2016/9/25

FILE2 深淵に見つめ返される恐怖  先輩 K先生の映画学ガイド


担当者 国語科 小柳優斗

 
 前回の映画学ガイド、いかがでしたか? 映画や映像が、「錯視」を前提としているというところから映画創生と映画そのものの魅力について語りました。今回も「視る」ということにこだわって、話を進めていきますが、趣向は大いに違います。大切なのは「視る――視られる」という関係です。映画が、いかにそれを巧みに物語の中に活用してきたか、その絶妙な手腕のほどをいくつか紹介して、私たちが映画に対して抱く「スリル」や「恐怖」の謎に、肉薄してみたいと思います。
 それではどうぞ、お楽しみください。


ガイド3「深淵に見つめ返される恐怖――支配関係の逆転」

 2016年現在で007シリーズの最新作といえば、2015年に公開された『スペクター』。個人的にはその前の作品である『スカイフォール』が超良くて(オールタイムベストにも入れているくらい)、それに比べると『スペクター』は期待を100%満足させてくれる映画とは評し難かった。が、グッとくるところはいくつもあって、その中でも特に忘れがたい1シーンがある。それを取り上げて、今回の導入としたい。


 物語中盤。007ジェームズ・ボンドは、敵のアジトに潜入する。そこは大聖堂のごとき広間で、中央に大きく長い机が置いてあり、十数名の幹部が向かいあうようにして椅子に腰かけ、悪事の計画を練っている。二階の廊下には部下と思われる者たちが物言わずずらりと並んで、下で行われる会議の様子を見守っている。ボンドは部下たちの中に潜り込んで、成り行きを見定めることにする。

 ――と、下に集う者たちの中で、首領らしき男が口を開く。男の顔は影に覆われていて、声だけで辛うじて性別がわかるようになっている。むろん表情はうかがえない。何気ない口調で男は言葉を紡ぐが、それは2階に潜入しているジェームズ・ボンドに向けられたものであった。そして男はゆっくりと首を持ち上げ、こちらを――ボンドを見上げるのである。
 
 ボンドは戦慄する。誰にも気付かれず潜入したはずが、男にはっきりと視られていた。彼は大急ぎでその場を逃げ去る。その後息つく間もないカーチェイスが展開され、それはそれで楽しめるのだが、個人的にはこの会議のシーンが、『スペクター』全シーン上で、最も強く印象に残ることになった。


 同じようなシーン、そして同じような心の動揺を、以前にも味わったことがあった。2001年の『ジュラシック・パークV』。恐竜たちの新天地、人間にとっては悪夢の楽園イスラ・ソルナ島では、必死の逃走劇が展開されている。物語も中盤をやや過ぎた頃の見せ場として設定されているのが、翼竜プテラノドンからの逃走――「鳥カゴ」のシーンである。プテラノドンは前作『ロストワールド ジュラシック・パークU』の最後にも登場して、そのクオリティの高さから恐竜ファンを唸らせたキャラクターだが、本作では『恐竜100万年』にも見られたような、獲物を掴んで飛び去る悪役として位置づけられている。『V』ではこのプテラノドンに、エリック少年が連れ去られ、それを勇敢な若者ビリーがパラシュートで救出する。主人公アラン・グラントやエリック少年の両親は、地上(鳥カゴの中)から、二人を追いかけている。

 ビリーはエリック少年の救出に成功するが、今度は自分がプテラノドンに狙われる。パラシュートが崖に引っかかり、何とか川に着水したものの、濁流に足を取られて流される。上空からはプテラノドンの嘴に啄まれ、川の水は赤く染まる。グラント博士たちは川岸までは行けたものの、そこから先に行くことができず見ているばかり。

 カメラは川の流れに乗るように右へと移動していくが、途中から川岸手前に妙なものが映り込む。すらりと長い、何かの影――カメラは川の奥にピントを合わせているのでややぼけているが、その妙な影が中央に移動したところでこっちにピントが合って、それが別のプテラノドンであることを知らせる。観客含め人間サイドがハッとすると同時に、プテラノドンがゆっくりと首を回して、爬虫類の無機質な目で、じっとこちらを睨みつける

 視られていた……戦慄が背中を走り抜ける。

 『ジュラシック・パークV』は90分という時間のほとんどを、恐竜からの逃走に費やしている。スピノサウルス、ヴェロキラプトル、プテラノドン……そのほかさまざまな恐竜との遭遇、そしてそこからの脱出を描く。これでもか、これでもかと見せ場を用意するサービス精神は、まるで遊園地のライドのごとく爽快なものだが、恐怖演出となると心底怖くなるようなシーンは少ない(グロいとか、でっかい音で驚かせるとか、そうしたものでは心底の恐怖は得られない)。そんな中でこのプテラノドンの「睨み」は、恐怖演出としては随一のものであった。特に派手なわけではない。大きな音がするわけではない。カメラスピードはむしろ緩慢なくらいだ。にもかかわらず、あの時背中をつたった冷たい汗の感触は、なかなかに忘れることができないものであった。


 

 この「視られていた」とわかった瞬間に覚える恐怖やスリルというのをひも解いてみると、中々に白いことが分かってきそうだ。それは次元を超え、スクリーンを超え、映画を「視て」いる観客に直接訴えかけてくるスリルであり、恐怖である。安心してシートに座り、ポップコーン片手に映画を楽しんでいる我々の心を刹那、不安におとしめるテクニックである。絶対的安全圏にいる――そんな確信を揺るがすことのできる、素晴らしき効果である。


 実はここには「心霊写真」に我々が感じる恐怖と近いものがある。映画だけでピンとこない場合は、こんな感じのものを想定してみたらどうだろうか。

 海辺ではしゃぐ友だちを映した、何気ない旅の写真。ところがよくよく眺めてみると、水面に見たこともない女の顔が写っている。血の気の失せた、青白い顔。感情のうかがえない目で女は、こっちを見つめている……。

 この時なにゆえに恐怖を感じるのか。女――幽霊の顔が怖いから。いるはずのないところに映っているから。むろん、そうした恐怖もあるだろう。ならば問いを変えて、この心霊写真に対して、一番恐怖を感じなければならない立場にあるのは誰か。撮影した自分か幽霊と一緒に映ってしまった友だちか……。

 これは心霊写真の種類にもよる。被写体の体の一部が消えているなどすると、それは霊傷などと言って、近日中にそこを害する予兆なのだという話もある。が、今回の想定例に限って言えば、恐怖しなければならないのは、カメラを構えていた撮影者である。なぜか。視られているからだ。

 写真を撮影するという行為において、空間支配というやや仰々しい観点から考えてみたい。写真撮影の場合は、空間の支配権は撮影者にある。アイドルの写真集などでも同じだ。撮影者の指示に従ってポーズや表情を変えたり、立ち位置を変えたりする。撮影というのはそうしたもので、どんなものを撮ったって、撮影者の意識なり意図なりがどこかしらに顕れてくる。そもそも「この風景を撮ろう」という選択こそ、「撮影者の意図」そのものではないか。写真撮影において、そこに映されるものの支配権は、ある程度撮影者にある。風の向きや日光、波の具合など自然物に干渉することは不可能だから「ある程度」としておいたが、少なくとも「被写体」である友だちに対する支配権だけは備えている。

 ところがここに――まったく干渉されない異物が紛れ込んで、しかもこちらをじっと視ている。カメラを通して、こっちが視ていると思っていたはずの世界だったが、実は視られていた。ここで空間の支配関係ががらりと逆転する。だから怖いのである。これは人類が生まれながらにして持っている、異的な存在への恐怖、嫌悪と同じ類のものである。自分が支配していたはずだった場所の中に、自分の力ではどうにもならない存在がいる。そいつは確かに自分を見つめている。自分を害する気持ちなのかも分からなければ、仮にそうだとした場合に、どうすれば良いのかも分からない。

この、「日常性から乖離した異物」に対して持つ「わからない」という感情ほど、恐ろしいものはない。人間が抱く恐怖の根源は、ほとんどこれである。

 冒頭で紹介した映画の1シーンは、こうした、人間が根源的に持っている恐怖を引き出してくる。スクリーンを前に、シートに座り、映画を楽しむ我々観客は、自分が絶対の安全圏にいると思っている。目の前でどんな恐ろしいことになっても、それが自分にまで及ぶことはないと思っている。それは真実、その通りである。映画というのは、日常では経験できない(というかしたくない)ものを、見せてくれるものだ。だから観客は、映画を視るということにおいて、支配権は自分にあると思っている。映画に限らず、本でも同じことだ。嫌だったら、本を閉じてしまえば良い。嫌だったら、視るのを止めてしまえばよい。「視る」ということは、自分の意思ひとつで自由にできるものだと思っている。


 そこに、前述したようなシーンが効果的に入ってくると、「視る――視られる」の関係が逆転して、観客はどきりとする。もちろん、物語上の演出としては、首領に視られたのは007であり、プテラノドンに視られたのはグラント博士だ。しかし演出としては、首領もプテラノドンも、こちらを――観客を視た。スクリーンを超え、次元を超え、まるで我々の存在に気付いているかのように……。視られている……そこに恐怖を覚える。これは映画が、一度にさまざまな視点を扱えるからこそ成立する効果である。一つの作品の中で、映画は実に多くの視点を持っている。その視点を巧みにコントロールすることで、感情移入とはまた違った形で、劇中のキャラクターが感じている恐怖やスリルを、我々観客にも追体験させることが可能となる。


 怪物と戦う者は、その過程で自らも怪物とならぬよう心掛けよ。
 深淵を覗き込むとき、深淵もまた、お前を見つめているのだ

 ニーチェが『善悪の彼岸』に記したこの警句は、これまで様々な物語で扱われている。映画のテクニックとして、これを巧みに扱ったものは多い。我々は、映画をただ一方的に視ているわけではない。スクリーンの奥に広がるその世界もまた、我々を視て、訴えかけてくる。様々な手を使って、観客を中に引き込もうとしてくる。観客にとって、それは目の前で展開され、過ぎ去ってゆく虚構の――作り物の世界ではない。たとえ体は安全圏に置いて行っても、心は現実を離れ、スクリーンの中にある。

 視ているのは我々だけではない。映画は常に、我々を見返してくる。





 ちなみに、カメラが映し出す視点――ということを考えた時に特におススメしたいのが『ブラック・スワン』という作品。バレエの主役に選ばれた少女が、そのプレッシャーから次第に狂気に走ってゆく過程を描いているが、これがまた面白い。CG全盛期の現在、我々観客も目が肥えて、ちょっとやそっとの視覚効果では驚けなくなってしまった。『ブラック・スワン』はそれを逆手に取り、観客を惑わす。カメラは少女の視点から多くのものを映しだすが、それが現実か、それとも狂気の妄想なのか、まったく判断がつかない。すべては現実に起こったことなのかもしれず、また一方で、すべては少女の病んだ精神が見せた一切の幻だったのかもしれない。前回のガイドでも触れたように、人間はすべて心でものを見ている。『ブラック・スワン』が描き出すのは、一人の人間の、次第に狂気へと走る心の在り様である。何をどうしたって、絶対に覗き見することのできない世界である。我々はそれを見つめる。そして映画のほう――ありとあらゆる手を使って、我々のことを、見つめ返してくる。




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