2016/9/20

『OKU NO HOSOMICHI』 第16回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

国語科 副島勇夫

第16回「ジェイソンの恐怖、A・K牧場の決闘」(平泉・岩手県。1989年 夏)


 岩手県南端の小集落である西風(にしかぜ)集落に向かう山の中で私は途方に暮れていた。

 一山越えてもまだ山の中なのだ。目指す有壁(ありかべ)の集落どころか、もう2時間近く人に会っていない。車さえ通らない。しかし、車の通ることが可能な道をただひたすら歩いていた。周囲の景色はこの1時間の間ほとんど変化しなかった。おまけに天気は今にも降り出しそうな曇り空だ。

 「分け入っても、分け入っても暗い山」(「分け入っても分け入っても青い山」種田山頭火(たねださんとうか)のあまりにも自由な俳句のパクリ)なのである。ウエストポーチから20万分の1の地図を取り出すと、染み込んだ汗でモロモロになっている。その地図の1センチ四方の中のどこかに、今自分はいるのだが、それがどこかわからない。道など記されているはずもなかった。ここは山の中、家もなく人も通らない道なのである。この山を越えれば確かに有壁、そして目指す一関に着くはずなのだ。

 その時だった。前方のカーブの向うからブーンという大音響が聞こえた。機械的な音だ。木の伐採を一斉に始めたのだろう。1台や2台ではない。とにかく大勢の人がいる。道を尋ねる事ができる。私は歩を速めた。昼の1時過ぎ。昼食後の作業開始というところだろう。20人ほどの人がチェンソーで木を切っていた。猛烈な音である。私はとりあえず一番近くにいた50歳ほどのおじさんに会釈をし地図を広げた。

 おじさんは何故だかチェンソーを止めずにこちらへやって来る。そして私が「すいません道を…」と言うととても聞きづらそうにしている。(なぜチェンソーを止めないのだ?)内心軽い怒りを覚えたが、おじさんはその時はじめて「あ」という口をしてチェンソーを止めた。きっとこういう作業のため爆音に慣れているのだろう。もしかすると、あまりの音の大きさにかえって静寂を感じているのかも知れない。

 私もかって大阪城ホールで、再結成したイギリスのロックバンド「ディープ・パープル」(懐かしい人には懐かしい、知らなければ、知らないでいい)のギンギンのハードロックの中、寝てしまったことがある。あの時の耳鳴りがするほどの大音量は、私にとって音のしない安眠空間を作り出していたのかもしれない。

 などと脳科学的なことを考えていると、おじさんはあっさりと両の耳から耳栓を出した。軽い失望とともに私は有壁までの道を尋ねた。道は確かに目指す地に続いていた。そしてなぜこんな所を歩いているのかと質問され、私はこの旅の道中もう何十回と説明してきた内容を語った。その時、私は人の気配に振り返った。いつしかチェンソーの大音響は止っていた。肩からチェンソーを掛けたおじさんが20人ほど集まってきていた。

 チェンソーと言えば思い浮かぶ映画がある。ホラー映画の今や古典的作品『13日の金曜日』シリーズだ。ジェイソンが振り回すチェーンソーには、あまり気持ちの良くないイメージが着いてしまっている。

 話は変わるがホラー映画の七不思議がある。

1、必ずシャワーを浴びるシーンがある。
2、グループから離れていちゃつく男女はまつ先にモンスターに会ってしまう。
3、モンスターに追われると決まって1番最後の人が転ぶ。
4、どんなに前もって説明されていても、初めは絶対モンスターの存在を信じようとしない。軽そうな奴が、大丈夫とか言って否定する。
5、「もうダメよ。皆○○○○にやられてしまうのよ。」と泣き叫ぶセリフが必ずある。
6、グループの中に1人だけラッキーの連続する人物がいる。
7、終ったと思っても、もう一度必ずモンスターは登場する。

 (すっかり話しが変わってしまったので元に戻す)もちろん20人の心優しきおじさんたちは親切に有壁までとその先の道を地図を広げて検討してくれた。結論は西風の集落の雑貨屋の向いの道から山に入り、もう一山越えると有壁に出るというものだった。

 西風は山中の小集落だった。パン、卵、魚、肉から衣服、生活雑貨まで扱っている「吉田商店」と酒屋ぐらいしか見当らない。その雑貨屋の向いに「有壁→」と記された木の立て札があった。ここだなと思って入って行く。いかにも入っていくという感じがする、幅2メートルほどの舗装されていない上り坂の道である。

 1時間近く歩くと、また一難だった。私の進む道の左右が牧場の草地になっていた。遠くには牛が何頭もいた。牧場特有の草と糞の臭いが漂っている。それはいいのだが、良くないことに私の前にはまっ黒い大きな牛がいた。眼がぎょろりと動く。ブルルッと身を震わせ、ブフーッと荒い鼻息を出す。でかい。それなのに当然あるべき柵がそこにはなかった。牧場の人しか通らない道なのだろう。立て札に「ARIKABE RANCH(有壁牧場)」の文字。この牛の横を通るか、それとも引き返すかを考えた。有壁まであとおそらく3キロ、そこから今日の到達予定地の一関まで6、7キロ、計約10キロで、山道であることを考慮すると3時間はかかると思われた。

 午後3時。引き返しても泊まる所はない。見知らぬ地元の方のお宅で、一泊の世話になったことはこれまで何度かあったが、甘い期待をするわけにもいかない。山中の野宿も経験ありだがあいにくの曇天、いつ降り出すかもわからない。そのまっ黒い大きな牛がこちらをじっと見つめ、時折、グオッグオッと低い声でうなっている。そしてボトボトッと糞をした。臭い。敵は余裕である。

 そして絶望的なことに其の日の私の格好は赤のデイパックを背負い、クリーム色のTシャツと靴下、オレンジの短パン、そして御丁寧にも赤のバンダナまでしていた。これでは動く刺激物である。スペインの闘牛士なみだ。牛はしっぽをゆっくりと振りながら2歩前に出た。普通ならここで後ろへ下がるところである。しかし、その時の私は西部の勇敢なガンマンであった。2歩前に出てしまったのである。その間隔は約5メートル。左右の牧場の敷地にいた牛たちがこちらを見ている。心なしか彼らも近寄ってきているようだ。この牛たちに囲まれるわけにはいかない。

 私はおもむろにバンダナを外し、ポケットにしまい、背中の赤いディパックを見せないように牛と正対した。この時、1つ思い出したことがあった。牛というのは極度の近視で、赤というより自分の前でちらちら動く物に反応するそうだ。私の作戦は決まった。名づけて「西部のガンマン、超スローだるまさんがころんだ作戦」である。

 私はゆっくりゆっくり歩き出した。牛を刺激しないように、そして少しでも険悪なムードになればピタッと止まるのである。もし誰かが見ていたとしたら、さぞや滑稽な眺めであったことだろう。牛の眼がこちらをじっと追いかけてくる。最悪の場合走ろうか、いやきっと追い着かれるだろう。私は小学4年の時かけっこで2位になった以外、3位以上になったことがない。脳裏に闘牛士が牛にはね上げられる光景が浮かんだ。牛との距離4メートル。3…2メートル。周囲には数十頭の牛以外誰もいない。思わず牛に話しかける。「気にしない。気にしない。私とあなたは全然関係ありません。」勇敢な西部の男のプライドなどなかった。そして1時間のように思えた10分間が過ぎ、私は牛の横を通過した。そこで一句。

 牛の横を通る

 山頭火や尾崎放哉(おざきほうさい)のような短律の自由な俳句である。尾崎放哉の句には「咳をしても一人」や「墓の裏に廻る」「一人の道が暮れてきた」などがある。これも俳句だ。文学は自由なのだ。

 私はこの数年後、山形県の山中でもっと恐ろしいものに出会うのだが、それはいつかまた書くことにしよう。

 その後は順調だった。有壁到着の後6キロの道を、降り出した雨も何のその1時間半で一関に到着。一泊して今回の旅の目的地平泉を目指す。この年は宮城県松島から東へ向かい石巻、北上して一関を経て岩手県の平泉までの102キロを、1日平均20キロ歩く楽勝ぺースの旅である。

 平泉は北の王者奥州藤原氏4代にわたる独立国家とも言うべき一大地域の都であった町だ。時代は平安末期。平家全盛から源平の合戦の世に、中央に媚びず、金色に輝く都市と文化を築き、しかも悲劇的な最期を迎えた彼らの都の跡をじっくり見ることが今回の最大のテーマだった。ようやく、本題の平泉に入るが、続きは次回。

次回は第17回「800年前の墓標。頑張れ!みちのくプロレス。ロッテ・オリオンズの栄光と挫折」(平泉、岩手県。1989年 夏)です。

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