2016/12/5

『OKU NO HOSOMICHI』 第23回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第23回「対決!花笠音頭 VS 六甲おろし」(立石寺、最上川、山形県。1993年、夏)


副島 勇夫(国語科)

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「山形領に立石寺と云う山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に静閑の地也。一見すべきよし、人々のすすむるによりて、尾花沢よりとって返し」

 松尾芭蕉が山形の古刹、立石寺に到着したのは元禄二年(1689年)5月27日、現代の暦での7月13日午後3時ごろのことであった。それから約300年後の7月28日のほぼ同時刻に、私は小雨の降る中、同じ場所に到着した。

 7回目の「奥の細道」を歩くたびの初日である。

 前年の到着地、山形県村山市楯岡を10時に出発し、約25キロを雨の中で過ごした。初日というのにすっかり気分は萎えてしまっていた。レインポンチョを着ていても5時間歩けばすっかり体は濡れてしまい、夏だというのに肌寒かった。気温23度。7月末なのにである。

 目の前にはひなびた土産物屋、食堂などが並ぶ。典型的な観光地である。その小さな町を背後から見下ろし小高い山が雨の中に煙っている。その中腹から頂上にかけて、巨岩と岩上の院々が点在するのが見える。夕方になりつつあった。もとより傾くべき陽さえ出ていない。寒そうだった。

 この日は登るのをやめて宿を探し、「山寺ペンション」に泊まる。部屋に入り暖房をつけ仮眠。時間前だったが特別に風呂に入らせてもらい暖まり、濡れた服を洗濯する。風呂上がりの山ぶどうジュースが美味。食堂のテレビが明日も雨であることを告げている。

 翌朝、微かに晴れている。荷物を宿に預け、朝食もそこそこに立石寺に向かった。雨が降りだす前に立石寺を観て、23キロ先の東根までは行きたいのだ。大阪は梅雨明けしているのに、東北だけは未だ開けていない。観測史上最長の梅雨らしい。

 入口山門に到着したが朝早いため、観光客は誰もいない。奥の院如法堂までの1018段の石段を駆け上がる。芭蕉の句の短冊を埋めたという蝉塚で休憩。雨に濡れた木々、あちこちに咲く紫陽花。朝の薄日が差し込み清々しい。仁王門までハアハア言いながら登る。佳景寂寞(かけいじゃくまく)とした清閑の地だ。朝に訪れて良かったと思った。人がいない。

 芭蕉の往時を偲ばせる。物音一つしない。蝉の声すらしない。さらに奥の院までヒイヒイ言いながら登る。修行用の釈迦堂が左手の山中に、五大堂、納経堂、開山堂が、右手にそしてはるか下に麓の町が見える。少し下がって五大堂から見る景色は素晴らしい。町が模型のように見える。JR仙山線の電車の音が妙にはっきりと聞こえ、鳶が眼下を飛んでいる。凝灰岩の岩頭に立つ諸堂、とりわけ巨大な百丈岩の上に建つこの堂からは絶景である。一見の価値。 

 往きと同じ石段をゆっくりと降りる。ようやく蝉が鳴きはじめた。

 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声  芭蕉

 8月1日。最上川沿いの町を歩く。芭蕉も最上川を舟で下っている。それなら川下りの舟に乗っても反則ではないだろうと、古口から草薙までの約12キロを船旅と決め込んだ。

 最上川は全長約300キロでありながら、山形県のみを流れるという純山形産の母なる川だ。江戸時代は米や紅花を積んだ下り舟と塩や呉服を荷とする上り舟が行き交った。中世では岩手県平泉へ落ちる源義経一行もこの川を舟で遡った歴史の川である。かつての新庄藩の舟番所を模した乗船場から舟に乗り込むとすでに、30人ほどの先客。70歳くらいの船頭さんは最上川音頭を英語で歌ったり、アドリブのきく話術が冴え、なかなかの名調子。その後、お約束のパターンで花笠音頭を全員で大合唱。と、ここまでは普通の観光船だ。

 その時、船頭さんが言った。

「みんな山形の人?どなたか御当地ソングを歌ってくれる人はいねえべか。」
「そこのリュックのお兄ちゃん。あんた旅の者でしょ。」
「どこ?あ、大阪。大阪なら「河内音頭」でしょ。」

 というわけで写真のように前に座らされてしまった。(この連載第1回の時が24歳の写真、それから8年で6キロも体重が増加した。顔がパンパンだ。)ところが大阪人としては恥ずべきことなのか、「河内音頭」が思い出せない。「さても皆さま」とか「エンヤコラセー」とか断片的にしか知らないのである。どうしよう。このままでは大阪人の面子(メンツ)がたたない。

 そこで私は答えた。「あの、「河内音頭」じゃなくて、大阪の人間なら誰もが歌える歌でいいですか。」おじいちゃんの船頭さんは皺だらけの顔でニコニコしながら「いいよ」と笑った。私はマイクを握った。

「大阪代表歌います。「阪神タイガースの歌 六甲おろし」。
チャンチャカチャーンチャン チャチャチャチャチャン(わけがわからなくなるので省略)
六甲おろしに颯爽と、蒼天駆ける日輪の、青春の覇気麗しく……オウ オウ オウ オー
阪神タイガース!フレー フレフレフレー」

 なぜか、涙が出そうになった。ああ、私は生粋の関西人だ!関西万歳。1985年の優勝を思い出した。真弓、バース、掛布、岡田の雄姿が目に浮かぶ。この旅の前年の1992年は、9月中頃まで首位だったのだ。優勝を確信して乗り込んだ東京でのロードで大きく負け越し、ヤクルトに優勝を攫(さら)われた。そんなことが思い出された。

 しかし今は遥か東北の地で誇らしく歌っている。すれ違う舟の人々がこちらを見ている。かまうものか私は関西人だ。船中の手拍子も心地よい。3番まで歌ってしまおうかとも思ったが、東北は巨人ファンが多いだろうと一番だけで遠慮しておいた。席に戻ると仁川(兵庫県)から来た南原さんという60歳位の御夫婦が「いやあ、良かった。」と話しかけてきた。私たちは勝利投手と監督のようにガッチリと握手をした。

 しかし、そこから山形魂の逆襲がはじまった。「それでは、もうすぐ草薙の下船場に着きますが、もう一度皆さんで花笠音頭。」船内の甲子園ムードは一瞬にして現実にひき戻された。しかし、私は嬉しかった。ここは山形なのだ。それも母なる最上川なのだ。すぐさま大合唱に加わった。一度聞いただけの歌だが歌えるようになっていた。何度歌っても楽しい。45分間の船旅で私は少し山形人になったようだ。六甲おろしの完敗である。

 船内和やかに下船場に到着。舟を降りる時に船頭さんと話をし、「奥の細道」を歩いていることを告げると、暖かい笑顔ではげまして下さった。私は船頭さんと握手をし、ずっと名調子で頑張って下さいというようなことを伝えた。(実はこの船頭さん、山形では有名人なのだそうだ。(1999年10月、NHK衛星放送の「お〜いニッポン」という番組で、川下りが取り上げられた時、出演されていました。)

 私は嬉しかった。この旅がますます気に入った。それを実感するのは良い景色と解き放たれた気分と人との出会いである。足をケガしてトボトボと歩いていた時に拾ってくれたトラックのおじさん。山中で畑からもぎたてのトマトをくれたおばあちゃん。どこの誰かもわからない私を泊めてくれた農家の老夫婦や交番の若いおまわりさん。歩いていると手を振ってくれる車やバイクの人々。そんな人々の親切が何よりの経験だ。私はこれまでの旅を思いだしながら下船場の階段を登っていった。

 昼食は先ほどの南原さん御夫妻とご一緒させていただく。私は6歳まで兵庫県西宮市の門戸厄神という所に住んでいた。日曜の朝は家族4人で自転車に乗り、隣の仁川駅まで行き、阪急電車の見える喫茶店だったか今でいうファミリーレストランでホットケーキを食べることがよくあった。ずいぶん昔のことだ。

 そんな話をすると南原さんは「仁川もずいぶん変わりましたよ。」と笑った。私はその笑顔を見ながら、一度自分が幼い頃を過ごした場所も見に行こうと決めた。通っていた保育園。当時は田んぼの中の畦道を歩いたものだ。住んでいた社宅。はじめて一人でおつかいに行った近くのパン屋。きっと、とても近かったのだろうが、ずいぶん必死の覚悟で食パンを持って歩いたのだろう。今はどうなっているのだろうか。東北の真ん中山形で私は幼い日々の自分に戻っていた。

次回は第24回「空のグラデーション」(羽黒山、山形県。1993年、夏)です。

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