2016/9/23

FILE1 映像の発見  先輩 K先生の映画学ガイド

担当者 国語科 小柳優斗



 今回から映画に関する様々なことを紹介していきます。まずは映画創成にまで遡ることにしましょう。映画誕生のためにはもちろん「映像の発明」が必要不可欠。そして映像の発明のためには、目の前の光景を一枚の静止画に写し取る「写真技術の発明」が欠かせません。ただ、そこまでいくと話が伸びすぎて収集つかなくなるので、今回は「映像の誕生」までにとどめて話をしたいと思います。どうぞ、お楽しみください。


ガイド2「映画創成――映像の発見」

 映画の魅力ってなんだろう? 映画の持つ本質的な面白さとは――それを探るために、映画誕生にまで時空をさかのぼって考えてみよう。いかにして、あのすばらしき魔法は生まれたのか。……。

 1872年のこと。カリフォルニア州元知事であるリーランド・スタンフォードは、当時一般に議論されていたことについて、友人と賭けをした。その内容というのは、

 ギャロップする馬の脚運びで、4本すべての脚が地面から離れる瞬間はあるか ないか」

 というもの。スタンフォードは「ある」側に立ち、立証するためにイギリス生まれの写真家エドワード・マイブリッジに協力を依頼する。マイブリッジは5年と5000ドルという莫大な期間と費用を費やして(賭けとか忘れてるレベルじゃないかしら)、特殊な写真装置を制作。それによって撮影された写真が、長きにわたる論議に決着をつけることとなった。
 それがこちら。
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 マイブリッジの写真装置は、高速シャッタースピード、大口径レンズ、高感度感光材料を備えた撮影機を等間隔に12台並べ、馬のギャロップに合わせて次々にシャッターを切る仕掛けを組み込んだもの。このいわゆる連続写真は、論議に決着をつけてスタンフォードを賭けに勝利させたのみならず(2枚目見たら、あきらか浮いてますよね)、多くの人々から素晴らしき発明と喝采を浴びた。特にこの写真の動的錯覚に目をつけた人は多く、さまざまな幻灯機に、これを基にした写真や絵が使われることになる。
 やがてこの技術に触発され、より洗練されたものを発明した天才がいた。
 発明王――メロンパークの魔法使い――トーマス・エジソンである。

 この12枚の写真を続けてみると、馬が動いて見えるという点にエジソンは眼をつけた。そうして発明されたのが映写機キネトスコープである。ここに映画の萌芽がある。

 「映像」はいかにして動いているように見えるのか、ここでおさらいしておこう。要はパラパラ漫画である。上記の馬の絵を1枚ずつ切り取って12枚重ね、指ではじくようにパラパラしていくと、馬がまるで走っているように見える。−−この見えるというのが曲者なのだがそれは後で説明するとして、フィルムと呼ばれるものはどれほどハイフレームであろうと、基本的にはこの原理に基づく。1枚1枚の静止画が高速で投影されることによって、動いているように見える――それが映像である。

 エジソンのキネトスコープは素晴らしい発明であったが、今の映画とは趣を大きく異にする娯楽でもあった。まず形状の問題がある。キネトスコープは箱の中を覗き込むようにし、内部に投影される映像を楽しむ、「のぞきからくり」のようなものであった。映像をスクリーンに投影し、多くの人々が一緒になって楽しむ「映画」はシネマトグラフという複合機によって撮影されるもので、フランスのリュミエール兄弟による発明であった。このシネマトグラフが、現在まで続く「映画」の起源となる。

 斯様にして映画は誕生した。そのすべては、本当に思いがけない、一つの「賭け」から始まったのである。

 今回のガイドで注目したいところは「映像」が動的錯覚によるものだということに尽きる。映像は、普段われわれが世界を見ているのと同じように、事物の連続した動きをそのまま写し取ったものであると考えている人が多いが、実はそんなことは決してない。上記の映像の説明でも、動いているように「見える」という表現が何度も出てきたように、実は映像を細かく解剖していくと、その基本にあるのは一枚一枚は決して動くことのない静止画の寄せ集めである。それを続けて、高速で展開していくことで、我々にはそれが動いているように見える――ここが面白いところだ。
 
 マイブリッジの上の写真に戻ってみよう。1枚目と2枚目。馬の脚のポーズは明らかに違っている。ここで一つ疑問を持つ。1枚目と2枚目の間には、何があるのか。馬は1枚目のポーズの次の瞬間には、2枚目のポーズになったのだろうか。

 答えは明らかである。1枚目と2枚目の間には、撮影されなかった過程があるはずだ。マイブリッジは12台の撮影機を並べて撮影に臨んだが、これが倍の24台だったら、同じ馬の同じ動きを、同じ時間だけ撮影したとしても、もっと細かい過程を撮影することが可能だったはずである。その倍の48台だったら、それぞれの写真に現れる違いは、おそらく肉眼では確認できないほど微細なものとなるだろう。だがここで注意したいのは、カメラを増やせば増やすほど微細な動きをとらえることはできるが、それでも、次の写真に至るまでに「撮影されなかった過程」が消えるわけでは決してないということである。つまり、1枚目と2枚目は――いや、その二つだけに限らず、連続写真は、連続しているようで実はやはり、刹那の単位でみれば連続してはいないのである。
 
これは静止画の寄せ集めであるという映像の原理の立場からすると、決して逃れられない宿命のようなものだ。1秒間の動きを撮影するのにどれほど多くのフレームを費やしたとしても、細かい間隙はどうしたってできてしまう。人間の目には見えないほど細かい間隙だとしても、人間よりもっと鋭敏な視覚を持つ動物の目には、それがどう映るだろう? 我々には映像と見えるものも、「1枚ずつの写真が、一定の間隔で次々と移り変わるもの」としか映らないかもしれない。

 我々の目が、連続する静止画を「動画」「映像」と認識してしまう、それは錯視である。1枚1枚の静止画、その刹那の狭間にある「撮影されなかった過程」を脳が無意識に補うことで初めて、「映像」は「映像」として認識することが可能になる。それはセルアニメやストップ・モーションアニメーションに限ったことではなく、動いているものをそのまま撮影しているはずのライブ・アクションでも同様であり、映像であるためには人間がこのような「錯視」をもっていることが絶対の条件であった。


さて――ここで映画の魅力というところに立ち返ってみる。


 映画創生・映像の誕生――これらの点から浮かび上がってくるのは、人間の実に信用ならない視覚の特性というやつと、映画が、映像技術がその特性を逆手に取ることで完成される、実に魔幻的な娯楽であるということである。だがこの魔幻的な性質は、映画という娯楽の本質そのものとも非常に相性が良かった。物語であろうと視覚上のものであろうと聴覚上のものであろうと、「現実に起こりえぬことを、さも本当に目の前にあるかのごとく錯覚させ、楽しませる」のが映画の本質である。それは虚構と分かっていても、作り物だとわかっていても、観客の目を奪い、心を弾ませる最高の魅力に他ならない。そこに、映画の持つ力がある。

映画は錯視から始まった。そしてこれからも我々を騙し続ける。我々はそれが虚構であると知りながらも、スクリーンから目を離すことができない。映画は上映が始まったその瞬間から目を耳を、心を現実から引き剥がす。そして夢幻に――無限に――続く恐るべき空想の世界へと我々をいざなう。果てしなき可能性の探求へと、人々を駆り立てる。
 
 映画は人を惑わせ続ける。だからこそ、映画は面白い。







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