2017/5/24

生徒会 体育祭片付け  学校行事・生徒会

体育祭からアッと言う間に一週間。少しずつ片付けをしています。

今日はビブスの洗濯〜!生徒会室だけでは干しきれず、HR教室もお借りしました。

片付けは、来年への準備でもあります。次年度のためにも丁寧に進めていきます。

後期生徒会執行部の任期ももう少し。ギリギリまで頑張ります!

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2017/5/24

観光学フィールドワーク 初夏の京都 下見報告  授業・HR

 Y&Sの2つの講座でそれぞれ実施される「初夏の京都フィールドワーク」の下見報告。授業で配布されたフィールドワークのプリントを参考に、とにかく当日までにルートをしっかり頭の中に入れておくこと。

 当日( )時( )分 体育館下集合 通用門より出て崇禅寺駅へ。

 片道400円。京都方面行き普通電車に乗車。

 次の淡路駅で下車。その後にやってくる河原町行きの特急に乗り換える。

 終点の阪急河原町駅で下車。進行方向一番前の階段を上って改札を出て待機。

 その後、点呼を受けて全員で移動。

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 A=四条大橋 B=祇園(新橋) C=懐古庵 D=イオン E=夷川発電所 F=飛び石
 G=三条大橋(終点) H=寺町商店街 新京極商店街

 推定歩行距離 約3km 履きなれた靴が一番いい。

 阪急河原町駅「出口1A」を上がって、森鴎外の小説『高瀬川』でも有名な高瀬川をこえて東にある四条大橋へ向かう。

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 四条大橋から北をのぞむ。さっそく鴨川右岸に京都鴨川名物の「納涼床」「川床」「ゆか」が出ている。

 担当者曰く「鴨川を渡るとき、必ず橋の真ん中あたりで北をみよ」「どんなに暑くても風を感じることができる」

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 この辺は歌舞伎発祥の地。右の建物が「南座」。「四条通」の向こう端(東)に「八坂神社」がある。「祇園祭」はこの神社の宗教行事である。

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 江戸幕府が誕生した1603年に「出雲阿国」がこの地で「かぶき踊」を始めた。彼女の像が写真の奥に見える。当時は当然鴨川の両側にある護岸壁などなく自然堤防。川の端にできた砂地みたいなところに木材か何かで作った舞台の上で、多くの聴衆の度肝を抜くような服装で踊ったと思われる。

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 横断歩道を渡って少し北上。白川のせせらぎの音が聞こえる木陰でいったん集合して点呼。

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 その近くに2つコンビニがあるが、大阪と違ってどんな工夫がされているか注目すべし。

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 各所に着物のレンタルサービスあり。祇園界隈を舞妓さんの姿で歩いている女性を見かけることもあるかもしれないが、中には観光客が即席の舞妓さんになっていることもあり、その違いは歩き方を見れば一目瞭然にわかる。

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 授業の冊子で取り上げた「祇園新橋伝統的建造物群保存地区」。大人が食べ物や酒を楽しみ、舞妓さんがもてなす「お茶屋」がずらっと並ぶ。この地区では景観を守るために、どんな決まりがあるか勉強したはずだ。

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 京都の伝統的家屋によくある「格子(こうし)」。デザインだけでなく、外側からは中が見えにくいが、中から外がよく見えるという視覚効果もある。

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 写真の格子は部屋の中が明るくなるように上部があいており、一般的に「糸屋格子」という。写真の格子は「太い・細い・細い・太い」のリズムがあるが、同じ「糸屋」でも細い本数で、「織屋」「紐屋」「呉服屋」の区別があるらしい。

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 7月に入ると「祇園祭」が本格的にスタートするが、これは祇園祭で販売されている「粽(ちまき)」といい、玄関先に吊るして疫病災難除けのお守りとしている。食べ物の「ちまき」ではない。

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 新橋地区で数少ない「紅殻格子(べんんがらこうし)」。防腐対策として酸化鉄を原料とする塗料を塗った格子。塗り始めの頃はどんな鮮やかな紅色をしていたのだろうか。

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 京都市内各所で発見できる「路地(ろーじ)」。

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 テレビドラマのロケ地でも有名な「辰巳大明神」。ここで解散して10分程度自由見学する。神社の周りを囲む「瑞垣(みずがき)」にみんなも知っている有名人の名前があるので見つけるべし。

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 以前はここから白川沿いを歩いて「東大路」に出て、京都の伝統的なふろしきを現代風にアレンジして人気のある「京都掛札」や、名取裕子主演の『京都地検の女』のロケ地で有名な「一本橋」や「古川通商店街」を訪問していたが、今回は時間の関係でコースから外した。

 下の5枚の写真はFW本番では訪問しません。

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 「一本橋」近くにある鎌倉新仏教・浄土宗の総本山「知恩院」の山門。この写真では授業で取り上げた「借景」の意味を考えてほしい。もしも向こうの山に巨大な鉄塔が立っていたら、この風景はどうなっていただろうか。

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 山門から見た東山の風景。この日は格別に新緑が映えて美しかった。

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 祇園の新橋界隈から一路北上して10分ぐらい。「三条通」に出ると、世界最大の旅行口コミサイト「トリップアドバイザー」の「外国人に人気の日本の観光スポットランキング2015」で超有名な観光地を押さえて堂々8位にランクインした「サムライ剣舞シアター」を発見。

 今回は前を通り過ぎるだけだが、興味ある人は一度覗いてみたら。

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 5分ぐらい歩いて「懐古庵」に到着。京都によくある昔ながらの「路地(ろーじ)」の長屋を、長期滞在ができるように部屋を改築、口コミで外国人観光客から絶大な人気を誇る宿泊施設だ。「路地」の各所に伝統的なグッズが所狭しとあって、これを見るだけでも価値がある。「懐古庵」の公式ホームページに各部屋の様子が紹介されているので、見てほしい。

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 犬矢来(いぬやらい)

 湾曲した竹を組み合わせて、雨が壁を汚すのを防いでいる。

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 お竈さん(おくどさん)

 いわゆる「かまど」で、米や野菜を煮炊きするのに使用した。レンガ造りの重厚な「おくどさん」に、今風のネットワークの機械が置かれていた。

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 長屋の住民が共同で使用していた井戸。

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 「路地」の一番奥には必ずと言っていいほど「地蔵」がある。平安の昔、「院政」で有名な白河天皇が子供を守る「地蔵菩薩」を信仰していた影響で、京の町で人気が出たという。

 京都では8月下旬に、子供たちにとっては「夏休み最後のイベント」である「地蔵盆」が各所で開催され、「地蔵」前に置かれたテントや縁台に町内の子供たちが集まり、大人も参加してお菓子などを食べながら子供たちと交流する。最近のアンケートでは、8割の町会が実施していると答えたそうだ。

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 「懐古庵」をあとにした我々は、両側に京都らしい古い家並みが続く道を5分程度歩いて「二条通」に出て「イオン」でアイスクリーム(別に他のでもいいが)休憩。残念ながら近くにコンビニはない。

 他のお客さんに迷惑にならないよう、代表者が何人か分のお金を集めてレジで並んでほしい。

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 「イオン」の前に大人数が休憩できる場所はなし。よって、アイスクリームは開封せず2分ぐらい歩いて、大きな池のある場所にて休憩する。

 毎年8月16日、京の夏の夜空を焦がす京都の名物行事「五山の送り火」が行われるが、この池からは五山のひとつである「如意ケ嶽」の「大文字」が見える。

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 ここは「夷川(えびすがわ)発電所」といい、今は関西電力が管理している。明治以降、京都は近代化を図るべく、琵琶湖から水を引き込み「琵琶湖疎水」を作った。そして「蹴上(けあげ)」や「伏見」などの水力発電所に続いて、1914(大正3)年に作られたのが「夷川発電所」。

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 鴨川へと流れる疎水はかなり急流。「ゴーッ」という轟音を都会の真ん中できけるなんて「さすが京都」とうなるしかない。春爛漫の頃、疎水沿いにサクラ並木が続くこの道は、絶好の撮影ポイントになるだろう。

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 鴨川の左岸(東)に到着。

 鴨川に5か所ある「飛び石」の一番南にあるやつを渡る計画。その奥にある建物は、おそらく京都ではトップクラスの格式を誇る「ザ・リッツ・カールトン京都」。

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 初老のY&Sが難なく渡れたので君たちも大丈夫だ。ただし、天候によったら中止します。

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 授業中に配布した「鴨川の野鳥」を参考にして、バードウォッチングしてください。

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 鴨川右岸(西)の河川敷に到着。その後、南下して「二条大橋」「御池大橋」の下を通り、ついに「三条大橋」に到着。授業中に配布したプリントをみて、この橋のあたりでだれが処刑されたか、『東海道中膝栗毛』の弥次喜多の像がなぜあるのか、「池田屋事件」の時に新選組が刀傷をつけた「擬宝珠(ぎぼし)」、などなどに注目。

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 鴨川でデートするなら「鴨川右岸(西)」で座るべし。なぜなら東山の連山がみえるから。一番高いのが北にあるが、これが「比叡山」でその頂に「天台宗」の総本山「延暦寺」がある。

 しばらくすると、この2人を中心として両側5m間隔で恋人たちが座るのだろう。

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 「三条大橋」のすぐ北に「スタバ」の「川床」を発見。

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 「三条大橋」付近で解散。その後、「先斗町」を歩いて「阪急河原町駅」から帰宅するもよし、対岸にわたって「京阪三条駅」から帰宅するもよし、西へ歩いて「新京極」や「寺町」の商店街を覗くのもよし。そこまで行ったらな是非とも「錦市場」を訪問してほしい。

 
 祇園と並ぶ京都の「花街」のひとつ、「先斗町(ぽんとちょう)」。ご覧の通り、幅の狭い道の両側に飲食店などが並んでいる。三条大橋のすぐ近くに「先斗町歌舞練場」があり、そこは舞妓さんたちの練習場や踊りの発表会などが行われている。

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 酢屋 京都における坂本龍馬の活動拠点。

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 池田屋 幕府側の新選組が大活躍した「池田屋事件」の舞台。

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 四条通に向けて南北に「新京極」と「寺町」の2本の商店街がある。どちらかと言えば落ち着いているのが「寺町」。むかしはさびれていたが、最近は多くの外国人観光客が訪問しているようでにぎわっていた。

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 関西一円にボランタリーチェーンをもつ「力餅食堂」創業の地。今もなお、このような形で創業の地を残している「力餅食堂」の皆さんに敬意を表したい。

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 生徒諸君が愛用しているTシャツの英語の中に、写真の漢字Tシャツを笑えないのがあるかもしれない。アルファベットや漢字をデザインとして楽しむのはいいが、時と場合によってはその文字の意味で物議を醸すことになる。注意されたし。

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 近年、四条通の両側の歩道が拡張され、観光客などにとっては非常に歩きやすくなった。そのかわり、車線が減った影響で渋滞がすごいらしい。悩ましいところだ。

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 四条河原町交差点の北東に「行列のできる店」を発見。どうやら生徒諸君の興味関心を一心に集めている「抹茶」関連の店のようだ。

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 なんとその店の前に「中岡慎太郎寓居之地」(なかおかしんたろうぐうきょのち)の石碑を発見。幕末のヒーローである坂本龍馬とともに、ここからすぐ近くの「近江屋」で殺された中岡も、まさか自分の家が「抹茶屋」さんになっているとは想像できなかっただろう。

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 前回のフィールドワーク以来、半年ぶりにこの地を歩いたが、なぜか「薬局」が増えているような気がした。もしもそうなら、なぜだろうか?

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(追伸)

 過去に「初夏の京都FW」を実施したとき、必ずと言っていいほど「抹茶のおいしいところはどこ?」の質問が出る。今年度の担当者であるY&Sは共にそういったことにまったくの無関心であり、その質問に対してまともな答えなどできるはずがない。

 よってその手の質問をするのはやめて、自分でスマホなどで事前に調査することを推奨する。往復800円の交通費を有効利用して京都を十分楽しんでほしい。


(追記)

 せっかく往復800円で京都まで行くのだから、「G 三条大橋」の下で解散後、それぞれが興味あるところを訪問して見聞を広めてもらいたい。以下それ関連の地図。

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★A 四条大橋 最初に鴨川を渡った橋。
★G 三条大橋 この下で解散。

★「近江屋跡」

 1867(慶応3)年11月15日(太陽暦では12月10日)、ここ近江屋にて坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された。坂本はほぼ即死、中岡は2日後に死亡。犯人は幕府側の京都見廻組とする説が有力だが、自分的には、坂本らが奔走して実現した平和的な「大政奉還」ではなく「徹底武力倒幕」をめざす「薩摩&長州」が、坂本のことが邪魔になってやったという説に興味がある。

★「中岡慎太郎寓居跡」

 上のブログでも紹介した。ここに「行列のできる抹茶関連の店」がある。

★「H1」=新京極商店街 「H2」=寺町通商店街

 ともに修学旅行生や外国人観光客でにぎわっている。「寺町」の地名は、豊臣秀吉が1590(天正18)年に京都を改造する際、防衛のためにここに寺院を移転させたことに始まる。

 「本能寺」もこの界隈にあるが、1582(天正10)に織田信長が明智光秀の謀反で自害した「本能寺の変」の「本能寺」はこの地ではなく、1km以上離れた堀川通沿いの「京都市立堀川高校」の近くにあった。

★「錦市場」

 平安時代に京都御所に新鮮な魚を納入する業者が、豊富な地下水をもとめて集まってきたのが起源というから、約1300年の歴史を持っている。

 東西390m、道幅約5m以下の商店街に、約130もの店舗が所狭しと立ち並んでいる。生徒諸君の多くが持っているであろう「グルメ」への欲求を、かなり満たしてくれる場所であることは間違いない。

 「新京極」や「寺町」から「錦市場」に入って、そのまま西に向けてつききったら阪急河原町駅の次の烏丸駅が最寄りなので、そこから電車に乗るのが一番いいだろう。

2017/5/24

最優秀マスコットとダンス部で遊んじゃいました!! ラスト  学校行事・生徒会

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2017/5/24

『OKU NO HOSOMICHI』 第32回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NOHOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第32回「平家物語と昭和の花咲爺さん」(倶利伽羅峠、富山県。2002年)

副島勇夫(国語科)

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 今から300年以上前の元禄2年、俳人松尾芭蕉はどのような思いでこの峠を越えていたのだろう。越中と加賀、つまり今の富山県と石川県の境がこの倶利伽羅峠(くりからとうげ)だ。

 芭蕉がこの地を訪れる約500年前、源頼朝の挙兵に応じて兵を挙げた頼朝の従兄弟木曾義仲は3万の軍勢で陣を張り、この峠で平維盛率いる平家7万の大軍を待ち受けた。私が今歩いているこの標高277メートルの峠に計10万の兵たちが、息を潜めていたのかと思うと落ち着かなかった。800年以上経った今と比べ、芭蕉は300年分はこの兵たちの息づかいをより感じていたはずだ。しかし冒頭に記した芭蕉のこの峠に対する思いはそれだけの理由ではない。

 平家の総大将平清盛が「あっち死に」と呼ばれた熱病で没した時から一族の滅亡ははじまった。その前年に富士川で、水鳥の羽音に驚いて敗走した大失態は滅亡へのプロローグだったのだろう。清盛が没した2年後、木曽義仲はこの峠で「火牛の計」という奇策を用い、自軍の倍以上の平家軍を撃破する。それは数百頭の牛の角に焚松を縛りつけ、平家軍に向けて放つというもので、虚をつかれた平家の軍勢は谷底になだれ落ち、義仲の大勝利に終わった。

 その後、一気に京都に攻め寄せ、平家一門はあわてふためきながら都落ちし、一の谷、屋島の合戦を経て、壇の浦の合戦で1185年春、滅亡する。この峠で7万の平家軍が自分たちの半分以下の敵に屈した時、滅亡への歯車はさらに大きく動いたのだ。それを思うと、この木ばかりの山中の道は重苦しく感慨深いものがあった。芭蕉は何を思いこの道を歩いたのだろう。

 芭蕉は1694年に大坂(今の大阪)で客死したが、遺言でその墓は滋賀県大津市膳所の義仲寺にある。そして木曽義仲の墓に並んで眠っているのである。この寺の草庵である無名庵に芭蕉が滞在したのは「奥の細道」の旅の後だが、この峠を越える時、芭蕉は後の因縁を感じなかったのだろうか。それとも、もうすぐ金沢だという安堵感で一杯だったのだろうか。

 麓から1時間半ほどで峠の頂上に到着。かつて平維盛が布陣した猿ケ馬場は整備され公園のようになっており、そのブナ林の中に「源平古戦場猿ケ馬場」の碑が高く立つ。少し先に2頭の火牛の像まである。このあたりはのどかな雰囲気が漂う。腰を下ろしガイドブックを取り出す。

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 この峠一帯は「加越の吉野山」と呼ばれる八重桜の名所でもあり、それは「昭和の花咲じいさん」こと高木勝己夫妻の25年にわたる努力の結果だという。1年に500本、計7000本の桜苗を植えて守り育てた。木曽義仲と昭和の花咲じいさんという取り合わせが面白かった。京都に攻め入った後のその無法な振舞いにより、同門の義経軍によって挙兵からわずか3年で滅ぼされた義仲と25年の地道な努力。その賜の7000本の桜の下に7万の平家の兵が眠る。平家一門の約20年の栄光。そういった数字的な対比や一致が不思議な縁を感じさせる。

 そういえば北海道か青森だったか忘れたか、ゴミ捨て場のような状態だった池を一人でコツコツと清掃し続けた結果、何年にもわたる努力が実り、ツルが飛来するようになったという話を聞いたことかある。桜といいツルといい、なかなか良い話だ。17年間で14回目のこの旅もあと数年で終点の岐阜県大垣に辿り着く。その時に何が待っているのか、どのような心境になるのか楽しみだ。

 長めの休憩を終え、ようやく腰を上げ出発する。桜の季節ではないのでどれがそうなのかわからないが、心なしか緑が柔かく、夏山の深い緑とは異なるようだ。まったく人に会わない、時折、車が通り過ぎていくが、ただそれだけのことだ。東北地方を歩いていた頃はよく対向車や追い越していく車のドライバー、特にトラックが手を振ったり、声をかけたりしてくれたものだ。福島、宮城、山形あたりで特にそう感じた。

 それが南下し、西に向うにつれて、ほとんどなくなったように思う。時代が変わったのかも知れないか、この旅の最大の魅力である「人」との出会いは東北地方がハイライトだったのだろう。今はひたすらゴールに向けての旅といった感じで、それか少し寂しい。終わることのない旅のように感じていたあの頃に比べ、今は確実に終盤、帰路なのだ。

 本当にクマと出会う恐怖を感じながら山道を歩いた宮城や山形、この富山でも一応クマよけに木や缶を叩いて歩きはするが緊張感はあまりない。しかし、「クマに注意」の看板がここでもあるように、人間の身勝手な生態系の破壊によりクマは里に下りるようになってきたのだ。用心するに越したことはない。

 1時間ほどでJR倶利伽羅駅を囲む小さな集落に到着。鄙びた小さな無人駅だ。勝手にホームに入ってみるが誰もいない。蝉の声しか聞こえない駅。ベンチで10分ほど横になる。そう言えば今までもいろいろな所で腰を下ろし、いろいろな所でごろりと横になった。川の堤防、海岸、山の中、無人駅。ゴールか近づくにつれ、そういう場所もなくなっていく。

 今回の旅もこの倶利伽羅峠越えの1日だけが人目の少ない道であって、残りは街または町の道なのだ。店も自販機もふんだんにある何も困ることのない、それでいて面白味のない道。山中で草をかき分け、ヒルに血を吸われた道や3時間誰にも会わなかった道、どこからか現れた2匹の犬とひと山越えた道やクマに会った道がとても懐しく思われた。倶利伽羅を過ぎると津幡、そして金沢と街から都市へと道からの風景も姿を変えていく。

 芭蕉は金沢に10日間滞在している。加賀百万石の城下町で兼六園はじめ見るべきところの多い都市だが、芭蕉の頃は兼六園も殿様だけのものであり、この名園を見たはずもない。それでは芭蕉に代わってのんびり見てやろう。奥の細道らしい旅はまた来年、今回は観光でまったりしよう。遠くにかすむ金沢の街を眺め、そんなことを企みながら山道を下っていった。

 金沢城 撮影:筆者

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 次回は、第33回「番外編「OKU NO HOSOMICHI」サイドストーリー」です。



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