2016/12/28

ケイオン 藤井寺 津堂城山古墳  クラブ

 自分と「津堂城山古墳」の出会いはちょうど2年前の冬。初めて藤井寺でケイオンの付き添いをした時だった。「昼休み、近くの古墳に行ってくるわ」と顧問に言われ怪訝な顔をする主将の冷たい視線を尻目に、自分は近くの藤井寺市役所でゲットした地図を見ながら「津堂城山古墳」をめざした。

 なぜ「津堂城山古墳」かというと、ケイオンのコンサートが開催されている会館から一番近いから。一番訪問したい古墳は、なんといっても「古市古墳群」では最大、日本では堺の「大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)」に次ぐ大きさ誇る「誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)」だが、会館からかなりの距離があり断念した。

クリックすると元のサイズで表示します

 この古墳の最大の魅力は、濠に囲まれた前方後円墳の墳丘にのぼるなど望むべくもない他の古墳と比べて、なんといっても墳丘の頂点に立って周囲を見渡せるところだ。

 室町時代に古墳の地形を利用して城が築かれたため墳丘の大半が削られているが、なんとか「前方後円墳」であった名残はある。2年前の冬、「後円」の墳丘の頂点辺りに立って周囲を見下ろしたとき、古墳という巨大建造物の建築の意義が分かったような気がした。

 周囲を見下ろす「後円」に大王(おおきみ)(?)と思われる人物の遺体を入れた石棺が埋められ、円筒埴輪がならんだ「前方」にてセレモニーを行う。下々の人間は地面からそのセレモニーを遠くから見ている。「大王」の権威を演出するそんな光景が目に浮かんだ。以下「津堂城山古墳」のプロフィール。(藤井寺市ホームページより)

○古市古墳群の中では初期(4世紀後半)に築造された大型前方後円墳。
○墳丘の長さは208m。
○室町時代に「小山城」が築城されたことなどにより、墳丘はかなり削られている。
○前方部の墳丘は三段築成。
○周囲に二重の濠と堤をめぐらせていることが発掘調査によって確認されている。

○1912年に後円部の竪穴式石槨から蓋石に亀甲文を刻んだ長持形石棺が発見された。
○石棺の内外からは鏡や巴形銅器などの銅製品、硬玉製勾玉や石製腕飾類などの石製品、素環頭刀身や三角板革綴式短甲などの鉄製品が出土している。

○その他、発掘調査では円筒埴輪や家、蓋、衝立、盾などの形象埴輪が出土している。築造年代は、埴輪や石棺及び副葬品の特徴から4世紀後半とされる。


クリックすると元のサイズで表示します

 上の説明板の平面図を利用して、どこから撮影した写真かを説明していこう。

クリックすると元のサイズで表示します

 拡大写真 cimg0422.jpg

@
クリックすると元のサイズで表示します

A
クリックすると元のサイズで表示します

B
クリックすると元のサイズで表示します

B
クリックすると元のサイズで表示します

C
クリックすると元のサイズで表示します

C「前方」一番手前から見下ろした写真。

クリックすると元のサイズで表示します

D築造されたときに階段状に土を重ねていたことが分かる。

クリックすると元のサイズで表示します

E「前方」と「後円」の境目あたり

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

F「後円」の石棺が出土されたあたりはさすがに柵で囲まれていた。柵の内部は「宮内庁」の管轄か?

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

G築造されたころは「前方」の端っこあたりと思われるところから撮影。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

H「後円」の後ろから古墳全体を撮影する。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します

I
クリックすると元のサイズで表示します

 次回、藤井寺の付き添いがあれば、ぜひケイオンの部員たちを案内してフィールドワークを実施したいが、いったい何人参加してくれるだろうか。



この記事へのトラックバックURLはありません
トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ