そして3年生学校斡旋(あっせん)就職希望者の入社試験が始まる。これまで頑張った面接練習や試験勉強は必ず報われる。

 信ぜよ、さらは救われん!! 就職試験にチャレンジする生徒諸君の健闘を祈る!!

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 超強豪校を相手に初戦敗退したが、マネージャーの前向きなコメントに感動した。これからの野球部の成長を見守りたい。みんなで野球部を応援しよう!!

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 阪急崇禅寺駅側の高架工事。屋上より淡路駅方面をのぞむ。向こうに見える高架の柱の列は2年ぐらい前に完成したもの。一気に工事が進むと期待したが、それ以外の高架の柱の列は今もなお建っていない。

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 これと同じ高架の柱の列ができるはずだが、手前にできるのか向こうにできるのかどっちだ?

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 屋上より南方駅方面をのぞむ。

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 柴島浄水場にある旧水道局記念館。1914(大正3)年から1986(昭和61)年まで大阪市の主力ポンプ場であった柴島浄水場「旧第1配水ポンプ場」を保存活用したもので、赤レンガと御影石との調和が美しい建物だ。

 琵琶湖・淀川水系の淡水魚・貝類など多くの生物の飼育&展示をしていたので、休館前は本校の授業のフィールドワークで何度か訪問したことがある。市政改革により2012(平成24)年4月より休館となっているが、できるだけ早く再開してほしいものだ。

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 重厚なトラス式の阪急千里線淀川鉄橋。

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 得体の知れない小さな花が睡蓮鉢に咲いていた。

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 毛虫の発生で立ち入り禁止になっていた「学園の森」。

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 どんな毛虫かと探してみたがこれしか発見できず。

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