2016/12/5

12月5日 柴高の花と虫  学校紹介

 広角16mm 超個性的デジカメで撮影

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 体育館の「学園の森」側に植わったクスノキ こんな実をつけているなんて知らんかった。

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 普通のコンデジで接写

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 3年生女子の同志が気に入って購入したガザニアは、色合いといい花姿といいかなり個性的な花だ。

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2016/12/5

12月5日 月曜日の風景 アリッサム登場!!  学校紹介

 本日より、花壇両側にずらっと並び「柴高に咲く花たち」の仲間入りをした300苗もの花を紹介しよう。

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 名前は「アリッサム」。細かい花が密に咲きカーペット状に広がる草花で、花は甘い芳香を放つ。英名のスイート・アリッサムという呼び名でも広く知られている。本来は毎年花を咲かせる「多年草」だが、高温多湿に弱く夏に枯れてしまうことが多いので「一年草」として日本では扱われている。

 「カーペット状に広がる」ので、花壇の前面に並べたアリッサムはおそらく「枝垂れる」だろう。3月1日の卒業式の頃、「甘い芳香」を放った色とりどりのカーテンが校内をいっそう華やいだものにしてくれるはずだ。

 「アリッサム」は普通「白」が多用されるが、今回花壇にずらっと植えるにあたって「白」以外に「青系」がないかネットで探した。その結果、「白」以外に「青」や「紫」など多くの色の「アリッサム」を扱っている山形県の会社を探し出した。

 その会社のホームページの冒頭に以下のような文章が記載されている。

 私たちは、3.11の震災で大きな被害を受けました。会社も流されました。しかし、地元南相馬市のプロ農家の集結と、応援してくださる皆様の力もあり、2011年6月に新天地山形でまた物作りをすることが出来るようになりました。

 こちらのショップでは、良質な花苗や野菜苗、寄せ植えや資材などを提供しております。安心して気軽に買い物ができるようなショップ運営を目指します。


 この会社があった福島県の南相馬市は、2011年3月11日の東日本大震災と十数メートルの防潮林を越えた津波で、海岸線から約2kmまで海に呑み込まれ、死者1121人という壊滅的打撃を受けた地域である。そしてすぐ近くにある原発での大事故。

 おそらくこの会社の経営者は、長年苦労して築き上げた社屋や農場、自家製の種や苗など、ありとあらゆるすべてのものを失ったのだろう。もしかしたら親族や従業員も亡くなったかもしれない。その悔しさと悲しさは実際に経験した人でないと分かるはずがない。

 そんな困難を乗り越えて、わずか半年後、新天地山形で復活することができた経営者をはじめ社員の人々の努力と苦労、開店したときの喜びは察するに余りある。

 「アリッサム」をネット販売で扱う多くの店の中で、「1苗=100円」という最低価格に近い値段で販売、しかも300苗が揃いも揃ってしっかりした苗で自分は感激した。

 「圧倒的な景観」をコンセプトに卒業式や入学式に向けて花壇の装飾を計画してPTA会費より大量に苗を購入した結果が、ほんの少しではあるが被災者の復興のお役にたてて本当によかったと思う。

 明日以降、生徒諸君はこの花壇の間を歩くとき、ずらっと並ぶ「アリッサム」たちの生みの親は、多くの困難を経て異郷の地で会社を再建、注文した300苗のどれもが元気な苗であったという、ド根性とプロフェッショナル意識の持ち主であることを、たまに思い出してくれれば幸いである。

 アリッサム クリスタルパープルシェード 60苗 

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 アリッサム クリスタルラベンダーシェード 150苗
 
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 アリッサム イースターボネットホワイト 20苗

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 アリッサム イースターボネットピーチ 30苗

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 アリッサム イースターボネットレモネード 40苗

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 図書室は完全にクリスマス仕様。日本史Aの教科書で紹介されている本や漫画はすべてそろえてあるぞ。

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 体育館では12月25日(日)のスニーカーグランプリ大会に出場する軽音学部が練習中。

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cimg0099.mp4 動画 音量注意

 今日と明日、グラウンドの整地工事。クラブが再開する水曜日、どんだけ使いやすくなっているかグラウンド系部活動の面々は実感するだろう。

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2016/12/5

12月5日 月曜日 登校の風景  学校紹介

 後期中間考査第3日目。昨晩しとしと降った雨は夜半にあがり、今朝は蒼天広がる快晴。こんな日はまさに「フォトジェニック」。残った雨粒が朝日にキラキラ輝いて、美しい花のまわりで妖精のように舞っていた。

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 今日から「柴高に咲く花たち」の仲間となった花壇のアリッサム。詳細は次号。

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2016/12/5

『OKU NO HOSOMICHI』 第23回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第23回「対決!花笠音頭 VS 六甲おろし」(立石寺、最上川、山形県。1993年、夏)


副島 勇夫(国語科)

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「山形領に立石寺と云う山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に静閑の地也。一見すべきよし、人々のすすむるによりて、尾花沢よりとって返し」

 松尾芭蕉が山形の古刹、立石寺に到着したのは元禄二年(1689年)5月27日、現代の暦での7月13日午後3時ごろのことであった。それから約300年後の7月28日のほぼ同時刻に、私は小雨の降る中、同じ場所に到着した。

 7回目の「奥の細道」を歩くたびの初日である。

 前年の到着地、山形県村山市楯岡を10時に出発し、約25キロを雨の中で過ごした。初日というのにすっかり気分は萎えてしまっていた。レインポンチョを着ていても5時間歩けばすっかり体は濡れてしまい、夏だというのに肌寒かった。気温23度。7月末なのにである。

 目の前にはひなびた土産物屋、食堂などが並ぶ。典型的な観光地である。その小さな町を背後から見下ろし小高い山が雨の中に煙っている。その中腹から頂上にかけて、巨岩と岩上の院々が点在するのが見える。夕方になりつつあった。もとより傾くべき陽さえ出ていない。寒そうだった。

 この日は登るのをやめて宿を探し、「山寺ペンション」に泊まる。部屋に入り暖房をつけ仮眠。時間前だったが特別に風呂に入らせてもらい暖まり、濡れた服を洗濯する。風呂上がりの山ぶどうジュースが美味。食堂のテレビが明日も雨であることを告げている。

 翌朝、微かに晴れている。荷物を宿に預け、朝食もそこそこに立石寺に向かった。雨が降りだす前に立石寺を観て、23キロ先の東根までは行きたいのだ。大阪は梅雨明けしているのに、東北だけは未だ開けていない。観測史上最長の梅雨らしい。

 入口山門に到着したが朝早いため、観光客は誰もいない。奥の院如法堂までの1018段の石段を駆け上がる。芭蕉の句の短冊を埋めたという蝉塚で休憩。雨に濡れた木々、あちこちに咲く紫陽花。朝の薄日が差し込み清々しい。仁王門までハアハア言いながら登る。佳景寂寞(かけいじゃくまく)とした清閑の地だ。朝に訪れて良かったと思った。人がいない。

 芭蕉の往時を偲ばせる。物音一つしない。蝉の声すらしない。さらに奥の院までヒイヒイ言いながら登る。修行用の釈迦堂が左手の山中に、五大堂、納経堂、開山堂が、右手にそしてはるか下に麓の町が見える。少し下がって五大堂から見る景色は素晴らしい。町が模型のように見える。JR仙山線の電車の音が妙にはっきりと聞こえ、鳶が眼下を飛んでいる。凝灰岩の岩頭に立つ諸堂、とりわけ巨大な百丈岩の上に建つこの堂からは絶景である。一見の価値。 

 往きと同じ石段をゆっくりと降りる。ようやく蝉が鳴きはじめた。

 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声  芭蕉

 8月1日。最上川沿いの町を歩く。芭蕉も最上川を舟で下っている。それなら川下りの舟に乗っても反則ではないだろうと、古口から草薙までの約12キロを船旅と決め込んだ。

 最上川は全長約300キロでありながら、山形県のみを流れるという純山形産の母なる川だ。江戸時代は米や紅花を積んだ下り舟と塩や呉服を荷とする上り舟が行き交った。中世では岩手県平泉へ落ちる源義経一行もこの川を舟で遡った歴史の川である。かつての新庄藩の舟番所を模した乗船場から舟に乗り込むとすでに、30人ほどの先客。70歳くらいの船頭さんは最上川音頭を英語で歌ったり、アドリブのきく話術が冴え、なかなかの名調子。その後、お約束のパターンで花笠音頭を全員で大合唱。と、ここまでは普通の観光船だ。

 その時、船頭さんが言った。

「みんな山形の人?どなたか御当地ソングを歌ってくれる人はいねえべか。」
「そこのリュックのお兄ちゃん。あんた旅の者でしょ。」
「どこ?あ、大阪。大阪なら「河内音頭」でしょ。」

 というわけで写真のように前に座らされてしまった。(この連載第1回の時が24歳の写真、それから8年で6キロも体重が増加した。顔がパンパンだ。)ところが大阪人としては恥ずべきことなのか、「河内音頭」が思い出せない。「さても皆さま」とか「エンヤコラセー」とか断片的にしか知らないのである。どうしよう。このままでは大阪人の面子(メンツ)がたたない。

 そこで私は答えた。「あの、「河内音頭」じゃなくて、大阪の人間なら誰もが歌える歌でいいですか。」おじいちゃんの船頭さんは皺だらけの顔でニコニコしながら「いいよ」と笑った。私はマイクを握った。

「大阪代表歌います。「阪神タイガースの歌 六甲おろし」。
チャンチャカチャーンチャン チャチャチャチャチャン(わけがわからなくなるので省略)
六甲おろしに颯爽と、蒼天駆ける日輪の、青春の覇気麗しく……オウ オウ オウ オー
阪神タイガース!フレー フレフレフレー」

 なぜか、涙が出そうになった。ああ、私は生粋の関西人だ!関西万歳。1985年の優勝を思い出した。真弓、バース、掛布、岡田の雄姿が目に浮かぶ。この旅の前年の1992年は、9月中頃まで首位だったのだ。優勝を確信して乗り込んだ東京でのロードで大きく負け越し、ヤクルトに優勝を攫(さら)われた。そんなことが思い出された。

 しかし今は遥か東北の地で誇らしく歌っている。すれ違う舟の人々がこちらを見ている。かまうものか私は関西人だ。船中の手拍子も心地よい。3番まで歌ってしまおうかとも思ったが、東北は巨人ファンが多いだろうと一番だけで遠慮しておいた。席に戻ると仁川(兵庫県)から来た南原さんという60歳位の御夫婦が「いやあ、良かった。」と話しかけてきた。私たちは勝利投手と監督のようにガッチリと握手をした。

 しかし、そこから山形魂の逆襲がはじまった。「それでは、もうすぐ草薙の下船場に着きますが、もう一度皆さんで花笠音頭。」船内の甲子園ムードは一瞬にして現実にひき戻された。しかし、私は嬉しかった。ここは山形なのだ。それも母なる最上川なのだ。すぐさま大合唱に加わった。一度聞いただけの歌だが歌えるようになっていた。何度歌っても楽しい。45分間の船旅で私は少し山形人になったようだ。六甲おろしの完敗である。

 船内和やかに下船場に到着。舟を降りる時に船頭さんと話をし、「奥の細道」を歩いていることを告げると、暖かい笑顔ではげまして下さった。私は船頭さんと握手をし、ずっと名調子で頑張って下さいというようなことを伝えた。(実はこの船頭さん、山形では有名人なのだそうだ。(1999年10月、NHK衛星放送の「お〜いニッポン」という番組で、川下りが取り上げられた時、出演されていました。)

 私は嬉しかった。この旅がますます気に入った。それを実感するのは良い景色と解き放たれた気分と人との出会いである。足をケガしてトボトボと歩いていた時に拾ってくれたトラックのおじさん。山中で畑からもぎたてのトマトをくれたおばあちゃん。どこの誰かもわからない私を泊めてくれた農家の老夫婦や交番の若いおまわりさん。歩いていると手を振ってくれる車やバイクの人々。そんな人々の親切が何よりの経験だ。私はこれまでの旅を思いだしながら下船場の階段を登っていった。

 昼食は先ほどの南原さん御夫妻とご一緒させていただく。私は6歳まで兵庫県西宮市の門戸厄神という所に住んでいた。日曜の朝は家族4人で自転車に乗り、隣の仁川駅まで行き、阪急電車の見える喫茶店だったか今でいうファミリーレストランでホットケーキを食べることがよくあった。ずいぶん昔のことだ。

 そんな話をすると南原さんは「仁川もずいぶん変わりましたよ。」と笑った。私はその笑顔を見ながら、一度自分が幼い頃を過ごした場所も見に行こうと決めた。通っていた保育園。当時は田んぼの中の畦道を歩いたものだ。住んでいた社宅。はじめて一人でおつかいに行った近くのパン屋。きっと、とても近かったのだろうが、ずいぶん必死の覚悟で食パンを持って歩いたのだろう。今はどうなっているのだろうか。東北の真ん中山形で私は幼い日々の自分に戻っていた。

次回は第24回「空のグラデーション」(羽黒山、山形県。1993年、夏)です。

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