2016/9/25

バドミントン部 吹田市長杯  クラブ

 本日は吹田市立山田市民体育館で行われた吹田市長杯に出場しました。

 女子初心者の部に1ペアが出場しました。この部には計20ペアが参加し、5つのリーグに分かれて総当たりの予選を行います。上位1ペアのみが決勝トーナメントに進出できます。
 
 柴島高校はというと、午前の予選リーグではファイナルゲーム(3ゲーム)までもつれた試合もありましたが、なんとかものにすることができました。決勝トーナメント進出です。

 迎えた決勝トーナメント初戦、予選を突破してきただけあって相手も粘り強いプレーで苦しめられましたが、何とか勝利!決勝に勝ち進みました。

 決勝はプレッシャーからか、少し固くなってしまいました‥

 相手の速いタッチに守備の体勢がとれず、攻められてしまいました。惜しくも競り負けて準優勝です。

 でも自分たちの良いところも出せたので良かったです。次回は優勝目指して頑張りたいですね。

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2016/9/25

9月25日 日曜日の風景  学校紹介

 天気が回復して久しぶりの日光で花も喜ぶと思っていたが、晴れたり曇ったりの蒸し暑い天気だった。

 しかし梅田方面の青空はすっかり秋の気配。柴島浄水場の水面に青空が映っている景色は素晴らしい。

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 阪急電車のジオラマを作ってみました。はい。

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 両側にずらっと並んだペチュニアに見守られて登校するケイオン。もうあと2週間ぐらいしたら満開になるはずと思っているのだが・・・

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 校舎内では3階の掲示板に「観光学」「大阪第2ビル都道府県事務所訪問レポート」の選ばれし生徒作品を掲示した。事務所でいただいたパンフレットなどを有効利用して、それぞれが工夫してレポートを作成している。

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 惚れ惚れするような画力に見入ってしまった。これ、生徒が自分で描いたやつですよ。

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(おまけ)

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2016/9/25

FILE2 深淵に見つめ返される恐怖  先輩 K先生の映画学ガイド


担当者 国語科 小柳優斗

 
 前回の映画学ガイド、いかがでしたか? 映画や映像が、「錯視」を前提としているというところから映画創生と映画そのものの魅力について語りました。今回も「視る」ということにこだわって、話を進めていきますが、趣向は大いに違います。大切なのは「視る――視られる」という関係です。映画が、いかにそれを巧みに物語の中に活用してきたか、その絶妙な手腕のほどをいくつか紹介して、私たちが映画に対して抱く「スリル」や「恐怖」の謎に、肉薄してみたいと思います。
 それではどうぞ、お楽しみください。


ガイド3「深淵に見つめ返される恐怖――支配関係の逆転」

 2016年現在で007シリーズの最新作といえば、2015年に公開された『スペクター』。個人的にはその前の作品である『スカイフォール』が超良くて(オールタイムベストにも入れているくらい)、それに比べると『スペクター』は期待を100%満足させてくれる映画とは評し難かった。が、グッとくるところはいくつもあって、その中でも特に忘れがたい1シーンがある。それを取り上げて、今回の導入としたい。


 物語中盤。007ジェームズ・ボンドは、敵のアジトに潜入する。そこは大聖堂のごとき広間で、中央に大きく長い机が置いてあり、十数名の幹部が向かいあうようにして椅子に腰かけ、悪事の計画を練っている。二階の廊下には部下と思われる者たちが物言わずずらりと並んで、下で行われる会議の様子を見守っている。ボンドは部下たちの中に潜り込んで、成り行きを見定めることにする。

 ――と、下に集う者たちの中で、首領らしき男が口を開く。男の顔は影に覆われていて、声だけで辛うじて性別がわかるようになっている。むろん表情はうかがえない。何気ない口調で男は言葉を紡ぐが、それは2階に潜入しているジェームズ・ボンドに向けられたものであった。そして男はゆっくりと首を持ち上げ、こちらを――ボンドを見上げるのである。
 
 ボンドは戦慄する。誰にも気付かれず潜入したはずが、男にはっきりと視られていた。彼は大急ぎでその場を逃げ去る。その後息つく間もないカーチェイスが展開され、それはそれで楽しめるのだが、個人的にはこの会議のシーンが、『スペクター』全シーン上で、最も強く印象に残ることになった。


 同じようなシーン、そして同じような心の動揺を、以前にも味わったことがあった。2001年の『ジュラシック・パークV』。恐竜たちの新天地、人間にとっては悪夢の楽園イスラ・ソルナ島では、必死の逃走劇が展開されている。物語も中盤をやや過ぎた頃の見せ場として設定されているのが、翼竜プテラノドンからの逃走――「鳥カゴ」のシーンである。プテラノドンは前作『ロストワールド ジュラシック・パークU』の最後にも登場して、そのクオリティの高さから恐竜ファンを唸らせたキャラクターだが、本作では『恐竜100万年』にも見られたような、獲物を掴んで飛び去る悪役として位置づけられている。『V』ではこのプテラノドンに、エリック少年が連れ去られ、それを勇敢な若者ビリーがパラシュートで救出する。主人公アラン・グラントやエリック少年の両親は、地上(鳥カゴの中)から、二人を追いかけている。

 ビリーはエリック少年の救出に成功するが、今度は自分がプテラノドンに狙われる。パラシュートが崖に引っかかり、何とか川に着水したものの、濁流に足を取られて流される。上空からはプテラノドンの嘴に啄まれ、川の水は赤く染まる。グラント博士たちは川岸までは行けたものの、そこから先に行くことができず見ているばかり。

 カメラは川の流れに乗るように右へと移動していくが、途中から川岸手前に妙なものが映り込む。すらりと長い、何かの影――カメラは川の奥にピントを合わせているのでややぼけているが、その妙な影が中央に移動したところでこっちにピントが合って、それが別のプテラノドンであることを知らせる。観客含め人間サイドがハッとすると同時に、プテラノドンがゆっくりと首を回して、爬虫類の無機質な目で、じっとこちらを睨みつける

 視られていた……戦慄が背中を走り抜ける。

 『ジュラシック・パークV』は90分という時間のほとんどを、恐竜からの逃走に費やしている。スピノサウルス、ヴェロキラプトル、プテラノドン……そのほかさまざまな恐竜との遭遇、そしてそこからの脱出を描く。これでもか、これでもかと見せ場を用意するサービス精神は、まるで遊園地のライドのごとく爽快なものだが、恐怖演出となると心底怖くなるようなシーンは少ない(グロいとか、でっかい音で驚かせるとか、そうしたものでは心底の恐怖は得られない)。そんな中でこのプテラノドンの「睨み」は、恐怖演出としては随一のものであった。特に派手なわけではない。大きな音がするわけではない。カメラスピードはむしろ緩慢なくらいだ。にもかかわらず、あの時背中をつたった冷たい汗の感触は、なかなかに忘れることができないものであった。


 

 この「視られていた」とわかった瞬間に覚える恐怖やスリルというのをひも解いてみると、中々に白いことが分かってきそうだ。それは次元を超え、スクリーンを超え、映画を「視て」いる観客に直接訴えかけてくるスリルであり、恐怖である。安心してシートに座り、ポップコーン片手に映画を楽しんでいる我々の心を刹那、不安におとしめるテクニックである。絶対的安全圏にいる――そんな確信を揺るがすことのできる、素晴らしき効果である。


 実はここには「心霊写真」に我々が感じる恐怖と近いものがある。映画だけでピンとこない場合は、こんな感じのものを想定してみたらどうだろうか。

 海辺ではしゃぐ友だちを映した、何気ない旅の写真。ところがよくよく眺めてみると、水面に見たこともない女の顔が写っている。血の気の失せた、青白い顔。感情のうかがえない目で女は、こっちを見つめている……。

 この時なにゆえに恐怖を感じるのか。女――幽霊の顔が怖いから。いるはずのないところに映っているから。むろん、そうした恐怖もあるだろう。ならば問いを変えて、この心霊写真に対して、一番恐怖を感じなければならない立場にあるのは誰か。撮影した自分か幽霊と一緒に映ってしまった友だちか……。

 これは心霊写真の種類にもよる。被写体の体の一部が消えているなどすると、それは霊傷などと言って、近日中にそこを害する予兆なのだという話もある。が、今回の想定例に限って言えば、恐怖しなければならないのは、カメラを構えていた撮影者である。なぜか。視られているからだ。

 写真を撮影するという行為において、空間支配というやや仰々しい観点から考えてみたい。写真撮影の場合は、空間の支配権は撮影者にある。アイドルの写真集などでも同じだ。撮影者の指示に従ってポーズや表情を変えたり、立ち位置を変えたりする。撮影というのはそうしたもので、どんなものを撮ったって、撮影者の意識なり意図なりがどこかしらに顕れてくる。そもそも「この風景を撮ろう」という選択こそ、「撮影者の意図」そのものではないか。写真撮影において、そこに映されるものの支配権は、ある程度撮影者にある。風の向きや日光、波の具合など自然物に干渉することは不可能だから「ある程度」としておいたが、少なくとも「被写体」である友だちに対する支配権だけは備えている。

 ところがここに――まったく干渉されない異物が紛れ込んで、しかもこちらをじっと視ている。カメラを通して、こっちが視ていると思っていたはずの世界だったが、実は視られていた。ここで空間の支配関係ががらりと逆転する。だから怖いのである。これは人類が生まれながらにして持っている、異的な存在への恐怖、嫌悪と同じ類のものである。自分が支配していたはずだった場所の中に、自分の力ではどうにもならない存在がいる。そいつは確かに自分を見つめている。自分を害する気持ちなのかも分からなければ、仮にそうだとした場合に、どうすれば良いのかも分からない。

この、「日常性から乖離した異物」に対して持つ「わからない」という感情ほど、恐ろしいものはない。人間が抱く恐怖の根源は、ほとんどこれである。

 冒頭で紹介した映画の1シーンは、こうした、人間が根源的に持っている恐怖を引き出してくる。スクリーンを前に、シートに座り、映画を楽しむ我々観客は、自分が絶対の安全圏にいると思っている。目の前でどんな恐ろしいことになっても、それが自分にまで及ぶことはないと思っている。それは真実、その通りである。映画というのは、日常では経験できない(というかしたくない)ものを、見せてくれるものだ。だから観客は、映画を視るということにおいて、支配権は自分にあると思っている。映画に限らず、本でも同じことだ。嫌だったら、本を閉じてしまえば良い。嫌だったら、視るのを止めてしまえばよい。「視る」ということは、自分の意思ひとつで自由にできるものだと思っている。


 そこに、前述したようなシーンが効果的に入ってくると、「視る――視られる」の関係が逆転して、観客はどきりとする。もちろん、物語上の演出としては、首領に視られたのは007であり、プテラノドンに視られたのはグラント博士だ。しかし演出としては、首領もプテラノドンも、こちらを――観客を視た。スクリーンを超え、次元を超え、まるで我々の存在に気付いているかのように……。視られている……そこに恐怖を覚える。これは映画が、一度にさまざまな視点を扱えるからこそ成立する効果である。一つの作品の中で、映画は実に多くの視点を持っている。その視点を巧みにコントロールすることで、感情移入とはまた違った形で、劇中のキャラクターが感じている恐怖やスリルを、我々観客にも追体験させることが可能となる。


 怪物と戦う者は、その過程で自らも怪物とならぬよう心掛けよ。
 深淵を覗き込むとき、深淵もまた、お前を見つめているのだ

 ニーチェが『善悪の彼岸』に記したこの警句は、これまで様々な物語で扱われている。映画のテクニックとして、これを巧みに扱ったものは多い。我々は、映画をただ一方的に視ているわけではない。スクリーンの奥に広がるその世界もまた、我々を視て、訴えかけてくる。様々な手を使って、観客を中に引き込もうとしてくる。観客にとって、それは目の前で展開され、過ぎ去ってゆく虚構の――作り物の世界ではない。たとえ体は安全圏に置いて行っても、心は現実を離れ、スクリーンの中にある。

 視ているのは我々だけではない。映画は常に、我々を見返してくる。





 ちなみに、カメラが映し出す視点――ということを考えた時に特におススメしたいのが『ブラック・スワン』という作品。バレエの主役に選ばれた少女が、そのプレッシャーから次第に狂気に走ってゆく過程を描いているが、これがまた面白い。CG全盛期の現在、我々観客も目が肥えて、ちょっとやそっとの視覚効果では驚けなくなってしまった。『ブラック・スワン』はそれを逆手に取り、観客を惑わす。カメラは少女の視点から多くのものを映しだすが、それが現実か、それとも狂気の妄想なのか、まったく判断がつかない。すべては現実に起こったことなのかもしれず、また一方で、すべては少女の病んだ精神が見せた一切の幻だったのかもしれない。前回のガイドでも触れたように、人間はすべて心でものを見ている。『ブラック・スワン』が描き出すのは、一人の人間の、次第に狂気へと走る心の在り様である。何をどうしたって、絶対に覗き見することのできない世界である。我々はそれを見つめる。そして映画のほう――ありとあらゆる手を使って、我々のことを、見つめ返してくる。


2016/9/25

聖地巡礼  学校紹介

 最近ネット各所で「聖地巡礼」という言葉を見かけることがある。

 「聖地巡礼」というと、自分などは「イスラム教徒による聖地メッカへの巡礼」を思い浮かべるのだが、最近の若者の解釈では「アニメや漫画などの物語の舞台やモデルとなった場所、ゆかりのある場所を訪問すること」を意味するようだ。

 現在、大ヒット中の『君の名は。』であるが、さっそくファンの間で「聖地巡礼」が始まっており、映画の象徴的な場面のモデルとなった東京都新宿区の階段では記念撮影しているファンの姿が見られるという。

 ならば学校の近辺に「聖地」はないかと探したら、なんとなんと『君の名は。』の監督・新海誠氏が関係するアニメの「聖地」が淀川区にあることが判明した。アンビリーバブル!!

 新海氏が2000(平成12)年につくった自主制作アニメ『彼女と彼女の猫』(モノクロ)を原作とした1話約8分で全4話の同名テレビアニメで、今年の3月に放映された。

 「聖地」の舞台は、JR塚本駅周辺やその近くの淀川右岸河川敷で、すでにネットでは「聖地」に関連するホームページがアップされている。このアニメも『君の名は。』に負けないような美しい風景が随所に描かれており、鉄橋近くの河川敷にたつ「彼女」と「猫」、そして対岸にみえる梅田の風景と積乱雲のシーンなどは息をのむような美しさだ。

 東淀川区にはないんかなと思っていたら、自分が大学生の頃に貪り読んだ『バイトくん』をふと思い出した。4コマ漫画の巨匠「いしいひさいち」の名作で、彼が関西大学に在学中だった1972(昭和47)年に関西のアルバイト情報誌に連載された漫画だ。

 「東淀川大学」(関西大学がモデル)に在籍する3人の貧乏な下宿学生が、バイトやマージャンに明け暮れる滑稽かつ自堕落な学生生活を描いており、たしか1979(昭和54)年の大学2年生の時に単行本2冊を購入して爆笑しながら読んだ覚えがある。

 3人は東淀川区下新庄の老朽アパート「仲野荘」に下宿しており、ネットで調べてみるとモデルとなったアパートは2011年の時点で現存しているが、高架工事でおそらく取り壊されたのではないか。一番印象に残っているのが、3人が「腹へった時の阪急千里線は厳しいなあ」とかなんとか言って、「下新庄駅」では「ひもじいよう」、「吹田駅」では「すいた、すいた、腹がすいた」、「豊津駅」では「とよつ、とよつ、とよつのあられ」とホームの構内放送が聞こえてしまうという4コマ漫画だ。

 その後、「いしいひさいち」は『がんばれ!!タrブチくん!!』が大ヒットして有名になり、朝日新聞で『となりのやまだ君』が連載されたりしたが、今もなおほとんどマスコミには登場していない。

 「アニメツーリズム」というホームページもあるぐらいだから、一度観光学の授業で「聖地巡礼」フィールドワークをやっても面白いかもしれない。やるとしたら、まず生徒に『彼女と彼女の猫』と『バイトくん』のどっちがええかアンケートを取ろうかな。

[アニメツーリズム]

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2016/9/25

生徒にみてほしい映画(13) その2  一般

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 例によって「(  )な時におすすめの映画」の(  )に入れる言葉であるが、この映画の場合は「教師になりたいなあと思った」にしておこう。

 破天荒なロックオタクのデューイは友人ネッドになりすまして名門小学校の代用教員として赴任。いわゆる「偽物教師」で、このあたり、いとも簡単に女性校長をだませるなんてありえないと突っ込みたくなるが、「まあ映画やからしゃあない」とスルー。

 最初はまったくの「やる気なしデューイ」であったが、生徒たちの楽器のテクニックのすごさに驚愕、「この生徒たちとバンドを組んで、もう一度ロックの世界に戻りたい」と思うようになる。そして、すべての授業を放棄して彼のクラスは「バンド」練習に終始する。「隣の教室にまる聞こえやないか」の突っ込みは無粋だ。

 要するに自分の夢のために「生徒を利用」した訳で、とてもほめられたものではないが、練習の過程でみせる指導者としての手腕は見習うべきところが多々ある。例えば・・・

(1)外見は風采のあがらない中年おやじだが一旦ロック的なスイッチが入ると、卓越したギターテクニックとオーバーすぎるジェスチャーで生徒たちを魅了する。

○教師になりたての頃、「社会科教師は俳優みたいな要素も必要や」と先輩に言われたことがある。「行ったこともないエジプトやけど、生徒に『そこにピラミッドがあるやん』と思わせなアカン」と言うわけだ。「なるほど」と思った自分は、それ以降、テレビを見てもラジオを聞いてもすべてが手本と思えるようになり、その成果を授業で披露したりしたこともある。

○とある期の卒業生が「先生の日本史の授業で一番覚えているのが、享保の飢饉(江戸時代/1732年)のときに、イナゴが大量発生して西日本の稲を食い荒らしたやつです」「先生の説明と身振りで、なんか向こうからイナゴの大群が来るのがほんまに見えました」と言ってくれた。他はほとんど覚えていないようだったが、なぜか「イナゴ」は強烈な印象として残っているという。喜んでいいのかどうかわからないが、やっぱり嬉しかった。

○映画ではその「俳優みたいな要素」を極端に描いているが、デューイの暑苦しいまでのジェスチャーの10分の1でも十分だから、これから教師を目指す人は参考にしてほしいものだ。

(2)常にポジティブ。生徒を怒ったときもフォローを忘れない。

○人間は年齢に関係なく、ほめられもせず非難されくさされ続けたらネガティブ思考になるものである。デューイが赴任した私立小学校は厳格な教育で知られており、行儀や成績はいいが、覇気と笑顔のない生徒集団だった。それとは対極をなすキャラクターのデューイは、生徒を怒ったときも最後に「ロックしようぜ」と必ずポジティブな言葉を投げかける。これは素晴らしい。

○身体にコンプレックスをかかえるアジア系男子や黒人女子が「やめたい」と言い出した時に、彼らを励ます言葉もいい。映画の見所のひとつなので紹介するのは控えるが、彼自身も身体にコンプレックスを持っているがゆえに生徒の素晴らしいところをうまく引き出すのが上手いのかもしれない。

○このあたり、自分の教師生活を振り返って猛省する次第であるが、これから教師を目指す人には是非とも見習ってほしいところだ。

(3)クラスの全員に得意分野での活躍の場所を与えている。

○演奏に卓越した技術を持っている生徒をデューイが指名して、リードギター、ベース、ドラム、キーボードを担当する生徒が決定する。次にコーラスをやりたい生徒が手を上げてその場で歌わせたとき、『トゥモロー』(アニー)、『アメイジンググレイス』、『メモリー』(キャッツ)を3人の女子生徒が歌う。『トゥモロー』と『アメイジンググレイス』に対するデューイの反応が笑ってしまうが、共に抜群の歌唱力で合格。しかし『メモリー』はかなり音痴で即刻不合格となるが、学級委員長の彼女にはバンドの「マネージャー」に指名する。

○残されたメンバーに「あとは見とけ」みたないことを言うと、おとなしそうな黒人男子が「のけ者にされた」的な反応をポツリと言う。言われるまで気づかない教師もどうかと思うが、それに対してデューイは、バンドを裏で支える「警備」「衣装」「照明」「背景デザイン」などの役を次々に振り分けて、生徒の活躍の場所を提供。バンドの演奏が終わった後、裏方の生徒に対する慰労の言葉も忘れない。

○一見、破天荒で無神経に見えるデューイだが、意識していたかどうかはともかく、生徒に対する細やかな指導は見習うべきものがある。そのデューイも自分の得意とする分野だから、ここまで生徒を指導することができたのかもしれない。もしも「すまんけどサッカー部の顧問になってくれへんか」と言われたら、完全にやる気をなくして生徒を導くなんてとてもできなかっただろう。

(4)自分の趣味や得意分野を生徒に還元している。

○デューイは最初から「還元」しようという気はさらさらなく、生徒を「利用」する利己的なものだったが、結果的に生徒に「還元」したことになった。

○「ロックの魂」をデューイに叩き込まれた生徒たちは、いつの間にか学校のいいなりではなく自分の意見を主張するようになる。映画のラストでは、弱気になったデューイを逆に生徒たちが奮い立たせ、大観衆の前で「スクール・オブ・ロック」というバンド名で堂々とした演奏を披露、保護者を感激させるシーンがあるが、小学校の普通の授業だけではここまでの成長はなかっただろう。

○せっかくの趣味や得意分野を自己の楽しみとして残しておくのはもったいない。教科担当者、クラブ顧問、担任、分掌の一員、学校の一員など、どんな立場からでもいいから、学校や生徒に還元してくれたらと思う。



 デューイが生徒に伝えたかった「ロックの魂」を一言で説明するなら「抑圧からの解放」かな。
 
 人間は日常生活の中で、何らかの「抑圧」を受けて生活している。個人によってその「抑圧」の大小の差はあるが、完全に「解放」されている人間なんて誰もいない。

 常に「解放」されたいと思っているデューイの生き方は、生徒諸君にはお勧めできないが、人間は時々の「解放」は絶対に必要であり、それで気分を新たにして再び「抑圧」の日常に戻ればいいのだ。



 最後に。この映画のエンディングは他の映画ではめったに見られない個性的な方法で、即興で演奏したのかどうか分からないが、一見の価値あり。

 日本の小学校でデューイと同じ方法をやれば、他のクラス担任からの猛反対(当然自分も「静かに勉強でけへんやろ」と激怒)と保護者からのクレームの嵐で上手くいくことは絶対にないが、「そら映画やから」とか「現実は違うよ」の一言で片づけるには惜しい映画だ。

 教師以外の職業についたとしても、生徒諸君はいつか後輩や部下を指導する時が必ず来る。要するに教師を目指している人だけでなく、みんなに見てほしい映画でもあるのだ。



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