2016/10/15

『OKU NO HOSOMICHI』 第19回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第19回「800年前の墓標 後編(平泉・岩手県 1989年 夏)」

副島 勇夫(国語科)

 前回の続きである。平安時代の末期に、時の中央政権に組み込まれることなく、光栄ある孤立を貫こうとし滅亡した藤原一族。その都である岩手県平泉に源義経、終焉の地、高館(たかだち)があるというところで途切れたはずだ。

 平泉の藤原一族と源義経の関係。それは平安の末頃である。

 東北には藤原清衡(きよひら)を中心とする一大勢力があった。前九年、後三年の役という東北を舞台とした二つの戦いによって源義家が陸奥の国を支配しようとした時、清衡は献金によって京都の朝廷に取り入り、「当時唯一の産金地である奥州独占を企てる源氏」という世論を形成する。

 こうして奥州攻めにストップがかかり義家は失脚する。この時より源氏の奥州支配は悲願となり、藤原氏の金を背景とする、したたかな外交は確立されていく。朝廷を通さない宋の国との独自の貿易ルートを持ち、門外不出の経典を40億円に相当する金(きん)で取り寄せる。都の平泉に中尊寺を建立し、奥州路の街道沿いに巨大な二階大堂、釈迦堂には100体の金の仏像、そしてその黄金文化の頂点とも言うべき金色堂が建てられた。

 現在はコンクリートの建物の中の巨大なガラスケースに守られた、この金色に輝く建物は、かって百年の間、なんと雨ざらしだったのである。現在もその頃の腐食の跡が残っている。後に金色堂を守るため木造の覆堂が造られ、680年後の現代になって、コンクリート&ガラスケースに守られるようになったのである。

 二代基衡(もとひら)、三代秀衡(ひでひら)によって建てられた毛越寺、無量光院なども「皆金色」ということで有名だった。建物も仏像も金色に輝き、この世の極楽と称され、マルコポーロによって「黄金の国ジパング」とヨーロッパに紹介された。これすべて豊かな財力の誇示と奥州独立国家を願ってのことである。

 平安末期は源平の世と紹介されることが多いが、当時、奥州には藤原秀衡という大物政治家がいた。秀衡という人物を得てはじめて、平泉はその栄光の頂点を極め、それ故、滅亡する。京都の平清盛は関東の源氏に脅威を感じ、盛んに秀衡に源氏挟撃を持ちかける。秀衡は平氏に期待を持たせながらも、決して動かない。

 その一方で源頼朝にもつながりを持つ。決して危険なマネはしない。彼の目的は日本支配などではない。奥州の光栄ある独立である。中央になりたいなどと考えていない。「北の王者、秀衡」なのである。スケールが小さいのではない。その奥ゆきが深いのである。そのしたたかさに平氏も源氏も腹を探りかねていた。

 やがて三すくみの状態の力学的バランスが崩れる。平氏滅亡である。兄頼朝に追われる身となった合戦のヒーロー義経が、この北の巨人を頼って平泉まで落ちのびてくる。義径は幼児期にも秀衡のもとに身を寄せている。秀衡は考える。義経を匿えば頼朝に奥州攻めの理由を与えることになる。今や天下は源氏に動く。圧倒的武力を背景に朝廷をもねじ伏せた源氏である。そして奥州支配は義家の果たせなかった源氏の悲願である。義経を匿おうが、頼朝に突き出そうが必ず頼朝軍は来る。それならば、源氏に奇蹟的大勝利をもたらした天才戦術家義経を大将軍として、頼朝と戦うべし。武力には武力しかない。そう言い残し秀衡は病死する。

 源氏武闘集団は28万の大軍で平泉を目指す。しかし、四代泰衡(やすひら)は前三代ほどの器ではなかった。義経を討ち、義経派だった弟の忠衡をも討った。これで自分達が義経を匿った罪は許されると考えた。朝廷も、これで事は終わったと考え、頼朝に奥州攻めの許可を与えなかった。

 しかし、そんな事は頼朝には関係なかった。目的は全天下統一・武士による国家作りなのである。源氏軍が平泉に迫る。哀れ泰衡は平泉に火を放つ。炎上する金色文化。人口10万の北の都は灰儘に帰する。今から八百年前のことだ。これが平泉である。だから芭蕉はこの地で

 夏草や兵どもが夢の跡

と詠み涙したのである。義経が没してちょうど500年後のことだ。だから私はこの地をどうしても訪れたかったのだ。

 義経終焉の地、高館(たかだち)の小高い丘を登る私は、なぜか微かに震えていた。雨に打たれ続けたためだけではあるまい。丘から見下ろすと旧北上川と衣川の合流する様が見える。そこが弁慶が立ち往生したと言われる場所だ。

 医学的には極度の興奮状態で死亡すると一瞬にして死後硬直が起こることもあると聞いた。弁慶が全身に数十の矢を受け、立ちながらにして絶命した。ウソかまことか。ただ数奇な運命の主人を守り、この東北の地で倒れた182センチの当時としては大きな男がいたことは確かなことだ。遠くに霧雨に煙る束稲(たばしね)山が見える。春には桜で桃色の山になる。兵どもの夢の跡は降り続く雨の中で胸苦しいまでに迫ってくる。

 中尊寺までは歩いて10分。本堂を過ぎ金色堂を目指す。藤原黄金文化の象徴は戦火を免れ、藤原三代のミイラと四代の首を納めて現代にその姿を誇示する。今から47年前の学術調査で、藤原清衡、基衡、秀衡は身長160〜165センチ位だということもわかっている。

 はじめの100年の間、雨ざらし状態だった金色堂を、その後の680年守り続けた旧覆堂が、今はその役目を終えて木立の中にひっそりと建っている。ひと仕事終えましたという感じの素朴な木造の姿に私は感動した。

 それに比べ、いかにも近代的な鉄筋コンクリート造りの二代目目覆堂は何ともつまらなく、「写真撮影禁止」の看板が現代人のスケールの小ささを物語る。しかし、そこは関西人の私。新覆堂の外から「金色堂」を撮ってしまった。秀衡ならきっとこう言うだろう。「金色堂が傷むというのなら、また三万枚の大型金箔で貼り替えれば良い。」何しろこんな国宝を雨ざらしにしてきた人物なのだ。

 金色堂を見た後、帰路につくと境内の能楽堂では一人の役者が能を舞っていた。笛や太鼓の伴奏もなく、謡(うたい)もない。音のない一人稽古である。雨の音だけが聞こえる。舞う者も一人ならば観る者も一人。雨の音はいつしか聞こえなくなる。

 私はこの平泉で見たことのすべてを思い出していたが、それも消えていく。一度滅びた町、平泉。その滅びの空気だけが私の中に入り込み、目の前の能を眺めている。800年前の墓標の町は、今ここで浄化されていくようだった。

 次回は第20回「西岩出山の夕陽。懐かしのディスカバー・ジャパン」(岩出山、宮城県。1991年 夏)

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2016/10/12

『OKU NO HOSOMICHI』 第18回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

第18回「頑張れ!みちのくプロレス、ロッテ・オリオンズの栄光と挫折 800年前の墓標 前編」 (平泉・岩手県 1989年 夏)

副島 勇夫(国語科)

 前日の夕方に降り出した小雨の中、岩手県の南の玄関、一関に到着した私は、雨でじゅくじゅくになったスニーカーに新聞紙を丸めて突っこみ、宿で借りたドライヤーでじっくりと乾かすと、翌日の晴天を願って床に就いた。

 一関の朝はやはり雨だった。天気予報で80パーセントだったのだから期待する方が無理というものである。駅前通りの電柱に貼られた全日本プロレスのポスターが雨に打たれ、ところどころ破れて「ジャイアント馬」になっている。それでも、王者ジャイアント馬場は余裕の笑みを浮かべ腕組みをしていた。

 私は保育園の頃、父に連れられた梅田のどこかのビルのエレベーターでG・馬場と遭遇したことがある。口を開けて見上げる私の顔を、2メートル9センチの遥か上空からこの余裕の笑みが見下ろしていた。私が思わず「あ、馬場や!」と言うと、当時全盛期だった王者は「馬場や」と例の「アッパー」口調で応えてくれた。その馬場も今やいない。寂しいものだ。

 さて、東北でプロレスと言えば「みちのくプロレス」を語らねばならない。

 「みちプロ」は東北6県限定、地域密着が売り物のプロレス団体だ。岩手県出身のザ・グレート・サスケが1993年に設立した。名もなく、テレビ放映もなく、ただ熱意はある総勢15名の団体が、自ら商店にチケット販売に訪れ、宣伝カーで町や村を走り、リングを組み立て、試合の前には長机とパイプ椅子でグッズの販売をする。ホールに2000人の観客を集めた翌日には村の小学校の体育館で数十人ということもある。体育館の床にレジャーシートを敷いた席の足元すぐの所で場外乱闘がはじまる。外国から高額ギャラのレスラーを呼べば、それは即「みちプロ」レスラーの給料減につながる。その名が知れ、東京ドームに数万の観客を集めても、次には観客平均300人の世界に帰っていく。

 そんな「みちプロ」が私は好きなのである。反中央、反権力というのでもない、脱中央というのか「日本の中央と呼ばれる所でやらなくてもいいじゃないか」という潔さが好きだ。心のどこかに東京で成功したいという思いはあるのかも知れないが、「東北の英雄ザ・グレート・サスケ」でいいではないか。でも、彼はそののちに議員になってしまうのだが。

 今回はとにかく前置きが長いのである。

 突然だが、はるか昔、1974年のプロ野球日本一になった球団はどこか御存知だろうか。

 それは巨人の9連覇を阻止した中日ドラゴンズを、4勝2敗であっさり下したロッテ・オリオンズである。現在の千葉ロッテマリーンズの前身であり、当時は東京の本拠地に加えて、仙台の県営宮城球場を準本拠地とし、年間に多くの試合をするという異色の球団だった。

 監督は日本プロ野球史上最高の400勝投手金田正一。派手なパフォーマンスと乱闘、遺恨試合の多さで仙台のロッテファンを大いに沸かしていた。ロッテは1970年にもパリーグで優勝している。当時のリーグ優勝球団であった阪急ブレーブス(現オリックス)が西本・上田の両監督で連破を重ねたその間隙を縫うようにして2度優勝しているのだが、日本一はこの年限りである。その3年後の1977年にはリーグ後期優勝をし(当時パリーグは2シーズン制だった)リーグ優勝を賭けて前期優勝の阪急とプレーオフを行った。2勝1敗で優勝の3勝に王手をかけたロッテだったが地元仙台で連敗。阪急3連覇達成となる。

 そしてロッテはこの年限りで仙台を離れ川崎球場に本拠を置く。栄光の日本一から3年、再び東北にチャンピオンフラッグが舞うことはなかった。現在、県営宮城球場は建て替えられ「楽天イーグルス」の本拠地「コボスタ宮城」である。

 しかし、私が訪れた当時は、高校野球の予選や年数回のプロ野球が行われる一地方球場であった。仙台を訪れた時、私はその名の懐かしさに思わず立ち寄ったのだが、フェンスの隙間から覗いたグラウンドには草いきれと夏の日射しがあるだけで、仙台名物「金やんダンス」(皆さんは何のことがわからないでしょう)や村田兆治、有藤の勇姿はあるはずもなかった。東北、仙台の人々のみちのく最後の年の夢と希望はあと一歩のところで崩れ去ったのである。そして21世紀になり「田中マーくん」を酷使して日本一になるまで、東北の野球ファンは耐え忍んだのである。

 ところが東北には当時の中央政権に取り込まれることなく、時に中央より中央らしく振る舞い、贅(ぜい)を尽くした黄金色の文化を100年にわたって守り続けた一族がいた。藤原氏4代。今から800年前のことだ。その都が今回の旅の目的地平泉なのである。

 そして私は、その藤原一族の栄光と滅亡の地を自分の目で見、歩きたかったのだ。一関から平泉までは10キロ、2時間半の距離だったが、降り続く雨が歩を鈍らせていた。予定より1時間遅れて平泉駅前に到着。先ず源義経終焉の地、高館へ向かう。東北でなぜ義経なのかと思う人もいることだろう。ここで平泉の歴史を語らせてもらう。紙面の都合で今回はここまで。

 次回は第19回「八百年前の墓標 後編」(平泉、岩手県1989年夏です。)

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2016/9/21

『OKU NO HOSOMICHI』 第17回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

国語科 副島勇夫

第17回「有望な後輩に対抗して:「奥の細道」完全番外編」(2016年 秋)

 「奥の細道」とは全く関係ないですが、国語科の同僚にして柴島高校卒業生、彼が1年の時には、私が古典を受け持っていた「われらが小柳先生」と世代の違いも楽しんでもらうために、先生のブログ新コーナーへのアンサーとして「私の好きな映画コーナー」です。

 不思議な縁ですね、かつての教え子が教師になり、同僚になり、しかも、その担任クラスを教えています。現役高校生には、知らない作品ばかりかもしれないですが、保護者の方の世代をターゲットにした内容ですね。そういえば前回はホラー映画の『13日の金曜日』の話も出ていたので、ちょっと最近映画寄りですね。

 小柳先生のように順位をと思ったが、ああ、順位はようつけられへん。思いつくままに。最近の日本映画もいいのあります。あまり入っていませんが。

 『七人の侍』:シナリオが実に良くできている。『スターウォーズ』も、これがなかったら生まれなかった。『荒野の7人』はもちろんだ。世界のクロサワの代表作の1つ。世界に通じるバトルストーリー。いかにして寒村を山賊から守るか。集められた7人の精鋭。ベスト1かな。

 『カサブランカ』:ハンフリー・ボガードのためにある、かっこいい雰囲気を作るために作ったような映画。古いけど、飽きないねえ。苦み走った渋い中年になりたかった。

 『第三の男』:白黒映画の効果が、特に黒、暗さがうまく使われている。ウィーンの街、名場面の数々。サスペンス映画のド定番映画。テーマ曲も有名。

 『アポロ13』:人類は本当に月に行ったのかと疑う気持ちはあるが、地球から遠い遠い宇宙の迷子となった宇宙船を、地球から救う人類の叡智に感動。実話の持つ強さ。オメガの時計が欲しくなる映画。当時、実際に私は父からタイムリーにこの話を聞かされ、印象深い。

 『ショーシャンクの空に』:諦めない、けっして諦めない。ラストの青い海と空。定番中の定番。

 『ゴッドファーザーPART2』:陰惨な話だが、貧困からのし上がっていく男たちの野心。その恐ろしさ、哀れさと映像の美しさ。PART1もいいが。こちらが好き。

 『遠い空の向こうに』:地味でも、人気者でもなくても、夢を持てば・・・。地味だけどいい話。実話。

 『レオン』:ジャン・レノみたいになりたいなあ・・・無理やなあ。ワイルドでクールで、しかも優しくて。G・オールドマンが本当の危ない刑事(でか)。

 『スターウォーズ』シリーズ:名作とは違うが、好きなのだ。世界観が。ダークサイド派なので「帝国の逆襲」が好き。ダースベイダーの「ルーク!アイム ユア ファーザー」のセリフに萌える。柴島にはSW派の先生が何人かいるが、みんなジェダイ派だろう。

 『サイコ』:有名なシャワーのシーンのあの効果音、見開いた眼。出続けるシャワー。何かいわくありげな宿の雰囲気、アンソニー・パーキンスの異様さ。ヒチコックの名作の1つ。古いほうの『サイコ』ですよ。序盤の横領のエピソードがおまけのようだが。

 『E.T』:今や古びた感は否めないが、映画館で上映後、拍手が起こったのを覚えている。なんか、初めて見たときは、映画館で泣いてしまった。この映画は監督のスピルバーグが『ドラえもん』の恐竜が出てくる映画から影響を受けて作った。空飛ぶ自転車も日本製・・豆知識。

 『スティング』:軽妙なテンポの良さ、R.レッドフォードとP.ニューマンコンビは最高だった。世界がまだテロを知らない頃に作られた古き良き時代の映画。でも、ベトナム戦争の影響や黒人差別が根強いことには、すべて目を背けていた頃のハリウッド映画。70年代の作品。

 『ゴジラ』:昭和29年版しか認めない。敗戦国日本が怪獣映画に偽装して、アメリカの核と核実験を、批判した政治的大人向け映画だ。暗い画像、ゴジラの造形、鳴き声、足音、あの音楽。「私は見た、ジュラ紀の恐竜を」という志村喬演じる博士の倒置法セリフも好き。これが実はオールタイムベストだったりして。

 『大脱走』:同じようなオールスターキャスト映画の『荒野の7人』もいいが、ワクワク感でこちらに。脱出で必ずへまをする人いますね。マックイーンのオートバイでのジャンプは、カメラアングルが悪い。下からあおってほしかった。

 『ウォーターボーイズ』:玉木宏がアフロや坊主頭なんて。売れる前はなんでもしてくれるなあ、もうしないやろな。新次郎はん。行動力と無謀な計画性。いいなあ、高校生って。戻りたいなあとしみじみ思った映画。妻夫木くんも若い。竹中直人は、いつも通りやりすぎの演技。

 『ギルバート・グレイプ』:なんやろ、何がいいんやろう。この映画。妙に好きだ。縛られた現実からの解放かな。少年ディカプリオの演技は、神業。アカデミー助演男優賞あげたかった。

 『シザーハンズ』:ああ、せつない。これもジョニー・デップ主演。ハサミ人間のせつない恋。ダークでファンタジーな映画。せつないねえ。わかってもらえない人の思いを代弁している映画。

 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』:3まであるけど、やはり1ですかね。エンタテイメントとして完璧なストーリー。その後、パーキンソン病を発症したマイケル・J・フォックスの生き方。あの赤いダウンベスト、カルバン・クラインの○○、マネして買った黒歴史あり。

 『東京物語』:古い方です。小津安二郎の方。古いですよ。昔の日本、テンポの遅い展開、間延びしたセリフ。でも、それがいいんです。のんびり見てる感じが。ハラハラドキドキもいいけど。ゆったりも。でも、テーマは重いですよ。年老いた親を子どもたちが押し付け合う。世界に通じるテーマだが、イギリスで世界ランキング1位になった。それもなんか違和感。

 『天国から来たチャンピオン』:リメイクなので原作映画はボクサーが主人公。だからこんな邦題、この主人公はアメリカンフットボールの選手。原題は「Heaven Can Wait(天国は待つことができる)」です。なんか、じんわりと好きな映画。ハートウォーミング的な。

 他にも『バグダット・カフェ』『悪人』『明日に向かって撃て』『ダークナイト』『サウンド・オブ・ミュージック』『グラン・ブルー』『シャイニング』『ブレードランナー』『砂の器』『初恋のきた道』『トゥルーマン・ショー』『リトル・ダンサー』『スクール・オブ・ロック』『リトル・ミス・サンシャイン』『グランド・ブダペスト・ホテル』『市民ケーン』『イントゥ・ザ・ワイルド』『バタフライ・エフェクト』とかも、いいですね。

 次回こそ第18回「800年前の墓標。頑張れ!みちのくプロレス。ロッテ・オリオンズの栄光と挫折」(平泉、岩手県。1989年 夏)です。

2016/9/20

『OKU NO HOSOMICHI』 第16回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

国語科 副島勇夫

第16回「ジェイソンの恐怖、A・K牧場の決闘」(平泉・岩手県。1989年 夏)


 岩手県南端の小集落である西風(にしかぜ)集落に向かう山の中で私は途方に暮れていた。

 一山越えてもまだ山の中なのだ。目指す有壁(ありかべ)の集落どころか、もう2時間近く人に会っていない。車さえ通らない。しかし、車の通ることが可能な道をただひたすら歩いていた。周囲の景色はこの1時間の間ほとんど変化しなかった。おまけに天気は今にも降り出しそうな曇り空だ。

 「分け入っても、分け入っても暗い山」(「分け入っても分け入っても青い山」種田山頭火(たねださんとうか)のあまりにも自由な俳句のパクリ)なのである。ウエストポーチから20万分の1の地図を取り出すと、染み込んだ汗でモロモロになっている。その地図の1センチ四方の中のどこかに、今自分はいるのだが、それがどこかわからない。道など記されているはずもなかった。ここは山の中、家もなく人も通らない道なのである。この山を越えれば確かに有壁、そして目指す一関に着くはずなのだ。

 その時だった。前方のカーブの向うからブーンという大音響が聞こえた。機械的な音だ。木の伐採を一斉に始めたのだろう。1台や2台ではない。とにかく大勢の人がいる。道を尋ねる事ができる。私は歩を速めた。昼の1時過ぎ。昼食後の作業開始というところだろう。20人ほどの人がチェンソーで木を切っていた。猛烈な音である。私はとりあえず一番近くにいた50歳ほどのおじさんに会釈をし地図を広げた。

 おじさんは何故だかチェンソーを止めずにこちらへやって来る。そして私が「すいません道を…」と言うととても聞きづらそうにしている。(なぜチェンソーを止めないのだ?)内心軽い怒りを覚えたが、おじさんはその時はじめて「あ」という口をしてチェンソーを止めた。きっとこういう作業のため爆音に慣れているのだろう。もしかすると、あまりの音の大きさにかえって静寂を感じているのかも知れない。

 私もかって大阪城ホールで、再結成したイギリスのロックバンド「ディープ・パープル」(懐かしい人には懐かしい、知らなければ、知らないでいい)のギンギンのハードロックの中、寝てしまったことがある。あの時の耳鳴りがするほどの大音量は、私にとって音のしない安眠空間を作り出していたのかもしれない。

 などと脳科学的なことを考えていると、おじさんはあっさりと両の耳から耳栓を出した。軽い失望とともに私は有壁までの道を尋ねた。道は確かに目指す地に続いていた。そしてなぜこんな所を歩いているのかと質問され、私はこの旅の道中もう何十回と説明してきた内容を語った。その時、私は人の気配に振り返った。いつしかチェンソーの大音響は止っていた。肩からチェンソーを掛けたおじさんが20人ほど集まってきていた。

 チェンソーと言えば思い浮かぶ映画がある。ホラー映画の今や古典的作品『13日の金曜日』シリーズだ。ジェイソンが振り回すチェーンソーには、あまり気持ちの良くないイメージが着いてしまっている。

 話は変わるがホラー映画の七不思議がある。

1、必ずシャワーを浴びるシーンがある。
2、グループから離れていちゃつく男女はまつ先にモンスターに会ってしまう。
3、モンスターに追われると決まって1番最後の人が転ぶ。
4、どんなに前もって説明されていても、初めは絶対モンスターの存在を信じようとしない。軽そうな奴が、大丈夫とか言って否定する。
5、「もうダメよ。皆○○○○にやられてしまうのよ。」と泣き叫ぶセリフが必ずある。
6、グループの中に1人だけラッキーの連続する人物がいる。
7、終ったと思っても、もう一度必ずモンスターは登場する。

 (すっかり話しが変わってしまったので元に戻す)もちろん20人の心優しきおじさんたちは親切に有壁までとその先の道を地図を広げて検討してくれた。結論は西風の集落の雑貨屋の向いの道から山に入り、もう一山越えると有壁に出るというものだった。

 西風は山中の小集落だった。パン、卵、魚、肉から衣服、生活雑貨まで扱っている「吉田商店」と酒屋ぐらいしか見当らない。その雑貨屋の向いに「有壁→」と記された木の立て札があった。ここだなと思って入って行く。いかにも入っていくという感じがする、幅2メートルほどの舗装されていない上り坂の道である。

 1時間近く歩くと、また一難だった。私の進む道の左右が牧場の草地になっていた。遠くには牛が何頭もいた。牧場特有の草と糞の臭いが漂っている。それはいいのだが、良くないことに私の前にはまっ黒い大きな牛がいた。眼がぎょろりと動く。ブルルッと身を震わせ、ブフーッと荒い鼻息を出す。でかい。それなのに当然あるべき柵がそこにはなかった。牧場の人しか通らない道なのだろう。立て札に「ARIKABE RANCH(有壁牧場)」の文字。この牛の横を通るか、それとも引き返すかを考えた。有壁まであとおそらく3キロ、そこから今日の到達予定地の一関まで6、7キロ、計約10キロで、山道であることを考慮すると3時間はかかると思われた。

 午後3時。引き返しても泊まる所はない。見知らぬ地元の方のお宅で、一泊の世話になったことはこれまで何度かあったが、甘い期待をするわけにもいかない。山中の野宿も経験ありだがあいにくの曇天、いつ降り出すかもわからない。そのまっ黒い大きな牛がこちらをじっと見つめ、時折、グオッグオッと低い声でうなっている。そしてボトボトッと糞をした。臭い。敵は余裕である。

 そして絶望的なことに其の日の私の格好は赤のデイパックを背負い、クリーム色のTシャツと靴下、オレンジの短パン、そして御丁寧にも赤のバンダナまでしていた。これでは動く刺激物である。スペインの闘牛士なみだ。牛はしっぽをゆっくりと振りながら2歩前に出た。普通ならここで後ろへ下がるところである。しかし、その時の私は西部の勇敢なガンマンであった。2歩前に出てしまったのである。その間隔は約5メートル。左右の牧場の敷地にいた牛たちがこちらを見ている。心なしか彼らも近寄ってきているようだ。この牛たちに囲まれるわけにはいかない。

 私はおもむろにバンダナを外し、ポケットにしまい、背中の赤いディパックを見せないように牛と正対した。この時、1つ思い出したことがあった。牛というのは極度の近視で、赤というより自分の前でちらちら動く物に反応するそうだ。私の作戦は決まった。名づけて「西部のガンマン、超スローだるまさんがころんだ作戦」である。

 私はゆっくりゆっくり歩き出した。牛を刺激しないように、そして少しでも険悪なムードになればピタッと止まるのである。もし誰かが見ていたとしたら、さぞや滑稽な眺めであったことだろう。牛の眼がこちらをじっと追いかけてくる。最悪の場合走ろうか、いやきっと追い着かれるだろう。私は小学4年の時かけっこで2位になった以外、3位以上になったことがない。脳裏に闘牛士が牛にはね上げられる光景が浮かんだ。牛との距離4メートル。3…2メートル。周囲には数十頭の牛以外誰もいない。思わず牛に話しかける。「気にしない。気にしない。私とあなたは全然関係ありません。」勇敢な西部の男のプライドなどなかった。そして1時間のように思えた10分間が過ぎ、私は牛の横を通過した。そこで一句。

 牛の横を通る

 山頭火や尾崎放哉(おざきほうさい)のような短律の自由な俳句である。尾崎放哉の句には「咳をしても一人」や「墓の裏に廻る」「一人の道が暮れてきた」などがある。これも俳句だ。文学は自由なのだ。

 私はこの数年後、山形県の山中でもっと恐ろしいものに出会うのだが、それはいつかまた書くことにしよう。

 その後は順調だった。有壁到着の後6キロの道を、降り出した雨も何のその1時間半で一関に到着。一泊して今回の旅の目的地平泉を目指す。この年は宮城県松島から東へ向かい石巻、北上して一関を経て岩手県の平泉までの102キロを、1日平均20キロ歩く楽勝ぺースの旅である。

 平泉は北の王者奥州藤原氏4代にわたる独立国家とも言うべき一大地域の都であった町だ。時代は平安末期。平家全盛から源平の合戦の世に、中央に媚びず、金色に輝く都市と文化を築き、しかも悲劇的な最期を迎えた彼らの都の跡をじっくり見ることが今回の最大のテーマだった。ようやく、本題の平泉に入るが、続きは次回。

次回は第17回「800年前の墓標。頑張れ!みちのくプロレス。ロッテ・オリオンズの栄光と挫折」(平泉、岩手県。1989年 夏)です。

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2016/9/15

『OKU NO HOSOMICHI』 第15回   国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

国語科 副島勇夫

第15回「そもそも、なぜ『奥の細道』を歩くことになったのか」

 第15回ということで、少し振り返ってみたい。

 私は教師になった年、つまり1986年の夏に、かつて松尾芭蕉が歩いた「奥の細道」を歩こうと、東京深川の芭蕉庵跡(今は芭蕉稲荷神社になっている)を出発した。カルロス・トシキ&オメガトライブの「君は1000%」やKUWATA・BANDの「BANBANBAN」が流行り、台風が関東地方に猛威を振った暑い夏だった。

 この計画は大学時代(教員養成系の大学です)から考えていたことだったのだが、結局バイトばかりで実行に移せないまま教師になっていた。この旅を思いついたのは大学1年生で出会ったある友人の影響からだ。

 彼の名前は、あえてイニシャルで記すとIという。しかし、その名前よりも「万蔵(まんぞう)」という呼び名で知られていた男だった。彼は2浪、私は1浪で同じ大学の小学校教員を養成する学科に入学した。彼は人脈を広げるために、浪人時代から予備校や模試会場で、裏に「万蔵」と記された名刺を配り回っており、そのため浪人生の中では有名な人物だった。私も初対面の時に「万蔵や、よろしゅうな。」と名刺を渡されたが、「何やねんこいつ。俺、こんなやつと友達にならんで。」というのが第一印象だった。彼は角刈りに黒縁眼鏡、そしてピンクのトレーナーがトレードマークの、一見して独特な、そしてどこか修行僧を思わせる男だった。

 大学入学後も彼の人脈作りは盛んで、また一方で様々な行事を企画、実行していった。ハイキング、コンパ、ボーリング大会、スポーツ大会、学園祭はもちろん、梅田から和歌山までの85キロをぶつ通しで歩く徹夜ハイク。途中の数キロは親切な?暴走族に乗せられて、パトカーに追われたりのおまけつきだったが、26時間26分後に南海和歌山駅に到着した。

 あと2、3キロで着くという時に道を間違えて同じ道をひき返し、誰が間違えたかという些細なことで喧嘩になりかけ、メンバー間に険悪ムードが流れたり、11名で歩き始めたのが、夜が明ける頃から1人また1人とリタイアしていったりもした。

 夜の道を歩く中で、様々な組み合わせで話をした。時間はたっぷりある、話でもしていないと気が重くなる。家の事、将来のこと、高校時代のこと、普通の話もあればかなりヘビーな話もあった。夜という雰囲気の中で20歳の私たちは、まさに「歩くクラスミーティング」をしていたようなものだ。、これが私の歩く旅の原点だった。恩田陸の『夜のピクニック』そのものだった。(よかったら読んでください)

 その後も、彼は姫路までの100キロハイクを企画実行。大学を休学し、「日本見てくるわ。」の言葉を残し、日本一周自転車の旅に出た。数か月後、大学に戻ってくると今度は「外から見てくるわ。」と台湾へ自転車ごと移動、現地の大学の寮に潜り込み、台湾から見た日本人とはどのような存在なのか、アジアの中で日本の何が問われているのかを体感して戻ってきた。その後はインドへ渡ったが、この時は病気で送り返されてしまった。さらに、その後、中学生対象の小さな塾を経営し、当然のごとく大学は留年し、卒業後は奈良と和歌山の県境の山奥で臨時の教員を努め、次は離島で教えたいと考えていたところまでは知っているが、その後は消息不明だった。

 ところが、最近、柴島高校の某先生(この先生と私と万蔵は大学時代のバイトが同じ。誰かは内緒。)から、大阪市の小学校でちゃんと教員をし、学年代表だかなんだかをしているという情報を入手。「なあんだ、普通やん」となぜか思ってしまった。山小屋の主や仙人にでもなっていてほしかった。

 話は戻るが、私は彼の行動力にすっかり圧倒されてしまった。そして変化を求めない自分の小ささがつくづく嫌になった。彼は常々語っていた。「みんな教師になるって言うてるけど、どんな教師になりたいんや。」「日本の教育は俺に任せろとウソでも言えるヤツはおらんか。」この自信に満ちた言葉と行動力に、何となく憧れだけで教師になろうと思っていた自分が恥ずかしくなってしまった。

 そう私は「熱中時代」と「金八先生」という教師を主人公にしたドラマに影響された熱中教師ブームの時代の学生だった。そして私は彼の行動力を少しでも身につけたいと思い、旅の本を読み漁った。『深夜特急』『印度放浪』『全東洋街道』など、そしていつか自分も旅に出ようと決めたのだった。

 「お前は何すんねん」と迫られ、彼との約束で、勢いで「俺、教師になったら、夏休みの度に『奥の細道』歩くわ。」そう言ってしまったのが、この旅のきっかけだ。歩く旅、その魅力を知ったのが大学時代の彼との出会いであり、歩き始めて、次第にはまっていく自分がいた。

 結局旅は(自分も含めた)人なんだ。

 名所観光もいいが、どんな出会いがあり、何を考えるか。そのためには、電車や車は速すぎる。私が歩こうと思ったのは、多くの人に出会い、また自分を見直す時間を必要とし、そしてあくせくした時間からの解放を味わいたかったのだと思う。

 旅の初めの数年間は時計を付けず、身元を証明するものも持たず旅をしていた。もちろんその頃は携帯電話さえなかった時代だ。自分が誰なのか、それは誰も知らない。そういう状況になってみたかった。(こういうのを「若気の至り」というのだろう。その後は万一のことを考え、保険証さえ携行するようになった。結婚してからは、毎日、所在地を報告し安否確認された。)

 とにかく芭蕉の記した「風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。」という心境で、この広い日本をふらふらとしてみたかったのだ。1986年夏。こうして、私は旅に出た。

 次回は、第16回「ジェイソンの恐怖、A・K牧場の決闘、八百年前の墓標」(平泉、岩手県。1989年 夏)です。

 多賀城跡にある「つぼのいしぶみ」。この中に奈良時代に造られた石碑がある。江戸時代に土の中に埋もれていたのを発見され、かの松尾芭蕉もこれを見たことが『奥の細道』でも紹介されている。

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 松島にある瑞巌寺

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2016/9/7

『OKU NO HOSOMICHI』 第14回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

国語科 副島勇夫

第14回「仙台のからくり時計・国宝ののりピー」(仙台・松島、宮城県。1988年夏)

 「松島や ああ松島や 松島や」という句は松尾芭蕉の作品だというのはウソである。

 確かに芭蕉は「奥の細道」の旅の中で、この松島を最大の目的地の一つと考えていた。「松島の月まづ心にかかりて」という表現にもそれが読み取れる。また「松島は扶桑第一の好風にして、およし洞庭。西湖を恥ず。」という讃辞にも松島を訪れた芭蕉の感動の深さが感じられる。しかし、その感動のあまり句成らず、というのは後世の作り話だ。

 芭蕉がそうしたように塩竃(しおがま)港から船に乗り、船上から松島を見ようと考えた。ここまで歩き続けた旅だから、交通機関を利用することに多少のうしろめたさもあったが、芭蕉がそうしているのだから仕方がない。そう割り切って乗った松島行きの遊覧船だったが、それが船首が竜の顔になっている「奥の細道」気分ぶち壊しの船だった。

 おまけに先ほどからもう3組くらいの2人連れの写真を撮ってあげている。ひどいのになると別のペアの写真を撮り終わるのを待っていたかのようにすかさず「すいません。シャッター押してもらえますか。」である。そして頼んでもいないのに「あなたのカメラも撮ってあげましょう」と写真を撮ってくれる。8年前のその時の写真は、あえて掲載しない。やっぱりウエストポーチをしている。

 さて芭蕉がそれほど感動した松島だが、期待しすぎたためか、私にはあまり良いとは思えなかった。写真のような文字通りの松の島が点在する海岸である。確かに珍しい景色であり名所と呼べるだろうが、感動を覚えるほどのものではなかった。小雨降る曇り空という状況も悪かったのだろうが、前々回に記した果てしない水平線とその彼方から次々と生まれてくる波の方が遥かに私にとっての名所だった。

 船が松島の港につき、私は歩いてすぐの瑞巌寺(ずいがんじ)へと向かった。瑞巌寺は伊達政宗が5年がかりで造営した大寺で、伊達家の菩提寺である。広い境内、巨大で重厚な造りの本堂、狩野派の襖絵、極彩色の彫刻欄間。寺というより武家屋敷である。隠し部屋さえある。伊達家の拠点の一つとも考えられ、ここを詳細に観てまわったことも芭蕉忍者説を唱える人々の根拠の一つとなっているぐらいだ。

 「芭蕉忍者説」というのが昔からある。46歳という当時としては初老の人間に1日40キロ以上の歩き旅は困難だとか、随行した弟子の日記に謎の暗号のような記号があるとか、伊達藩の調査が旅の目的だとか、芭蕉が生まれた伊賀上野は忍者の里だとか様々である。直感的に思うが、それらは全部こじつけだ。芭蕉はそろそろ死を意識した40半ばになって、歌に詠まれた名所を訪ねずにはおれなかったのだ。そう思う。

 話を瑞巌寺に戻そう。国宝の建造物が並ぶ中に非公開の庫裡(くり)(今の台所)があり、これも国宝である。非公開と言われると中を覗いてみたくなるのが人情だ。幸い扉が少し開いている。そっと近づき中を覗くと、庫裡は現在でもその本来の役割を担っていた。おばさんが二人食事を作っていたのだ。冷蔵庫やテーブルが見え、壁には火の用心の酒井法子のポスターさえ貼ってあった。

 この頃酒井法子は全盛期で、まさかその後あんなことになるとは誰も思わず、中高校生は「うれピー」や「マンモスラッピー」などの「のりピー語」を使っており、「ちょべりば」などの死語でさえ、まだ誰も口にしたことさえなかった。それはともかく、再び「奥の細道」気分は壊されてしまった。やはり非公開のものにはそれなりの理由があったのだ。これではただの食堂である。

 瑞巌寺を出た私は松島で宿を探すことにした。芭蕉が松島滞在の際、「窓をひらき二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地とはせらるれ。」と記した旅の夜の解放感と寂蓼感を同じこの松島で味わいたかったのだ。一人旅の夜の何とも言えないせつなさ、孤独感とそれを上回る自由さはこの旅の大きな魅力である。ところが天下の景勝地松島の宿はどこも満室で、私は仕方なく今回の旅は松島までとし、仙台にひき返すことにした。再び、仙台七夕祭を見物しようと考えたからだ。

 仙台は小雨。七夕飾りに大慌てで雨よけのビニールが掛けられる。街には昔流行った「青葉城恋唄」が流れる。「時は巡り、また夏が来て、あの日と同じ七夕飾り」ああこれなんだ。このノスタルジー。来年もこの時期に来よう。前年の到達地点を次の年に再び訪れ出発する旅。知らなかった街が、翌年には懐かしい街として迎えてくれる。来年この街で耳にするだろう「青葉城恋唄」はきっと今年のことを思い出させてくれるはずだ。

 私はこの旅の形がすっかり気に入っていた。仙台一番町通り商店街のアーケードにあるからくり大時計が2時間ごとに扉を開け、中の人形が動き、音楽が流れる度に沸き起こる観光客の歓声と拍手。旅先で人は日常から解放され素直になるのだ。さもなければ、たかが、からくり時計が動くのを見て涙ぐむ人が何人もいるわけがない。人はからくり時計を見たいのではなく、それが動くのを今か今かと待ちたいのだ。私自身、奇数時に開く時計と偶数時に開く時計の両方を見るために、1時間半ほど、この時計の下で待っていた。毎回数十人の観光客が集まり、その時、商店街は大混雑する。

 何かを待つ期待感。それもこの旅の魅力だ。「歩く」という速度が、交通機関に「乗る」以上に目的地への期待を増幅させ、通り過ぎた街や辿り着いた街の印象を鮮明にする。次の夏、再びこの地に戻ってくることを楽しみにして私はようやくからくり時計の下を離れた。

次回は、第15回「そもそも、なぜ『奥の細道』を歩くことになったのか」です。

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2016/8/24

『OKU NO HOSOMICHI』 第13回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

国語科 副島勇夫

第13回「仙台七夕恐怖の中華料理店〜後編(仙台、宮城県 1988年夏)」

 目の前のコップは2つ。客は私1人。(これはどういうことや?)

 私は注文したタンメンとギョーザが出来るまで、その揺れる水面を見ながら考えていた。きっと連れがもう1人来ると思ってコップを置いてしまったのだ。そうに違いない。客が私1人とわかって、今さらかたづけることもできず、こちらに気を使って奥からちらちらと見ているのだ。きっとそうだ。客をからかう店などやはり考えられない。2人連れと勘違いをしたのだ。

 そんな風に考えがまとまった頃、先ほどの店員が注文の品を運んで来た。腹が減った。朝の9時から夕方まで毎日歩いているのだ。夜の7時すぎ、当然腹ペコである。目の前のコップの横にタンメンが置かれた。立ちのぼる湯気。うまそうなニオイが鼻から胃に抜けるようだ。

 そしてギョーザが置かれた。置かれたのだが、やはり何かおかしかった。置かれた場所は私の席と向かいの席の丁度中間、大きなテーブルなので私は体を少し伸ばしてギョーザの皿を自分の方に引き寄せた。

 (やはりおかしい)どう考えても変だ。連れがいないのはもうわかっているはずだ。それならば、やはり店ぐるみで客の私をからかっているのか。店員の表情にそれを確かめようとするがそこからは悪意のようなものは感じられない。それならばこのギョーザの置かれた場所は何なのだ。

 もしかすると…。

 それは考えたくなかった。例えわずかであってもその可能性を認めたくなかった。考えることをやめて黙々とタンメンとギョーザを食べる。喉に詰まるようで水をゴクゴクと飲みほしてしまった。水が欲しい。向かいにもう一杯分あるがこの水は飲みたくない。飲んではいけない。何とも言えず落ち着かない夕食である。味もろくにわからない。

10 分も経たずに食べ終わり、勘定を払う。この出来事の説明を問いただしたかったが、それも躊躇われ、そのまま外に出た。店内は冷房が効いていたせいか外は妙に蒸し暑い。汗がどっと吹き出る。寄り道して気を紛らわしたい心境だったが、あいにく夜のオフィス街に開いている店はほとんどなかった。

 仙台の繁華街は今頃七夕祭りで賑わっているはずだ。そこから少し離れたオフィス街の裏通りは人通りも少なく、七夕祭りのポスターと小さな七夕飾りが街灯の下で揺れていた。仕方なくビジネスホテルに帰ることにした。

 先ほどの中華料理店での出来事のためかついつい急ぎ足になり、前だけを見つめて歩く。その薄暗い小さなホテルに戻りフロントでルームナンバーを告げ鍵を受け取る。エレベーターまでの廊下はなぜか左右が鏡張りである。それも壁の上から下まで全面鏡だ。

 左右が鏡の廊下を7、8メートル歩く。何とも言えない趣味の悪さ、そして気持ち悪さ。当然窓もなく、明るいとは言えない電灯がついている。立ち止まって右を見ると鏡に自分の姿が映っている。その中に左の鏡が映り、そこに今度は自分の後ろ姿が映る。その中に右の鏡が映り、そこに自分の姿が映っている。その中にまた左の鏡が…と次第に小さくなりながら自分の姿が無数に映っている。左を向くと同様に無数の自分の姿と後ろ姿が映っている。不気味だった。薄暗い電灯。

 中華料理店でのことが思い出され胸が重苦しくなる。手を上げピースをすると、無数の私がピースをする。手を振ると無数の私と私の後ろ姿が手を振る。そんな中、1人だけ手を上げず、手を振らない私の像がじっとこちらを見ている。

 心臓が凍りつく・・・ということは起こらず、鏡の中の私の分身は皆機嫌よく私のまねをしている。数えきれない私がスキップをしながら廊下を走る。エレベーターを呼び、5階のボタンを押す。扉が閉まると再び重苦しい空気が押し寄せてきた。今度は妙に明るい電灯。エレベーターの中が白く、そして薄く見える。圧迫感。ブーンという機械の音。上昇音。閉塞感。はやくこの狭苦しい箱の外に出たかった。

 私1人しか乗っていないエレベーターが5階を目指す。扉の上に表示された階を示す数字が2から3に移ったところでエレベーターは止まった。扉が開く。私は誰かが乗ってくると思い、扉の前から離れた。

 私は待った。が誰も乗って来なかった。3階の廊下に顔を出し左右を見たが人の気配もない。薄暗い廊下をエレベーターの中から流れ出した明かりが煌々と照らしている。きっとボタンを押してどこかへ行ったのだろう、部屋へ戻るか階段を使ったかしたのだろう。そう考えた時、私の近くで空気が動いた。「チン」と音がして扉が閉まる。気のせいかエレベーター内の空気が軽い。

 「そういうことだったのか』と思った。

 とにかくこれで眠れるだろう。部屋に戻ってさっさと寝よう。妙な夜だった。1人旅をしているといろいろなことがある。これで2度目だ。(第4、5回「ビジネスホテルの怪』参照)七夕祭で賑わう仙台の街で7軒目にしてようやく見つけた空室のあるホテル。どこの街であろうとこういうホテルでは何かが起こる。

次回は第14回「仙台のからくり時計・国宝ののりピー」(仙台・松島、宮城県。1988年夏)です。

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2016/8/23

『OKU NO HOSOMICHI』 第12回   国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

国語科 副島勇夫

第12回「水平線・仙台七夕恐怖の中華料理店〜前編(岩沼、福島県、仙台、宮城県)」

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 これは30年ほど前に実際に起こったことである。事情があって、ホテルの名前だけはふせたけれど、それ以外は事実だ。(村上春樹の『レキシントンの幽霊』風に書きだしてみました。)

 この手の怪談話は、信じてくれない人の方が圧倒的に多いけれど、この「奥の細道」の旅では、4〜5回はあった。

 チェックインして、部屋につき扉を開けただけで、そのただならぬ雰囲気に、フロントに戻りチェックアウトしたホテルもあったぐらいだ。まあ、信じていただけない方も、読みものとしておつきあいください。

 この話はいつもの長さだと4回分になるので、前後編としては長くなるが、終わりまで読んでいただけたら幸いだ。それでは本編に入ります。

 目の前に置かれたガラスのコップの水が揺れている。そのコップをテーブルに運んで来た店員の女性が2度ばかり振り返りながら戻ってゆく。厨房から、ちらちらとこちら見ている2人の男性。何事かひそひそと話している。

 私は周りをぐるりと見回した。

 きれいとは言えない普通の中華料理屋。××時計店寄贈と記された鏡。そこにうぶかしげな私の顔が映っている。数字だけのカレンダー。古時計が午後7時20分を示している。火の用心を呼びかける酒井法子(まさかこの時はあんなことになるなんて、当時はトップアイドルだった)のポスター。他に客はいない。

 (「これは何のマネや?何を見てるんや?何が見えるんや?)

 冗談か。からかわれているのか。それとも……。目の前のテーブルのこちらと向かいにそれぞれ置かれた2つのコップの水がやはりまだ揺れている。

 仙台七夕は通常の1か月遅れの8月上旬に行われ、今週から観光客が訪れる。街の到るところに巨大な七夕飾りが掛けられ、一番町通り、中央通りといった繁華街のアーケードでは写真のような飾りを掻き分けながら歩くことになる。

 青森のねぶた祭り、山形の花笠祭り、秋田の笠灯など「動」のイメージが強い東北の夏祭りの中で唯一「静」の趣きのある祭りだ。

 1988年の夏、私は七夕祭りの頃に仙台に到着するように、この年の出発地点である福島県福島市を歩き始めた。4日目の8月4日、仙台を目前にして私は寄り道をすることにした。広げた地図の現在位置の3センチ右に太平洋が広がっていたからだ。

 東京から本州内陸を北上してきた「奥の細道」の旅も3年目にしてようやく「海」を見ることになるのだ。今寄り道をしなくても2日後には、海の名勝地である松島に到着する予定ではあったが、地図に広がる青いスペースが私を呼んでいた。二の倉海岸。海が見たいと思った。海を見ながら2時間ぐらい何もしない。きっと賛沢な休憩だろう。決まりだ。海に行く。

 2メートルほどの高さの防波堤の向こうには太平洋があるはずだ。その高さのために二の倉海岸は数十メートルの近さにいても姿を見せない。灰色のコンクリートの壁が青い空の下半分を切りとり目の前に立ちはだかっている。その向こうから微かに、見えない海の音だけが聞こえてくる。

 防波堤の階段を1段、2段と登る。少しずつ頭上の青空が近く感じられ、風が顔に斜め上から吹いてくる。3段、4段そして5段目。目に入るものは一変した。それは何かがパーンとはじけたような変化だった。

 水平線。青い海と青い空。

 その境目の暖昧な空のような海から白い波がやって来る。島も船もない。視界を遮るものは何一つない。狭い須磨の海を見慣れた者を圧倒するこの広がり。遊泳禁止区域の看板がある。邪魔な海水浴客もほとんどいない。親子連れが数組。5、6才の少女が砂浜で波を追う。

 寄り道は正解だった。水平線は本当に丸味を帯び、雄大という言葉では言い尽くすことのできない凄味というか、圧倒的なエネルギーを海は私に見せつけていた。予定されていたことだったが、予定していなくとも2時間、ただ海だけを眺め、防波堤のコンクリートに座っていたことだろう。

 話を元に戻そう。これはあくまでも寄り道だったのだから。

 翌日、私は仙台に到着した。七夕祭りの賑わいで宿はどこも満室だった。ようやく見つけたオフィス街のビジネスホテルの部屋に荷物を置き夕食を食べに出た。オフィス街の夜は昼間の活気がどこかに吸い込まれたかのように暗く閑散としている。

 一番近い所にと見つけた中華料理店は、赤と黄色のひさしがついたどこにでもありそうな店だった。店内はがらんとして誰もいない。残業のサラリーマンぐらいしか来ないのだろう。注文をとりに女性の店員が、お盆に水の入ったコップを乗せてやって来る。

 私は周りを見回した。客は私1人。お盆に乗せられたコップはなぜか2つ。その2つが私の目の前と向かいの席に置かれた。「コトン」と小さな音が響いた。テレビのニュースが小さな音で聞こえている。店員が注文を聞く。

 「タンメンとギョーザ」

 彼女はまだテーブルの傍らに立っている。(なぜ待ってるんや?)「それだけです」「はい」という会話の後、彼女は2度ほど振り返りながら厨房の奥に消えた。コップの水はその間ずっとゆらゆらと揺れていた。……後編につづく

次回は第13回「仙台七夕恐怖の中華料理店〜後編(仙台、宮城県 1988年夏)」です。

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2016/8/14

『OKU NO HOSOMICHI』 第11回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)
国語科 副島勇夫

第11回「ほんとの空の町、安達ヶ原の鬼婆、喋る電話ボックス〜後編(二本松、安達太良 福島県)」

 今回の旅の最終日となる8月8日、国道4号を福島市を目指し歩いていた。途中から山の中を切り開いた高速道路のような道になり、歩道はあるものの車以外には全く歩行者に会わなくなった。所々にドライブインのような食堂、工場などはあるものの民家はほとんどない。左右は丘のようになっていて、その切れ目から時折遠景が見える。見下ろすような感じで街並や田畑が見える。ずいぶん高い所を走っている道だ。

 誰に聞かれるわけでもないので大声で歌いながら歩く。TUBE、杉山清貴、サザン。そして、なぜか演歌。気持ちいい。(時代を感じるでしょ、高校生には。なんせ、1987年のことだ。今から約30年前だ。)

 おまけに久しぶりの快晴だ。「笑ってもっとBaby……」というところで前方から来た白い車がクラクションを2度鳴らし、ドライバーが手を振る。私は右側の歩道を歩いていたので対向車と向き合うことになる。しばらくするとトラックのクラクションの後、ドライバーの左手が軽く上がる。クラクションの挨拶に元気づけられ快調に歩く。

 このクラクションの挨拶は「東北」で一番多く経験した。福島、宮城、山形。さすが、青木先生の故郷「東北」だ。東北の人たちは、優しかった。感謝。

 食堂の前に電話ボックスが1つ。あまり見ない形の普通より一回り大きなものだ。何となく扉を開けると「いらっしゃいませ。」と機械的な声がする。面白くなって扉を閉めてみると「ありがとうございました。忘れもののないようお気をつけ下さい。」と御親切な言葉。山の中の国道の電話ボックス。いったい1日に何人の人があの声を聞くのだろう。

 左手の視界を防いでいた丘がとぎれ、ガードレールに代わり景色が開けていく。振り返ると安達太良連峰がくっきりと見える。峰々の上に青い空。「ほんとうの空」は、かろうじて最終日に姿を見せた。

 次第に道が下がっていき、遠くに福島市の街並が見える。右下に見える堤防では草野球。暑そうだ。歩きながら顔や腕が焦げていくのがわかった前年と違い、晴天に恵まれなかった分、このままずっと歩いていたいと思った。昼過ぎにJR福島駅到着。昨日は1か月遅れの東北の七夕のため、駅のコンコースに七夕飾りがある。短冊に願いごとを記して笹につけるコーナーに旅行客たちが集まっている。

「奥の細道完歩祈願 1988年8月8日」まだ、東京から347、5キロ。先は長い。

 次回は第12回「水平線・仙台七夕恐怖の中華料理店〜前編(岩沼、福島県、仙台、宮城県)」です。

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2016/8/13

『OKU NO HOSOMICHI』 第10回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)
国語科 副島勇夫

第10回「ほんとの空の町、安達ヶ原の鬼婆、喋る電話ボックス〜前編(二本松、安達太良 福島県)」

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※ちなみに青い「●」の場所にあるのが福島第1原子力発電所。2011(平成23)年3月11日の東日本大震災で重大な事故を起こし、現在、廃炉が決まっている。操業開始が1971(昭和46)年であるから、S先生が旅行している頃はすでにバリバリ稼働していた。

※地図中央の福島県の太平洋岸は、生徒諸君も知っていると思うが、3・11の大津波で壊滅的な打撃を受けたところだ。(以上担当者加筆)



智恵子は東京に空が無いといふ
ほんとの空がみたいといふ
私は驚いて空を見る
(中略)
智恵子は遠くを見ながら言ふ
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ
あどけない空の話である

 詩人であり彫刻家の高村光太郎の妻、智恵子の故郷、福島県二本松市は南北朝時代から発達した古い城下町だ。

 旧国道の峠を越え、緩やかな右カーブの道の前方右下にその街並が見えてきた。左前方には山並みが続いている。前回の白河の関から3日後の1987年8月7日、奥の細道を歩く3度目の旅のことだ。智恵子の言うほんとの空は、今日は曇っていた。

 それもそのはずで東北地方は8月だというのにまだ梅雨明けしていない。今回の旅もすでに7日目だが、晴天の日は半分もなかった。左手に見える安達太良(あだたら)連峰も雲が掛かり山頂はどの峰も見えない。今にも降り出しそうな空の下、JR二本松駅に到着。駅前の小さな広場に「ほんとの空の町、二本松市」という看板が立っている。

 話は外れるがこの旅の目的は二つある。

 1つはもちろん芭蕉の足跡を辿って300年後の「奥の細道」を歩くことだが、もう一つは自分にとって郷愁が感じられるような原風景を見知らぬ土地に探すことだった。ただ眺めているだけで涙が出るような風景、懐かしさを感じる風景を生まれ育った土地以外で探す。

 この矛盾するような条件を満たす土地を見つけることで自分の価値観や自分が何者なのかということを知ることができるのではないかと考えたからだ。生まれ育った関西以外で「ほんとの空」に出会えるだろうか。この旅はそういう旅なのだ。(50歳を超えた今、この箇所は恥ずかしい。青臭いが、あえて原文のまま残した。)

 二本松を後にして私は『万葉集』『古今和歌集』に歌われた歌枕の地である浅香山を目指した。松並木の続く街道沿いに、手入れのいきとどいた公園として浅香山は残っていた。「安積山公園」の碑が立っている。高さ30メートルばかりの丘だ。小学生の男子の子が4、5人遊んでいる以外誰もいない。白河の関といい、この浅香山といい、今ではすっかり地元の子供達の遊び場となっている。

 荷物を背負った旅姿の私はいつも彼らの奇異の目に迎えられる。自転車やバイクの旅だと納得できるのだろう。歩いているということがわかると一層好奇心が湧くのか、じっと見詰められたり、どこから来たのか、どこまで行くのかを尋ねられたり、中には「おかあさ〜ん」と助けを求め母親を呼ぶ者もいる。そして時には地元の子ども達とドッジボールをして、見知らぬ家で麦茶を頂くこともあった。きっと300年前の芭蕉の頃の方が違和感なく受けとめられたのだろう。

 浅香山を出発した私は、芭蕉も立ち寄った鬼婆伝説の残る黒塚を目指した。この辺りから左手に安達太良山が近づいてくるはずなのだが、やはり曇天のため全貌が見えてこない。「毎日でてゐる青い空」にはとうてい出会えそうにもなかった。

 平兼盛が「みちのくの安達の原の黒塚に鬼こもれりと聞くはまことか」と詠んだ黒塚の鬼伝説は非常にポピュラーなもので『大和物語』や謡曲の「安達原」に脚色されている。簡単に言ってしまうと、安達原に住みつく鬼が老婆に姿を変え、あたりの淋しい一軒家で宿を求める旅人を喰ってしまうというものである。

 写真の黒塚の岩屋やその一軒家の一部となった大きな岩で、この岩を利用し壁と屋根を作った様が史料館の絵図に描かれていた。鬼の墓である黒塚、岩屋、史料館は「真弓山観世寺」という寺の境内にあり、中には鬼が使った包丁を洗ったと言われる出刃洗いの池などというのもある。史料館にはその出刃包丁が展示されている。

 それにしてもこの岩屋の積み上げられた岩は何なのだろう。人工的なものにも自然のものにも思える。かなり大きな岩が不自然に乗っているというのが第一印象だ。周囲にも大きな岩がごろごろしている。案外、もとはと言えば古代の遺跡だったのかも知れない。そこにいつからか伝説が生まれた。そう考えるのが自然かも知れない。

 黒塚を後にしながら歩き出すと目の前に1枚の看板「鬼婆もうまいと言った手打ちラーメン・もんぜん食堂」鬼婆伝説もすっかり神秘さを失ったようだ。(後編につづく)

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2016/8/3

『OKU NO HOSOMICHI』 第9回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986OKU NOHOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

国語科 副島勇夫

第9回「おばあちゃんのトマト〜後編(白河の関福島県)」

 その日の宿泊地は10キロ先の白河の町だった。トラックばかりがビュンビュン通る山の中の道を北に向かって歩き始めた。先ほどの山の中の一本道と比べ車が通るのは心強かったが、白河の関から遠ざかるにつれ、次第に民家がなくなっていった。

 道は何度も峠を越え、次第に夏の日は夕方に移りつつあった。1軒の農家の畑からおばあちゃんが呼んだ。「トマトいらねえか。」私は自分が朝から何も食べていないことを思い出した。「頂きます。」おばあちゃんは畑からトマトを2つもぎ取って、水道の水で洗い渡してくれた。形は悪いが大きなトマトだ。かぶりつくと予想外の甘さが広がった。

 「美味しい。」私がそう言うと、おばあちゃんは大層喜んで話し始めた。私と同じ年頃の孫がいて思わず呼び止めたということだった。2つ目のトマトを食べ終え、先を急ぐ私はおばあちゃんに礼を述べた。するとおばあちゃんは私にトマトを持っていけと倉庫の中に入っていった。

 しばらくするとおばあちゃんがうんうん言いながら何かを引きずってくる。見るとトマトの詰まった段ボール箱だった。おばあちゃんは「持ってけ」と言う。心の中では「おばあちゃん、こんなに持って歩けまへんがな。」とツッコミを入れながらも、そこは大人なので、にっこり笑って箱からトマトを4、5個取り出し、2つを手に持ち残りをデイパックにしまった。おばあちゃんに見送られるのは、県境のおばあちゃんに次いで今日2度目だった。

 手にしたトマトを食べながら山道を歩いた。しまってあった分も食べ、残り1つになった時、このトマトを食べてしまうのが惜しくなった。しばらく手に持ち歩いていたが大阪まで持って帰る名案は浮かばなかった。そこでガードレールの支柱の上にトマトを置き、ウエストポーチから油性マジックを出すとそこに落書き(?)をし、写真を撮った。

 真剣な顔でトマトを撮影する私を、通り過ぎる車のドライバー達は何と思っただろうか。あれから29年、あのガードレールの落書きはもう消えてしまっただろうか。

「TOMATO1987・8・4 福島・白河の関付近にて」

次回は第10回「本当の空の町、安達ケ原の鬼姿、喋る電話ボックス」(二本松、安達太良 福島県)の3本立てです。


 白河関の入口

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2016/8/2

『OKU NO HOSOMICHI』 第8回   国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986OKU NOHOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

国語科 副島勇夫

第8回「おばあちゃんのトマト〜前編(白河の関福島県)」

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 いつまでたっても目的の「白河の関」は見えなかった。畑の中から「やあ」と声をかけてきたおばあちゃんに「この道をどこまでもまっすぐ行けばええ」と言われもう1時間半が過ぎていた。

 その「どこまでも」の言葉の意味を実感し始めた頃はすでに午後1時を過ぎていた。「腹減った。」しかしパン屋1つない山の中だ。今となっては引き返すこともできない。幅3メートル余りの舗装された県道の左側は常に山の斜面、見上げても山頂は見えないほど木が生い茂っている。右手は畑になったり、林になったりという山の中の何もない道だ。所々にポッンと民家があり、畑をいくつか持っている。こんな山の奥深くにも生活している人がおり、電線が来ていることが不思議だった。

 見上げると夏の空、セミの声。時折響く…猟銃の音。もうこの音にはすっかり慣れっこになっていた。初めこそ間違って撃たれたらと恐ろしかったのだが、その「パーン」という乾いた音が青い夏空には妙に間延びしていて、どこか牧歌的風情を感じさせた。それにしても長い一本道だ。

 1987年8月4日、栃木県黒田原の「おばあちゃんのパン」旅館を出発した私は、300年前に芭蕉も訪れた「白河の関」を目指していた。

 「白河の関」は奥州への第一関門だ。この関を越えるといよいよ東北、みちのくの旅が始まる。前年の夏、東京の深川芭蕉庵跡から歩き始めて267キロ、「奥の細道」の旅もようやく、東北に入り本格化する。芭蕉もこの関を越えて「旅心定まりぬ。」と記している。

 空腹を抱えて長い一本道を歩いていると畑の中からおばあちゃんが話しかけてくる。歯がすっかりないのと土地の誰りで話の7割はわからなかったが、くるみの栽培をしているのだということと栃木との県境を越え福島県に入っていることがわかった。「兄ちゃんが越えてきた所が県境。」振り返ると少し道が小高くなった所にアスファルトの継ぎ目があり、道路の色が薄い灰色から濃い灰色に変わっている。

 「向こうが栃木で、こっちが福島。福島の道路の方が舗装がきれいだ。」見ると確かに手前の道の方が新しい。郷土愛と言おうか、数メートルも歩けば隣りの県に入る県境で張り合っている様子が何だかおかしかった。話し好きのおばあちゃんはしばらくの間、冬の雪深い頃の様子やお孫さんの近況など話して下さったのだが、相変わらず話の7割は聞きとれないのが残念だった。

 手を振るおばあちゃんに見送られ行くこと2時間、午後3時を過ぎた頃に「白河の関」跡に到着。今では公園になっており子供がセミとりをしている。

 芭蕉が約300年前に訪れた時も、既に関は閉鎖されていた。「奥の細道」の旅の第2のというか、真の出発点として芭蕉はここを訪れている。そのことを思うとスニーカーのひもを締め直したくなった。ここからが東北だという思いが体のどこからか湧いてくるのを感じた。

(第9回後編に続く)

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2016/7/8

『OKU NO HOSOMICHI』 第7回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

国語科 副島勇夫

第7回「おばあちゃんのパン〜後編(黒磯、殺生石、栃木県)」

 その日は黒磯という町に宿をとることにした。JRの駅を中心とした小さな町である。

 この辺りは黒羽、黒磯、黒田原と黒の字のつく町が多い。それが白河の関を越え福島県に入ると白坂、白石と白ばかりになる。降雪量とも関係があるのだろうか。

 駅前の小さな商店街はすぐに途切れてT字路にぶつかるとそこに小さな旅館があった。二階建て木造のその小さな宿の玄関の扉、ひび割れたガラス戸に白いペンキで「梅屋旅館」と書いてある。古ぼけた、そして安そうな宿だ。ここに決めた。

 お世話になりますと中に入ると、にこにこと七十才を越えたぐらいのおばあちゃんが出てこられた。夕食は済ませてあったので素泊まりで一泊することにした。朝食はと尋ねられたが、駅前で見たハンバーガーの店が久しぶりだったので、明日の朝はそれを食べようと決めていた。食べずに出ますと答えると、宿のおばあちゃんは食べて行けばいいのにという表情を笑顔の中に浮かべたが、そのまま奥に戻られてしまった。

 代わって出てこられたおじいちゃんが部屋まで案内して下さり、しばらく話し込んでいかれた。一人息子が大きな街でホテルを経営していること。この旅館は自分たちが、ずっと経営しており、誰も継ぐ者がいないこと。あと何年もすれば宿も畳まなければということなど、お茶を飲みながら淡々と語っておられた。部屋に鍵もなく、テレビなどもちろんないその部屋だったが、旧式の扇風機、柱時計、黒ずんだ柱の一つ一つに老夫婦の何十年という日々が感じられるようだった。

 翌朝、目覚めると6時だった。旅館の向かいに剣道場があり、子供達の朝稽古の声が聞こえていた。出発の仕度を済ませ、7時過ぎに下に降りると、おばあちゃんがもうお立ちですか尋ねられた。朝食は本当にいいのかと繰り返し言われたのだが、私の頭の中には久しぶりのハンバーガーのことがあったので遠慮した。

 おばあちゃんに礼を述べた時、そのカウンターのような所に白い紙袋が一つ置いてあった。おばあちゃんはにこにこ笑っておられる。私は玄関のガラス戸の方へ向かい、もう一度ふり返って礼を述べた。

 その時、ガラス戸から差し込む朝の光が白い紙袋を照らした。少し濡れているためか袋の中身が光で透けて見える。それは菓子パンと小さなパックの牛乳のようだった。老夫婦の朝食だろうか。それも何だか妙だ。もしかすると私の朝食では、そう思うと何とかして確かめたかったのだが、もし違っていたらと思うと切り出せない。おばあちゃんは相かわらず笑っておられる。白い紙袋はますます中身が透けて「牛乳」の赤い文字が見える。私は諦めた。本当はそこで尋ねるべきだったのかも知れないが、もう一度礼を述べその宿を出た。

 その日、私の頭の中からは白い紙袋のことが消えなかった。街に出ればいつでも食べることができるハンバーガーにこだわった自分が馬鹿だった。もしかすると、私は何よりの朝食を食べ損なったのかも知れない。そう思うといまだに悔やまれてならないのである。

 次回は、第8回「おばあちゃんのトマト〜前編(白河の関、福島県)」です。

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2016/7/7

『OKU NO HOSOMICHI』 第6回  国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986 OKU NO HOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

国語科 副島勇夫

第6回「おばあちゃんのパン〜前編(黒磯、殺生石、栃木県)」

 殺生石(せっしょうせき)には由来がある。

 今から800年ほどの昔、中国やインドで悪行を重ねていた九尾の狐が日本に渡来し、朝廷に仕え国を亡ぼそうとした。ところが正体を見破られ、栃木県那須野ヶ原へと逃げて来た。

 その後もこの妖狐は旅人、領民に危害を加えたので朝廷の命で二名の武将がこれを退治したのだが、狐は毒石となり毒気を放って、なおも人々に害を与えた。これを「殺生石」と呼び長く近寄ることを禁じたというものである。今から約300年前、松尾芭蕉が訪れた時でさえ、毒気いまだ強く、鳥獣虫などが死んでいたと記されている。

 殺生石のある一帯は那須温泉であり、この辺りから絶えず発生する硫化水素、亜硫酸ガスなどの有害ガスが殺生石の毒気の正体である。

 私が訪れた時は夏というのに肌寒い曇天の日であり、殺生石のある那須高原には霧が立ち込めていた。殺生石は木も生えない山肌の露出した斜面の、まるで干上がった川底のような所にあった。付近には「硫化水素ガス等が噴気していますので、風のない曇天の日は御注意下さい。」という看板が出ている。柵に囲まれた中に1.5メートル四方の石がごろごろと転がっているのが殺生石らしい。鳥獣虫の死骸はないものかと探してみたが、狐の毒気はもう弱まったのかワンカップ大関の空きビンが1つ落ちていただけであった。

 この年、つまり1987年私は3度目の旅に出た。前年冬に到着した栃木県黒羽から歩きはじめ、福島県福島市をとりあえずの目標とする150キロ、1週間の旅である。1日に25キロずつ歩く。このペースが私には丁度良いようだ。何も考えずにただ歩く。疲れた分しか前に進まない。

 それ以上でも以下でもない素直な旅。このことが何よりも心地良かった。目的地に到着してはじまる旅が多い中で、その過程、通り過ぎる町や人、風景が目的となることの新鮮さ。日頃、車や電車では見ることのできないものを、この歩くという速さはゆったりと見せてくれる。

 なかなか近づかない遠くの山、村と村、町と町の距離。もどかしさも楽しみの一つとなった。またグループではなく一人の旅であることが幸いしてか、実に多くの人と出会い、声をかけられ話をすることになる。これも歩くという速さならではである。

(第7回後編に続く)

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2016/6/27

『OKU NO HOSOMICHI』 第5回   国語科S先生の『OKU NO HOSOMICHI』

〜A long time ago in TOHOKU far,far away(昔々、遠い遠い東北の地で(「STARWARS」?)〜

1986OKU NOHOSOMICHI(SHOWA〜HEISEI)

国語科 副島勇夫

第5回「ビジネスホテルの怪〜後編(栃木県栃木市)」

 鳴りやまない何かの音。窓に近づくと駅前の並木道が見える。窓から3メートルほどの所に、高さ8メートルぐらいのポプラの木。道路を挟んで向い側にも同じポプラの木がある。そんな並木道が駅前から50メートルほど続いている。窓を開けるとその音が一気に室内に入ってきた。

 その正体は雀だった。それも1羽や2羽ではない。1本の木に何十羽といる。それがどの木にも同じぐらいいる。茶色い木の実がモゾモゾと動いているようだった。寝ぐらを求める雀たちが駅前の並木に500羽近くいることになる。音の正体はわかったが、ザワザワと心を乱すようなその音は決して気持ちのよいものではなかった。

 夕食を済ませ部屋に戻ったがここで寝るのかと思うとゾッとした。隣りの部屋からボソボソと声のようなものが聞こえる。人の気配がするのはありがたかったが、何だか気持ち悪かった。

 夜10時。布団を敷き部屋の明かりを半分消し、テレビとクーラーはつけたままにした。眠る体勢にについたのだが、なかなか寝付けなかった。クーラーが効きすぎているせいか、夏だというのに寒い。布団を首まで被り何とか寝ようとした。

 もう2時間も経ったのだろうか。テレビが突然消えた。(なぜ?)ほの暗い部屋にクーラーの音だけがブーンとうなっている。重苦しく嫌な気分だ。ゴトゴトと隣りの部屋の物音が意外に近くでする。ボソボソとした話し声。冷房が効いているのに、手のひらは汗でじっとり濡れていた。

 暫くして今度は突然ガシャンとクーラーが切れた。(なぜ?)静寂。重たい空気の中、薄目を開けるとほのかな明かりで部屋の中が見える。異常はなかったが、目に入る光景が粒子の荒い画面のようにザラザラとしている。固く目をつぶる。このまま寝てしまいたかった。クーラーは切れているのに部屋はあいかわらず寒々としている。しかし手のひらには汗が惨む。

 何という夏だ。こんな旅を始めるんじゃなかった。寝苦しい。その時だった。

 足の方で畳を何かが擦る音がした。やっぱりな。そう思った。この部屋に入った時から、いや、このホテルの薄暗い廊下を歩いた時から、こうなるのはわかっていたような気がした。もう目は開けられなかった。足の方から腰の辺りにその「サッ」という音は移動した。何かが近づいてくる。布団を頭まですっぽりと被り、中からしっかりと握りしめた。そして長い一夜が始まった。

追記:翌朝、フロントで尋ねたが、この日、隣の部屋どころか、同階に宿泊客はなかった。やっぱりか。

 次回は第6回「おばあちゃんのパン〜前編(栃木県栃木市)」です。

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