2016/11/14


担当者 国語科 小柳優斗


 世界中で愛される映画キャラクターとは誰? 007? R2D2? ミッキーマウス? いろんな名前が上がりそうですが、その中に必ずと言って良いほど入ってくる、我らがインディー・ジョーンズ。『レイダース・失われた聖櫃』から始まって計四作品が製作され、いずれも大ヒットを飛ばしました。噂では近々、インディ5が製作されるかも――? とのこと。ハリソン・フォードは続投するのでしょうか。いろいろなことが気になる噂です。

 逆に、「インディー・ジョーンズって何よ?」と首をひねる方に、簡単に紹介しておくと、「インディー・ジョーンズという考古学者にして冒険家が、世界のあちこちに行って、世界のあちこちで崖から落ちそうになる話」です。冗談でもなんでもなく、実際にそういう話なのです。というのも、このインディー・シリーズは1930年代ごろに流行した「冒険活劇」を現代に蘇らせるという試みで作られたものなのです。冒険活劇とは、当時の映画館で公開されていた十数分の短編シリーズのことを指すのですが、観客の興味を持続させるために(=次回作を観に行こうという気にさせるために)、最後は必ず、崖から落ちそうなところなど、主人公たち絶体絶命のピンチ! という、非常に良いところで物語をぶった切ることをしていました。これをクリフハンガー(崖から宙づり)といいます。そんなところで終わったら、続きが気になって仕方がないじゃないか! という事で、観客は次回作にも足を運ぶと、そういうわけなのです。


 インディー・ジョーンズの魅力のもう一つは、世界をまたにかける大冒険。世界のあちこちを旅し、命がけのアドベンチャーに挑む彼の雄姿に、観客は惜しみなく声援を送ります。インディー・ジョーンズ・シリーズが銀幕を魅了するはるか以前より、映画にはそうした側面がありました。冒険の疑似体験――スクリーンの奥の秘境へと、主人公と共に足を踏み入れるその興奮は、私たちが実際に海外を旅して味わう感動と、根を同じくするものなのかもしれません。

 映画を通じて、秘境を旅する――。さあ、冒険に出かけましょう。



 ガイド7「秘境――スクリーンの奥 未だ見ぬ人 未だ知らぬ世界」

 火星への移住すら計画されている今日、人類の足って、随分と遠いところまで届くのだなと思う。
 ところが、よくよく考えてみると実際はそうでもない。海外旅行というのは一部の国のみが持ち得る娯楽である。自分の国から一歩も外に出ないで一生を終える人だって、いてもおかしくはない。また、旅行に行ったとしても、実際に異国へ旅をした気分になれない時もある。いわゆるランドマークや観光名所は、「旅行用」に設えられたアミューズメントのようなもので、必ずしもその国の実情や真性とイコールではないし、どこに行ったって同じファーストフード、同じコーヒーショップが目につく。自分の国と同じように、異国を「歩いて」いるかと言われれば、海外旅行程度では難しいだろう。
 一方で情報だけは多分に持っているから、たとえ海外に行かなくても、なんとなく「知った気」でいられる。ピサの斜塔を見て「ガイドブックで見たのと同じだ!」と嬉しそうに叫ぶことが、どんなに素っ頓狂なことか。実物が写真通りかどうかを確認しに来たのか? と、意地悪な気分になる。

 自分の国とは違う場所、違う国へ行き、今まで知りもしなかったもの、見たこともなかったものに触れる――海外に行くとは本来、そうした目的があったと思うのだが、この情報化社会ではそれも無理難題だろう。火星に行こうとしているこの現在、我々はこの世界についてある程度は知っている。どこに行くにも、事前知識をふんだんに詰め込んで行く。


 前人未踏・未開……そうした言葉は、もはやこの地球上では過去の遺物となった。唯一、これらが生き残る場所があるとすれば、それはイマジネーションの世界しかない。そしてイマジネーションが実際に形をとって現れることができる映画の世界ならば、まだまだ、「未だ見ぬ世界」は扉を開いて我々を待ってくれている。

 歴史を紐解けば、それこそ大航海時代は前人未到の地を踏むために、各国の猛者が次々と海に船を出した時代であった。少しずつ「未開」のものが明らかになるにつれ、それを遙かに凌駕する謎、興味もまた生まれ出た。黄金の国ジパングと謳われた日本だが、その日本だって、異国のことをトンデモ風に空想・想像していたことは、たとえば江戸時代の草双紙を見ればわかる。

 現実の「冒険」と同じくらい、あるいはそれ以上に我々の心を惹きつけてやまないのは、言うに及ばず空想上の冒険――文学的な冒険であった。時代を大きく下って、冒険小説が大流行した当時を見てみよう。ソロモン王の洞窟への旅……失われた世界、メイプル・ホワイトランドでの大冒険……月世界への旅……海底二万里……地底旅行……様々な「未開」の地での冒険が始まった。人々はそれに熱狂し、息迫る大冒険に心を浸らせた。

 やがて、それが目で見えるもの――映画という形で現れてくる。
 特に早いので一作品紹介すると、何といってもジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』であろう。ヴェルヌの小説を原作とし、世界最初のSF映画の誉れ高いこの作品は、何と1902年に誕生した。たった14分しかないこの作品には、映画の魅力がふんだんに詰め込まれているといわれ、映画史を語る上でも絶対に欠かせない一作である。この月世界旅行で、人類は空想とはいえ月面に立った。それは初めて見る月の光景だった。初めて『月世界旅行』を見た人々の感動は、いかばかりであったろうか。

 その後、さまざまな「未開への旅」が花開いた。
 「未開」の要素は、冒険映画の専売特許というわけではない。そこに映されるものが、現実と切り離された、まったく新しいものであれば、どんな映画でも「未開」の要素になりえた。『大列車強盗』から始まる西部劇、『メトロポリス』で頂点を極めたSF、そのほか、ありとあらゆるジャンルの作品で、「未開」の要素は人々の心を楽しませてきた。

見世物的「未開」を考える中で、どうしても外せないのは『世界残酷物語』『残酷大陸』などを手掛けたヤコペッティだろう。世界中で撮影されたショッキングな映像を、印象的につなぎ合わせて観客の心に訴えかけてくるこの「モンド映画」は、すさまじい衝撃とともに、「人間は本質的に残酷な一面を必ず持っている」という、誰にも否定しようがない定義を突き付けてくる。テレビの「世界丸見え」「緊急24時」「衝撃映像100連発」など、今のテレビでも放映されるこれらの番組の裏には常に、ヤコペッティの影がある。だが、世界の「事実」を克明に伝えるこれらモンド映画については、今回はさほど触れることはない。それよりも空想の中で花開いた「未開」を、考えてみたい。


 「未開」を語ること即ち、映画のほとんどすべての作品を語ることにつながる。ここではきっかけに立ち返って、『インディ・ジョーンズ』シリーズに代表されるような未開への旅――冒険映画を中心に見ていきたい。インディ・ジョーンズは旅する先々で、様々な民族に遭遇する。『レイダース 失われたアーク』のホビト族が好例だ。『魔宮の伝説』の舞台となったインドの、シャンカラ・ストーンを信仰する村にも、異国情緒が漂っている。『クリスタル・スカルの王国』にも、毒の吹き矢を使ってインディらを狙う墓守や、遺跡の中に隠れて襲ってくる原住民の姿が描かれる。彼らはいずれも脇役ながら、とてつもない存在感を持つ。そしてここで重要なのは、そうした異国の民らに対する、インディ――主人公の立場である。インディシリーズそのものが1930年代を舞台に設定している上、それまでに作られた数多くの冒険映画、西部劇映画、スパイ映画にオマージュをささげているので当然だが、彼の立ち位置は、上述のたとえば『ソロモン王の洞窟』に登場する冒険家らと非常によく似ている。つまり、白人が未開の地へ旅立ち、そこで原住民とひと悶着あったり、ある時は共闘したり、またあるときは戦ったりして目的を成し遂げる、という構図である。

 『レイダース』で登場するホビト族は、インディのライバルの考古学者(白人)ルネ・ブロックに騙され、良いように利用されてインディを襲う。立ち位置としては悪役である。『魔宮の伝説』の村にとってインディは、救世主の立場である。また、敵となる邪教集団サギー教の構成について考えてみると、構成員はそろってインド人のようだ。早い話、『魔宮の伝説』は、白人であるインディが、インドの邪教からインドを救う話である。ここではインド人が救いを求める「被害者」そして、実際に村を虐げる「加害者」両方の立場を以て描かれている。『クリスタルスカル』に登場する墓守は非常にわかりやすく、スカルの謎を解くために現れたインディを、単純に殺しに来る。そうして返り討ちにあって逃げ帰る。シンプルな「障害物」の役目を持っている。遺跡から現れた原住民チックな方々は、初めにインディを襲い、続いて現れたKBG(今回の敵役 やはり白人)に牙をむいて、綺麗に一掃される。『インディ・ジョーンズ』シリーズにはこうした、「障害物」「敵役」としての「未開の民」に、主人公たちが挑むという構図が非常に多い。そしてそれは『ソロモン王の洞窟』のアラン・クォーターメンそのままなのである。

 「未開の民」との衝突や戦い、そこから生まれるスペクタクルを醍醐味とした作品が、愛される時代があった。いや、それは今もなお続いているかも知れない。『インディ・ジョーンズ』シリーズは1981年に誕生してから今の今まで、多くの支持を受け続ける名シリーズである。他にもたとえば『キングコング』を思い返してみると、魔獣トレ・コング(こいつがキングコング)を信仰し、生贄をささげるためヒロインを誘拐してくる原住民が描かれる。1930年版でも、PJ監督の2005年版でも同様のシーンがあった。

 だがここで注目してみたいのが、この2005年版『キングコング』なのである。この映画パンフレットの中で、PJ監督がしきりに主張していることがある。曰く、「本編に登場した原住民は、様々な原住民の要素を組み合わせて作り上げた空想のもので、決して特定の民族をモデルにしたわけではない」と。

 この、妙にフォローっぽい一文が、どうにも気にかかっていた。そうして調べてみて分かったのだが、どうやら『インディ』シリーズに代表されるような原住民の描き方に、眉を潜める「識者」の皆さんが現れだしたようなのである。つまり「未開」を描くことに難色を示し、白人の主人公が未開の地で冒険し、村を救ったり原住民と戦って勝ったりするという「白人優位」の傾向が、人道的にどうなの? という意見が出てきたらしいのである。PJ監督が自らの作品で描いて見せた原住民に、あれほどのフォローを付け加えたのは、そういうわけであったのだ。

 確かに現実の目から見れば、『インディー』シリーズや『キングコング』に描かれる原住民は、古臭いステレオタイプの産物かも知れない。しかし、どちらの作品とも1930年代を舞台に設定し、その当時の空気なり雰囲気なりを再現しようとしている作品である。その時点で現実から飛躍した、ファンタジーである。むろん、世界の歴史を紐解けば、特定の民族に対しての弾圧、差別、迫害など、決して目を背けてはならない事実があったことは周知のことである。が、そうした指摘を真剣に作品に取り入れて「人道的に正しい」作品を作ったらどうなるかというと、アメリカ西部開拓時代を舞台にした『ローン・レンジャー』で、インディアンの青年トントを、日本語字幕でわざわざ「アメリカ先住民」だの「ネイティブ・アメリカン」だのと書き換える(実際の英語では「インディアン」と言っているにもかかわらず)など、そうしたみょうちきりんなことになる。

 個人的な見解を言えば、「描き方が正しくない」「史実と違う」という指摘は、それが映画のリアリティに大きくかかわってくる場合のみで充分だと思う。たとえば、ギャレス・エドワード版『GODZILLA』の舞台となった日本の都市は「チャンジラ」という名がついていたが、日本のどこを探したって、そんな名前の都市はない。差別とかそうしたこと以前に、こういうことは、作品そのもののリアリティにかかわることだから、そこはしっかり踏まえるべきだと思う。

 だが、「差別的」「人道的」という観点から映画にとやかく意見し、事実それが映画製作に何かしらの影響を与えることになる場合がある。以前のガイドでも紹介したとおり、映画は「現実では絶対に経験したくないものを経験させてくれる」娯楽である。現実を飛躍し、恐るべき空想の世界へと我々をいざなってくれるものである。そんな映画にまで「品行方正さ」を求めてどうするのか。映画にまで「正しいこと」を押し付けてくるのか。そんな無理が通れば、映画が描きえる世界には、何の魅力も残らなくなる。『ロード・オブ・ザ・リング』だって白人優位の差別映画になる。映画史に燦然と輝き続ける金字塔にもかかわらず! である。

 映画界に侵攻し始めている「ポリティカリー・コレクト」の余波で、飛び切りの個性を持つ作品が作られにくくなっている。2006年『アポカリプト』、2011年『セデック・バレ』など、それでも強気の民族や未開の地を描く作品はあるにはあるが、かつての『レイダース』のような、どこか牧歌的なあの原住民たちは、もはやDVDの中にしか登場しえないのだろうか。情報化社会に拍車がかかる現代、もはやこの地球上で知りえぬ場所は海底のみというこの時代、どこにも「未開」「神秘」はないのでは……そういう気がしてくる。

 しかし、人間の想像力というのは、あきれるほどに柔軟である。

 地球上に「未開」を、「神秘」を見出し得ないのであれば、ほかの所に見つけるしかない。本ガイドは、そうした意欲に燃え、結果素晴らしいアイデアで新たな世界を「構築」した二作について紹介し、幕を下ろしたい。

 一つ目、1966年公開のアメリカ映画『ミクロの決死圏』
 襲撃を受けて脳内出血を起こした科学者。重要な情報を握る彼を目覚めさせるため、潜航艇をミクロ化して、医療チームが果てしなき「人体への旅」に出発する。つまり「未開の地」にあたるのが、人体の肺の中であり、内耳の中であり、脳の中なのだ。そして「障害物としての原住民」の役割を担うのが――驚くことなかれ白血球たちである。潜航艇を、人体に侵入した「異物」と見なした免疫担当細胞たちが襲ってくるのだ。素晴らしい発想だと思う。「原住民の描き方がなってない!」と怒る人はいても、「白血球の描き方がなってない!」と怒る道徳家はいないだろうから。

 二つ目、2010年公開のアメリカ映画、渡辺謙も出演した『インセプション』である。
 この映画では、人の見る夢を「未開の地」として設定している。他人の夢に入り込んで、その人物が持つ「アイデア」を盗んだり、あるいは特定のアイデアを植えつけたりする。この場合、「障害物としての原住民」の役割は、夢に入り込まれていることを感じて異物を追い出そうとする「潜在意識」や、ターゲットがアイデアを盗まれないように事前訓練を受けていた場合、その意識が敵となって主人公たちを襲ってくる。緻密に考えられた設定や、外敵、夢の世界という「舞台」の面白さなど、様々な冒険的魅力を持つ作品である。

 ポリティカリー・コレクトによって、表現の幅を狭められる――嘆かわしいことではあるが、人間の想像力は、そうした制約にもめげず、元気に次なる「未開」を探し出しているようだ。映画はこれまでも、そしてこれからも、観客を次なる「未開」を作り上げ、観客に旅を促す。たとえ地球上にあるものすべてが分かったとしても、人は新たな「神秘」を探し求めるだろう。まだ描いていない、思いもよらぬ未開の地――イマジネーションが紡ぎだす素晴らしき冒険(FANTASTIC VOYAGE)は、いついかなる時でも我々を待っている。




※「FANTASTIC VOYAGE」は、文中に登場した『ミクロの決死圏』の原題。



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