2017/7/15

『OKU NO HOSOMICHI』 第34回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NOHOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第34回「夢の日付(那谷寺・永平寺 石川県・福井県 2003年夏)」

国語科 副島勇夫

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 私はテレビの「巨人対横浜」戦を見続けていた。ここが大阪なら、阪神戦は必ず放映されているのだが、石川県小松市では、某放送局の全国ネットが約束されたチームの試合しか観ることができなかった。今ではその放送局でさえ、地上波での巨人戦を見限っているが。

 そこで仕方なく、時折映し出される「他球場の試合経過」をひたすら待っていたのだ。前半戦終了時点で優勝までのマジック46。2位ヤクルトとのゲーム差は15。阪神ファン歴20年の私にとって、この差はセーフティーリードではなかった。8月には「死のロード」か待っている。昨日の後半戦初戦は守護神ウィリアムズか抑えきれず、急きょ、安藤が投げ、辛くも逃げ切った。

 そして7月29日。私は1年ぶりに「奥の細道」を歩く旅に帰ってきた。石川県小松市。ヤンキースの松井の育った街だ。テレビでは巨人戦。「他球場の経過」でアナウンサーが、どこか嬉しそうに阪神の苦戦を告げていた。8回裏に追いつくが、9回に久保田が2点取られ敗戦。3安打の1点。勝利の方程式は微妙に崩れ始めていた。

 翌日、私は今日の目的地「那谷寺(なたでら)」を目指し歩き始めた。野球のことを考えながら歩くのは初めてだった。なにしろ前回の優勝は2003年の18年前、当時大学の4年生だった。だから、この旅はその翌年から始まっているのだ。秋までというより、夏の時点で阪神のシーズンは終わっているのが常であった。あと1歩だった1992年も夏の段階ではまだ混戦で、どうせダメだろうと思っていたのだ。

 昨日は負けたものの、私は「優勝」の文字が現実味を持つ喜びで足取りも軽かった。しばらく歩くと前方に巨大な白いドームが田畑のなかにあった。その違和感のかたまりのような「小松ドーム」では地元のバレーボールか何かの試合かあるようで、ユニホームやジャージ姿の中学生が自転車でやって来ていた。広大な駐車場には数台しか車はない。何に使うのか、維持して行けるのだろうか。競技場、道路、トンネル、様々な施設。確かにそれぞれの地元では何かほしいだろう。よそを意識すれば、満足できないだろう。しかしこういった日本中の無駄を集めれば、もう少しましなことができたはずだ。真夏の青空の下、真っ白なドームか空しかった。

 天気は晴れ。まだ旅の2日目なので快調に歩く。温泉のホテル群を横に見ながら、10時30分に今日の第1の目的地「那谷寺」に到着。ここは真言宗の寺で、境内には山、川、谷と自然が凝縮され、中でも灰白色の凝灰岩からなる小さな丘といった感じの「遊仙境」は印象的だ。正面から見ると、モンスターが口を開けたような形の岩山は登ることができ、私も中に入って足下に注意しながら、登り降りした。

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 下の池の前では、数人の人がこちらを見ている。登ってきそうだったので、先を急ぐことにした。本殿「大悲閣」はそれらしい木造の建物が実は拝殿で、本殿はその奥の岩窟の中にあり、薄暗く不気味な感じであった。本殿脇の小さなトンネルを抜け、見学コースに従うと、次は三重塔、眺めのよい橋を渡り展望台へ、ここからは遊仙境がよく見える。先ほどの家族連れが登っている。階段を下りると芭蕉句碑、鐘楼、神社まである。何でもありの、かつては旅人によって語り広められた一大施設だったのだろう。表現は不適切だが、楽しかった。堪能した。

 「フォト蔵」より

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 寺の前で名物「那谷寺そば」を食べ、次の目的地、山中温泉を目指す。途中、山代温泉を通過。予約をしていなかったか、何とかなるだろうと、少しあやしくなりだした天気の下、歩いているとポツリポツリと雨。午後2時30分に山中温泉に到着したが、あいにく宿はどこも満室。仕方なく小雨の中、8キロ先の大聖寺を目指すことにした。

 山中温泉は以前訪れたことがあり、もともと見物するつもりはあまりなかった。傘を差しながら歩く。大聖寺まで歩くと今日は33キロ歩くことになる。ややオーバーペース。明日は少し距離を抑えないと、まめができるか足か痛むだろう。小雨はとうとう本降りになる。午後5時30分、大聖寺に到着。宿に入り、夜は阪神戦をスポーツニュースで観る。4対0をおいつかれ、延長で辛くも久慈のサヨナラヒッ卜。やはり危ない。外は土砂降り。雷もなっている。

 ところが、翌日は晴れ。芭蕉が滞在した全昌寺を訪れ、1時間ほど見物し、かつての加賀の国と越前の国の境である吉崎を目指した。集落と集落の間は道路だけ、ほとんど人にも会わない。

 途中、福井県に入る。1時間30分ほど歩くと北潟湖に面した小さな公園があった。木陰に涼しげなベンチ。木の葉の揺れる音。穏やかな水音。木漏れ日。引き寄せられるようにベンチで少し横になった。いつのまにか眠っていたようだ。夢まで見た。心地よかった。昨日は少し歩きすぎた。今日はのんびり歩こう。

 横になったまま青い空を眺め、水音を聞いていた。それから湖に面した道を歩いていくと、水面を何かが飛び跳ねている。水面を上に向かって50センチかそれ以上跳んでいる。魚だ。あちらこちらでひっきりなしに跳んでいる。それが面白くて、ここでも時間を過ごしてしまった。

 その後、次第に道は山の中に入り、炎天下の道中となる。暑い。日焼けか辛くなりそうだった。午後4時頃、芦原温泉到着。日焼けのため、湯船に入れない。これも毎年のことだ。この日、阪神は60勝目。井川12勝。マジック41とする。

 翌日は丸岡を経由して、松岡の天龍寺、その後、山の方へ近づいていくだらだらとした道を進み、午後6時頃、永平寺に到着する。見物は明日にして宿に入る。この日はBSの放送で阪神戦があり、久しぶりに観戦。伊良部10勝目。マジック39。本当に優勝できるかも。まだ信じられない。このころの阪神ファンは臆病なのだ。90年代の暗黒時代、5位か最下位に慣れていたのだ。

 朝から永平寺を参拝する。曹洞宗の本山、永平寺は1244年の開山。下界とは隔離された荘厳な杉木立に囲まれた修行のための寺である。参拝の前に大広間で諸注意がある。時間も早く、天候も悪かったため、私1人がその話を聞いていた。気が引き締まった。それまでの物見遊山的な姿勢を戒められた感じだった。

 筆者撮影

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 国語の教科書によく採り上げられている作品に「とんかつ」というのがある。中学を卒業して、この永平寺に修行僧として入る少年と母親の交流の話だ。永平寺に入ると基本的には修行が終わるまで、この中で生活するのだ。10万坪の境内の中に大小70棟余りの建物、そこで生活する200名以上の僧達。全てを包む樹齢600年の杉の大木。静かな中に読経の太くよく通る声が朗々と響く。こういう生き方もあるのだ。この道を選んだ10代の少年達。現代日本社会の軽さとは対極の生き方。降り止まぬ雨を眺めながら、涙ぐみそうになる自分は甘いと感じていた。

 今夏の旅は、永平寺の感動を薄れさせないためにも、ここまでとした。来年は永平寺から敦賀、その翌年はいよいよ敦賀から「奥の細道」結びの地、岐阜県大垣に到着する。

 1986年から始めたこの旅も2005年の夏に20年がかりで完結する予定だ。この年、阪神タイガースは9月15日に18年ぶりのセントラルーリーグ優勝を決め、星野仙一監督が言った「夢に日付を書く」ことができた。大学時代に友人と約束したことから始まった私の小さな夢「奥の細道を歩く」も、そろそろ日付を書く日が近づいてきたようだ。阪神が優勝した日。おそらく永平寺はいつもと変わることのない静けさを保っていたことだろう。当日、甲子園を場内一周するV戦士達を見ながら、私はそんなことを考えていた。

次回は第35回、「クマの恐怖再び 長い長いトンネルの話 福井県 2004年夏)」です。

2017/7/13

『OKU NO HOSOMICHI』 第33回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第33回「OKU NO HOSOMICHIサイドストーリーズ(1)」

国語科 副島勇夫

 今回はどうして『奥の細道』を歩くようになったのか、そのきっかけとなる話を記そうと思う。

 それは大学の1年生、20歳の初秋だった。前期試験が終了したことを理由に、友人たちと梅田で飲んでいた。その中の1人がすっかり酔いの回った顔で言った。「何かしたいな。人か聞いたら、何でおまえそんなことしてんねんと言われるようなこと。意味ないようで、時間の無駄のようで、後になってよかったなって思えること。何かないか。」

 彼の呼び名は「万蔵(まんぞう)」と言った。予備校時代から自分の名刺を配り、将来のため自分のための人脈作りに励む、学内の有名人だ。彼は後に大学を休学し、自転車で日本一周をし、台湾の大学で数か月生活し、インドで病気になり日本に送り返され、離島や山奥の分校の教師になり、今は消息不明であったが、どこかの小学校で偉くなっているらしい。

 彼は続けた。「歩こか。とりあえず歩こ。行き先は…和歌山。1日歩いたら着くやろ。徹夜ハイク。出発は明日の夕方の6時。梅田で飯食って出発や。」

 半ば強引な企画で、翌日、再度、梅田に集合した。参加者は万蔵の友人のK大学生が5人、私たちの大学からその兄弟も含めて7人の計12人だった。

 夕食をとり、しばらく休憩した後に出発。夕方の6時だった。目的地は南海和歌山市駅、85キロの道のりだ。平均的な歩く速さの時速4キロで歩いて20時間ちょっと。食事や休憩を入れて約24時間。到着は明日の夕方6時と見積もった。

 まず御堂筋を南下する。難波まで5キロ。夜7時。その後は国道26号線を歩く。和歌山までは一本道だ。快調だ。参加者は皆、話しながら、ガムや飴を食べ、遠足気分で歩いている。夜ということもあって不思議な高揚感があった。「奥の細道」を歩く原動力はこの高揚感だ。歩くうちに湧き上がる気持ちの高まり。むやみに大きな伸びをしたくなるような感じ。それは開放感なのかも知れないが、それを味わうために、後年、毎年歩いていた。

 話を20歳の頃に戻そう。私はこの時初めて大和川を越え堺市に入った。梅田から12から13キロ。まだ夜9時前だったと思う。皆元気で時速5キロペースだった。12人は少し距離を空けてはいたが、まだ全員が視界の中にあった。北摂中心の生活をしていた私にとって、仁徳陵や大泉緑地といった行き先を示す標示は新鮮で、大阪ではないような気分さえした。

 9キロ、約2時間で浜寺公園、高石市に入る。夜の11時だった。歩き出して5時間。集団はずいぶんばらけてしまい、視界に入るのは6、7人だった。携帯もない頃だ。はぐれたら自分で何とかしてほしい、とにかく26号線一本道だからというのが万蔵の言い分だったが、少し不安だった。参加者には友人の弟(高校生)もいた。未成年に何かあったら、自分たちの責任なのかなどと考えていた時、その弟くんの姉(彼女は私の同級生でこの徹夜ハイク唯一の女性参加者だった。)が大声で言った。「遅い。もっとペースをあげて。のんびりしてたら明日の終電に間に合わへんで。」

 それから私たちのペースは無理矢理あげられてしまった。高石市は30分で通過。時速6キロのハイペースだった。深夜になり、道ゆく人は他にはほとんどない。泉大津市、忠岡町を過ぎ岸和田市に入った頃には日がかわっていた。このあたりで何人かが音を上げはじめた。休憩も少なく、何よりペースが速い。しばらく休憩をとり、その後は元の4キロペースに落とすことにした。

 岸和田、貝塚の両市約9キロを過ぎた頃で夜中の3時を過ぎていた。横を暴走族の単車5、6台が声援とも威嚇ともつかない声をあげて通り過ぎていく。泉佐野市に入り夜が明けた。あたりに玉ねぎのにおいが漂う。泉州は玉ねぎの産地だということがつくづく実感される。朝食だというのに皆は玉ねぎラーメンを食べた。重たくなった胃を抱え歩き出すと、何人かが、ここでリタイアすると言い出した。南海電車の駅に向かう2人を見送り、しばらく歩くとバス停で寝ている3人の友人を見つけた。

 すっかりばらけていた集団をここで1つにしようと後続を待つことになった。1時間ほどが経ち2人がやって来た。聞くと2人岸和田でリタイアしたらしい。ここで総勢8人になった。午前10時を過ぎ、この後の行程と到着時間を計算すると残り30キロ弱、到着は夕方6時から8時の間だろうということになった。

 泉南市、阪南市を過ぎ大阪府の南端である岬町に入る。昼食をとり腰を上げると、立てない。足先から腰までがしびれたようで鈍い痛みがある。ようやく歩き出すと猛烈な眠気が押し寄せてきた。眠い。足だけが勝手に動き、頭の中は眠っていた。見ると眼下にみさき公園の遊園地が見える。8人は無理に会話をしながら歩いていた。雪山で「寝るな、今寝たら……」という感じだ。

 昼の3峙を過ぎ山道に入る。和歌山県との県境はもうすぐだ。名前は忘れたが峠を越え、和歌山県に入る。山道を下っていくと遠くに街が見える。足が痛い。膝がガクガクする。下りの方が辛かった。夕方になり、次第に暗くなると街に灯がともりはじめた。あと1、2時間で着くと思うとうれしかった。

 ここで小さなトラブルか起こる。このまま26号線を歩くと和歌山市駅を通り過ぎることがわかった。国道15号線に入ればよいそうなのだが、その道をまちがえ少し戻ることになった。8人のムードは悪くなり、誰がまちがえたのかと言い出すようになった。

 その時、万蔵が笑いながら言った。「ここで、そんなん、しょうもないって」なぜだか笑いがこみ上げてきた。道ゆく人にじろじろ見られたが、私たちはただ笑っていた。

 紀ノ川にかかる橋の上までたどり着くと向こう岸に駅らしきものか見える。ところが足が動かない。自分の体重が重く足が支えられず、うめき声が出た。あと少し、あと少しと思いながら、1つ1つ角を曲がり、人の波が向う方へと歩いていく。南海電鉄和歌山市駅到着は午後8時を少しまわっていた。大阪から和歌山、26時間26分。爆睡で、帰りの電車の記憶はない。

 後日、万蔵が私に言った。「おれ、チャリで日本一周するで。お前は何する。」「じゃあ、いつか『奥の細道』でも歩くわ。」それかきっかけである。

 次回は第34回、「夢の日付(那谷寺・永平寺 石川県・福井県 2003年夏)」です。

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拡大 大阪府上空写真.jpg

2017/5/24

『OKU NO HOSOMICHI』 第32回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NOHOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第32回「平家物語と昭和の花咲爺さん」(倶利伽羅峠、富山県。2002年)

副島勇夫(国語科)

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 今から300年以上前の元禄2年、俳人松尾芭蕉はどのような思いでこの峠を越えていたのだろう。越中と加賀、つまり今の富山県と石川県の境がこの倶利伽羅峠(くりからとうげ)だ。

 芭蕉がこの地を訪れる約500年前、源頼朝の挙兵に応じて兵を挙げた頼朝の従兄弟木曾義仲は3万の軍勢で陣を張り、この峠で平維盛率いる平家7万の大軍を待ち受けた。私が今歩いているこの標高277メートルの峠に計10万の兵たちが、息を潜めていたのかと思うと落ち着かなかった。800年以上経った今と比べ、芭蕉は300年分はこの兵たちの息づかいをより感じていたはずだ。しかし冒頭に記した芭蕉のこの峠に対する思いはそれだけの理由ではない。

 平家の総大将平清盛が「あっち死に」と呼ばれた熱病で没した時から一族の滅亡ははじまった。その前年に富士川で、水鳥の羽音に驚いて敗走した大失態は滅亡へのプロローグだったのだろう。清盛が没した2年後、木曽義仲はこの峠で「火牛の計」という奇策を用い、自軍の倍以上の平家軍を撃破する。それは数百頭の牛の角に焚松を縛りつけ、平家軍に向けて放つというもので、虚をつかれた平家の軍勢は谷底になだれ落ち、義仲の大勝利に終わった。

 その後、一気に京都に攻め寄せ、平家一門はあわてふためきながら都落ちし、一の谷、屋島の合戦を経て、壇の浦の合戦で1185年春、滅亡する。この峠で7万の平家軍が自分たちの半分以下の敵に屈した時、滅亡への歯車はさらに大きく動いたのだ。それを思うと、この木ばかりの山中の道は重苦しく感慨深いものがあった。芭蕉は何を思いこの道を歩いたのだろう。

 芭蕉は1694年に大坂(今の大阪)で客死したが、遺言でその墓は滋賀県大津市膳所の義仲寺にある。そして木曽義仲の墓に並んで眠っているのである。この寺の草庵である無名庵に芭蕉が滞在したのは「奥の細道」の旅の後だが、この峠を越える時、芭蕉は後の因縁を感じなかったのだろうか。それとも、もうすぐ金沢だという安堵感で一杯だったのだろうか。

 麓から1時間半ほどで峠の頂上に到着。かつて平維盛が布陣した猿ケ馬場は整備され公園のようになっており、そのブナ林の中に「源平古戦場猿ケ馬場」の碑が高く立つ。少し先に2頭の火牛の像まである。このあたりはのどかな雰囲気が漂う。腰を下ろしガイドブックを取り出す。

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 この峠一帯は「加越の吉野山」と呼ばれる八重桜の名所でもあり、それは「昭和の花咲じいさん」こと高木勝己夫妻の25年にわたる努力の結果だという。1年に500本、計7000本の桜苗を植えて守り育てた。木曽義仲と昭和の花咲じいさんという取り合わせが面白かった。京都に攻め入った後のその無法な振舞いにより、同門の義経軍によって挙兵からわずか3年で滅ぼされた義仲と25年の地道な努力。その賜の7000本の桜の下に7万の平家の兵が眠る。平家一門の約20年の栄光。そういった数字的な対比や一致が不思議な縁を感じさせる。

 そういえば北海道か青森だったか忘れたか、ゴミ捨て場のような状態だった池を一人でコツコツと清掃し続けた結果、何年にもわたる努力が実り、ツルが飛来するようになったという話を聞いたことかある。桜といいツルといい、なかなか良い話だ。17年間で14回目のこの旅もあと数年で終点の岐阜県大垣に辿り着く。その時に何が待っているのか、どのような心境になるのか楽しみだ。

 長めの休憩を終え、ようやく腰を上げ出発する。桜の季節ではないのでどれがそうなのかわからないが、心なしか緑が柔かく、夏山の深い緑とは異なるようだ。まったく人に会わない、時折、車が通り過ぎていくが、ただそれだけのことだ。東北地方を歩いていた頃はよく対向車や追い越していく車のドライバー、特にトラックが手を振ったり、声をかけたりしてくれたものだ。福島、宮城、山形あたりで特にそう感じた。

 それが南下し、西に向うにつれて、ほとんどなくなったように思う。時代が変わったのかも知れないか、この旅の最大の魅力である「人」との出会いは東北地方がハイライトだったのだろう。今はひたすらゴールに向けての旅といった感じで、それか少し寂しい。終わることのない旅のように感じていたあの頃に比べ、今は確実に終盤、帰路なのだ。

 本当にクマと出会う恐怖を感じながら山道を歩いた宮城や山形、この富山でも一応クマよけに木や缶を叩いて歩きはするが緊張感はあまりない。しかし、「クマに注意」の看板がここでもあるように、人間の身勝手な生態系の破壊によりクマは里に下りるようになってきたのだ。用心するに越したことはない。

 1時間ほどでJR倶利伽羅駅を囲む小さな集落に到着。鄙びた小さな無人駅だ。勝手にホームに入ってみるが誰もいない。蝉の声しか聞こえない駅。ベンチで10分ほど横になる。そう言えば今までもいろいろな所で腰を下ろし、いろいろな所でごろりと横になった。川の堤防、海岸、山の中、無人駅。ゴールか近づくにつれ、そういう場所もなくなっていく。

 今回の旅もこの倶利伽羅峠越えの1日だけが人目の少ない道であって、残りは街または町の道なのだ。店も自販機もふんだんにある何も困ることのない、それでいて面白味のない道。山中で草をかき分け、ヒルに血を吸われた道や3時間誰にも会わなかった道、どこからか現れた2匹の犬とひと山越えた道やクマに会った道がとても懐しく思われた。倶利伽羅を過ぎると津幡、そして金沢と街から都市へと道からの風景も姿を変えていく。

 芭蕉は金沢に10日間滞在している。加賀百万石の城下町で兼六園はじめ見るべきところの多い都市だが、芭蕉の頃は兼六園も殿様だけのものであり、この名園を見たはずもない。それでは芭蕉に代わってのんびり見てやろう。奥の細道らしい旅はまた来年、今回は観光でまったりしよう。遠くにかすむ金沢の街を眺め、そんなことを企みながら山道を下っていった。

 金沢城 撮影:筆者

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 次回は、第33回「番外編「OKU NO HOSOMICHI」サイドストーリー」です。

2017/5/23

『OKU NO HOSOMICHI』 第31回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NOHOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第31回「「イチローの夏、日本の夏」(親不知、市振、新潟県。2001年 夏)

副島勇夫(国語科)

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 今となってみれば、それが前任校での最後の夏だった。6月末から体調を崩した私は、いつまでたっても治らないまま通院を続け、1か月近く経った頃には薬も合わなかったせいか1日中、身体がフラフラとした。13回目の「奥の細道」の旅の出発予定日まであと数日だった。医者は反対したが、結局、紹介状のようなものを書いてもらい、悪化すればそれを旅先の医者に見せるようにと言われた。思い出しても、あの頃はつらかった。

 前年の旅の到達地点から始まる旅というのは楽しいものだ。その土地の小さな変化を見つけることも、変わらない町の様子を見ることも嬉しいものだ。大阪での日常の生活での自分と、もうすでに十数年にもなるこの旅での自分という二重の時を過ごしているような感じが、解放感を与えてくれるとともに、旅先では旅を始めた頃の20代の自分のままでいるような錯覚に浸らせてくれる。
 
 この旅に出ると、夏の大阪の暑さと湿度、特に旅先との湿度の違いか強く感じられる。到着して駅や空港を出たときに感じる湿度の違い、その少しサラリとした感じによって旅の始まりを実感する。今年も戻って来たという思いが湧き上がる。ところが、今回は前述のフラフラ感が相変わらずつきまとい、大阪での日常を引き摺ったまま歩き出すことになった。

 新潟県の西部に位置する糸魚川を昼過ぎに出発した。歩き始めて30分もしないうちに、自分が揺れているのを感じた。私はたまらず座りこみ、10分ほどして一軒の食堂に入った。私の気分はすっかり萎えていた。テレビでは衛星放送のメジャーリーグ中継が放映されていた。快進撃を続けるシアトル・マリナーズの試合だった。一杯のかき氷を食べ終わる頃にイチローの打席が回ってきた。客席からは日本式のイチローコールが聞こえる。

 イチローのオリックス時代のエピソードの一つに「究極の空振り」というのがある。投手の投げたボールが狙い球と異なることを瞬時に察知したイチローは、始めてしまったスイングに微妙な修正を加え、ボールに当たらないよう、つまり凡打に終わらないようバッ卜の軌道を変え、あえて空振りをしたというものである。そして空振りをしたイチローは確かにニヤリと笑っていた。

 人は誤りに気づきながらも惰性で続けてしまうことが時としてあるが、イチローのこの判断力と技術はさすがだった。この年アメリカン・リーグの最優秀選手、首位打者、盗塁王、新人王など各賞を総ナメにしたイチローも、この頃は調子が下降気味で凡打を繰り返している。平凡な内野ゴロに終わったのを見とどけると私は店を出た。

 さあどうするか。イチローのように技術はいらないが、判断はしなければならなかった。私はこの日は歩かないことにした。ムリをせず、明日もダメなら大阪に帰ろうと思った。宿を探し、部屋に入るなり布団を敷いて寝た。目が覚めると夕方の6時。ニュースではイチローがこの日の最終打席でホームランを打ったことを告げていた。

 旅の2日目。この日は朝から気分も良く、よしと思って出発した。数日前から薬を飲んでいないことも良かったのだ。やはり合っていなかったようだ。約20キロ先の、旧北陸道最大の難所、「親不知(おやしらず)」を目指し歩き始める。水が滴るほど濡らしたタオルを首に巻き、いつもより休憩を多く1時間歩いては10分休むというペースで歩くと、吹く風も心地好く感じられた。天気は快晴。ようやく旅が始まった気分だ。青海町に入り、町並みか途切れ、道が登りになる。いよいよ天険「親不知」が近づいているようだった。

 この辺りから市振までの約15キロの海岸を親不知・子不知(おやしらず・こしらず)という。北アルプスの北端が、この辺りでそのまま急激に日本海に落ち込み、高さ400〜500メートルの断崖絶壁を作っている。旧北陸道の最大の難所で、明治16年(1883年)の国道開通までは、この断崖の下のわずかな砂浜を人々は波を避けながら通っていた。所々にある洞窟が天然の避難所になり、大懐、小懐、大穴、小穴などの名が付けられている。

 大懐から大穴までは最も危険な所(天険)で、走り抜けないと波にさらわれることから、長走りと呼ばれている。波打ち際を通る時、親は子を忘れ、子は親を見る余裕もなかったことから「親不知・子不知」の名がついたとも言われる。文字通りの命がけの旅であった。芭蕉もこの難所を越えて、疲れきったことを記している。

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 現在は海の侵食により、旧街道跡は寸断されており、遥か下に海を見下ろす国道を歩くしかなかった。わずかにスピードを落とすだけで通っていくトラックに注意しながら、歩道もない道を歩く。右手は遥か下に日本海、青い夏の海だった。左はというより歩いている場所そのものが山の中腹だった。洞門と呼ばれる、海側の壁がスリットになった落石よけのトンネルが連続する。後ろから轟音がするたびに立ち止まり、目で確認しながらトラックをやり過ごす。日陰なので涼しいのだが、歩くペースは落ちてしまった。糸魚川を出発して3時間ほどが過ぎた頃、目の前に絶景が広がる。小さな展望広場があり、休憩を長めに取る。

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 親不知の山並が日本海に落ち込んでいる様子がよくわかる。潮の満ち引きの加減もあるのだろうが、波打ち際といっても幅などほとんどない。満ち潮の時や海が荒れた時などは通れるはずもなく、冬など何日も足留めを余儀なくされたのも当然だと思われる。新潟から富山の間にこのような道とも呼べない道があり、その10数キロでかつて多くの人が命を落としている。そのような状態がわずか120年前まで続いていた。移動が多く交通の発達した現代では考えられないことだが、この場所でこの眺めを見ていると充分に実感できた。

 20分ほど休憩したあと、再び洞門が続く道を歩く。相変わらず、右下にはどこまでも続く日本海。ダラダラと続く登りを20分ほど行くとトンネルが現われ、その脇に「親不知観光ホテル」があった。周辺の地図をもらいにフロントに行くと、部屋が一つ空いたと言うので、無理をせず一泊することにした。この辺りでは下の海まで下りることができる。

 10分ほどかけて階段を下りると砂浜とも呼べない石だらけの小さな浜があり、かつての旅の苦しさが想像できる。波と岩で西に行くことはできなかった。かつては潮が引いている時に歩いたのだろうか、波によっては海に引き摺りこまれる恐怖が3、4時間続く、所々の洞窟以外は岩壁ばかりで逃げ場はない。長さ50メートルほどのこの浜でさえ満潮時と荒天の時は危険なのだ。

 試しに西に続く岩壁を登ってみる。フナムシの群れが一斉に逃げていく。それは我慢できたとしても、長時間岩にへばりついていられそうにない、波が来れば落とされ海に引き摺りこまれるだろう。街道と呼べるようなものでないことは明らかだった。再び階段を登り、ホテルに戻って展望風呂に入る。名前の割には小さなホテルだが見晴らしは良い。まだ明るい時間の誰もいない風呂は気持ちが良かった。

 翌日、ホテルの方に教えて頂いた国道から下って海沿いの道を行くルートを歩く。本当はここは立入禁止なのだ。危険だというのではなく、護岸工事中の工事現場のためであった。そのためかつての北陸道の面影もない。ただ海が近く横を通る車の心配がないことが長所だった。その道の終点らしいところから再び登って国道に戻ると正面に1本の松の木が見えた。小さな町並みの入口を示すかのように立っていた。これが市振の町の東端にある「海道の松」だった。かつて親不知の難所をやっとの思いで通り抜けた旅人が安堵し見上げた松の木だ。芭蕉も恐らくそのような心境でこの木の下に立ったことだろう。それから312年、すっかり元気を取り戻した私は、ようやく夏が始まったという思いでこの老木を見上げていた。

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 次回は、第32回「平家物語と昭和の花咲爺さん」(倶利伽羅峠、富山県。2002年 夏)です。

2017/3/21

『OKU NO HOSOMICHI』 第30回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第30回「「道ならぬ恋の聖地、トンネル駅の村」(青海川、筒石 新潟県。2000年 夏)

副島勇夫(国語科)

 「春の木漏れ日の中で 君の優しさに埋もれていた僕は 弱虫だったんだよね……」

 今から25年ほど前、森田童子の歌う『僕たちの失敗』をリバイバルヒットさせたTBSドラマ「高校教師」は、主演の真田広之、桜井幸子を中心に、いくつかの禁断の愛を描いて茶の間の話題を集めた。当時としてはなかなか衝撃的な内容で、放送翌日は授業でもその話題になった。

 そのドラマの最終回で死を決意した2人が訪れるある駅は、ホームの向こうがすぐ冬の日本海で白い波が寒々しく立ち、印象的だった。レンタルDVD店に行って、「高校教師」第4巻のパッケージを見れば、裏側にこのシーンが載っている。この駅は新潟県の西部にあるJR青海川(おうめがわ)駅といい、日本一海に近いことでも有名な無人駅だ。(ちなみに日本一海に近いとアピールしている駅は多数ある。)

 2000年7月22日、奥の細道を歩く旅の第12回目。前年の到達地出雲崎を出発し柏崎で一泊。歩き出して2日目のこの日、途中雨に降られながら国道を歩き、2時間もしないうちに青海川駅を限下に見下ろす高台に着いた。ここから駅までの近道を下りていく。

[photo library]フリー写真より 現在の青海川駅

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 本当に海の横であることがよくわかる。駅の右手、つまり北側は小さな狭い海水浴場。海の家も売店さえもない、地元の人しか来ないような砂浜だ。左手は駅のすぐ近くまで山が迫り、その斜面に家がへばりつくように建っている。落ちそうと言いたいぐらいだ。山が入り組み、谷のようなところに集落がある。小さな集落だ。ロケの時はたいへんな騒ぎだっただろう。小さな駅だがホームは2本ある。

 10分ほどかかって駅舎の前に出た。振り返り見上げると、今下りてきた細い山道の上に国道がある。普通は同一平面に並ぶことの多い駅と民家と国道が、下から順にあるという奇妙な風景だ。駅には誰もいない。無人駅なので勝手に改札を抜け、離れた陸橋を渡るのも面倒なので線路に下りて海側のホームに行く。その下を覗くと真下に砂浜。天気が悪いせいもあって5、6人の海水浴客しかいない。山側のホームに戻り腰を下ろす。

 ドラマの場面は思い出せなかった。主演の二人がこのホームに立っていたようなという程度の記憶だ。駅舎に戻り中を見ると、電気も付かない薄暗い中に1冊の自由帳か置かれている。無人駅にはこの手のものがよくある。パラパラとめくると、やはりドラマのことに触れた記述が多い。

 それにしてもこの寂れた無人駅に実に多くの男女か訪れていることかわかる。夕陽の名所にもなっているようで、夕陽を見に来ました的な内容も目立つ。そんな中に48歳で会社を辞めた男性が若い女性とここに来て、明日から海外に逃げる。これからの人生などどうなるかも、どうしたいかも考えたくないという記述。他にも詳しくは記せないようなドロドロとした人間関係がいくつもいくつも記されている。どうやらここはあのドラマ以降、道ならぬ恋の聖地になっているようだ。

 学校のブログなので、あえて記さない、記せないが、ドラマの中の主演2人の関係もいわく付きだった。そのためこの場所は秘められた関係を持つ者を引き寄せるようだ。

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 そして、この自由帳を見ていると気になる記述が何箇所も出てくる。ノートの片隅に、記された文の途中に、「あの虫、何だ」とか「虫、ムシ」の文字。ページをめくると、また「あの虫」。少し気持ち悪くなって振り返ると一匹の蛾が目の前を過る。駅舎の中を見回すと壁のいたる所に薄茶色のマユのようなものや、おそらくそれが潰れた跡がある。そして天井を見上げると、いるわいるわという感じで3〜5センチぐらいの蛾が何十匹といる。これがアメリカのドラマ「Xファイル」なら、私は血液を全て吸い取られ、数時間後にはモルダーとスカリー(登場人物)がこの小さな無人駅に到着するはずだ。ノートの「あの虫」とはきっとこの蛾のことなのだろう。恋の聖地は蛾のサンクチュアリでもあるようだ。

 興がそがれた私はこの場所を発つことにした。

 それから2日後の24日、私は新潟県最西部の街である糸魚川を目指して歩いていた。しかし、この日も少し寄り道があった。それはトンネル内に駅があるというJR筒石駅を見ることだった。どうも今回の旅は駅に縁があるようだ。海沿いの国道8号線は歩道も狭く、トラックが猛スピードで横を擦り抜け危ないため、そこから3、4メートル高い自転車道を歩くことにした。左側はすぐ山で、右下に国道、さらに下は日本海だ。天気は晴れ。それほど暑くもなく快適だった。

 人気のない場所が続いた後、数軒の民家が現れたと思うと次第にその数を増し、やや大きな集落になった。自転車道はいつの間にか民家の間の道になっている。この辺りか筒石のようだ。私のいる所は高台で、見下ろすと川沿いに3階建ての民家がまるで温泉宿のようにびっしりと並んでいる。その一方で一番下の国道と同じ高さに一層目の民家か建ち、そこから数メートル高い所に二層目の民家、そして私がいる辺りが三層目で小さなスーパー、郵便局などがあり、保育園からは子供の声が聞こえてくる。

 当たり前のことだが、そこには生活があった。小さな村だ。人通りもほとんどない。小さな寺の見晴らしの良い境内で休憩する。山の方を見上げるとさらに民家が建ち並んでいる。つまり大きな段々畑に家か建ち並んでいるようだった。

 日本海側を歩いているとこういった海と山の間のわずかな平地に、肩を寄せ合うような集落を多く見かける。日本海からの風と雪、冬の厳しさが想像される。周囲を見回すが目当ての駅らしいものはない。トンネル駅なので線路など見えないだろうとは思っていたか、駅がありそうな気配さえもない。きっと山側にあるのだろうと上り坂を山へ山へと進んでいくことにした。

 そのうちに小学校が現れ、ますます民家はなくなっていく。見上げると左右の山と山の間を空中に道路が架かっている。それは鉄道ではなく高速道路だった。駅はさらに奥のようだ。左側の谷の向こうの山肌には、むき出しの巨大な地層が見える。この道は絶えず上り坂でほとんど山道と言っても良かった。歩くこと20分ほどして「筒石駅(JRトンネル駅)」の看板に出くわす。

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 そこから左に曲がると少し広い空間があり、山の斜面にへばりつくように駅舎がある。小さな待合室を駅長さんと思しき人が掃除している。無人駅だろうと思っていたが、やはりこの駅が無人では問題も多いのだろう。中を覗くと後ろの山に向かって暗い通路が口を開けている。私は入場券で中に入り、薄暗い通路を下りていった。しばらく行くと突然ホームに出た。ホームは幅か狭く、暗かった。大阪の地下鉄の駅をイメージしてはダメだ。まるで鍾乳洞や炭坑の中のような感じだ。不思議な駅だ。今か何時なのか、まるでわからない。この駅を毎日利用し生活している人々がいるということが何よりも不思議だった。私はその異空間を後にして筒石の集落への道を下りながら考えていた。

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 大阪に比べここでの生活は何百倍も不便に違いない。電車やバスの本数、駅からの距離、平地の少なさ、店の数、厳しい冬。何もないと言えば何もない集落。私たちの中の欲求はこういった場所を否定しながら増大していく。我慢できない。面倒だ。その言葉とともに自分の中で壊れていくもの。我慢の許容量の変化とともに変わっていく社会。せめて自分は不便を当たり前と思うようにしよう。何も起こらない平凡な時の流れをありがたく思うようにしよう。漱石の頃から山路は人を考える生き物にするようだ。擦れ違うクラブ帰りの高校生の表情はやはり晴れやかだった。

 次回は第31回「イチローの夏、日本の夏」(親不知、市振、新潟県。2001年、夏)です。

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2017/3/20

『OKU NO HOSOMICHI』 第29回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第29回「弥彦祭りの夜、新潟で一番の景色」(弥彦、出雲崎、新潟県。1999年 夏)

副島勇夫(国語科)

 「お父さんは今、山の上にいます。弥彦山。海が見えます。船はいません。青と黒と緑の混ざったような色。天気は晴れてる。紫陽花がいっぱい咲いていて、後ろを見ると山の下の方に田んぼがいっぱいで、その中に家とか学校とか駅が見える。え、弥彦山。や・ひ・こ……」

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 この年の旅から携帯電話を持つようになった。当時3歳の娘が電話で話したいと言うので、なるべく文明の利器は持たないように、少しでも松尾芭蕉の気分に近づきたいという考えを曲げて持って来たのだった。

 弥彦山

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 奥の細道踏破の旅は、この年で11回目を迎えた。弥彦山は638メートルの海に面した山で、南には越後平野に点在する吉田、巻、燕、三条といった町の様子が一望できる。芭蕉は登らなかったようだが、来た道行く道を上から眺めてみようと登ってみた。そして山頂で休憩しているところに着メロが鳴ったのだった。当然圏外だろうと思っていただけに驚いたが、やはり山頂だけに入りやすいのかと感心した。風が心地よい。日本海を眺めながら娘と話しているのが不思議だった。弥彦山の麓には越後の国の一宮である弥彦神社がある。その神社の御神体がこの山なのである。そしてこの日、7月25日は弥彦祭りだった。

 祭りの当日にそれほど大きくない町で宿探しをするのはひと苦労だ。何軒か尋ねたあげく、ようやく旅館の離れならと言われ、部屋に向かうとプレハブ小屋の不思議な建物だった。20数キロ歩いた上に山まで登ったので、早速風呂に入り、夕食を食べた。部屋に戻り、何となくウトウトとしながら松坂大輔(今や見る影もないが)の初オールスターゲームを観ていた。時計を見ると午後8時前だ。

 その時だった。ドーンという轟音とともに部屋が揺れた。次いでバーンという音。慌てて窓を開けると旅館に隣接する公園で花火を打ち上げている。続いて2発目。部屋の机の上のコップが震動で音を立てる。部屋から飛び出し裏口から路地へ出る。3発目。頭上一面の花火。思わず笑ってしまった。人は予想外の事に出会うと笑うものである。それが楽しいことなら尚更だ。

 私はそのまま引き寄せられるように祭りの中心まで歩いていった。かろうじて部屋には鍵をかけたが、フロントも通らず宿の下駄履きのままだ。カランコロンと下駄を鳴らしながら車輌通行禁止となった道の真ん中を歩く。道の左右はシートを敷いた人で埋まっている。旅館の窓、民家の屋根の上の人々が皆うれしそうだ。屋台でイカ焼きを買い、路上に座り込んで花火見物をする。一発一発の大型花火を、町内の会社や店が費用を出して打ち上げている。どこの何という団体による花火なのかということが放送で一発ずつ説明される。

 30分ほど夜空を見上げていると、山の方からたいまつの行列が来たので、私は腰を上げた。ちょうどいい。宿にカメラを取りに帰ろうと思った。ところが宿の近くまで来て、ポケットに入れたはずの部屋の鍵がないことに気がついた。部屋の名前が記されたプラスチックの棒がついた、よくあるタイプのものだ。落とせばわかりそうなものだが、それに気づかないのが祭りの夜だ。路上に座りこんでいたときに滑り落ちたのかも知れない。

 急いでもとの場所に戻ったが、たいまつの行列が通り過ぎた後、再びレジャーシートが敷かれ大勢の人が座っている。私は仕方なく事情を告げ、20人ぐらいの人にシートの下を見てもらった。こういう文章の常として、皆、心安く調べてくれたといいたいところだが、実際は露骨に嫌な顔をされた。「え−っ。弁当広げたのに。」とか言われてしまった。恥ずかしく情けなかった。仕方ない、持ち出した方が悪いのだ。

 鍵は出て来ず、私は宿に戻り頭を下げた。すると、宿の主人が言うには鍵の落とし物の連絡があり、今バイトの学生を祭りの本部まで取りに行かせているとのことだった。宿の主人は丁寧な口調でそう言ったが、目は冷ややかだった。ホッとしたと同時に反省した。こういうことになるから横着は禁物だ。見つかってよかった。そうでなければ何人もの人が嫌な思いをした。

 今度はフロントに鍵を預けて祭りに戻る。花火は9時前に終わり、次いで灯籠祭りが始まっていた。1000年続くこの神事は、男たちが歌いながら、燈篭と呼ばれる花や低木で飾られた台を差し上げ、回し、練り歩くというものだ。その灯籠が歌声とともに次々とやって来る。若い者も年配の者も一緒になり、熱気と酒で真っ赤になって見物人にいいところを見せようとする。伝統あるそれでいて身内意識の高い祭りだ。

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 周囲から掛け声か掛かり、担ぎ手の男たちかそれに応える。「若い者にはまだまだ負けん」と「まあ自分たち若い者に任せて少しは気を抜いて」という世代ごとの思いがぶつかり合うこともなく収まっている。男たちの「よーいとこ、よーいとこだー。」の歌声か心地よく耳に残る。ふと見ると通りの反対側に宿の主人かいる。目が合うと笑って手を上げて下さった。うれしかった。その目が「いい祭りでしょう」と語りているようだった。

 弥彦祭りの日から2日後、私は出雲崎を目指して歩いていた。この日は朝から異様な暑さで、宿を出た時から空気は淀んでいた。ものすごい気温になりそうだ。前年の日射病のことを思い出した。しかし、この日の行程はわずか15キロと今回の旅の中で最短である。1日平均25キロを昼食、休憩含めて7、8時聞で歩くのが、この旅の基本パターンなので、15キロは楽勝だった。

 昼頃には出雲崎に着く。その後はのんびりとこの古い港町を味わおうという狙いなのだ。それにしても暑かった。小さな海水浴場を時々右手に見ながら海岸線を歩く。平日ということで人は少ない。快晴。海の家の白い柱に掛けられたラジオが、今日の予想最高気温が38度以上であることを告げていた。暑いはずだった。それにしても38度以上とはどういうことなのだろう。そもそもそういう予報はありなのだろうか。38度なのか40度なのか、はっきりしてほしい。一番暑い時間帯までに着こうとの思いで先を急いだ。

 昼を過ぎた頃、出雲崎町に入る。出雲崎は日本海と背後の低い山に挟まれた細長い小さな町だ。その山を越えるとJRの駅があり、その周辺は現代の小さな町という感じだが、海沿いの方は芭蕉が訪れた往時を偲ばせる。古い木造りの二階家か道の両側を埋める町並みになっている。当時は佐渡ヶ島への渡船場として賑わっていたのだが、今ではすっかり鄙びた田舎町だ。

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 ところがその鄙びた感じに、狭い道に、背後に迫る低い山の中腹に町を見下ろすようにある社寺に、何とも言えぬ風情があるのだ。またこの町は芭蔦か通過した約70年後に生を受けた、良寛和尚生誕の地として有名である。町の中ほどの生家跡に小さな堂が建ち、その裏に日本海を見つめて良寛坐像がたたずむ。それほど古い像ではないだろうが、あまり大きくないのがなかなか良い。このまま何百年も海を見つめていてほしいものだ。どこか高い所からこの小さな町を眺めてみたいと思い、急坂を登り裏山の頂上付近の良寛記念館を目指す。そこには夕日の丘公園があり、日本海を見下ろす眺めは新潟一だと何かの観光案内で読んだことかあった。

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 記念館から木の生い茂る丘を蜂に追われながら登る。うねうねとした道を進んでいくと突然目の前が開け、公園の遊具のような、山頂から突き出た見晴らし台がある。登ると目の前を遮るものは何もなく、空中に投げ出されたような感じである。眼下に薄く伸びたような町並み。黒を基調とした屋根瓦の二階家。良寛堂が小さく見える。狭い道。そしてその向こうにどこまでも広がる日本海。思わず声か出る。これこそ新潟一の眺めだ。町が鄙びているからまた良い。

 電話をしようかと携帯を出すと圏外。でも、まあいいか。これは電話で伝えても意味かない。いつか自分の目で見るべき眺めなのだ。「お前が3歳の夏、お父さんはこの眺めを見せたい」と思った。そんな話をしながら再びこの場所に立ちたいものだ。そう思い見つめる紺碧の海の向うで、夏の霞の中から佐渡ヶ島が姿を現わしはじめていた。

 次回は第30回「道ならぬ恋の聖地、トンネル駅の村」(柏崎、青海川、筒石 新潟県。2000年 夏)です。

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2017/2/13

『OKU NO HOSOMICHI』 第28回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第28回「陽はまたのぼり繰り返す―日本海に夕日は沈み、日射病と水害」(瀬波、中条 新潟県。 1998年 夏)

副島 勇夫(国語科)

 奥の細道を歩く旅をしていると恐いものが3つある。

 泊まった宿で妙に居心地の悪い部屋、森の中で出会う熊、それにトンネルだ。出口の見えない長いトンネル。

 おまけに車が少なければ、そこは一瞬にして外界から切り離された異空間となる。私の目の前には府屋第一トンネルがあった。全長605メートル。出口は見えず、オレンジ色の明かりがトンネル内を照らしていた。時折、長距離トラックが時速80キロぐらいで通り過ぎていく。トンネル内ではその時に巻き起こる風で、体が道路側に引っぱられるのである。そして何よりもトンネル内は暗いのだ。暗さは誰が何と言おうと笑おうとイコール恐さなのである。私はどうにかしてこのトンネルを通らないで済む方法はないかと考えた。

 辺りを見ると国道の10メートルほど下に舗装されていない道が同じ方向に続いている。周囲は山だ。民家もない。前方の山を越えると集落かあるのだ。ならばその道は集落に続くはずだ。私は少し引き返し下の道に降りた。進行方向を見ると100メートルぐらいのトンネルがある。かつてはこれが唯一のトンネルだったのだろう。古びた現役引退といった感じのトンネルだ。出口も見えている。しかしというかやはり、そのトンネルには明かりかなかった。進行方向の遠くには出口の光かあるが、足元や左右は薄暗いのである。私は少しためらった。しかし出口は見えている。気を取り直して歩き出した。一歩、二歩、三歩。

 その時だった。トンネルの中、遠くで力−ンという音。私は思わず後退った。いったいどうしたら無人のトンネル内であんな音が出るのだろう。考えるまでもなかった。私は来た道を引き返し国道に上がると、605メートルのトンネルを小走りで一気に抜けていった。トラックの風にあおられながらも「まだましだ」と言い聞かせ、出口の光かなかなか近づいて米なかったことしか覚えていない。こうして10回目の奥の細道の旅の初日、7月23日は過ぎていった。

 2日目は今にも雨の降り出しそうな曇天。この日は右手に絶えず日本海を眺め歩く道だけに残念だ。磯のにおい、浜風、それほど暑くはないがべ夕べ夕とする。時折、陽が差し少しずつ焼けていく。海水浴場をいくつか通り過ぎ、今川のビーチハウスで昼食。家族連れや友人同士、カップルの中で一人浮いていた。視線がつらかった。

 再び歩き出して2時間。朝9時から歩いて約25キロ、時間は午後3時過ぎ。休憩時間も含まれているので時速5キロペースだ。2日目だけに快調である。午後4時頃、早川に入る。休憩。国道から少し外れて海側の斜面に腰を下ろす。目の前にキラキラと光る海。結局一日中雨は降らなかった。水平線。海と空の境界を白いかすみのような帯が分ける。座わってただ海を眺める。

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 30分ほどして宿を探しにJRの駅前に行く。駅といっても無人駅。駅前のベンチに座って自販機のジュースを飲む。セミの声は7月というのにヒグラシ。カナカナカナ……と啼いている。カラスの声、空にはトンビ、磯の香。小さなポストが一つ、駐在所の前に立て掛けたベビーカー、民宿「しおかぜ」さびれて1軒、とても営業している風には見えない電気屋さん。その向こうで海が輝いている。何もない村に日が暮れていく。1才ぐらいの子どもをベビーカーに乗せたお母さんが通り過ぎていく。貨物列車が通り、声を上げてはしゃぐ子ども。民家か数十軒の村の生活。辺りか薄暗くなり、私はようやく腰を上げた。

 翌日はものすごい晴れ。雲もほとんどない。ジリジリと焼けていく。本当に青い海。青い空。首の後ろと手の甲がピリピリして熱い。昼食の時、「すみません。牛丼一つ。」と言っただけで、「関西の人でしょう。」と見抜かれる。そういうものだ方言とはと、妙に満足する。半島のように突き出た所にあるこの店からは、左に村上の街並、正面の海の向こうにこの日の宿泊予定地の瀬波温泉か見える。海水浴場の砂浜に隣接してホテルや旅館が30ほど立っている。夕陽の見えることを売りにしている宿が多く、私もこの日の日没を楽しみにしていた。天気は快晴。燃えるような夕陽、それも海に沈む夕陽を見てみたかった。

 午後3時、瀬波温泉到着。テレビが新潟県下越地方(つまりこの辺りだ)が36.6度で本日の全国最高気温であることを告げていた。暑いはずだ。シャワーを浴びてこの日の日没時間午後6時59分まで寝ることにした。6時過ぎに設定したアラームで目を覚ますと私は砂浜に出た。夕陽を見る人が結構多く、やや興ざめだったが、夕陽はすでに空と雲、そして海を赤黒く染めていた。これは美しい光景なのだろうか。

 夕焼けは翌日の晴天の証しと言われる。だかこの日本海に沈む夕陽は、翌日の訪れさえ保証してくれないような不安を感じさせた。前日見た夕陽は小さな村の変わらぬ明日を告げているかのようであったが、この日の日没は凄まじかった。どす黒い雲の向こうで空か燃えていた。地球最期の日の空はきっとこんな空なのだろう。たっぷりと時間をかけ太陽は壮大に沈んでいった。辺りの人影がまばらになった頃、私は立ち上がり自分の部屋に戻った。

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 翌日は朝から30度を超えていた。天気はまたもやものすごい晴れである。日焼けの上に焼けていくのか痛い。手足の所々は点々と血が浮いたように腫れていた。道路に設置された気温表示板が36度を示している。そう言えば数年前、山形県鶴岡市を歩いていた時、39度だったことがある。その時の空は青をはるかに通り越していた。

 今日もそんな感じである。雲一つない。見上げると目の前が暗くなった。少なくとも24キロ先の中条市までは歩きたい。海沿いから少し内陸に入り、集落と集落の間は田畑というパターンの道が続いた。妙にしんどかった。昼食のカツ丼も残してしまった。店の外の水道で顔を洗ったり、頭から水をかぶってもみたが、フラフラした。

 それから2時間ほど歩く。顔がピリピリとする。鼻の皮が軽い音を立てて剥けていく。消耗していた。民家の立て込んだ所に出た。水分補給をしなければと自販機を探す。欲を言えばベンチも欲しい。我慢してしばらく歩くと乙(きのと)という集落の物産館があり、休憩するには願ってもない環境だ。屋外の自販機で十六茶を2本買い、1本を一気に飲みほすと残りをためらうこともなく頭からかぶった。

 ベンチに腰を下ろす。立てそうな気がしない。手にした十六茶の缶を見たまま動けなかった。「ハトムギ、大麦、緑茶、玄米、黒豆、ウーロン茶、ハブ茶、……」ハブ茶のハブって何だ。ヘビのハブかなどと思いながら、その黄緑色の缶を見ている。頭の中では「ハトムギ、玄米、月見草」とCMソングか流れる。違う。それは爽健美茶だと思っていると、目の前が白くゆらゆらとして、セミの声が遠のいていく。眠い。全身の力が抜ける。熱中症?ああそうなんだ。これは熱中症な……。

 それからどれほどか時が経って、物産館の人の困惑した顔が目に写った。どうしたんだと、どこかへ行ってくれの混ざった表情だ。すでに陽は傾き、辺りは夕景であった。またしても夕陽だ。こうして地球最期の日も無事終了し、その後も炎天下の中を3日歩いた。しかしこの年の「奥の細道」の旅はもうこのタイミングしかなかったのである。

 帰阪後、数日して新潟は記録的な大雨。河川は氾濫し、新潟市内も含めて各地で1メートルの浸水。私が歩いた辺りも水浸しになった。大雨の後も一度回復した天候が再び悪化し、東北・北陸の梅雨明けは宣言しないという宣言が出される。新潟の夏はあの7月末の猛烈な暑さだけとなってしまうのである。

 次回は第29回「リアリズムの宿、弥彦祭りの夜、新潟で一番の景色」(白根、弥彦、出雲崎
新潟県。1999年 夏)です。

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2017/2/10

『OKU NO HOSOMICHI』 第27回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第27回「「鳥海山との再会」(象潟、温海 秋田県、山形県。1997年 夏)

副島 勇夫(国語科)

 目の前には日本海があった。それも怒涛の日本海だ。午前中に台風による暴風警報が解除されたばかりの秋田県地方は、午後に入ってもまだ強風が残り、海は大荒れだった。

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 1997年8月5日、私は2年ぶりに奥の細道を歩く旅に帰ってきた。その前年は子どもが産まれたことと3年生の担任だったこともあって、うまく日程が組めず、毎年のように続けていたこの旅を中断したのだった。秋田県南部の名勝象潟(きさかた)の小高い丘の上から、緑の水田に浮かんでいるかのような小丘の数々を眺めた前回の旅の終わりからちょうど2年が経った。今日が東北から南を目指す旅の始まりだった。

 欠航も心配されたが何とか午前の便で山形県西部の庄内空港に着き、昼ごろJR象潟駅に到着した。北上する電車の中から見える北国の空は、象潟に近づくにつれて明るさを失っていった。午後だけでも歩こうと私は国道7号線を南下しはじめた。小さな街はすぐに途切れ、右は日本海、左は林または小集落という感じになった。

 海側の歩道に立つと10メートルほど下に海があった。遠い彼方から次々と波が生まれては、海一面を白く染めながら押し寄せ、岸にぶつかっては砕けていた。唸るような音が絶えず響き、時々特別大きな波がドシンと陸地に衝突している。砕けた波は水しぶきとなって国道にまで降りかかる。岸の先にある漁船の倉庫にはまともに波がかかっていた。飛ばされそうな強風。雨も小雨ではあったが降り続いていた。そして何よりも刷毛で白く掃いたような海は恐怖さえ感じさせた。

 私はしばらく考え、今日は歩かないことにした。中途半端に進んで宿探しに苦労するより、観光地象潟の方が遥かに楽だった。象潟に泊まることにしたのにはもう1つ理由があった。この町の東には東北地方最高峰2237メートルの鳥海山があった。私は1993年の旅で鳥海山の上に美しい虹のような空を見た。夏でも白く雪の残る山頂の上にオレンジ色、薄い黄色、白みがかった青緑色、青と層になった空が、山の稜線にまとわりつくように重なり、空に虹色のグラデーションを作り出していたのだった。それは夢のような光景だった。

 しかし、それ以降、私は鳥海山が見えるはずの場所を歩いていても、いつも山頂もしくは山の半分ほどが雲に隠れ、虹のような空どころか山の全景さえ見ることができなかったのである。今回の旅の最初の2日間がこの山を見る最後のチャンスだった。その後は南に下りすぎてしまうのだ。私は鳥海山があるはずの方角を振り返ったが、黒い雨雲に覆われて全く見えない。海の上にはわずかながらも青い空が覗くようになったが、陸の上は灰色または黒い空で、私はこの海沿いの国道でちょうど雨雲を背負う形で海を眺めていたのである。

 この2日間でせめて山の全景だけでも見たかった。旅に限らず、日々を過ごしていると、その時にしか経験できないということがある。見た景色、出会った人、一期一会というのだろうか。後になってもう一度と思っても、それはなかなかうまく実現しないものだ。見逃したり、言いそびれたり、会えなかったりということになると過ぎ去った時への思いは一層強まる。今しかできないことは、やはり今しかできないのだ。偶然を含めて様々な要素が組み合わさって一瞬一瞬があり、その連続の中で私たちは生きているのだ。

 だから、あの鳥海山の空を見ることはもうないのかも知れない。いやあの一度の経験を記憶にとどめておくことが正しい選択なのだろう。そんなことを思いながら私はこの白い日本海を眺めていた。30分ほどして象潟の町に戻り、私は海に近い宿に泊まった。部屋のテレビが明日は晴れることを告げていた。夜の空では相変わらずの強風で、雨雲が吹き流されていた。

 翌朝、窓を開けると雲一つかからない鳥海山があった。思いのほか近くに、そして拍子抜けするほどあっさりとした再会だった。南から眺めた4年前の流れるように広がる山とは違って、西からの全景は力強かった。

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 私は宿を出て、砂浜に向かった。早朝の海水浴場は人影もなく、白い海鳥だけが波打ち際で遊んでいた。昨日とは比較にならないほどの穏やかな海だ。見上げると鳥海山にはすでに雲がかかり、とうとう半分ぐらいが隠れてしまった。山の全景を見ることができたのは20分ほどであっただろうか。実にあっさりとそしてあっという間の4年ぶりの再会だった。

 旅の2日目は2年前の旅で泊まる所がなく夜を明かした無人駅、JR女鹿駅に立ち寄った。何も変わっていない。1日に6本しか列車が停まらない駅。小さい駅舎の壁に墨で書かれた「女鹿」の文字。うさぎのぬいぐるみが2つ。2年の月日が閉じこめられたかのような空間。誰もいないホームで休憩。誰も来ない。何もない。ついでに列車も来ない。ホームでごろりと大の字になる。青い空に雲が流れる。鳥の声、蝉の声以外に何も聞こえない。このまま昼寝でもしたいところだが、今日中に酒田までは着きたい。あと20数キロある。旅もまだ2日目。元気なうちに距離を稼ぎたい。

 3日目の午後、鶴岡に到着。この町は私が第2の故郷と慕う町だ。そしてここまでが前回北上した道を逆に南下するコース、明日からが初めての道を歩くことになる。私は前回の旅で泊まった旅館を目指した。

 古びた食堂の隣の小さな旅館。すいません、部屋空いてますかと呼ぶと奥から見覚えのあるおばあちゃんが出て来られた。前回この宿で2泊することになり、その際、奥の細道の旅の話を長時間聞いて下さった。冬には年賀状まで頂き、今回是非ともお会いしたい方だった。少し自己紹介するとすぐに思い出されたようだ。2年ぶりの再会、積もる話はそれほどなかったが、それでも懐かしかった。

 夕食は自分の部屋ではなく、旅館のおじいちゃん、おばあちゃんと食べることになった。前回この宿を発った後の旅の話。出会った自転車少年、無人駅で泊まったこと、象潟の美しさ、怒濤の日本海。楽しそうに聞いて下さった。やはり積もる話はあったようだ。もうこの先、この旅で鶴岡に来ることはない。それが寂しかった。

 今までの9回の旅で実に多くの人に出会った。足を引き摺り歩いていたところを拾って下さったトラックのおじさん。山中で泊まる所もない時に見ず知らずの私を泊めて下さった農家のおばあちゃん。通りがかりにトマトを頂いたり、宿で出発の際にパンや土産を頂いたことも何度かあった。旅の話を熱心に聞いて下さった方も何人もおられた。すべて一期一会、再びその方々にお会いすることはないだろう。私は寂しかった。それだけにこの旅館のおばあちゃんとの再会が嬉しかった。

 翌朝、鶴岡の町を遅めに出発した私は町外れの庄内物産館で昼食をとった。ここは前任校の修学旅行で最後の夕食をとった土産物センターである。あの時はセンター内のうどん屋が緊急の病室となって、大量発生したインフルエンザ患者が布団を敷いて寝ていた。その2年半前に私はここを訪れていたわけで、当時はもちろん一般観光客で賑わっていた。

 食後にラ・フランス・アイスクリームを食べ、温海温泉を目指して歩き出した。道は次第に登りはじめ、峠越えになる。夏の日差しは厳しく、じりじりと日に焼けていく感じがする。峠を下りはじめた頃、私の周囲には沢山の蜻蛉が飛んでいた。風は心なしかひんやりと涼しく、私は数十匹の蜻蛉と峠を越えていった。東北の秋はもうそこまで来ていた。

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 次回は第28回「陽はまたのぼり繰り返す―日本海に夕日は沈み、日射病と水害」(村上、中条、新潟県。1998年、夏)です。

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[庄内使えるサイト]より

 日向川と鳥海山

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 鳥海山の紅葉が中腹まで

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 鶴岡 赤川河川敷

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 鶴岡 鶴岡公園のお堀

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2017/1/23

『OKU NO HOSOMICHI』 第26回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜
1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第26回「そして南へ?自転車少年と無人駅のぬいぐるみ」(鶴岡、酒田、女鹿、山形県、秋田県。1995年、夏)

副島勇夫(国語科)

 旅を続けている中で、住んでみたいと思う町に時々出会う。私にとってその第1位は山形県の鶴岡市だ。鶴岡は山形では5、6番目の規模の街である。といっても都会というほどのものではない。高槻や吹田と比べ、2回り、いやそれ以上小さい。駅前や繁華街のたたずまいは似たところもあるが、ビル街はすぐに途切れ、住宅地もしばらく行くと途切れ、広大な田畑、庄内平野が広がっている。飛行機から眺めると鶴岡の町は、夏は田畑の緑、冬は雪の白さの中に浮かぶ島のようで美しい。最もこの辺りの町はすべてこのように見える。

 鶴岡 [やまがたへの旅 観光画像より]

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 鳥海山

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 そんな緑の中に浮かぶ町の東端に赤川が流れ、はるか北には最上川、その北に標高2237メートルの鳥海山が見える。東には羽黒山、月山、湯殿山の出羽三山。南にも数々の山が連なる。歩いて7、8時間、車なら1時間の距離に数多くの名勝、温泉があり、日本海も近い。米が旨く、人情も深いと良いことづくめである。私は庄内空港が近いこともあって、奥の細道の旅の最終日はこの地で過ごすことが何度かあった。人口も多すぎず、ちょうどいい街という印象だ。

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 前日に出羽三山を下山した私は鶴岡に1泊し、次の宿泊地である酒田を目指して歩いていた。小雨が降ったり止んだりの空模様で、本来なら見えるはずの烏海山の美しい山並も見えなかった。

 歩き出して2時間ほど経ち、川沿いの道を北上していると、荷物を左右に振り分けた、自転車の高校生が私を追い越して止まった。「こんにちは」と挨拶をする日焼けした顔が逞しい青年だった。互いにどういう旅なのかを説明し合い、彼は自転車を押しながらしばらく同行してくれることになった。高校生と高校教師ということや、私が大阪から来たということに興味を持ったのか、話は弾んだ。彼は北海道の釧路から宮城県の松島まで、一日100〜140キロを走行する、テント持参の旅の帰りだそうだ。

 釧路での2度の地震の話から阪神大震災の話、釧路は夏でも30度を越えず、クーラーのある家は珍しい、冬はマイナス25度で、吐く息が服にかかるとそこから凍るという話、大阪のタコ焼きは本当においしいのかから、大阪には阪神ファンしかいないのかと素朴な疑問まで、会話の途絶えない1時間だった。大阪弁が珍しいのか、何を言っても面白がってくれる。なかなかできた人物である。

 去っていく後ろ姿を見ながら、この高2の青年の計画性、実行力を頼もしく感じた。自分が励まされたように思えた。旅を続けていると、時々こういう同士に出会う。さすがに歩いてという人には会ったことがないが、自転車、バイクの旅行者とは挨拶を交わし、どちらからともなく旅の話になる。それもこの旅の喜びの1つだ。

 午後3時頃、酒田市に到着。酒田は港町だ。ロシアからの船が着く。街の中の至る所でロシア語の文字が目に入る。ロシア人と思われる人も多い。地元の女子高生と記念写真を撮っている2人組もいる。街の規模は鶴岡と同じかそれ以上だが、なぜか人が少ない。どこか寂しい感じがするのは、ここが以前、大火で焼けた街だからかもしれない。私は街見物もあまりせずに翌朝、酒田を出発した。

 次の目的地は「奥の細道」最北の地、秋田県象潟(きさかた)である。酒田から36キロ北にあり、何とか1日で到着できる距離ではあったが、今回の旅ではすでに月山、湯殿山という2000メートル近い山を登下山しており、足腰ともにいっぱいいっぱいの状態だった。途中、酒田の10キロ北にある「十六羅漢」という名勝で寄り道をしたこともあって、この日の象潟到着は困難に思われた。

 午後に入り少し薄日が差すようになったが、相変わらず晴れ間の少ない空の下、私は歩行者のほとんどいない国道7号線を歩いていた。左には曇天の下の青暗い日本海。右は民家か山裾という道である。前方右には晴れていれば鳥海山が見えるはずだった。夕方になり次第に日没が近づく。あとのことを考え小さな食堂で夕食をとる。どこに泊まろうか。地図を広げて思案する。1時間ほど前、温泉宿を通り過ぎてしまったことが悔やまれた。その時は先に進めば何とかなるだろうと思ったのだった。

 天候が悪いこともあり、8月5日はあっさりと日が暮れてしまった。今晩をどう過ごそう。私はこれまでの約10年の旅を振り返った。見ず知らずの方の御宅で泊まったこと、交番の椅子で眠ったこと、野宿。野宿だけは避けたかった。雨でも降れば悲惨である。そして蚊や蛾の襲来に眠るどころではなかった。駅のホーム。その手があった。一度無人駅のホームで寝たことがあった。虫よけスプレーを手足にかけ、ついでに周辺の壁にも振りかけ眠った。自販機やトイレもある安心感は野宿よりはるかに快適だった。

 地図を見ると近くにJR女鹿(めが)駅があるはずだった。恐らく無人駅だろう。私は痛み始めた足を引きずり、駅舎らしいものを探して歩き出した。ところがそれらしきものが一向にない。線路すら見えない。右も左も林ばかりで、時折左の視界が開け崖下に日本海が見える。右の竹やぶの切れ目に木製の立て札がある。文字を読むと「JR女鹿駅入口」と書かれている。そこから林道が頼りなく続いていた。まさかという思いと不安が込み上げ、足が止まってしまう。意を決して、駅に続くとは思えないその道を歩き出した。道はうねうねと曲がり最後に下ると、小さな倉庫か公園のトイレぐらいの大きさの建物があった。壁に墨で「女鹿」と記されている。どうやらこれが駅舎らしかった。

 中に入ると木製の古びたベンチと台があり、中央のストーブが冬の寒さを想像させる。カレンダーだけが新しく今年の8月を示している。ホームへ出てみると周囲の暗さの中に常夜灯の明かりが等間隔で浮かんでいる。少し気味が悪かった。虫の声しか聞こえない林の中である。私は駅舎に戻りほこりだらけのベンチに座った。壁に掛けられた時刻表を見て驚いた。何とこの駅には上り下り合わせて1日に5本しか電車が停車しないのだ。上りの酒田行きは朝に2本、下りの秋田行きは昼、夕、夜に1本ずつなのである。

 時計を見ると夜の8時過ぎだった。この駅に停まる電車は明日の朝の6時31分までなかった。私は次第に不安になっていった。窓ガラスにあたる蛾の羽音、虫の声、時々聞こえる烏の声に私は過剰に反応していた。目の前の古い本棚に古い雑誌とノートが置いてある。よくある旅の雑記帳というやつだ。それによるとこの女鹿駅は小さな無人駅として有名らしかった。深夜に到着した自転車旅行の大学生が一泊している。皆この駅に驚いているようだ。私も不安を紛らわすために3ページほど書いた。内容は自分の旅ノートにも控えてあるが、あまりも青臭い文章なのでここでは記さない。

 本棚の上に古いウサギのぬいぐるみが2つ置いてあり、「こんにちは!女鹿駅のマスコットです。可愛がってあげて下さい。JR東日本」と書かれた紙が立て掛けてある。その赤と白の2匹のうさぎの間の抜けた顔を見ているうちに私は笑いが込み上げてきた。何故か無性におかしかつた。そして笑い終わったときには私はすっかり落ち着いていた。どうとでもなれというような覚悟ができたようだった。

 夜9時を過ぎ、何もすることのない私は寝ることにした。この経験を楽しもうと思っていたのだが、今にして思えば無理をしていたのだと思う。夜中に通過する列車の音に何度か目が覚め、その度に間の抜けたぬいぐるみを見ては目を閉じた。私はこの2匹に救われたのだと思う。

 翌日、やはり曇り空の下、今回の旅の最終目的地象潟を目指した。女鹿から16キロ、約4時間の距離である。歩き出して10分もすると女鹿の集落があった。旅館などはないが、昨晩の悪戦苦闘を思うと、なあんだという感じである。背負った荷物が重く肩が痛い、足もつらい。心の中で、「キサカタ」と何度も唱えながら歩いた。象潟は「奥の細道」の旅の最北地である。つまり折り返し地点、南下の旅の出発点なのである。

 実際は象潟までの道のりより、そこから日本海に沿って新潟、富山、石川、福井、岐阜と歩く後半の方が距離はあるのだが、何と言っても東北を目指した旅の終わりなのである。歩き始めて10年、8回目の旅で象潟までようやく来たという思いを味わいたくて私は次第に足速になっていた。

 午後1時30分、JR象潟駅に到着する。駅前の観光案内板を参考に私は住宅地を抜け、古来よりの名勝、歌枕の地である象潟の中心を目指した。芭蕉が訪れた当時この地は東西2.2キロ、南北3.3キロの陸地が陥没した入江で、九十九島、八十八潟があった。つまり入江に無数の島が浮かぶ浅い海であった。鳥海山を背景とする風光美をうたわれたのである。宮城県松島を規模を小さくし、島の密度を高めた感じだ。ところがその後、文化元年(1804年)の大地震で隆起して、入江は陸地となってしまった。今はかつての島が、点々と散らばる松の茂る小丘として、田畑の緑に浮かぶようである。私はその水田地帯を通り抜け、なるべく全景を眺めようと低い山へと続く道を歩いていった。20分ほど丘を登り、全景とは言えないまでも数多くの小丘が見渡せる所で腰を下ろした。相変わらず雲の多い空だったが、私は感無量だった。

 ここは秋田県なのだ。10年前、ふらっと東京へ行った最初の旅。暑さのためにクラクラした初日。あれから10年経ったのだ。今では旅装も計画性もすっかり変わっている。1日で歩く距離を定め、1時間毎に休憩を取り、歩きやすい服装、靴、荷物の詰め方、背負い方も考えている。すっかり旅慣れた。そして10歳分年を取った。私はこの10年で何を得て、何を失くしたのだろう。

 次回の旅はここを起点としようと思った。今までとこれからの10年を考えて歩くのだ。ここから南を目指す旅の始まりである。このまま北を目指したい、東北という土地を旅していたい、その思いをもって南下しよう。来年の夏、東北に別れを告げ、越後路へと踏み出す旅となる。しかし、期待感と高揚感に衝き動かされて東北を目指したこの10年の旅は、20歳台ということとも合わせて特別なものになるのだろう。

 翌日、庄内空港を出発した全日空762便は、夜の8時過ぎに大阪伊丹空港に到着した。機内から眺めた大阪の夜景は、途中に見えた名古屋の100倍ほど明るく華やかで、ビル街のネオン、高速道路、一般道の車、人家の無数の明かりに溢れ、そしてどこか苦しそうだった。

次回は第27回「鳥海山との再会」(象潟、温海 秋田県、山形県。1997年夏)です。

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2017/1/22

『OKU NO HOSOMICHI』 第25回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第25回「白い神、赤い神」(月山、湯殿山、山形県。1995年、夏)

副島 勇夫(国語科)

 前任校であるS高校27期生、346名を乗せたバスは、ほぼ予定通り、午後4時に蔵王国際ホテルを出発した。今から20年ほど前の2月のことだ。

 宮城と山形の県境に連なる山々を右手に見ながら、バスはチェリーランドで30分の休憩を取り、月山の南から鶴岡市を目指して再び走りはじめた。修学旅行の実質の最終日。1月30日から始まった旅は、3日間のスキー講習とその総仕上げに当たる蔵王山頂の樹氷原スキーツアーを無事終了し、あとは夕食を取り、夜行列車で大阪まで帰るだけだった。バスの中ではビデオが流されていた。皆はその「マネキン2」を見るともなく眺めていた。後ろの席ではかろうじて元気な数名が騒いでいた。何名かの生徒がインフルエンザの症状を示していた。

 今回の修学旅行は、約50名という、S高校修学旅行史上最多のインフルエンザ患者を出した旅だった。皆疲れていた。次第に日は暮れ、どこをどう走っているのかわからなくなりつつあった。しかし、ここからが私にとっての最後の楽しみなのだ。バスの運転手の後ろの席から私は雪の積もる夜の道を見つめ、その場所を探していた。時刻は7時半を過ぎ、月山、湯殿山の麓を回りこむように続く道は、バスのライトに照らされた場所だけが見える状態だった。

 私はこの修学旅行の5年前の夏、月山、湯殿山から下山し、やっとの思いで辿り着いた場所、旅の日記を書いている途中に土砂降りの雨に打たれた、その場所を探していたのだ。そして、そこから後にこのバスが走る道は、恐らくすべて私が5年前に歩いた道のはずだ。記憶は5年前に遡る・・・。

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(以下庄内観光コンベンション協会が提供する無料画像より)

 月山山頂付近

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 月山山頂

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 月山登山

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 月山 弥陀ヶ原

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 冬の月山 [庄内使えるギャラリー]より

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 1995年8月2日。少しあやしくなりだした曇り空を見上げ、私は荷物を背負い、再び歩き始めた。私は山形県の霊峰月山の6合目にいた。6合目といっても車も通る舗装された道路で、山道らしくなるのは8合目からだ。振り返ると眼下の遠くに、緑の水田に浮かぶように町が見える。2日後には着くであろう鶴岡の町だ。

 「奥の細道」を歩く8回目の旅のこの日が初日だった。6合目で休憩を取っていると次第に周囲が白くなっていった。ガスがかかり始めたのだ。麓の眺望はなくなり、寒くなってきた。あっという間に前方30メートルが見えなくなる。急ごう。何とか夕方までに、8合目の月山御田ヶ原参寵所に着かねばならない。

 月山は標高1984メートル、夏でさえ雪の残る山である。日が暮れた後のことなど考えたくはなかった。「7合目合清水(ごうしみず)」と記された茶色い標識がガスの中に浮かんでいる。あと1合だ。目の前の道は白いガスの中に吸い込まれるように消えている。山頂どころか自分が今いる場所から上の眺めがほとんどない。そもそも月山の山頂を見たことなど一度もなかった。月山があるはずの方角を見ながら歩いた前回の旅。月山の麓まで辿り着いたその最終日。そして今日といい、月山の山頂は常に雲の中だった。この道はどこに続いているのだろう。白いガスの中で私は一人不安だった。

 1時間ほど前に1台の車が私を追い越していった。その1台のハイラックス・サーフが私の支えだった。寒い。そして水滴が手や足を伝った。1時間ほど歩くと前方に人影のようなものが見え、上り坂が平らになる。広々とした空間に出た。駐車場のようだった。私が人影だと思ったものは月山8合目のバス停であった。皆、車でここまで来たのだろう。大勢の人が8合目にはいた。高山植物が保護整備された通称「御花畑」の中を通り、今日の宿の月山御田ヶ原参寵所に着いた。

 部屋は教室3つ分ぐらいの大部屋で、奥の方には明治大学スキー部が数日前から泊まっていた。最悪の状況だ。消灯後は静かに眠ることができるのだろうか。深夜のどんちゃん騒ぎ。一般客とのトラブル。そんなことを考え、気が重くなった。私の隣は、左が尾花沢から来られた老人。隣といっても自分の布団を敷くだけのスペースが与えられた場所だ。この老人は自称「アマチュア修行僧で、各地の名山に登っては気に入った場所でビニールシートを敷き、座禅を組むそうだ。右隣りは定年退職後、百名山を登ることを目標とされている名古屋からの2人の男性。他にも老夫婦など全部で8名が対学生連合チームだった。誰もが十数名の大学生の挙止動作を意識していた。

 私はその場にいる気になれず1階に降り、外に出た。夕方の5時過ぎだというのに辺りは暗く、白く濁っていた。そして湿った寒さがさらに私の気を重くした。身体を暖めようと風呂に行くが、浴槽の湯は少なくなっていて、シャワーも湯があまり出なかった。外は雨になったようだ。かなりの雨音が聞こえる。私は情けなくなった。夕食を済ませても午後6時半。部屋に戻ると皆布団を敷き床に就いている。私も毛布を被った。寝てしまおう。雨音と学生の話し声だけの広い部屋。明日は山頂に着くことができるのだろうか。夜はまだ八時だった。

 バイトの高校生の声に目を覚まし時計を見ると午前4時、スキー部の学生は寝ている。心配していた事態はなかったようだ。見回すと何人かの人が荷作りを始めていた。5時半に朝食。同好の士同士で話がはずんだ。参籠所の外に出ると雨は上がっていたが、一面のガス。気温は2、3度ぐらいか。地面では100匹以上の蛾が羽をバタバタさせている。夜に明かりを求めて集まるそうだ。もがき苦しんでいるようで、あまり気持ちの良い光景ではなかった。ここは霊場だという思いが強まった。

 ほかの人々とともに朝6時に出発。白いガスと足元の高山植物の中、前だけを見て歩く。雨天用のレインポンチョを着てはいるが寒い。月山を少し甘く見ていたようだ。9合目の山小屋を過ぎたところで3分ほど陽が差す。雪渓の白と植物の緑、黄色や薄紅色の花が鮮やかで、斜面を登っていく人々の背負った荷物がそこだけ浮き上がって見える。小学4年生ぐらいの男の子とその父親らしき人が元気に登っていく。その前方のおばあちゃん3人組も健脚だ。山頂付近は大小の石が散在し、歩きにくい。雪渓と寒風の吹きつける中を8時20分頂上到着。山頂には簡素な神社が石垣の中に建っており、白いガスの中、次第にその輪郭を鮮明にしていく。今回の旅の最大の目的はここなのだ。

 自分の話になるが、この年の冬に第一子の誕生を控えていた。初めての子だった。私はこの2000メートルの高さにある月山神社で、安産と我が子の無事な誕生、その後の健康を願おうと決めていた。もちろん松尾芭蕉もこの山を登っているのだが、今回ばかりは生まれてくる子供のための登山だった。入り口で300円を払い、人の形をした小さな紙をもらう。それで身体を何度もなでた後、その紙を水にうかべ社の前に立つ。私は信仰もなく、日頃手を合わせることもないが、このときばかりは感動していた。強い風と寒さもあって身体が震えていた。願うという気持ちをこれほど素直に感じたことはなかった。

 山頂の山小屋で熱いお茶をすすり、見ず知らずの人々と話す。わたしの服装はこの山を登るには軽装だったようで、何人もの人から指摘された。わたしはレインポンチョの下は半袖のTシャツに短パンだったのだ。足や手に鳥肌が立っていた。芭蕉も「息絶え、身こごえて頂上に至れば」と記している。

 あたりは相変わらず白く、日が暮れていった前日と比べ、朝である分だけ明るかった。休憩を取るだけ身体が冷えていく。靴のひもを結び直し出発する。まだ午前9時にもなっていない。石ばかりの道を下り始めると膝がガクガクする。下りのほうがはるかにつらい。前方には小学生の集団、担任の先生か保護者らしき人が盛んに檄を飛ばしている。小学生に笑われてはいけないと軽い足取りを演じ山道を下るが、内心はもう一杯一杯だった。

 彼らの姿がガスの中に消えたところで思わず座り込んだ。腕に寒冷じんましんが出ている。しかし、こんなところでバテているわけにはいかない。この先にはまだ金月光(かながっこう)、水月光(みずがっこう)という難所があるのだ。鍛冶小屋を過ぎ、牛首まで来て慎重になる。ここは山頂の分岐点だ。数日前ここで道を誤った夫婦が遭難している。前後にはあいにく人がいない。標識を確認して歩き出す。浄身川、施薬小屋を過ぎた辺りでようやくガスが消え、眼下の景観が開ける。

 天気は曇りのようだ。10分ほど下ると金月光の標識。落ちるような急坂に鉄のハシゴが掛けられ、鎖を持ちながら後ろ向きになって降りる。それが30メートルほど続くのだ。登山というよりアスレチックのようだ。背中の荷物が重く、はしごを降りるバランスが崩れる。

 金月光を過ぎるとすぐに水月光に出る。これも急坂ではしごを掛けるほどではないが、足下を絶えず湧き水が流れていく。なぜここを登山道にしているのだろう、水のないところは降りられないのかという憤りがこみ上げてくる。タイミング悪く、小雨が降りだした。膝はガクガクで、レインポンチョの外も内も濡れている。難所はさすがに難所である。芭蕉の頃は鉄のハシゴもなく、坂に這いつくばるようにして下ったのだろう。

 湯殿神社 本宮(庄内観光コンベンション協会が提供する無料画像より)

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 午前11時、月山を下った尾根続きの湯殿山中腹にある湯殿山神社に到着。ガスと雪渓の中を歩き続けた白の神域は、これより赤茶の巨岩をご神体とする赤の神域へと移る。湯殿山神社に到着した私は雨とガス、汗で濡れたレインポンチョを脱ぎ、拝観料を払い中に入った。空は雲こそ多いが青空だ。

 山頂にある月山神社と比べ人が多い。入り口で人の形をした紙で身体をなで、水に浮かべるのは同じだ。違いはその後裸足になり石の敷き詰められた道を歩く点である。そうして歩いていくと少し開けたところに巨大な赤茶色の岩がある。小さな丘のような形と大きさだ。そしてその岩の上のほうから熱い湯が流れ出している。つまりここは温泉の源泉なのだ。

 岩の周囲には湯気が立ち、岩肌はぬるぬるとした光沢がある。その岩を足を滑らせながら登り、一周することが参拝することなのだ。私は月山神社と同様に我が子のことを願ったが、正直言ってこの神社の特異さに対する興味と滑りやすい足下のために集中はできなかった。写真撮影も禁止されている。私はこの不思議な光景を目に焼き付けようと、30分ほど赤茶色の巨岩を眺めていた。

 その後、「熊、出没注意」という恐ろしい立て看板を何枚も見ながら麓の田麦俣まで下山した。民宿が1軒あり、泊まろうか次の集落まで行こうか迷いながら歩いていると、観光バスの通る大きな道に出た。ガードレールの向こうは建設中のダムがある。下山したとは言ってもまだまだ山の中だった。私は腰を下ろし地図を広げ、次の集落を探した。まだあと数時間の道のりだった。田麦俣の民宿に引き返すことにして、私はその場所で荷物の中から毎日書き記している旅日記を取り出した。

 起床4時の長い1日だった。白いガスの中を彷徨うように歩き、山頂の月山神社に着いたのが8時過ぎ。寒く白い山頂での出来事。金月光、水月光の難所。湯殿山神社の赤い巨岩。そんなことを書いているうちにノートにポツリと雨が落ちた。どしゃ降りになった。あっという間だった。私は慌てて荷物をまとめ、田麦俣の集落に向かった。

 S高校27期3年4組を乗せたバスは、小雪の降る暗い夜の道を鶴岡市街を目指して走っていた。右手に湯殿山、左手に深い谷。私が探していたその場所はまもなくのはずだ。車内の話し声。流れるカセットの音楽。隣の座席では副担任のK先生が目を閉じている。初日の宮城県松島では仙台銘菓「萩の月」を買うために、大量の生徒が店を訪れ、バスの出発が遅れ、このお菓子を事前にあまりにも宣伝した推薦者として冷や冷やした。とにかく、ふわふわの生地の中のカスタードがトロリとしてなくて美味なのだ。

 初日の大浴場事件。続出するインフルエンザ。夜の雪合戦。露天風呂で某先生がまいた湯のために階段が凍り、そのために全裸で滑り落ちてできた尻の傷。厳寒の中の樹氷スキー。それに加え、5年前の月山、湯殿山。12年前の松島を再訪することができ、個人的には二重の喜びの修学旅行だった。その後、柴島高校に転勤した今でも、約20年前の日々が懐かしく思い出される。

 次回は第26回「そして南へ? 自転車少年と無人駅のぬいぐるみ」(鶴岡、酒田、女鹿、山形県、秋田県。1995年、夏)です。

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2016/12/6

『OKU NO HOSOMICHI』 第24回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第24回「「空のグラデーション」(羽黒山、山形県。1993年、夏)

副島勇夫(国語科)

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 羽黒山、月山、湯殿山を称して出羽三山という。

 この三山はまさに隣り合う形で並び、羽黒山頂がそのまま月山の登山口となり、月山を下っていくと湯殿山に行き当たる。そしてこの三山は平安時代より信仰の山であり、大和の大峰山(崖から腰ひも付きで突き落とされそうになり「親孝行するかぁーっ」と怒鳴られる山である)、九州の英彦山と並ぶ三大修験道場であった。

 古代の霊山信仰と、平安時代の山中に浄土があるという考えが結びつき、修行により法力を得ようとする修験者や救われたい庶民が100人、500人、1000人と列をなして押しかけた。交通不便の時代に東日本各地から年間15万7千人が登山参拝したという記録が残っている。当時は約300件の宿坊があったそうだが、今では35軒、それでもさまざまな県名が記された看板が掛けられ、信仰の今に至ることを示している。

 出羽三山登山がいかに大変なものかということは次回記したいが、羽黒山419メートル、月山1984メートル、湯殿山1504メートルであり、中でも月山は8合目以上は夏でも雪が残り、夏の朝の気温でさえ零度ということもざらである。そろそろ話を始めようと思う。

 8月2日、天気は晴れ。前日雨の中を20キロ歩き、羽黒山の門前町の手向(とうげ)に到着した私は今回のこの旅の最終目的地である、羽黒山頂を目指していた。

 目の前には羽黒山の入り口とも言える随神門がある。これより遥か湯殿山までが神域である。登るのかと思いきや下りの石段。少し拍子抜けしながら跳ねるように駆け下りる。朱塗りの神橋を渡ると杉木立が深くなる。樹齢1000年の天然記念物「爺杉」が立っている。

 羽黒山は樹齢300から600年の杉が多いが、この木は中でも飛び抜けて老木である。1000年という圧倒的な時の重なりに敬意を表し一礼した私の目に次に映ったものは、杉木立の密集がやや開けた空間の中に立つ、奥羽最古の五重塔だった。この室町初期に作られた素木作りの国宝は、華美な装飾、彩色を排し質実な飾り気のない見事な美しさだった。そしてその風雪に耐え鄙(ひな)びた姿、木材の色は塔ではなく土中より生じた一本の木を思わせた。

 眺め続けていたい心を抑え歩きだした私を待ち受けていたのは、これこそ羽黒山、名所中の名所、そして難所、杉並木の中、約2キロ、果てしなく続く2246段の石段であった。のぼり50分、下りは40分の一段一段が普通よりやや低い平たい石段である。このときの旅では2日目に立石寺の1018段の石段を往復しており、合計6528段を上り下りすることになる。

 目の前のだらだらと登っていく石段道に足を踏み入れる。すぐに「一の坂」と呼ばれる急な石段道。少ししんどいがまだまだ余裕でクリアー。何人も追い越し得意気であった。しかし、それもここまで、次の二の坂を前にして私は立ちつくしていた。

 これはすごい、そしてひどい。まるで壁だ。途中からは手前に反りかえっているかのように見える。「よしっ」と声を出すが、足が上ることを拒否している。今回はここまでに130キロほど歩いている。その最後に2246段はきつかった。仕方がないので登り始める。汗があごや耳、指先や肘からポタポタと落ち、息は乱れ、目の前には、☆◎?△□のような図形が見える。倒れそうだ。後ろから「ほい。ほい。ほい。ほい。」という声が登ってくる。振り返ると先ほど一の坂で追い越したおばあちゃんだった。

 悔しかった。そして情けなかった。これではまるで教訓おとぎ話である。しかし、私はあっさりと追い越された。その時のおばあちゃんの目が「まだまだ甘いわ。お若いの。」と語っていたことは言うまでもない。ハアハア、ヒイヒイ、フウフウと誰もが息を切らしながら登っている。そんな五段活用の中、私も覚悟を決め一気に登り始めた。荷物が重い。膝がわなわなとする。全身から湯気が立つかのようである。

 頭の中がツンと痛くなった頃ようやく「二の坂」を登り切る。するとそこには一軒の茶店。ありがたいと思うとともに卑怯者めと言ってやりたくなる。商売上手だ。誰もが、ここで休みたいだろう。

 名物「力餅」をいささか手遅れの感はあるが食べる。「力」はこの石段を登る前にほしかった。一休みの後、歩き始める。「三の坂」の脇に芭蕉が滞在した南谷別院の跡がある。木立がわずかに開けたところに草地と池がある。蚊の大群がいたので引き返す。この辺りの杉並木は樹齢300年というから、芭蕉が訪れた頃はまだ芽が出たぐらいである。

 そしてダメ押しの「三の坂」をゆっくりと自分のペースで登り、ようやく本殿の三神合祭殿に到着する。1818年の建造というから芭蕉が訪れた1689年には当然なかったものである。茅葺き屋根が巨大で、朱塗りの重厚かつ豪壮な大建築である。

 雪深い冬に月山、湯殿山への参拝ができないため、もともとの出羽神社に月山神社、湯殿山神社の二神を合わせ「三神合祭」と言い、出羽三山神社と呼ぶのだそうだ。本殿前には鏡池があり、この池から500枚以上の鏡が引き上げられている。今回の旅の到達点はこの出羽三山神社と決めていた。来年はこの地点から月山に登るところから始まるのだ。

 境内でしばらく過ごした後、今度は「三の坂」、「二の坂」、「一の坂」の順で坂を下る。膝が笑うどころか砕けそうだ。痛い。「二の坂」は下ると言うより落ちそうだ。もう一度五重塔で時間を過ごし、ゆっくりと眺める。周囲を杉の巨木に囲まれ、のしかかられるような中、しゃんと立っている素朴な塔。森林特有の靄(もや)が、呼吸しているかのようだ。

 何かとてもありがたい気持ちで随神門を出る。手向の村を通り抜け、鶴岡の町を目指して歩く。このあたりは町と町の間は田畑ばかりで、その中を道路がまっすぐに延びていく。だから高い所から見下ろすと、夏は水田の緑の海に町が島のように浮かんで見える。来年は月山から見下ろそうと思う。

 鶴岡へ向かう舗装されたバス道を下って行く。角を曲がり視野が開けると朱塗りの大鳥居。最近作られたものだろう。あまりに巨大すぎる。立派ではあるが、五重塔のような枯れた風情がない。それでも雲のほとんどない青い空を背景に鮮やかにそびえ立っている。残っていたカメラのフィルムを使い切ってしまおうと数枚写真を撮る。振り返ると羽黒山が丘のように見え、その右奥に月山が半ば雲に隠れている。

 当時はまだ、デジカメやスマホなどない時代、フィルムのカメラしかない。

 ところが、この時までまったく気がついていなかったのだが、進行方向の鶴岡の右後方に美しい山が見える。標高2337メートル、なだらかな稜線を持つ、東北最高峰の鳥海山だった。

 山頂付近は雪のため白く、陽光に輝いている。薄雲がかかり、その雲も白と薄いクリーム色に輝いている。その上は薄いオレンジ色に染まった空である。その空の上は薄い黄色の空であり、その上は白みがかった青緑色の空、そしてそこから上方に行くにつれ少しずつ青味が増していく。青緑から青へ、青から濃い青へ。薄い層になった空が平たい山頂の稜線にまとわりつく虹のように重なり、美しい空のグラデーションを作り出していた。私はその夢のような美しさに見とれていた。現実の光景ではないように思えた。

 しばらくして私はカメラ、カメラと思ったが、何ということかフィルムがない。近くに店もない。田んぼの海の中に赤い大鳥居と「大鳥居」という名のバス停があるだけだ。当時の旅日記を見ると次のように記されている。「残りのフィルムを使い切って、ふと見ると、見事な鳥海山。雲の上に雪をのせて、そびえ立つ山。空の青が薄いから濃いへ。言葉もない。フィルムもない。来年はこの山を見ながら歩こう。」

 私は誰も来ない、そしてバスも来ない大鳥居のバス停のベンチで、白い烏海山と虹のような空を見つめ続けていた。

追記 その後、1995年、1997年と2度、鳥海山が見えるあたりを歩いたのですが、天候にも恵まれず鳥海山を見ることができたのは1日だけ、この時のような空を見ることは2度とありませんでした。

次回は第25回「白い神、赤い神」(月山、湯殿山、山形県。1995年、夏)です。

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2016/12/5

『OKU NO HOSOMICHI』 第23回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第23回「対決!花笠音頭 VS 六甲おろし」(立石寺、最上川、山形県。1993年、夏)


副島 勇夫(国語科)

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「山形領に立石寺と云う山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に静閑の地也。一見すべきよし、人々のすすむるによりて、尾花沢よりとって返し」

 松尾芭蕉が山形の古刹、立石寺に到着したのは元禄二年(1689年)5月27日、現代の暦での7月13日午後3時ごろのことであった。それから約300年後の7月28日のほぼ同時刻に、私は小雨の降る中、同じ場所に到着した。

 7回目の「奥の細道」を歩くたびの初日である。

 前年の到着地、山形県村山市楯岡を10時に出発し、約25キロを雨の中で過ごした。初日というのにすっかり気分は萎えてしまっていた。レインポンチョを着ていても5時間歩けばすっかり体は濡れてしまい、夏だというのに肌寒かった。気温23度。7月末なのにである。

 目の前にはひなびた土産物屋、食堂などが並ぶ。典型的な観光地である。その小さな町を背後から見下ろし小高い山が雨の中に煙っている。その中腹から頂上にかけて、巨岩と岩上の院々が点在するのが見える。夕方になりつつあった。もとより傾くべき陽さえ出ていない。寒そうだった。

 この日は登るのをやめて宿を探し、「山寺ペンション」に泊まる。部屋に入り暖房をつけ仮眠。時間前だったが特別に風呂に入らせてもらい暖まり、濡れた服を洗濯する。風呂上がりの山ぶどうジュースが美味。食堂のテレビが明日も雨であることを告げている。

 翌朝、微かに晴れている。荷物を宿に預け、朝食もそこそこに立石寺に向かった。雨が降りだす前に立石寺を観て、23キロ先の東根までは行きたいのだ。大阪は梅雨明けしているのに、東北だけは未だ開けていない。観測史上最長の梅雨らしい。

 入口山門に到着したが朝早いため、観光客は誰もいない。奥の院如法堂までの1018段の石段を駆け上がる。芭蕉の句の短冊を埋めたという蝉塚で休憩。雨に濡れた木々、あちこちに咲く紫陽花。朝の薄日が差し込み清々しい。仁王門までハアハア言いながら登る。佳景寂寞(かけいじゃくまく)とした清閑の地だ。朝に訪れて良かったと思った。人がいない。

 芭蕉の往時を偲ばせる。物音一つしない。蝉の声すらしない。さらに奥の院までヒイヒイ言いながら登る。修行用の釈迦堂が左手の山中に、五大堂、納経堂、開山堂が、右手にそしてはるか下に麓の町が見える。少し下がって五大堂から見る景色は素晴らしい。町が模型のように見える。JR仙山線の電車の音が妙にはっきりと聞こえ、鳶が眼下を飛んでいる。凝灰岩の岩頭に立つ諸堂、とりわけ巨大な百丈岩の上に建つこの堂からは絶景である。一見の価値。 

 往きと同じ石段をゆっくりと降りる。ようやく蝉が鳴きはじめた。

 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声  芭蕉

 8月1日。最上川沿いの町を歩く。芭蕉も最上川を舟で下っている。それなら川下りの舟に乗っても反則ではないだろうと、古口から草薙までの約12キロを船旅と決め込んだ。

 最上川は全長約300キロでありながら、山形県のみを流れるという純山形産の母なる川だ。江戸時代は米や紅花を積んだ下り舟と塩や呉服を荷とする上り舟が行き交った。中世では岩手県平泉へ落ちる源義経一行もこの川を舟で遡った歴史の川である。かつての新庄藩の舟番所を模した乗船場から舟に乗り込むとすでに、30人ほどの先客。70歳くらいの船頭さんは最上川音頭を英語で歌ったり、アドリブのきく話術が冴え、なかなかの名調子。その後、お約束のパターンで花笠音頭を全員で大合唱。と、ここまでは普通の観光船だ。

 その時、船頭さんが言った。

「みんな山形の人?どなたか御当地ソングを歌ってくれる人はいねえべか。」
「そこのリュックのお兄ちゃん。あんた旅の者でしょ。」
「どこ?あ、大阪。大阪なら「河内音頭」でしょ。」

 というわけで写真のように前に座らされてしまった。(この連載第1回の時が24歳の写真、それから8年で6キロも体重が増加した。顔がパンパンだ。)ところが大阪人としては恥ずべきことなのか、「河内音頭」が思い出せない。「さても皆さま」とか「エンヤコラセー」とか断片的にしか知らないのである。どうしよう。このままでは大阪人の面子(メンツ)がたたない。

 そこで私は答えた。「あの、「河内音頭」じゃなくて、大阪の人間なら誰もが歌える歌でいいですか。」おじいちゃんの船頭さんは皺だらけの顔でニコニコしながら「いいよ」と笑った。私はマイクを握った。

「大阪代表歌います。「阪神タイガースの歌 六甲おろし」。
チャンチャカチャーンチャン チャチャチャチャチャン(わけがわからなくなるので省略)
六甲おろしに颯爽と、蒼天駆ける日輪の、青春の覇気麗しく……オウ オウ オウ オー
阪神タイガース!フレー フレフレフレー」

 なぜか、涙が出そうになった。ああ、私は生粋の関西人だ!関西万歳。1985年の優勝を思い出した。真弓、バース、掛布、岡田の雄姿が目に浮かぶ。この旅の前年の1992年は、9月中頃まで首位だったのだ。優勝を確信して乗り込んだ東京でのロードで大きく負け越し、ヤクルトに優勝を攫(さら)われた。そんなことが思い出された。

 しかし今は遥か東北の地で誇らしく歌っている。すれ違う舟の人々がこちらを見ている。かまうものか私は関西人だ。船中の手拍子も心地よい。3番まで歌ってしまおうかとも思ったが、東北は巨人ファンが多いだろうと一番だけで遠慮しておいた。席に戻ると仁川(兵庫県)から来た南原さんという60歳位の御夫婦が「いやあ、良かった。」と話しかけてきた。私たちは勝利投手と監督のようにガッチリと握手をした。

 しかし、そこから山形魂の逆襲がはじまった。「それでは、もうすぐ草薙の下船場に着きますが、もう一度皆さんで花笠音頭。」船内の甲子園ムードは一瞬にして現実にひき戻された。しかし、私は嬉しかった。ここは山形なのだ。それも母なる最上川なのだ。すぐさま大合唱に加わった。一度聞いただけの歌だが歌えるようになっていた。何度歌っても楽しい。45分間の船旅で私は少し山形人になったようだ。六甲おろしの完敗である。

 船内和やかに下船場に到着。舟を降りる時に船頭さんと話をし、「奥の細道」を歩いていることを告げると、暖かい笑顔ではげまして下さった。私は船頭さんと握手をし、ずっと名調子で頑張って下さいというようなことを伝えた。(実はこの船頭さん、山形では有名人なのだそうだ。(1999年10月、NHK衛星放送の「お〜いニッポン」という番組で、川下りが取り上げられた時、出演されていました。)

 私は嬉しかった。この旅がますます気に入った。それを実感するのは良い景色と解き放たれた気分と人との出会いである。足をケガしてトボトボと歩いていた時に拾ってくれたトラックのおじさん。山中で畑からもぎたてのトマトをくれたおばあちゃん。どこの誰かもわからない私を泊めてくれた農家の老夫婦や交番の若いおまわりさん。歩いていると手を振ってくれる車やバイクの人々。そんな人々の親切が何よりの経験だ。私はこれまでの旅を思いだしながら下船場の階段を登っていった。

 昼食は先ほどの南原さん御夫妻とご一緒させていただく。私は6歳まで兵庫県西宮市の門戸厄神という所に住んでいた。日曜の朝は家族4人で自転車に乗り、隣の仁川駅まで行き、阪急電車の見える喫茶店だったか今でいうファミリーレストランでホットケーキを食べることがよくあった。ずいぶん昔のことだ。

 そんな話をすると南原さんは「仁川もずいぶん変わりましたよ。」と笑った。私はその笑顔を見ながら、一度自分が幼い頃を過ごした場所も見に行こうと決めた。通っていた保育園。当時は田んぼの中の畦道を歩いたものだ。住んでいた社宅。はじめて一人でおつかいに行った近くのパン屋。きっと、とても近かったのだろうが、ずいぶん必死の覚悟で食パンを持って歩いたのだろう。今はどうなっているのだろうか。東北の真ん中山形で私は幼い日々の自分に戻っていた。

次回は第24回「空のグラデーション」(羽黒山、山形県。1993年、夏)です。

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2016/11/3

『OKU NO HOSOMICHI』 第22回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986OKU NOHOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第22回「ある日森の中、出会ったもの・・・それはクマさん〜後編」
(出羽街道中山越、宮城県。1991年、夏)」

副島 勇夫(国語科)

 確実にこの山のどこかにいる。それも近くに。そのことが実感された。私は必死に歌った。なぜか「巨人の星」。(私は巨人が嫌いだ。バリバリの阪神ファンだ。だが、なぜか「六甲おろし」ではなかった。)だが今の50歳代以上は、この歌で力が湧くのだ。

 道は相変わらず細い。上空にはのどかな青い空が見える。左右は深い森。何本あるかわからないほどの木。そして低木、雑草が密生している。幅2メートルの道の左右はそんな茂みだ。少し開けた所にクマの通り道の例の休憩所がある。案内板の終わりに「宮城県」と記されている。のんきなものだ。足早に通り過ぎる。のんびりしてはいられない。道はうねうねと蛇行している。小走りに近い速さで急ぐ。デイパックも捨てて走りたい気持ちだった。直径2センチ、長さ40センチぐらいの木の棒を拾った。これが何の役に立つのか。でも何かを握っていたい心境だった。

 それから5分ほどして不意に私の右手の離れた木立の中で「ドーン」という重低音がした。それほど大きな音ではない。もちろん猟銃の音でもない。わたしは足がすくんだ。続いて前方の右の方で、「バキッ」という音がした。ある程度の太さの物が折れた。決して小動物ではない。足元をへビがシュルシュルとすり抜けていく。

 この際、ヘビなんて可愛いものだ。私は急いだ。泣きそうだった。歌うことも叫ぶことも忘れていた。喉はカラカラだった。私は急いだが足がもつれていた。「バキッ、バキッ」音は大きくなる。ガサガサと茂みを分ける音がする。とうとう恐れていた時が来たのだ。そして、私の前方10〜15メートルの右の茂みから黒い毛の塊がのっそりと出た。道を横切ろうとしていたその目が私を捕らえた。目が合ってしまった。動きが止まった。

 体の高さは座った状態で1メートルぐらい。大人のクマではないようだ。「グウッ」とか「フオッ」というような声が聞こえる。こちらを向いてクマの動きが完全に止まった。私は顔をひきつらせ、首の後ろの辺りが硬直し、下半身と上半身が別人のものであるかのようにギクシャクと後ずさりをした。そして、気がつくと口をあけて笑みを浮かべていた。

 そう笑っていたのだ。なぜか、思わず時計を見た。11時20分だった。空は相変わらず雲一つなかった。烏の声がする。私以外のものはすべてのどかだった。だが私の前には「ツキノワグマ」がいた。私はいろいろなことを思った。いや正確には1つのことだけを考えた。どうするか。引き返すか。その時は走るのか、そっと歩くのか。しかし、足が言うことをきかない。棒立ちのままだ。クマは「ムグッ」「フー」と声を発してこちらを見ている。

 私は覚悟を決めクマをにらみつけた。心の中で数えた。1、2、3、4、5。そしておじいちゃんの教えの通り、少し目をそらした。その教えでいけばクマは逃げてくれるはずだった。私は視線を戻した。クマは…クマは同じ場所にいた。それどころか1歩前に出た。私はもう一目散にクマとは反対方向に走ろうと決めた。逃げ道はない。

 おじいちゃんのいる所までに追いつかれたらおしまいだった。また、おじいちゃんの所まで走り着いたとしても、その後どうなるかわからなかった。1、2の3で走り出そうとしたその時、クマの進行方向が変わった。左の茂みの方へ行く。何事もなかったようにガサガサと入っていく。掻き分け、踏み分けるような音がしばらく続き、そして途絶えた。私はクマが目の前にいた時とは別の恐怖を感じた。そして何やら叫びながら手にしていた棒を振り回し走った。クマのいた辺りを通り過ぎ国道47号線を目指し走った。次第に道が開けていく。森林の深さが、密度が低くなり空が大きく開けた。半泣きだった。

 ハァハァと息を切らして走った。道幅が広がり、出口が近いと感じられた。ポッキーの箱が落ちている。山中で感じていた重苦しさがなくなり、人気(ひとけ)が感じられる。ようやく私は走るのをやめ歩いた。どこからか車の音がする。国道は近い。私は握りしめていた棒を捨て、大きく息をついた。

 助かった。所詮は、ひ弱な現代人だ。守られていなければ生きていけない。そんなことを思った。林道の出口が近づいた。遠くに国道のアスファルトと白いガードレールが見える。5才ぐらいの女の子と父親らしき人が捕虫網を手にしてこちらへ歩いてくる。私は聞かれもしないのに少し得意気に言った。「さっき、この奥でクマが出ました。」するとそのお父さんは笑いながら言った。「そうですか。私も昔よく見ました。実家がこの辺りで、久し振りの帰省です。」落ち着いている。私は妙に悔しかった。

 国道に出るとギラギラとした日差しに一面の青空。500メートルほど前方の道路脇に大きな白い看板。横書きで「ようこそ山形県へ」。いろんなことがあった宮城県を抜ける。ここは東北のまん中。いよいよ「奥の細道」の旅で初めて日本海に面した県に入る。

 次回は第23回「対決!花笠音頭 VS 六甲おろし」(立石寺、最上川、山形県。1993年、夏)です。

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2016/11/2

『OKU NO HOSOMICHI』 第21回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986OKU NOHOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第21回「ある日森の中、出会ったもの・・・それはクマさん〜前編(出羽街道中山越、宮城県。1991年、夏)」

副島 勇夫(国語科)

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 「森のクマさん」という童謡ほど現実にほど遠い歌はない。

 「ある日、森の中、クマさんに出会った。花咲く森の道、クマさんに出会った。」と何ともうれしそうである。おまけにこのクマさんに出会ったお嬢さんは「すたこらさつさのさ」と間の抜けた逃げ方をし、クマはクマでお嬢さんの落とした「白い貝がらの小さなイヤリング」を拾って届けてくれる。最後にはお嬢さんがお礼に「ララララ ランランラン ランラン」と謎の歌を歌って終わりとなる。まことに結構と言いたくなる展開だ。

 しかし、現実はそんなに甘くはない。山の中で1人、クマに本当に会ってしまったらどうするか。いや、人はどうなるか。その答えは・・・ただ「笑う」である。笑ったら助かるとかクマが見逃してくれるというのではない。極度の緊張状態に陥ると人は「笑う」のである。ひきつった笑い。少なくとも私はそうだった。今回はそういう話である。

 前回の話の通り無人駅で1泊した後、翌日に温泉地で名高い鳴子に到着した私は、野宿の疲れを湯につかって落とし、8月10日の朝、山形県入りを目指して歩き出した。8時45分に歩き始め、9時10分には尿前(しとまえ)の関に到着。この旧関から芭蕉も難儀した「中山越え」の始まりである。現在は歴史の道として整備されたが、それでも尿前の関から山形県との県境までの約9キロ、2〜3時間かかる山の中の道である。

 登り下りの繰り返す山中の小道に、芭蕉と同行の弟子である曾良(そら)は疲労困憊、「奥の細道」の原文では「大山をのぼって日既に暮れければ、」としか記されていない。途中「小深沢」「大深沢」という深い谷底へ下りてはまた登るという険しい沢があり、後者は出羽街道中最大の難所である。

 国道47号から中山越の道に入ると次第に道は下り、深い谷底へと降りていく。辺りは鬱蒼とし、底の小川にだけ日光が当たりキラキラとしている。それを下ると次はきつい九十九折(つづらおり)の登り。そこを過ぎると次は今の1.5倍ぐらいの深さの谷。それが「小深沢」と「大深沢」だった。これを今から約400年前、整備も何もされていない頃に歩くのは大変なことだったろう。しかし、私にとって大変だったのはここからだった。

 「大深沢」を越えると突然辺りが開け、小さな住宅地が現われた。かつての難所も今や住民の魚とり、水遊びの場になっているのだろう。確かにきつかったが難儀したというほどではなかった。それが現代なのだろう。

 国道47号に合流した後、しばらく歩くと畑と民家の間に山中へと続きそうな一本道。見ると「出羽街道」の標識。民家の人にこの道が再び47号に出るかどうかを尋ねると、1時間半ほどで合流し、その先で山形県に入るとのことだった。

 天気は快晴。雲一つないまっ青な空。私は先ほどの難所越えがやや肩透かしだったのであえて山中に入る道を選んだ。そう。私はこの時わざわざ選んでしまったのだった。「出羽街道」の道は右手が青々とした稲穂の実る田んぼ、その向うは緑の濃い森林であり、左手も同じような林である。道幅は2〜3メートル。もちろん舗装もされていない道だ。農家の軽トラの轍(わだち)がついている。

 その道を10分ほど歩くと一軒の農家があり、その隣の畑から声がする。「にいちゃん。何時だ。」いきなり知らないおばあちゃんから時間を聞かれた。その後どこへ行くのか、何をしているのか、どこから来たのかという、いつもの質問をされ、それではという時にこのおばあちゃんが戦傑の一言を発した。「熊が出るから、大きな声で喋って行きな。ここも時々畑がやられる。」

 私の頭の中に「熊」と言う字が書道のように白い紙に黒い字で浮かんだ。熊、クマ、くま……。そんなことガイドブックにも「奥の細道を歩く事典」(三省堂)にも「るるぶ」にも載っていない。どうする。引き返すか。しかし私は青い空にだまされた。これがいかにも重苦しい曇り空なら私は引き返していた。そしておばあちゃんの笑顔に勘違いをした。あの笑顔は「まあそんなに心配しなくていいよ」という意味ではなく、人生を70年あまり生きてきた余裕というか達観とでも言うべき笑顔だったのだ。

 私は現代日本という時代の自然をどこかでなめていたのかも知れない。私はその道を山中に向って歩き始めた。道は次第にそれらしくなってきた。道はいつしか左手の木立ちの中に吸い込まれていく。道幅2メートル、左右は茂み、その奥に無数の木。すっかり山中に入り込んでいた。それでも1キロも離れていない所に国道が通っているのだからと気を取り直して歩いていた。

 そうだ歌を歌おう。ところがなぜか口をついて出てくるのは「五匹の子豚が五匹の子豚が…」どうも力が出ない。これではダメだ。「大きなのっぽの古時計。おじいさんの時計…」だめだ暗い。「ある日、森の中…」禁句だ。それにしてもどうして日頃は歌わない童謡ばかり出てくるのだろう。それでも私はいろいろな歌を取っかえ引っかえ歌っていた。

 軽井沢という標識の立った小川の一本橋を渡る。青い空が見える。日が当たりのどかだ。私は何となくほっとした。道はうねうねと登っていく。何度目かの角を曲がると山道の草刈りをしているおじいちゃんに会った。恐る恐るクマの話を切り出すと「出るよ」と事も無げに言う。「そこの軽井沢はクマの通り道。わしも昨日会うた。そこの(と私が来た道を指さし)低い所も通り道じゃ。」と恐しいことを平気でおっしゃる。そして「この先の休憩所の所、屋根の付いた場所にベンチと出羽街道の説明板がある所じゃが、そこもクマの通り道じゃ。そんな所によっこらしょっと座って、クマが出たんでは、まったく県も何を考えよるのか。」と笑った。

 笑い事ではない。私の持つガイドブックには「旧道も整備され」と記されているのだ。実情も知らない、とんだ整備である。おじいちゃんは続けた。「まあ今はウロウロする季節ではない。冬眠明けでおなかのすいた春先と冬眠前の頃は危ない。まあ今は大丈夫。と言っても安心というわけじゃないが。」「わしも何度も会うとる。クマは臆病な生き物だから、驚かしてはいけない。急に出会うと驚いてかかってくる。曲がり角は止まって角の向こうをそっと確かめる。30メートルぐらいあればクマの方から逃げる。」

 私は安心どころか不安が募った。思わず尋ねた。「もし出会ってしまったら、どうしたらいいんですか。死んだふりですか。」おじいちゃんはフシと笑った。「死んだふりをしたら、クマは確かめにやって来よる。臭いをかいでクマの鼻が足やら腹やら顔をかぎよる。動いてしもうたら終わりじゃ。いきなり前足が来る。クマと出会ったら、それも少し離れていたら、クマをにらみつけることじゃ。わしの方が強いと自分を大きく見せて、にらみつけて、ウォーッとか何とかどなりつける。にらみつけて、時々目をそらしてやる。そうするとクマはそのすきに逃げる。クマは臆病だ。戦うことじゃ。逃げれば、まず助からねえ。あれでもクマの足は速い。ウォッ、ウォッと来る。」

 おじいちゃんの話は絶望的だった。国道までは30分ぐらいらしい。引き返せば1時間弱ぐらいだ。それにしてもおじいちゃんはこんな所で何をしているのだろう。「歌を歌っていくといい。」約1時間前に同じ言葉を聞いた。その時とは重さが全く違っていた。確実にこの山のどこかにいる。それも近くに。そのことが実感された。

 次回は第22回「ある日森の中、出会ったもの・・・それはクマさん〜後編」(出羽街道中山越、宮城県。1991年、夏)です。

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2016/10/31

『OKU NO HOSOMICHI』 第20回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986OKU NOHOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第20回「西岩出山の夕陽 懐かしのディスカバー・ジャパン(岩出山・宮城県 1991年 夏)」

副島 勇夫(国語科)

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 歩き出した頃から振り始めた雨は、ほんのしばらくの小雨の時間を経てすでに本降りとなっていた。背負った荷物の上からレインポンチョを着ていた私は、それでもどこからか忍び込んで来る雨と汗ですっかり濡れてしまい、半ば、やけ気味だった。

 3年生担任の夏は忙しいだろうと思い、前年の夏はこの「奥の細道」を歩く旅はパスしていた。2年振りの東北だったが初日は雨で17キロしか歩いていなかった。そして2日目の今日も朝からの雨で、昨年の分を今回の旅で十二分に取り返そうという私の目論見はすっかり外れてしまっていた。

 昨日到着した金成(かんなり)町から歩き始め、築館(つきのだて)、一迫(いちのはさま)といった町を歩いているうちに、雨はどしや降りになっていた。いつもの旅なら今日はここまでと諦めただろうが、その時の私は2年振りの東北だという喜びと距離を稼がねばという思い、そして今夏の旅2日目相応の元気さがあった。やむどころかますますひどくなる雨の中、私は一迫町を出発した。

 ここを過ぎると次は17キロ先の岩出山まで宿はない。しかも山超えだ。地図で見る限り車道もあり、標高もたいしたことはない。希望は目的地の方角の空が少し明るいことだった。一迫の町を外れると、道の両側は田畑ばかりになった。時折、車が水しぶきを上げながら通り過ぎていく。対向車も何もないこんな道で減速しなければならないのが鬱陶しいのか、通り過ぎると猛烈に加速していく。雨は少し小降りになったがその代わりに道は登り坂、次第に山の中に入っていく。それにしても車が少ない。もちろん歩いている人もいない。

 「上街道」という復元されたものではあるが、芭蕉の頃を思わせる道に入る。進むに従い鬱蒼として、木々の濡れた匂いに妙に不安になる。おまけに謂(いわ)れのありそうな墳墓の横を通らねばならず、その時ばかりは念仏のようなものを唱えずにはいられなかった。

 上街道は一度車道に合流した後、「上街道千本松」という松並木の道に分岐していく。千本松は延々と続き、雨は今にもやみそうなまでになったが、依然として辺りはうす暗い。松は適当な間隔をおいているので、視界は開けているのだが、山と灰色の空以外は何も見えない。20分ほど経ち、松並木が途切れた。途切れると道がそれ以上はなかった。

 ひき返さればならないのか。

 時刻はすでに午後4時前だった。よく見ると人一人が通れる程の草を踏み分けたような道が茂みの中へと続いている。はたして元の車道に戻れるのかどうか分からないが、間違いなくそれは人が通るためにある道だった。ならば通るしかないだろう。覚悟を決めてどこに辿り着くかもわからない道を歩き出した。下っていくに従って次第に道幅が狭くなっていく。両側の茂みが迫ってきたかと思うととうとう道らしい道はなくなってしまった。

 これはまずいなあ、迷いそうやなあと呑気に考えていると、短パンでむき出しの足がチクチクと痛い。草の葉で切ったのかと見ると点々と血が針で突いたように惨んでいる。どうも茂みのせいではないらしい。気持ち悪いと思ったが、両手でバサバサと茂みとかき分けながら、かろうじて足元にも残されたかつての道の跡を下っていった。

 十分ほどその状態が続いただろうか。伸びた草木のためにかき消されていた道が再び姿を現し始めた。足は相かわらずチクチクと痛がゆい。いきなり視界が開けると道は人2人分の幅になり、民家が1軒おまけにおばあさんが一人あきれた顔をしてこちらを見ていた。

 「まあー」と驚きの声の後、どこから来たのか、何をしているのか、歩いて来たのか、どこへ行くのかというようなことを尋ねられたと思うのだが、方言のためその言葉の半分はわからなかった。

 ただその会話の中で「クマ」という言葉が気になった。出るのかクマが…。もっと山深い所にしかいないだろうとたかをくくっていた。用心しなければ。(しかしこの不安は2日後の8月10日土曜日午前11時20分頃現実のものとなってしまうのだった。)

 小降りだった雨もようやくやみ、レインポンチョを脱ぎながら足がどうなっているのか確認すると、太股に点々と血の跡。それも針で突いたほどの細かい跡だ。そして上半身をねじり足の裏側つまり背中側を見ると、ひざの裏側の少し下に赤みを帯びた白い小さな袋のようなものが、いくつも吸いついていた。

 手ではらうとパチンと弾けて赤い液体が飛び散った。そうかヒルだったのか。そういうこともあるだろう。私は歩き始めながら、アマゾンのジャングルでは木の上にたくさんのヒルがいて、その木の下を牛馬が通ると、どういう仕組みかわからないがばらばらと降り、全身の血を無数のヒルが吸い尽くしてしまうという話を思い出し、ちょっとした冒険家気分に浸っていた。

 それから10分ほどで元の車道に合流し、民家が数軒程度の集落に辿り着いた。パン屋のおばあちゃんに話しかけられ、尋ねてみるとやはりクマが出ると言う。岩出山まではまだまだあるが西岩出山の駅を中心とする町まではあと4キロらしい。4キロなら一時間の距離だ。5時半過ぎには着く。その思いに励まされて歩き出した。雨もやんだ。道もある。しかも舗装されている。楽勝だ。そのはずだった。

 ところが1時間経っても山の中だった。いや正確には山の上だった。ふもとには一面の田んぼ。遠くに栗原電鉄の1両だけの電車が左から右に走っていく。停った所がきっと西岩出山の駅なのだろう。小さな町の様子が見える。遠い、そして足も痛い。雨の中をすでに30キロ以上歩いている。1日25キロペースと決めている身には少しきつい。日が暮れるまでには何とか着きたいのでぺースを上げた。時速6キロぐらいで歩く。下り道で爪先が痛い。

 午後6時半頃、ようやくふもとの国道に出る。町の中心地はきっと駅前だろうから駅を目指す。15分ほど歩き、駅に着くが小さな無人駅。町の中心地とかにぎわいといった言葉とは無縁のひっそりとした駅前である。プラットホームに待ち合い室が1つ。少し離れてベンチが1つ。この町に泊まる所はあるのだろうか。

 とにかく疲れたので誰もいない駅のベンチに腰を下ろす。

 疲れた。

 まだ旅の2日目とはいえ、雨の中の37キロの歩きはきつかった。電車の来る時間ではないらしい。目の前には広大な田んぼが広がる。その緑に暮れかかった西陽が当たっている。その向こうに山が連なっている。あの辺りを歩いていたのだ。ちょうどあそこからふもとを見下ろし、今いるこの駅を見ていたのだと確認していた時だった。

 その感情はふいに訪れ、私の心を乱した。遠くに見える山のつらなりが西陽にゆっくりと染まっていく。目の前の田んぼが赤い陽を受け揺れている。烏の鳴く声。夕暮れ時特有の匂い。周囲のものが少しずつ黒くなっていく。

 振り返ると、ものすごい夕焼け。雲が赤黒く次第に影を濃くしていく。天に面して黒く、地に面して赤く、低いところをほのかに赤い透けるような雲が流れる。

 この場面。この瞬間。自分の中の記憶とは違った別のどこかが、この場面を知っている。

 自分の中の何かがこの風景に共鳴している。これが見たかったのかも知れない。

 広がる田んぼ。遠くの山々。夏。夕陽。静かに冷えていく熱気。

 自分の中にある1つのイメージ。

 小学校の時の下校の音楽「遠き山に日は落ちて」あれはドボルザークだったか。幼い頃過ごした兵庫県西宮市の社宅の2階の窓から見ていた日没。その頃通っていた保育園で夕方の母の迎えを待つ自分。夕焼けの後、次第に暗くなっていくのが不安だった幼い日の記憶。そんな夕暮れの記憶が次々に蘇る。

 気がつくと私は泣いていた。夕陽がその最後の輝きを見せた後、すべては燃えつきたように色を失なっていった。

 無人駅の誰もいないホームで、ベンチに腰を下ろしていた私はようやく我に返り立ち上った。それは約15分間の出来事だった。そしてこれが「奥の細道」の旅なのだと思った。

 さて、泊まる所はあるのだろうか。なければこの無人駅の待合室でもよい。ベンチも屋根もある。これで充分だ。中に入ってみると壁にはいくつもの落書き。その中の一つが目にとまる。「岩出山の田舎っぺ。この田んぼ、何とかしなさい!仙台のCity girlより」それに答えた落書き。「仙台には米送らん!さっさと帰れ!」。私はウエストポーチの中のボールペンを探し、そこに書き加えた。

 「そうだ送るな、絶対に。田舎を、この広がる田んぼを馬鹿にするこんなやつに米を食わすな!」

 日本もまだまだ捨てたものではない。こんな緑の田園風景がある。昔からの何もない日本がある。明日は晴れる。何も気にせず歩くことができる。さあどこかで晩飯食って、今夜は駅の待合室で寝ることにしよう。どうだ、私はこんなにも自由だ。そんな思いが私を満たしていた。

 次回は第21回「ある日森の中、出会ったもの・・・それはクマさん〜前編」(出羽街道中山越、宮城県。1991年、夏)です。

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