2021/9/20

女バス 公式戦  クラブ

女子バスケ部です。昨日はウィンターカップ予選1回戦でした。
初戦の硬さはありましたが、69対48で港高校に勝ちました。2年生のキャプテン副キャプテンが中心となってしっかりシュートを決め、新チームで初勝利することができました。

2回戦はプロバスケチーム大阪エヴェッサのホームでもある舞洲アリーナで、枚岡樟風高校と対戦します。応援よろしくお願いします。 ※無観客試合です

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2021/9/18

就職試験始まる  進路

本校では、進路ホームルームというものが、3年生の木曜日5限に毎週行われる。それぞれの進路に合わせて、進学、医療看護系、就職などのコースがあり、面接練習なども徹底して行われる。この16日から就職試験が始まり、ここ数日、毎日のように受験がある。頑張れ、柴島高校生。
全員合格、祈ってます。

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2021/9/17

台風の接近について  一般


台風が接近したときは次の指示に従って、対応してください。

 → 台風が来た時の措置(暴風警報)


2021/9/17

保健所による疫学調査結果及び学校再開について  一般

生徒・保護者の皆様へ

 昨日(9月16日)、本校の生徒が新型コロナウイルス感染症にり患していることを確認して以 降、保健所の指導のもと、府教育庁ならびに本校学校医とも連携しながら対応を進めてまいりま した。みなさまにはご心配をおかけしておりますが、ご理解ご協力いただき誠にありがとうござ います。
 保健所が実施した疫学調査(接触者に関する調査)の結果、今回の感染に関わっての影響はな いとの見解が示されました。併せて保健所の指示により学校施設の消毒を実施いたしました。 つきましては、明日(9月18日)から休業を解除いたします。詳しくは次のファイルをご覧ください。

 →【柴島】 0917再開:お知らせ文書

 今後の日程については次のようになります。

 9月21日(火) 期末考査(9月17日の時程通り)
 9月22日(水) 1年秋季休業日・2・3年教科書販売
 9月24日(金) 全学年秋季休業日
 9月27日(月) 答案返却
 9月28日(火) 全学年登校日
 9月29日(水) 全学年秋季休業日
 9月30日(木) 全学年秋季休業日
 10月1日(金) 後期始業式+LHR+金56(PMカット)

 よろしくお願いします。

2021/9/16

臨時休校のお知らせ  一般

生徒・保護者の皆様へ

日頃は、本校の教育活動にご理解、ご協力をいただき誠にありがとうございます。
さて、本日(9月16日) 、本校の 生徒 が新型コロナウイルス感染症にり患していることがわかりました。現在、保健所の指示のもと、府教育庁ならびに本校学校医とも連携しながら対応を 進めて いるところです。つきましては明日より、学校の全部を臨時休業(学校閉鎖)といたします。詳しくは以下のファイルをご覧ください。

→ 【柴島】 0916臨時休業:保護者あてお知らせ文書


2021/9/13

明日(9月14日)は予定通りです  一般

明日(9月14日)は予定通り、定期テストを実施します。
よろしくお願いします。

2021/9/11

新型コロナウイルス感染症に関わる保健所による疫学調査結果及び学校再開について  一般

生徒・保護者の皆様へ

昨日(9月10日)、本校の生徒が新型コロナウイルス感染症にり患していることを確認して以降、保健所の指導のもと、府教育庁ならびに本校学校医とも連携しながら対応を進めてまいりま
した。みなさまにはご心配をおかけしておりますが、ご理解ご協力いただき誠にありがとうございます。保健所が実施した疫学調査(接触者に関する調査)の結果、今回の感染に関わっての影響はないとの見解が示されましたのでお知らせします。詳しくは次の文章をご覧ください。

→ 新型コロナウイルス感染症に関わる保健所による疫学調査結果及び学校再開について

よって、9月13日(月)は予定通り前期末考査を実施しますので、よろしくお願いします。


2021/9/10

臨時休校のお知らせ  一般

生徒・保護者の皆様

本日(9月 10 日)、本校の生徒が新型コロナウイルス感染症にり患していることがわかりました。現在、保健所の指示のもと、府教育庁ならびに本校学校医とも連携しながら対応を進めているところです。詳しくは次の文章をご覧ください。

→ 緊急事態宣言対象地域等に指定された状況下における新型コロナウイルス感染症に関わるお知らせとご協力のお願い

申し訳ありませんが、臨時休校時に入試等が実施される生徒は、受験校によって対応が異なるため、大学等に直接お問い合わせくださるよう、お願いします。

2021/9/7

緊急事態宣言期間中の濃厚接触者等の特定にかかる検査候補者リスト提出について  一般

保護者の皆様

 この度、現在の感染拡大の状況をふまえ、緊急事態宣言期間中、府立学校において罹患していることが確認された場合、濃厚接触者等の特定のため、校内の検査候補者リストを保健所等が示す一定の考えに基づき作成するとともに保健所へ提出するよう、大阪府教育庁から通知がありました。
 つきましては、感染の可能性のある生徒や教職員等を検査の候補者として保健所に提出することがあります。その際は、大阪府個人情報保護条例に基づき、学校から保健所に提供することとなりますので、ご了承くださいますようお願いいたします。
 詳しくは次のファイルをご覧ください。

 緊急事態宣言期間中の濃厚接触者等の特定にかかる検査候補者リスト提出について


2021/9/3

『OKU NO HOSOMICHI』 第38回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

   1986〜2006「OKU NO HOSOMICHI」(昭和〜平成)

最終回「約束の地、20年の旅の果てに」
         (岐阜県大垣市「奥の細道結びの地」2006年夏)
 
                             国語科 副島勇夫

とうとう、20年16回の旅も終わる。重いリュックを背負い直して、関ケ原から大垣を目指す。ここからは町が途切れることもなく、低い峠を越えていく。途中に家康が陣を構えた桃配山がある。関ケ原とは距離がある。慎重に距離を置いていたのだろう。やっぱり、家康だ。攻めるにも引くにも慎重だ。峠の下り、遠くに町が見える。おそらく大垣市だ。関ケ原町を抜け、垂井町。ラーメン屋さんでは、高校野球、岐阜県大会の決勝。県立岐阜商と市立岐阜商という、ややこしい商業対決だ。

 店を出て振り返ると関ケ原の山々。その向こうにここまでの東京から始まった1750キロの道がある。リュックを頭に乗せ増水した川を無謀にもわたった、3時間以上誰にも会わなかった山道、足を痛めたところを拾ってくれたトラック、怖い思いをした数件の宿、山中で出会ってしまった熊、無人駅に泊まったり、知らない農家のおじいちゃんおばあちゃんの家にも泊まったりした。熱中症で朦朧としたこと3回。当時はまだ日射病と呼ばれた。日焼けでいつも顔の皮がボロボロになった。リュックにしみ込んだ汗が、塩になっていたこともあった。山の中、海沿い、炎天下からゲリラ豪雨まで。様々な場面を思い出す。

1度だけ冬休みに歩いたことがあった。栃木県である。膝までの雪。国道はさすがに普通のトレッキングシューズでいけたが、峠道はズボっと膝まで入る。慌てて雑貨屋で長靴を買ったものだ。「もう、これより北は冬は危ないですよ」と旅館の人に言われたものだ。あの頃は若かった。無茶がしたかったのだ。あと10キロ、8キロ。終わってしまう。町中に入っていく、まだまだ目標の終焉地までは距離があるが、とりあえず大垣の駅を目指す。ここで約束があるのだ。

駅から結びの地まで2キロ、15分。ここだけ家族3人で歩く約束だった。旅の歳月の中で結婚もし、娘も生まれた。娘も8歳である。当初の予定では、ゴールで娘を抱っこし高く持ち上げるという計画だった。まだ、生まれる前からよく前任校や前前任校の生徒に言っていた。予定は5年ほどずれて娘は小学2年。抱っこという歳ではないが、言った以上は抱っこして高い高いをするのだ。もう、これは20年前からの決まりなのだ。だから、あと2キロという大垣駅のホテルに泊まって翌日を待つことになる。いつもは私がこの過酷な旅をしている間、妻と娘、妻の姉、義母は長野県の公共の宿に避暑に来る。こちらは暑い苦行、あちらは涼しい。明日だけは炎天下になれと思った。

とうとう最終日である。あと2キロを残して、あえて駅前のホテルに泊まり、この旅で最初で最後の8時半起床である。いつもは7時。8時半に宿を出ることが多かった。家族がJR大垣駅に到着するのが12時半。まだまだ、時間はある。駅のコインロッカーにリュックを預け、身軽になりたいが、少し後ろめたい。荷物なしでゴール。芭蕉に申し訳なく思い、やはり、普段通りの重いリュックを背負い、駅前の案内書や物産館で時間をつぶす。
 商店街、大垣名物「水まんじゅう」、風鈴の音。暑いが、大阪よりは湿度は低い。大阪や京都の夏は日本最悪だとここでも思う。まとわりつくようなあの熱くむしむしと湿った空気、消耗する。この旅は、そんな空気からの解放でもあった。

 12時半。まるで、梅田にでも行くような格好で妻子は来た。こちらは、真っ黒に日焼け、短パンにTシャツ、おまけにいかにも重そうなリュックである。まず、昼食。食後の休憩の後、最後の2キロを歩きだす。気楽な2人に比べて、自分は20年の思いと旅が終わる寂しさで複雑であった。自分が予想していた旅の終わりは「奥の細道終焉の地」という石碑にタッチして、万感の思いでさめざめと泣くだろうという感じだった。

 ところがである、まさかの事態が起こる。遠くにその石碑と芭蕉と曾良の像が見えてくる。娘に「あれがゴールやねん」と言った。すると、小学2年の娘は父の万感の思いなど思うわけもなく、「ひろちゃんが先!」と言って走り出した。20年である。1758キロである。2キロ歩いた娘に先を越されるのは悔しい。猛然と走った。しかし、足はパンパンである。リュックは重い。このままでは先にタッチされる。 
 息も絶え絶えに追いついた。あと5メートルだった。ここでようやく父親の余裕を見せた。はあはあ言いながら「一緒にゴールしよう」あと数歩。他には誰もいない。川沿いに整備された歩道に、それはある。あと3歩、2歩、1歩。ゴール。
「ゴール!」とはしゃぐ娘に、泣きそうな気持も消えていた。これで良かったのかもしれない。1人で始めた旅が家族でゴールする。過去の生徒たちとの約束通り、8歳になる娘を高く持ち上げた。腰が足が痛い。しかし、心地よい。終わった。1つのことを完遂した満足感がこみ上げた。
 その心地よさに浸っていると残酷にも妻が言った。「で、来年はどこ歩くの?」なんという言葉だろう。そうだ、彼らはこの旅の裏で信州に避暑に行っているのだ。しばらく考え、しかたなく言った。「中山道」。

 1986年8月1日から始まったこの旅は、奇跡的に2006年7月31日に終了。ジャスト20年。
美しすぎる。東京から1758.4キロ。108日間。費用は204万6256円。飛行機代とお土産代、それからたまに自分へのご褒美とそこそこの温泉旅館。それらの代金を引くと50万は下がっただろう。
大学時代に友人とした「奥の細道を歩く旅」はここで完結。
翌年からは、中山道を歩く526.3キロの旅が強制的に始まった(笑)                          

                  ― 完 ―

 追記:翌年から始まった「中山道」の旅は信州を通る手ごわい旅である。途中から山の中の道が多く、近年はクマがかなりの頻度で出没する。これも温暖化のためだ。そのため、京都三条大橋を出発して、滋賀、岐阜と歩き、危険ゾーンの手前、岐阜県と長野県の県境でSTOPしている。再開はいつになるのだろう。

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2021/9/1

『OKU NO HOSOMICHI』 第37回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で「STARWARS」)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第37回「天下分け目の関ケ原 もし西軍が勝っていたなら」
(滋賀・岐阜県2006年夏)
  国語科 副島勇夫


奥の細道の旅も最終盤だ。滋賀県、琵琶湖の東から内陸を東に向かって歩き、「天下分け目の関ケ原」で有名な岐阜県関ケ原を目指す。はじめに「関ケ原の戦い」について整理しておこう。

戦国時代後期の1600年、美濃の関ヶ原で、徳川家康を大将とする「東軍」と、石田三成を中心とする反徳川勢力の「西軍」とが行なった合戦だ。織田信長が天下統一目前で、本能寺の変が起こり、自害する。「天下統一」と言っても誤解してはいけない。日本統一ではないのである。京都を中心とした本州の中央を広く収めるぐらいのものである。それだけの範囲を押さえれば、歯向かう武将はほぼいない。そんな感じである。京都にいる天皇を味方につけることも意味を持つ。しかし、貴族の時代ではなく、戦国武将にとっては天皇も政治利用の道具であり、また天皇側も統治者を利用する。明智光秀が信長を討った理由も単に天下統一ではなく、様々な黒幕説がある。
信長の死後、明智光秀を討った豊臣秀吉。光秀の想像を超える速さで中国地方から引き返すのである。おそらく、秀吉は予感があったのかとも思われる。知っていたという説さえある。しかし、豊臣の栄華は長続きしない、秀吉の死後、その子秀頼はまだ若く、石田三成や徳川家康が支えていた。しかし、戦国武将、そんな野心のない者は少ない。豊臣を守るという名のもと、石田・徳川両者が覇権争いとなる。そして・・・

石田三成ら西軍は総勢10万、徳川家康ら東軍は総勢7万が関ヶ原に陣を構えた。先に石田勢が陣を構えたことから、あとから関ヶ原に到着した徳川勢は、不利な配置となっていた。軍勢だけでも東軍は不利のはずである。濃霧の中で対峙していたが、霧が晴れて来た頃、福島正則の部隊が、宇喜多秀家隊に鉄砲を撃ち掛けたことで火蓋が切られる。山と山に挟まれ、武将たちの陣地は山上にある。決戦地は20万人が戦うには狭く長い草地である。


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 西軍は多くの武将が様子見で戦に参加せず、戦闘していたのは3万程度であったが、地形的有利が働いて、東軍は少し押されていた。しかし、東軍の黒田長政らは、事前に西軍の小早川秀秋らに、戦いとなった際には、東軍に寝返るよう合戦が始まるだいぶ前から調略(極秘に味方に)していた。
 このまま西軍に味方しようか、約束通り東軍に寝返るか、決め兼ねていた小早川秀秋は、関ヶ原合戦に参加せず見守る。そんな姿にしびれを切らした徳川家康は、昼過ぎになって小早川秀秋の陣に目がけて大砲を撃ち掛けたと言われる。「徳川家康が怒っている」として、小早川秀秋は西軍を裏切って隣の大谷吉継らの陣に突撃を開始。そして、同じく家康の調略を受けていた脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保、吉川広家らも西軍を裏切って、東軍として戦いに参加した。
 
このように、合戦が始まる前には西軍が有利であったが、徳川勢の調略が功を奏して寝返りや、動かない大名が続出する結果となる。こうして、西軍は総崩れとなり、双方合わせて6000〜8000人の戦死者を出した関ヶ原の戦いは、したたかな、徳川家康勢の大勝利となった。関西にアンチ家康が多いのはこういうところだ。したたか、戦巧者、知略にたけたと言えばいいが、卑怯だ。狡猾だ。嫌いだ。若い秀頼を支えると見せて、着々と時期を待つ。われらが太閤秀吉さんの大坂城を、堀を埋め、弱体化させ、ついには潰してしまう。そして、その上に新たな大坂城を建造する。ちなみに豊臣大坂城の残骸の上に徳川大坂城が建てられ、戦争で焼失したのち現在の大阪城が建っているのである。

したたかで、浪速の太閤はんを踏みにじった家康。その家康の徳川幕府。江戸、東京。東京は敵だ。巨人も敵だと阪神ファンは、この「大坂DNA」を受け継ぎし者なのである。もちろん、東京から見れば大阪はライバルでもない。一地方大都市である。巨人ファンも、阪神をライバルとはあまりおもっていないだろう。そこが、そこが、声を大にして言う、我々阪神ファンにとって悔しい。相手にもされていない感。だからこそ、万城目学の「プリンセス・トヨトミ」の「大坂国」に共感するのだ。「奥の細道」も「関ケ原の戦い」もどこかに飛んでしまった。

総勢20万の天下分け目の大決戦になるはずが、たった6時間で終わってしまう。家康のしたたかさに「石田軍」は総崩れとなるのである。ここで大勢は決した。後の「大坂冬の陣」「夏の陣」で完全滅亡する。ここに戦国の世は終わるのである。
もし、この戦いで石田三成が勝ち、家康が戦死。徳川家が取り潰されていたならどうなっただろうか?奈良・平安と近畿が中心であった。京都か大阪が首都なのだろうか?関西人にとっては、それも1つの夢かもしれないが、現実的には、そこまでのカリスマ性が三成にはなかった。むしろ嫌われていたため、戦国の混乱が続いたのだと思う。カリスマがしたたかに長期安定政権を作った場所、そこが日本国の中心になったのだろう。それは仙台や長野、愛知、新潟、福岡であったかも知れない。もちろん、大坂に現れたならば、現在、大阪は首都かもしれない。でも、人口は今より多く、ごちゃごちゃとした
 超大都会になっていただろう。芸能人、有名人に会えるチャンスは多いと思うが。

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  その関ケ原を目指して歩いていた。関ケ原は山と山に挟まれた場所である。冬は豪雪で現在でもJR 
 が運航停止になる。夏も雨が多い。天候が不安定なのだ。この日も曇りである。ここ何年かの奥の細道
の旅は天候に恵まれない。歩き始めたころと日本の夏は変わってきていることを感じる。四季の変わり
目が曖昧となり、夏が長くなったようだ。振り返ると、福井県の方は黒い雲である。雨は迫って来るだろう。南側は晴れている。国道を歩いているが、民家が減っていく。コンビニもない。10時半、とうとう本降り。歩道がなくなり、道路の白線の内側30センチの幅を歩く。トラックが水を跳ね上げる。
雨の中、7月末で蝉はヒグラシ、そして鶯の鳴き声まで聞こえてくる。季節も天気も、すべてがアンバランスだ。滋賀県米原町からこの旅最後の15番目の都道府県、岐阜関ケ原町に入る。

 雨が止むが、この1時間ほど民家を見ない。車以外に人も見ない。おそらく直距離トラック用の食堂で昼食。そこからすぐに、関ケ原古戦場のエリアに入った。意外だった。目の前に広がるなだらかな斜面と草地。それを取り囲む丘や低山。それらが各武将の陣の跡だった。東西の合流地。見下ろせる陣取り。戦いは平地。理にはかなっている。民家もあるが、古戦場の趣は残っている。ここに立つと見降ろされている感じがあるのだ。三成の陣の跡が残る丘に登る。敵が見える。情勢がわかるのだ。歴史マニアのおじさんに話しかけられ、20分ほど説明を聞く。奥の細道を歩いていることを伝えると握手をしてきて去って行かれた。古戦場には往時をしのぶのぼりが立てられ、曇り空に湿った風を受け、わずかにはためいていた。

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 この狭い場所に20万の兵が、功名の野心や、裏切りやお家の名誉をかけ戦った。豊臣を継ぐという名の下で、家康は自分の国を作ろうとしたたかに計画を練った。今はのどかな田舎町である。当時も何もない場所だっただろう。おそらく駅で借りられるレンタサイクルに乗った親子連れが、笑いながら競争している。あちこちに武将が戦死した場所がある。今から400年ちょっと昔のことである。

2006年の旅も終盤。ここから、「奥の細道」結びの地岐阜県大垣市までは、あと17キロ。この日は大垣に入ったあたりで泊まろう。とうとう、20年にわたる旅も終わる。私は、再び降り出した雨の中、大垣を目指して歩き出した。

次回は第38回最終回「約束の地 20年の旅の果てに」(岐阜県大垣市2006年夏)です。






 



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