2017/2/10

『OKU NO HOSOMICHI』 第27回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第27回「「鳥海山との再会」(象潟、温海 秋田県、山形県。1997年 夏)

副島 勇夫(国語科)

 目の前には日本海があった。それも怒涛の日本海だ。午前中に台風による暴風警報が解除されたばかりの秋田県地方は、午後に入ってもまだ強風が残り、海は大荒れだった。

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 1997年8月5日、私は2年ぶりに奥の細道を歩く旅に帰ってきた。その前年は子どもが産まれたことと3年生の担任だったこともあって、うまく日程が組めず、毎年のように続けていたこの旅を中断したのだった。秋田県南部の名勝象潟(きさかた)の小高い丘の上から、緑の水田に浮かんでいるかのような小丘の数々を眺めた前回の旅の終わりからちょうど2年が経った。今日が東北から南を目指す旅の始まりだった。

 欠航も心配されたが何とか午前の便で山形県西部の庄内空港に着き、昼ごろJR象潟駅に到着した。北上する電車の中から見える北国の空は、象潟に近づくにつれて明るさを失っていった。午後だけでも歩こうと私は国道7号線を南下しはじめた。小さな街はすぐに途切れ、右は日本海、左は林または小集落という感じになった。

 海側の歩道に立つと10メートルほど下に海があった。遠い彼方から次々と波が生まれては、海一面を白く染めながら押し寄せ、岸にぶつかっては砕けていた。唸るような音が絶えず響き、時々特別大きな波がドシンと陸地に衝突している。砕けた波は水しぶきとなって国道にまで降りかかる。岸の先にある漁船の倉庫にはまともに波がかかっていた。飛ばされそうな強風。雨も小雨ではあったが降り続いていた。そして何よりも刷毛で白く掃いたような海は恐怖さえ感じさせた。

 私はしばらく考え、今日は歩かないことにした。中途半端に進んで宿探しに苦労するより、観光地象潟の方が遥かに楽だった。象潟に泊まることにしたのにはもう1つ理由があった。この町の東には東北地方最高峰2237メートルの鳥海山があった。私は1993年の旅で鳥海山の上に美しい虹のような空を見た。夏でも白く雪の残る山頂の上にオレンジ色、薄い黄色、白みがかった青緑色、青と層になった空が、山の稜線にまとわりつくように重なり、空に虹色のグラデーションを作り出していたのだった。それは夢のような光景だった。

 しかし、それ以降、私は鳥海山が見えるはずの場所を歩いていても、いつも山頂もしくは山の半分ほどが雲に隠れ、虹のような空どころか山の全景さえ見ることができなかったのである。今回の旅の最初の2日間がこの山を見る最後のチャンスだった。その後は南に下りすぎてしまうのだ。私は鳥海山があるはずの方角を振り返ったが、黒い雨雲に覆われて全く見えない。海の上にはわずかながらも青い空が覗くようになったが、陸の上は灰色または黒い空で、私はこの海沿いの国道でちょうど雨雲を背負う形で海を眺めていたのである。

 この2日間でせめて山の全景だけでも見たかった。旅に限らず、日々を過ごしていると、その時にしか経験できないということがある。見た景色、出会った人、一期一会というのだろうか。後になってもう一度と思っても、それはなかなかうまく実現しないものだ。見逃したり、言いそびれたり、会えなかったりということになると過ぎ去った時への思いは一層強まる。今しかできないことは、やはり今しかできないのだ。偶然を含めて様々な要素が組み合わさって一瞬一瞬があり、その連続の中で私たちは生きているのだ。

 だから、あの鳥海山の空を見ることはもうないのかも知れない。いやあの一度の経験を記憶にとどめておくことが正しい選択なのだろう。そんなことを思いながら私はこの白い日本海を眺めていた。30分ほどして象潟の町に戻り、私は海に近い宿に泊まった。部屋のテレビが明日は晴れることを告げていた。夜の空では相変わらずの強風で、雨雲が吹き流されていた。

 翌朝、窓を開けると雲一つかからない鳥海山があった。思いのほか近くに、そして拍子抜けするほどあっさりとした再会だった。南から眺めた4年前の流れるように広がる山とは違って、西からの全景は力強かった。

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 私は宿を出て、砂浜に向かった。早朝の海水浴場は人影もなく、白い海鳥だけが波打ち際で遊んでいた。昨日とは比較にならないほどの穏やかな海だ。見上げると鳥海山にはすでに雲がかかり、とうとう半分ぐらいが隠れてしまった。山の全景を見ることができたのは20分ほどであっただろうか。実にあっさりとそしてあっという間の4年ぶりの再会だった。

 旅の2日目は2年前の旅で泊まる所がなく夜を明かした無人駅、JR女鹿駅に立ち寄った。何も変わっていない。1日に6本しか列車が停まらない駅。小さい駅舎の壁に墨で書かれた「女鹿」の文字。うさぎのぬいぐるみが2つ。2年の月日が閉じこめられたかのような空間。誰もいないホームで休憩。誰も来ない。何もない。ついでに列車も来ない。ホームでごろりと大の字になる。青い空に雲が流れる。鳥の声、蝉の声以外に何も聞こえない。このまま昼寝でもしたいところだが、今日中に酒田までは着きたい。あと20数キロある。旅もまだ2日目。元気なうちに距離を稼ぎたい。

 3日目の午後、鶴岡に到着。この町は私が第2の故郷と慕う町だ。そしてここまでが前回北上した道を逆に南下するコース、明日からが初めての道を歩くことになる。私は前回の旅で泊まった旅館を目指した。

 古びた食堂の隣の小さな旅館。すいません、部屋空いてますかと呼ぶと奥から見覚えのあるおばあちゃんが出て来られた。前回この宿で2泊することになり、その際、奥の細道の旅の話を長時間聞いて下さった。冬には年賀状まで頂き、今回是非ともお会いしたい方だった。少し自己紹介するとすぐに思い出されたようだ。2年ぶりの再会、積もる話はそれほどなかったが、それでも懐かしかった。

 夕食は自分の部屋ではなく、旅館のおじいちゃん、おばあちゃんと食べることになった。前回この宿を発った後の旅の話。出会った自転車少年、無人駅で泊まったこと、象潟の美しさ、怒濤の日本海。楽しそうに聞いて下さった。やはり積もる話はあったようだ。もうこの先、この旅で鶴岡に来ることはない。それが寂しかった。

 今までの9回の旅で実に多くの人に出会った。足を引き摺り歩いていたところを拾って下さったトラックのおじさん。山中で泊まる所もない時に見ず知らずの私を泊めて下さった農家のおばあちゃん。通りがかりにトマトを頂いたり、宿で出発の際にパンや土産を頂いたことも何度かあった。旅の話を熱心に聞いて下さった方も何人もおられた。すべて一期一会、再びその方々にお会いすることはないだろう。私は寂しかった。それだけにこの旅館のおばあちゃんとの再会が嬉しかった。

 翌朝、鶴岡の町を遅めに出発した私は町外れの庄内物産館で昼食をとった。ここは前任校の修学旅行で最後の夕食をとった土産物センターである。あの時はセンター内のうどん屋が緊急の病室となって、大量発生したインフルエンザ患者が布団を敷いて寝ていた。その2年半前に私はここを訪れていたわけで、当時はもちろん一般観光客で賑わっていた。

 食後にラ・フランス・アイスクリームを食べ、温海温泉を目指して歩き出した。道は次第に登りはじめ、峠越えになる。夏の日差しは厳しく、じりじりと日に焼けていく感じがする。峠を下りはじめた頃、私の周囲には沢山の蜻蛉が飛んでいた。風は心なしかひんやりと涼しく、私は数十匹の蜻蛉と峠を越えていった。東北の秋はもうそこまで来ていた。

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 次回は第28回「陽はまたのぼり繰り返す―日本海に夕日は沈み、日射病と水害」(村上、中条、新潟県。1998年、夏)です。

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[庄内使えるサイト]より

 日向川と鳥海山

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 鳥海山の紅葉が中腹まで

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 鶴岡 赤川河川敷

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 鶴岡 鶴岡公園のお堀

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