2017/1/13

FILE8 字幕と吹き替え  先輩 K先生の映画学ガイド

担当者 国語科 小柳優斗


 あけましておめでとうございます(遅いよ)。お正月は何をしましたか? 担当者は映画を観て過ごしていました。「新年に人が死ぬような暗い物語に触れると一年の運気が悪くなる」と、ホンマでっか的な番組でやっていましたが、まったく無視して『ダーティハリー』の4と5を鑑賞。実は持っているDVDボックスが特殊なもので、『ダーティーハリー』のDVD商品の中でほとんど唯一、吹き替え音声が収録されているのです。ルパン三世も演じた、山田康夫さんの声……『ダーティーハリー』はやっぱこうでなきゃ! というのが、心の中にあります。
 
 ところで、映画を観るとき字幕か吹き替えかというのは重要な選択ですね。その作品の印象をがらりと変えてしまう力を、映画における「言葉」は持っています。今回は、そんな面に着目して、字幕と吹き替え――この二つの魅力や特徴について、考えていきましょう。


 ガイド9「字幕と吹き替え――映画を彩る、二つの言葉」

洋画を観る時に必ず直面する二者択一――ズバリ、吹き替えで見るべきか、字幕で見るべきか。

 中には迷うことなく字幕で! という人もいるだろうし、その逆の場合もあるだろう。個人的には、金曜ロードショーや木曜洋画劇場、ゴールデン洋画劇場の経験が強いので、家でDVD鑑賞の場合は吹き替えを、新作を映画館で観る場合には字幕を選ぶことが多い。またある理由で字幕鑑賞を余儀なくされることもあるのだが、それは後述に譲ろう。

 

 吹き替えの歴史を考えていくと意外と深く、ここで扱う「字幕・吹き替え」という関係以外にも、たとえばスタントマンによる演技の「吹き替え」だってある。トーキーができるまで、映画はすべてサイレントだったが、日本では舌弁士が大いに活躍していた。これも一種の吹き替えと観ることができるだろう。そういう話をしていては字数がいくらあっても足りないので、ここでは「字幕・吹き替え」問題について、それぞれの特徴から浮かびあがってくる「面白いこと」について考えてみたい。

 

ところで世の中には未だに「字幕=硬派」と考える風が蔓延しているらしく、「吹き替えって、オリジナルじゃないじゃん」とのたまう人々がいる。だが残念ながら「字幕」とて、オリジナルからの乖離は免れない。洋画を本当にオリジナルで観たければ、「英語版 字幕なし」で観るのが良かろう。それこそがオリジナルである、英語が得意ならばできるはず。

 英語のセリフを日本語に翻訳する際、そこにはどうしたって翻訳者の意図が入る。どんな言葉選びをするかは翻訳者の手に委ねられているからだ。結果、どうしたってそうは言ってないだろとついついツッコミを入れたくなるような事態がままあるのである。

 

 DVDやブルーレイで実験してみると、非常に分かりやすい。筆者がこの問題に気付いたのは、ローランド・エメリッヒ監督の『インデペンデンス・デイ』だった。主演のウィル・スミスのセリフで、吹き替えでは「もっとコミュニケーション取ろうぜ」というセリフがある。これが字幕となると「これであいこだな」となっている。ぜんぜん違うじゃん! と思って、今度は英語字幕で同じところを観てみた。そうすると、「communication」という単語がちゃんと入っているのである。こりゃビックリ、吹き替えの方が原文に近いのだ。

 ここまで顕著な例でなくても、英語に堪能な人ならば ん? と思うような字幕はたくさんあるだろう。別に英語に堪能でなくても、「この字幕、俺ならこう訳すけど?」という気持ちを抱いた経験のある人は、きっと多いはずだ。

 

 字幕には字幕の制限がある。映画は基本的には後戻りのできない娯楽である。本のように、気になった部分を読み返すことはできない。しかも本のように字だけを追っていればよいのではなく、観客は画、音楽その他の効果など、さまざまな情報をいっぺんに受け取らなくてはならないのである。そうなると当然、字幕なんていう「文章」は短い方が良い。だらだら長い字幕を読んでいるうちに、話は先に進んでいく。端的な言葉で、素早く表現する――そんな制約がある以上、どれほど原文に忠実にしたくてもできない部分というのがあるのだ。ゆえに『インデペンデンス・デイ』のように、恐ろしく原文から乖離した、みょうちきりんな翻訳になる場合もあるのだ(むろん、この辺は翻訳者のセンスも大いに関係してくる)。

 

 では、字幕が有効な場合とは何だろう。もちろん、「オリジナル」の英語でのセリフが聞けるという点は大きな魅力である。人間の頭とは不思議なもので、字幕鑑賞における聴覚的には英語を聞きつつ、視覚的には日本語を読み進めるという、その面倒な同時並行を、我々はいとも容易くやり遂げてしまうのだ。このことを突きつめて考えていくと、実は吹き替えのデメリットとイコールになるのだが、たとえばディズニーの『アナと雪の女王』が分かりやすい。中盤、エルサが「LET IT GO」を歌う、もう何回観たか分からないくらいに有名なシーン、これを吹き替えで観ると松たか子さんの美声に酔いしれることができるが、一方画面に耽溺すればするほど、若干の違和感を覚えてしまう。口の動きと声が合っていないのである。これは当然のことで、画面は英語の歌詞に合わせて口を動かしている。日本語と英語では文法自体違うし、こぶしを入れるタイミングも異なっている。それでも頑張って合わせようと、歌詞を工夫してはいるが(もちろん、オリジナルの歌詞の直訳とは全然異なる歌詞である。ディズニーの歌って、大方そう)、それでも100%ぴったりになれるはずがない。一方、字幕で観れば(=オリジナル言語で視聴すれば)、当然、エルサの口の動きは言葉と連動するから違和感なく観られるし、あのシーンについては、そっちのほうが観ていて気持ちが良いのである。

 

 字幕を「読む」場合についても、吹き替えよりも優れている点がある。さっきは本との比較を通して字幕の制約を考えたが、実は「本」に原作があるものを実写化する場合、字幕の方が都合良いところがあるのだ。たとえば『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』、これは言わずと知れた『指輪物語』の実写化であり、シリーズ最終章に当たる。物語中盤、王の都ミナス・ティリスに悪の軍勢が攻めてきて、必死の攻防が続いている。よもや都陥落か……という時、丘の上に現れたは、同盟国ローハンの軍。ここでセオデン王が決死の突撃をかける。『王の帰還』屈指の上がるシーンだが、ここでの王のセリフに注目したい。

 

 字幕では

「剣の日ぞ。赤き血の日ぞ。日の登る前ぞ!」

 吹き替えでは

「戦いだ。流れる血で、野を赤く染めよ!」

 

 実はこのセリフはかなり重要であり、原作では突撃をかけたローハンの騎士たちが、闇の軍勢を蹴散らしながらうたう歌の言葉なのである。『王の帰還』ではこの言葉があえて、セオデン王の演説として用いられている。『指輪物語』は日本でも長年愛読されてきたファンタジーの金字塔であるばかりでなく、「MIDDLE EARTH」を「中つ国」とするなど、日本語訳も高く評価されている。原作を読んだ者からすると、このセリフが出た瞬間に、陶酔にも似た感動を味わうことができる。ところが吹き替えでは、なんとなく違う言葉に置き換わっている。

 これは元々の言葉があまりに文語的で、口語的なものである吹き替えと相性が悪かったからなのだろう。字幕と吹き替えは同じように見えて実はまったく異なるものである。字幕は視覚的な言葉、吹き替えは聴覚的な言葉を主とするのだ。文語と口語とではしっくりくる表現も大きく変わってくる。古典文学を実写化する場合、文語による表現によって、世界観に重みを持たせることができる。そういう面では字幕に有利なところが多い。

 

 吹き替えについて、まずデメリットの方から考えてゆこう。吹き替えで映画を観るにあたって、何が嫌って声の演技が下手な吹き替えにぶちあたることほど、嫌なものはない。これが冒頭の、「字幕以外に選択肢なし」状況である。最近のDVDで言うと、リドリー・スコット監督作の『プロメテウス』。この作品のヒロインが、ドラマ等でも活躍している某タレントで、これがビックリするくらい合っていない。同じ理由で、『ジュラシック・ワールド』。大好きな映画なのに、これも主人公枠にタレントを起用している。『プロメテウス』同様、これがまた何とも言えず違和感なのである。個人的には『ジュラシック・パーク』シリーズは金曜ロードショーで観たのが始まりだったこともあり、吹き替えで観たいのだが、合っていない声と2時間近く付き合うのがどうしても苦痛で、字幕でしか観ることができない。『アベンジャーズ』に至っては、ロバート・ダウニーJRのところを吹き替えに、スカーレット・ヨハンソンの部分だけは字幕にという具合に切り替えるという荒業をやってのけたことがあるが、映画に集中できないうえに、中盤の会話シーンで挫折してしまった。

 

 タレントを起用することが悪いわけではない。『チャイルドプレイ』のチャッキーに月亭方正、『ストレンヂア』の主人公にTOKIOの長瀬智也など、素晴らしい声があてられている場合も多数ある。が一方で、不要な宣伝目的のため、別に合っているとも思われない声をあてて、名作をめちゃくちゃにする。特に『ジュラシック・ワールド』や『アベンジャーズ』は作品自体が最高に面白かっただけに残念でならない。せめてDVDでくらいは声をあてなおしてほしいと思ったが、結局叶わなかった。

 

 故にこそ、吹き替えではフィックス(FIXが重んぜられるのである。このフィックスこそ、吹き替えの持つ最大の力にして魅力である。「固定 確定」という意味に使われるビジネス用語だが、ここでは「それぞれの映画俳優にあてられる固定された声」とでもしておくのが良いだろうか。

 

 たとえば『ダーティー・ハリー』のクリント・イーストウッドには山田康夫(ルパン三世の声の人)、アーノルド・シュワルツェネッガーには玄田哲章といった具合に、この役者ならこの声! という、イコールの関係が存在する。エディ・マーフィーは山寺宏一でないとしっくりこないし、ロバート・ダウニーJRはやっぱり藤原啓治でないと、あとシニカルな感じは出ない。

 テレビの洋画劇場で映画に親しんだ世代にしてみれば、この「しっくり来る吹き替えの声」――フィックスというのは、とかく大切な要素だ。だが注意しなければならないのは、洋画劇場の中でも、吹き替えを担当している声優が異なる事態があることである。これが、なかなかに面白いところで、たとえば『ターミネーター2』のジョン・コナーを演じたエドワード・ファーロング。彼の吹き替えで最も印象深いのは、浪川大輔のあの少し掠れた良い声だろう。USJのアトラクション、T2 3Dの声も、浪川氏が担当している。ところがこの声は、金曜ロードショーなどでおなじみのフジテレビ版でしか聴くことができない声で、劇場公開の際は田中真弓が担当していたし、DVD等のソフト版では、近藤玲子が担当している。フジテレビ版の声が収録されているDVDBRは今のところ発売されていない。そうと知っていれば木曜洋画劇場で録画していた『ターミネーター2』のビデオを、残しておくんだったのに……。まあ、こうした事態があるからこそ、テレビ吹き替え版収録に特化した「吹替洋画劇場」などが好評発売されるわけなのだが。

 優れた声優による吹き替えで映画を観るのは楽しい経験である。『レゴ・ムービー』では、20名以上のキャラクターを8人の声優で演じ分けている。こうした遊び心ができるのも、吹き替えならではだろう。もちろんコメディなどでは、吹き替え声優によるアドリブが含まれていたりもする。そうしたものを見比べて発見するのも、楽しい試みである。『オースティン・パワーズ ゴールドメンバー』では、日本が舞台であり、日本語音声――英語吹替を利用したネタがあるが、そこで「吹き替え版だから日本語喋ってるけど、ここから字幕出しまーす」と主人公に言わせたりもする(ネタ自体がちょっと分かりにくいので、成功しているかは微妙だが)。そうしたメタな工夫によって、オリジナル版に魅力を一加えしている傑作も多い。

 

 

 字幕、吹替、それぞれの魅力について語らねばならぬことはまだたくさんあるが、この辺で止めておこう。ただ一つ指摘しなければならないのは、字幕であろうと吹き替えであろうと、オリジナル作品に手を加えて作り上げている「日本版」であるということである。口語的な表現を聴いて楽しむか、文語的な表現を観て楽しむか――用途によって楽しみ方は様々であろう。映像に華を添える声、ないしは文字……映画を面白くするのに欠かせぬこの大切な要素。好きな作品を23回と観ていくうちにふと気付く、言葉に込められた作り手たちの思い。そうしたものに気付けた時、映画はまた新たなる価値を帯びて、記憶の中に刻まれるのである。


2016/12/10

FILE7 ジョーカー  先輩 K先生の映画学ガイド

担当者 国語科 小柳優斗


 物語を通して、様々なことを伝えたり、考えさせたりすることができる・・・・・・それこそが文学の力。当時の中国を変えようと、体の医者ではなく心の医者になろうと決意した文学者がいたように(魯迅『藤野先生』)、様々な空想、想像に現実の諸問題を託し、それをメッセージとして読者や観客に届けることは可能です。
文学的物語のほかに、映像や音楽など、様々な要素を併せ持つ映画表現は、そうした機能を持つものとしては、非常に大きな力を持っています。数多の機能を駆使することで、観る者に直接的あるいは間接的に訴えかけてくる。意識的にしろ無意識的にしろ観客はそれを享受し、何かを考える。いや、考えないではいられなくなる。影響を受けた瞬間です。

作り手たちが映画に託して伝えたいメッセージは、全てが楽しいものとは限らない。このガイドの決まり文句。「映画は、現実では絶対に経験したくないことを、経験させてくれるもの」。映画が送り込んでくるメッセージは、時に破壊的で、時に悲劇的で、時にアイロニカルで、時に批判的で、嘲笑的ですらある。普段忘れていること、あるいは意識しないようにしていることを、そのままズバリ指摘する映画はたくさんあり、そうした映画の持つ機能は、現実の世界で言う宮廷道化師の役割とよく似ています。宮廷道化師(ジェスター)は、トランプのジョーカーに描かれる絵柄です。ここではより名の知れたジョーカーで統一しておきましょう。

ジョーカー、それは真理に忠実な道化師。王でさえ、彼からの謗りを拒むことはできなかった。映画の中に潜むジョーカーは、様々な表現を通して、我々の世界を論い、嘲弄し、批難、問うてくる。スクリーンの向こうを越えて「現実」の喉元に突きつけられる、究極のワイルドカード。今回は、そんな映画たちをご紹介しましょう。



 ガイド8「ジョーカー」

 誰もが誉めそやす中で、その少年だけは叫んだ。「王様は裸だ」と。
他の誰がなんと言おうと、相手がどんな地位であろうと、自由に物が言え、自由に振舞える。そうした特権を持つジェスター(ジョーカー)的な魅力を持つ映画は、実は多い。
ジョーカーと言うと、ぱっと思いつくのは『バットマン』に登場するキャラクターだろうか(Yahooで検索すると一番上に出てくるし)。1940年にコミックスに登場し、バットマンが映画化されるたびに、シーザー・ロメロ、ジャック・ニコルソン、ヒース・レジャー、ジャレット・レトらがジョーカーに扮した。
最近では『ダークナイト』のヒース・レジャー版ジョーカーが有名となったが、実際「ジョーカーの本質」を考える上でも、『ダークナイト』のジョーカーは分かりやすい。ゴッサムシティを舞台に、次々と犯罪を重ねるジョーカー。その目的はバットマンの活躍により、正義に目覚め始めているゴッサムシティの化けの皮を剥がすこと。バットマンを圧倒し、その是非を問い、正義を掲げる者を次々と堕落させてゆくことで、「人間の本質は邪悪である」ということを証明することである。
最終的にはバットマンの前に破れ、捕縛されるジョーカーだが、彼が犯罪を用いて問うてくるものの中身には決して看過できないものがある。実際、劇中でもバットマンの完全勝利とはならなかった。ジョーカーが言う笑えないジョーク――全ての人間は本質的に邪悪であるというその指摘は、バットマンの心に楔として打ち込まれ、残り続けることになる。
 道徳・・・・・・モラル・・・・・・人道・・・・・・人情・・・・・・そういったもので幾ら取り繕おうと、人間の心の中にある邪悪さは、誰にも否定することができない。人間が邪悪でなければ、残酷でなければ、人間の築いてきた歴史は、これほど血腥いものにはならなかったはずだ。(そういう意味でも、「残酷な小説やホラー映画が社会に悪影響を与える!」という指摘が、トンデモない的外れであることが分かる。詳しくは別のガイドで)。邪悪な本性を隠して、正義を掲げようとする人々に、ジョーカーは徹底したNOを突きつける。街の守護者・ダークナイトですら、それには抗えない。まさに、ジョーカーの役割である。

同じアメコミ映画『ウォッチメン』に登場するコメディアンと呼ばれるヒーロー。彼もまた、ジョーカー的である。ヒーローと呼ばれているはずが、彼の活動は極めて暴力的で、ベトナム戦争にも参加し、何十万という人々を殺傷した。そんな彼のスタイル――生き様は、こんな具合である。世の中は、人は生来邪悪なものである。そして自分自身は、そんな人々の、時代のパロディとして生き、「正しさ」を掲げようとする「善人たちのジョーク」を面白おかしく(暴力を以て)笑い飛ばすことに決めた。――と。そんな彼のスタイルは、一方で激しいバッシングに晒されながらも、一方では「20世紀に生きる知恵者」と賞賛されていた。「取り繕い」という人間の愚かさを、コメディとして笑い飛ばすというところで、ジョーカーの本質を突いている。

映画作品全体として、ジョーカー的なものもある。たとえばヤコペッティの「モンド映画」などだそうだ。『世界残酷物語』は未開の地に生きる人々と都会に生きる人々とを代わる代わる描写し、「本質的にはどちらも残酷な生き物だ」と指摘している。ルッジェロ・デオダートも同じ。『食人族』が描いているのは「野蛮を撮影する文明人こそ野蛮」というモチーフだ。そうした作品の中で個人的に好きなのは『アメリカン・サイコ』である。

これはウォール街に住むヤッピー、パトリック・ベイトマンを主人公にしたサイコ・ホラーだが、恐ろしいくらいに笑える映画である。主人公初め、本作に登場する人物のほとんどは、ビックリするくらいに中身がない。誰もが判で押したように、高級なレストランで食事し、高級品を身につけ、高級クラブで遊び、高級なアパートに住み、自分以外を野卑だと見下して過ごしている。大金をはたいて工夫させて作らせた名刺を見せあいっこしたり、「明日はどこそこの超お高いレストランでディナーなの」などとのたまってみたり、そういうことばかりしている。だが何よりもビックリ・・・・・・というかショッキングなのは、また別の所にあるわけで、それをついて言及する前に、まずは主人公のベイトマンの話をたどっていきたい。若干のネタバレがあるので、注意されたし。

何もかも満たされた不自由ない暮らしの中で、ベイトマンは一人倦怠感に包まれて生き、殺人を繰り返す。時には嫉妬した同僚を、時には何の罪もない相手を手にかけてゆく。そして彼は最後まで捕まることはない。なんと、彼の殺人が露見することはないのである。そこまで巧妙に隠されているわけではない。むしろ杜撰である。被害者が旅行に行っていたことにしようと、あれこれ細工し、電話にメッセージを吹き込むのだが、声色一つ変えようとしない。それくらい幼稚である。にもかかわらず、なぜ彼は捕まらないのか・・・・・。

ベイトマンは言う。「ぼくはここにはいないんだ」。それこそが理由である。
 別に幽霊であるとか、そういうことではない。ベイトマン含め、登場してくる人物のほとんど全てに、「個人としての存在」がないのだ。

 それを最も強烈に、ショッキングに証明するのが「名前」である。ベイトマンを取り囲む人々は、ふざけてるのかと思うくらい、名前を間違える。個性などないのだ。誰も彼も、同じような高級品を着て、同じような高級レストランで食事をしているマネキンのようなものだから。だから物語終盤、自分が殺したはずの男と食事をしたと言う弁護士に出会う。しかしそれだって、本当にそうだったかは分からない。しかもその弁護士、他ならぬベイトマン自身の顧問弁護士だというのに、ベイトマンの顔をまるで知らず、他人だとばかり思っている。

 しかし現場は――? 血腥い惨劇が行われた現場は、どうやって隠し通せたのか。実は、ここでもベイトマンは何もしていない。ベイトマンは被害者のアパートで強行に及んだが、数日後に行ってみると、血のほとばしった壁は綺麗に塗り替えられ、次の入居人を募集している。前の入居人――被害者など、まるで初めからそこに住んでいなかったかのごとく。愕然とするベイトマンに、管理人と思しき女性は言う。

「もう二度と来ないで。面倒を起こしたくないんです」
 それが真相なのだ。ベイトマンの犯行を覆い隠し、一切を葬ってしまうのは、都会と言う場所が持つ「無関心」という圧倒的な闇である。

 上級社会に生きる人々は、驚くほど互いに関心がない。薄っぺらい交友関係で済む話ではなく、一緒の空間にいても恐ろしいくらいに空虚である。会話すらまともに通じない。それはアパートの例でも同じである。殺人があったかなかったなど、管理人にはまるで関心がない。だから殺人の形跡すら、さっさと覆い隠してしまう。そこに、笑えはするが同時にどうしようもなく戦慄を覚える恐怖が存在する。

 ベイトマン自身は、そうした都会に翻弄される側である。命を弄ぶ行為=命を支配する行為と見ていたベイトマンにとって、殺人は自分自身への自己防衛でもあった。しかし、都会は、それすらも闇に覆い隠してしまう。それに気付いた時、彼には殺人という行為すら、完全に無意味なものに成り果てるのである。これはいわば、ジョーカーの勝利である。そして本作における『ジョーカー』は、ウォール街という場所そのものであるということになる。

『食人族』『アメリカン・サイコ』はホラー映画だが、元々ホラー映画というのは「観たくないもの」を見せるジャンルだから、こうしたジョーカー的メッセージと愛称が良いのだろう。だがホラーは苦手という人もいるだろうから、コメディ方向でも一本オススメしておこう。マイク・ジャッジ監督『26世紀青年』(原題『イデオクラシー』)。これは、何をやっても平均的な青年が、500年後に冬眠実験から覚めてみると、極端にIQが低い世界になっていて、さあどうしようという話である。「元気がでるから」という理由で、畑にゲータレイド(外国とかである、ビックリする色をしたスポーツドリンク)をまいていたり、ひたすら誰のとも分からない尻を延々観続けるだけの『しり』という映画が大ヒットしていたりと、ああもうダメだというトンでも世界。そんな世界だから、500年前は平均でしかなかった主人公が、世界で一番の天才になってしまう。

 『イデオクラシー』の描く世界は本当にしょうもなく、とにかく笑えるが、笑ってばかりではいられないのが恐ろしいところだ。というのも、500年後の世界で描かれる「バカ」さが、現在の世界でもあてはまりそうなものだからである。荒唐無稽で、まったく現実と乖離していれば、ただ笑っていれば良い。「そんなことあるわけなかろうに」と言えば良い。だが――それがもし、現実の世界と地続きだったら? もはや笑ってはいられない。お前は愚かであると、ジョーカーに突きつけられたも同然だ。その瞬間、映画の中のジョーカーはスクリーンを越えて我々に問うてくる。普段見えないもの、見えないようにしているもの、背を向け、心の奥底にしまっている見たくないもの、それを無理やりこじ開けに来る。なんだか、居住まいを正さずにはいられない気になる。他人を愚かだと笑っている場合ではないという気になる。それがジョーカーの力だ。ジョーカーの存在を通じて、我々は己自身を、この世界自体をもう一度見つめ直す。容赦なく突きつけられた、この世界の真理を射貫く問いを、もう一度考え直さなくてはならぬ立場に追い込まれる。ゆえにジョーカーは厭わしく、恐ろしく、ただ同時に底知れぬ魅力を担う要素でもあるのだろう。

 真理に従う道化師は、分け隔てなく一切にNOを突きつける。世の欺瞞の全てを笑い飛ばす。映画を観ていて、時に皮肉られているように感じることはないだろうか。それは映画に潜むジョーカーが哄笑をあげている時なのだ。その瞬間我々は、飾り立てのない剥き出しの真理を前に、どう足掻くべきかの決断を迫られているのである。

2016/11/14


担当者 国語科 小柳優斗


 世界中で愛される映画キャラクターとは誰? 007? R2D2? ミッキーマウス? いろんな名前が上がりそうですが、その中に必ずと言って良いほど入ってくる、我らがインディー・ジョーンズ。『レイダース・失われた聖櫃』から始まって計四作品が製作され、いずれも大ヒットを飛ばしました。噂では近々、インディ5が製作されるかも――? とのこと。ハリソン・フォードは続投するのでしょうか。いろいろなことが気になる噂です。

 逆に、「インディー・ジョーンズって何よ?」と首をひねる方に、簡単に紹介しておくと、「インディー・ジョーンズという考古学者にして冒険家が、世界のあちこちに行って、世界のあちこちで崖から落ちそうになる話」です。冗談でもなんでもなく、実際にそういう話なのです。というのも、このインディー・シリーズは1930年代ごろに流行した「冒険活劇」を現代に蘇らせるという試みで作られたものなのです。冒険活劇とは、当時の映画館で公開されていた十数分の短編シリーズのことを指すのですが、観客の興味を持続させるために(=次回作を観に行こうという気にさせるために)、最後は必ず、崖から落ちそうなところなど、主人公たち絶体絶命のピンチ! という、非常に良いところで物語をぶった切ることをしていました。これをクリフハンガー(崖から宙づり)といいます。そんなところで終わったら、続きが気になって仕方がないじゃないか! という事で、観客は次回作にも足を運ぶと、そういうわけなのです。


 インディー・ジョーンズの魅力のもう一つは、世界をまたにかける大冒険。世界のあちこちを旅し、命がけのアドベンチャーに挑む彼の雄姿に、観客は惜しみなく声援を送ります。インディー・ジョーンズ・シリーズが銀幕を魅了するはるか以前より、映画にはそうした側面がありました。冒険の疑似体験――スクリーンの奥の秘境へと、主人公と共に足を踏み入れるその興奮は、私たちが実際に海外を旅して味わう感動と、根を同じくするものなのかもしれません。

 映画を通じて、秘境を旅する――。さあ、冒険に出かけましょう。



 ガイド7「秘境――スクリーンの奥 未だ見ぬ人 未だ知らぬ世界」

 火星への移住すら計画されている今日、人類の足って、随分と遠いところまで届くのだなと思う。
 ところが、よくよく考えてみると実際はそうでもない。海外旅行というのは一部の国のみが持ち得る娯楽である。自分の国から一歩も外に出ないで一生を終える人だって、いてもおかしくはない。また、旅行に行ったとしても、実際に異国へ旅をした気分になれない時もある。いわゆるランドマークや観光名所は、「旅行用」に設えられたアミューズメントのようなもので、必ずしもその国の実情や真性とイコールではないし、どこに行ったって同じファーストフード、同じコーヒーショップが目につく。自分の国と同じように、異国を「歩いて」いるかと言われれば、海外旅行程度では難しいだろう。
 一方で情報だけは多分に持っているから、たとえ海外に行かなくても、なんとなく「知った気」でいられる。ピサの斜塔を見て「ガイドブックで見たのと同じだ!」と嬉しそうに叫ぶことが、どんなに素っ頓狂なことか。実物が写真通りかどうかを確認しに来たのか? と、意地悪な気分になる。

 自分の国とは違う場所、違う国へ行き、今まで知りもしなかったもの、見たこともなかったものに触れる――海外に行くとは本来、そうした目的があったと思うのだが、この情報化社会ではそれも無理難題だろう。火星に行こうとしているこの現在、我々はこの世界についてある程度は知っている。どこに行くにも、事前知識をふんだんに詰め込んで行く。


 前人未踏・未開……そうした言葉は、もはやこの地球上では過去の遺物となった。唯一、これらが生き残る場所があるとすれば、それはイマジネーションの世界しかない。そしてイマジネーションが実際に形をとって現れることができる映画の世界ならば、まだまだ、「未だ見ぬ世界」は扉を開いて我々を待ってくれている。

 歴史を紐解けば、それこそ大航海時代は前人未到の地を踏むために、各国の猛者が次々と海に船を出した時代であった。少しずつ「未開」のものが明らかになるにつれ、それを遙かに凌駕する謎、興味もまた生まれ出た。黄金の国ジパングと謳われた日本だが、その日本だって、異国のことをトンデモ風に空想・想像していたことは、たとえば江戸時代の草双紙を見ればわかる。

 現実の「冒険」と同じくらい、あるいはそれ以上に我々の心を惹きつけてやまないのは、言うに及ばず空想上の冒険――文学的な冒険であった。時代を大きく下って、冒険小説が大流行した当時を見てみよう。ソロモン王の洞窟への旅……失われた世界、メイプル・ホワイトランドでの大冒険……月世界への旅……海底二万里……地底旅行……様々な「未開」の地での冒険が始まった。人々はそれに熱狂し、息迫る大冒険に心を浸らせた。

 やがて、それが目で見えるもの――映画という形で現れてくる。
 特に早いので一作品紹介すると、何といってもジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』であろう。ヴェルヌの小説を原作とし、世界最初のSF映画の誉れ高いこの作品は、何と1902年に誕生した。たった14分しかないこの作品には、映画の魅力がふんだんに詰め込まれているといわれ、映画史を語る上でも絶対に欠かせない一作である。この月世界旅行で、人類は空想とはいえ月面に立った。それは初めて見る月の光景だった。初めて『月世界旅行』を見た人々の感動は、いかばかりであったろうか。

 その後、さまざまな「未開への旅」が花開いた。
 「未開」の要素は、冒険映画の専売特許というわけではない。そこに映されるものが、現実と切り離された、まったく新しいものであれば、どんな映画でも「未開」の要素になりえた。『大列車強盗』から始まる西部劇、『メトロポリス』で頂点を極めたSF、そのほか、ありとあらゆるジャンルの作品で、「未開」の要素は人々の心を楽しませてきた。

見世物的「未開」を考える中で、どうしても外せないのは『世界残酷物語』『残酷大陸』などを手掛けたヤコペッティだろう。世界中で撮影されたショッキングな映像を、印象的につなぎ合わせて観客の心に訴えかけてくるこの「モンド映画」は、すさまじい衝撃とともに、「人間は本質的に残酷な一面を必ず持っている」という、誰にも否定しようがない定義を突き付けてくる。テレビの「世界丸見え」「緊急24時」「衝撃映像100連発」など、今のテレビでも放映されるこれらの番組の裏には常に、ヤコペッティの影がある。だが、世界の「事実」を克明に伝えるこれらモンド映画については、今回はさほど触れることはない。それよりも空想の中で花開いた「未開」を、考えてみたい。


 「未開」を語ること即ち、映画のほとんどすべての作品を語ることにつながる。ここではきっかけに立ち返って、『インディ・ジョーンズ』シリーズに代表されるような未開への旅――冒険映画を中心に見ていきたい。インディ・ジョーンズは旅する先々で、様々な民族に遭遇する。『レイダース 失われたアーク』のホビト族が好例だ。『魔宮の伝説』の舞台となったインドの、シャンカラ・ストーンを信仰する村にも、異国情緒が漂っている。『クリスタル・スカルの王国』にも、毒の吹き矢を使ってインディらを狙う墓守や、遺跡の中に隠れて襲ってくる原住民の姿が描かれる。彼らはいずれも脇役ながら、とてつもない存在感を持つ。そしてここで重要なのは、そうした異国の民らに対する、インディ――主人公の立場である。インディシリーズそのものが1930年代を舞台に設定している上、それまでに作られた数多くの冒険映画、西部劇映画、スパイ映画にオマージュをささげているので当然だが、彼の立ち位置は、上述のたとえば『ソロモン王の洞窟』に登場する冒険家らと非常によく似ている。つまり、白人が未開の地へ旅立ち、そこで原住民とひと悶着あったり、ある時は共闘したり、またあるときは戦ったりして目的を成し遂げる、という構図である。

 『レイダース』で登場するホビト族は、インディのライバルの考古学者(白人)ルネ・ブロックに騙され、良いように利用されてインディを襲う。立ち位置としては悪役である。『魔宮の伝説』の村にとってインディは、救世主の立場である。また、敵となる邪教集団サギー教の構成について考えてみると、構成員はそろってインド人のようだ。早い話、『魔宮の伝説』は、白人であるインディが、インドの邪教からインドを救う話である。ここではインド人が救いを求める「被害者」そして、実際に村を虐げる「加害者」両方の立場を以て描かれている。『クリスタルスカル』に登場する墓守は非常にわかりやすく、スカルの謎を解くために現れたインディを、単純に殺しに来る。そうして返り討ちにあって逃げ帰る。シンプルな「障害物」の役目を持っている。遺跡から現れた原住民チックな方々は、初めにインディを襲い、続いて現れたKBG(今回の敵役 やはり白人)に牙をむいて、綺麗に一掃される。『インディ・ジョーンズ』シリーズにはこうした、「障害物」「敵役」としての「未開の民」に、主人公たちが挑むという構図が非常に多い。そしてそれは『ソロモン王の洞窟』のアラン・クォーターメンそのままなのである。

 「未開の民」との衝突や戦い、そこから生まれるスペクタクルを醍醐味とした作品が、愛される時代があった。いや、それは今もなお続いているかも知れない。『インディ・ジョーンズ』シリーズは1981年に誕生してから今の今まで、多くの支持を受け続ける名シリーズである。他にもたとえば『キングコング』を思い返してみると、魔獣トレ・コング(こいつがキングコング)を信仰し、生贄をささげるためヒロインを誘拐してくる原住民が描かれる。1930年版でも、PJ監督の2005年版でも同様のシーンがあった。

 だがここで注目してみたいのが、この2005年版『キングコング』なのである。この映画パンフレットの中で、PJ監督がしきりに主張していることがある。曰く、「本編に登場した原住民は、様々な原住民の要素を組み合わせて作り上げた空想のもので、決して特定の民族をモデルにしたわけではない」と。

 この、妙にフォローっぽい一文が、どうにも気にかかっていた。そうして調べてみて分かったのだが、どうやら『インディ』シリーズに代表されるような原住民の描き方に、眉を潜める「識者」の皆さんが現れだしたようなのである。つまり「未開」を描くことに難色を示し、白人の主人公が未開の地で冒険し、村を救ったり原住民と戦って勝ったりするという「白人優位」の傾向が、人道的にどうなの? という意見が出てきたらしいのである。PJ監督が自らの作品で描いて見せた原住民に、あれほどのフォローを付け加えたのは、そういうわけであったのだ。

 確かに現実の目から見れば、『インディー』シリーズや『キングコング』に描かれる原住民は、古臭いステレオタイプの産物かも知れない。しかし、どちらの作品とも1930年代を舞台に設定し、その当時の空気なり雰囲気なりを再現しようとしている作品である。その時点で現実から飛躍した、ファンタジーである。むろん、世界の歴史を紐解けば、特定の民族に対しての弾圧、差別、迫害など、決して目を背けてはならない事実があったことは周知のことである。が、そうした指摘を真剣に作品に取り入れて「人道的に正しい」作品を作ったらどうなるかというと、アメリカ西部開拓時代を舞台にした『ローン・レンジャー』で、インディアンの青年トントを、日本語字幕でわざわざ「アメリカ先住民」だの「ネイティブ・アメリカン」だのと書き換える(実際の英語では「インディアン」と言っているにもかかわらず)など、そうしたみょうちきりんなことになる。

 個人的な見解を言えば、「描き方が正しくない」「史実と違う」という指摘は、それが映画のリアリティに大きくかかわってくる場合のみで充分だと思う。たとえば、ギャレス・エドワード版『GODZILLA』の舞台となった日本の都市は「チャンジラ」という名がついていたが、日本のどこを探したって、そんな名前の都市はない。差別とかそうしたこと以前に、こういうことは、作品そのもののリアリティにかかわることだから、そこはしっかり踏まえるべきだと思う。

 だが、「差別的」「人道的」という観点から映画にとやかく意見し、事実それが映画製作に何かしらの影響を与えることになる場合がある。以前のガイドでも紹介したとおり、映画は「現実では絶対に経験したくないものを経験させてくれる」娯楽である。現実を飛躍し、恐るべき空想の世界へと我々をいざなってくれるものである。そんな映画にまで「品行方正さ」を求めてどうするのか。映画にまで「正しいこと」を押し付けてくるのか。そんな無理が通れば、映画が描きえる世界には、何の魅力も残らなくなる。『ロード・オブ・ザ・リング』だって白人優位の差別映画になる。映画史に燦然と輝き続ける金字塔にもかかわらず! である。

 映画界に侵攻し始めている「ポリティカリー・コレクト」の余波で、飛び切りの個性を持つ作品が作られにくくなっている。2006年『アポカリプト』、2011年『セデック・バレ』など、それでも強気の民族や未開の地を描く作品はあるにはあるが、かつての『レイダース』のような、どこか牧歌的なあの原住民たちは、もはやDVDの中にしか登場しえないのだろうか。情報化社会に拍車がかかる現代、もはやこの地球上で知りえぬ場所は海底のみというこの時代、どこにも「未開」「神秘」はないのでは……そういう気がしてくる。

 しかし、人間の想像力というのは、あきれるほどに柔軟である。

 地球上に「未開」を、「神秘」を見出し得ないのであれば、ほかの所に見つけるしかない。本ガイドは、そうした意欲に燃え、結果素晴らしいアイデアで新たな世界を「構築」した二作について紹介し、幕を下ろしたい。

 一つ目、1966年公開のアメリカ映画『ミクロの決死圏』
 襲撃を受けて脳内出血を起こした科学者。重要な情報を握る彼を目覚めさせるため、潜航艇をミクロ化して、医療チームが果てしなき「人体への旅」に出発する。つまり「未開の地」にあたるのが、人体の肺の中であり、内耳の中であり、脳の中なのだ。そして「障害物としての原住民」の役割を担うのが――驚くことなかれ白血球たちである。潜航艇を、人体に侵入した「異物」と見なした免疫担当細胞たちが襲ってくるのだ。素晴らしい発想だと思う。「原住民の描き方がなってない!」と怒る人はいても、「白血球の描き方がなってない!」と怒る道徳家はいないだろうから。

 二つ目、2010年公開のアメリカ映画、渡辺謙も出演した『インセプション』である。
 この映画では、人の見る夢を「未開の地」として設定している。他人の夢に入り込んで、その人物が持つ「アイデア」を盗んだり、あるいは特定のアイデアを植えつけたりする。この場合、「障害物としての原住民」の役割は、夢に入り込まれていることを感じて異物を追い出そうとする「潜在意識」や、ターゲットがアイデアを盗まれないように事前訓練を受けていた場合、その意識が敵となって主人公たちを襲ってくる。緻密に考えられた設定や、外敵、夢の世界という「舞台」の面白さなど、様々な冒険的魅力を持つ作品である。

 ポリティカリー・コレクトによって、表現の幅を狭められる――嘆かわしいことではあるが、人間の想像力は、そうした制約にもめげず、元気に次なる「未開」を探し出しているようだ。映画はこれまでも、そしてこれからも、観客を次なる「未開」を作り上げ、観客に旅を促す。たとえ地球上にあるものすべてが分かったとしても、人は新たな「神秘」を探し求めるだろう。まだ描いていない、思いもよらぬ未開の地――イマジネーションが紡ぎだす素晴らしき冒険(FANTASTIC VOYAGE)は、いついかなる時でも我々を待っている。




※「FANTASTIC VOYAGE」は、文中に登場した『ミクロの決死圏』の原題。

2016/10/28

FILE5 ゆきて帰りし物語  先輩 K先生の映画学ガイド


 担当者 国語科 小柳優斗


 ゆきて帰りし物語――というこの言葉、トールキンの『ホビットの冒険』で出てくる言葉です。
 どこか異郷へと「ゆき」、そして「帰」ってくる。我々は、冒険の地――非日常的空間に、いつまでもいることはできない。心ときめく素晴らしい冒険をした後には、必ず「帰」らなければならない。現実と地続きにはならない文学に遊び、それを読み終えて本を閉じるとき、わずかに感じる寂寥……それこそが、我々が日常へと「帰」ってきたことの証拠であり、ひとつの「ゆきて帰りし物語」が終わりを迎えた、その瞬間なのであります。

 映画もまた、非日常的・超現実的な世界へと我々をいざなうもの。素晴らしい映画に耽溺し、息する間もなくスクリーンを見つめたその先――エンドクレジットさえ終えて席を立つとき、ふと胸を打つ寂しさ……。今回は、「現実への回帰と新たなる冒険」という観点から、この不思議な感覚について考えてみることにしましょう。


ガイド6「ゆきて帰りし物語――日常への帰還、帰ることの意味」

 トールキンの傑作『指輪物語』を、最高の形で映像化させてしまった、ピーター・ジャクソン監督の『ロード・オブ・ザ・リング』三部作。どれくらい最高かというと、『指輪物語』なんて、ハリポタやスターウォーズ以上にうるさ型のファンが多い文学作品。何せ、愛読され続けてきた時間が桁違いである。ファンの一人一人に、思い描く『指輪物語』の世界があるだろうし、一人一人に「譲れない一線」があることだろう。担当者が大学の学生であった頃に痛感したが、この世の中に何がタチ悪いって、文学ファンほどタチの悪いものはいないのだ。それなのに、『ロード・オブ・ザ・リング』三部作は、そんなうるさ型のファンのほとんどを納得させてしまった。作品の持つ圧倒的なスケール、魅力的なキャラクター、細かく構築された設定、ここぞというときのケレン味・・・・・・そうしたものを、みごとに映像化してしまったばかりでなく、そこに重厚感のある剣劇、何よりハワード・ショウによる壮大な音楽を力を持って、あれこれと面倒くさいイチャモンばかりをつけるファンを、すっかり虜にしてしまったのである。そしてファンタジー映画という一ジャンルにとどまらず、映画史に永遠に残り続ける金字塔として記憶に刻まれることになった。

 担当者としても、PJ監督による『ロード・オブ・ザ・リング』三部作と、その前日譚である『ホビット』三部作は、ほんとうに好きな作品である。『ロード』三部作の最終章『王の帰還』を、涙なしに観たことはない。何度も何度も観直して、それでも泣いてしまう。『ジュラシック・パーク』が、映画にハマるきっかけを作ってくれた作品であるならば、『ロード・オブ・ザ・リング』は、映画が持つ様々な魅力について、気付かせるきっかけを作ってくれた作品である。そのことについても、いずれ語りたい。

 『指輪物語』に忠実に、中つ国の世界を映像化させることに成功した『ロード・オブ・ザ・リング』。だが原作は、全6巻からなる壮大な神話である。それを、3時間×3作品に凝縮するわけだから、どうしたって割愛しなければならないところは出てくる。個人的に、その「割愛」の中でも最も大きな割愛と思しき点は、物語も終盤に近づいたころ、原作ではあった「ホビット庄の掃討」のシーンが、映画では省かれている点だろう。 

 ひとつの指輪は滅びの山に消え、冥王は滅びた。旅の仲間たちは解散し、主人公フロド・バギンズを含む4人のホビットらが帰途につくこととなる。映画では、すんなりと懐かしきホビット庄に帰ってくるのだが、原作ではここで一悶着ある。ホビット庄はならず者らの手によって奪われており、ホビット4人は、それまでの旅で培ってきた知恵や勇気を駆使して、この最後の掃討に乗り込むのである。実はこの部分は、SEE版(スペシャル・エクステンデット・エディション 未公開シーンも含めた完全版)でも登場しないところなのである。

 この「ホビット庄の掃討」が割愛された理由なら、映画と本との区別を考えれば明らかである。これを入れてしまうと、明らかにスケールダウンするからだ。映画は本とは違って、読み返すことも、いったんページを閉じて、次の日に続きを読むということもできない。DVDでも買えば話は別だが、少なくとも初見を映画館で堪能する倍には、絶対に無理な相談である。『王の帰還』でいうと、その「ホビット庄の掃討」に到るところまでに、大規模すぎる戦いが既にあって、しかも決着はついている状態である。人間の王は帰還し、悪は滅び去った。戦いは終わった。圧倒的な感動をもって。そのあとに、ちょっとした小競り合いなど入れて尺を伸ばしても、観る側の興味を萎ませるだけではないか――と、そういう判断が働いたとしてもうなずける。個人的にも、この「ホビット庄の掃討」場面の割愛は、やっていて正解だったと思う。

 ところが、これが文学(小説)となると、この「小規模な騒動」をクライマックスの前に挿入する理由が、俄然はっきりしてくる。大規模な出来事の後の、小規模な一騒動……その先にあるものは何だろう。ホビットら四人にとっては、その先にあるものは、本当の「帰還」であった。彼らは指輪戦争を生き延び、培った知恵や勇気でホビット庄を救い、そしてようやっと「日常」へと帰還したのである。

 ホビット庄の掃討――この場面が必要とされるのは、この事件が日常へ回帰するための通過儀礼として、機能するものだからではないだろうか。

 よくよく思うことだが、映画に限らず物語の登場人物は命がけの大冒険を繰り広げた後、どうやって日常へと戻ってゆくのだろう。たとえばインディ・ジョーンズは秘宝をもとめて世界中を駆け回り、あちこちで崖から落ちそうになっている。そんな彼が家に帰って来て、すぐに日常の生活に順応することができるのだろうか。

 空想の話でピンと来なければ、現実世界、旅行から帰って来たときのことを想像してみると分かる。ああ〜疲れたと言って帰ってくる。どっかりソファーに座る。テレビをつける。いつもなら笑えるバラエティも、なぜだか全然面白くない。つい3時間前は、あんなに楽しい気分でいたのに、この落差は何だろう・・・・・「やっぱり我が家が一番ね」などという言葉は、個人的に全くピンとこない。旅先でわいきゃいやっていたときの方が、楽しいに決まっている。その楽しい感じが、突如ばっさり切られて、やってくるのはどんよりとした現実……。旅先から帰宅する度、担当者は毎回そんな気分になる。別に家を嫌っているわけでも何でもない。日常生活の中では最も落ち着ける場所のはずなのに、このときばかりはどうにもならず疎ましく感じる。

 ホビットの気持ちになって考えてみよう。指輪戦争で、彼らは幾度となく死にかけた。死よりも恐ろしい目に遭った者もいる。そんな彼らが、いきなり家に帰って、ああ疲れたとソファーに座って、すぐ日常に回帰することができるだろうか。「ホビット庄の掃討」は、彼ら四人が、悪人の手に渡ったホビット庄を――ふるさとを取り返すための戦いであった。この戦いを経て初めて彼らは、家を取り戻し、日常に回帰することができたのである。

 旅も冒険も、必ず終りが来る。必ず「帰る」べき時が来る。

 先ほど述べたスペクタクル、興味の持続という点を重んじてか、実は「帰りし」に重点を置く映画は意外と少ない。「帰る」シーンはあっても、日常への帰還が描かれていないことが多い。たとえば『ジュラシック・パーク』は最後、主人公たちを乗せたヘリコプターが島を離れるシーンで終わるが、あの段階ではまだ日常への回帰を描いてはいない。一方続編の『ロストワールド ジュラシック・パークU』では、大冒険を終え、日常に帰還した後のシーンが描かれる。映画全体の出来を見れば、むろん好きなのは初代だが、この『ロストワールド』のエンディングが持つ、不思議な安心感も捨てがたい。
 インディ・ジョーンズで言えば、『レイダース』と『クリスタル・スカルの王国』に、「帰りし」後の彼らが描かれている。しかし今、思いつくものはそれくらいだ。映画のエンディングは暴力的に終わることをよしとする場合も多い。『ポセイドン・アドベンチャー』のように、助けられて終わり! という感じに、大事件の後をちまちま描いてもしょうがないという見方もあるだろう。事実『ダークナイト・ライジング』のように、登場人物のその後を淡々と、しかしちまちま描きすぎてダレをみせた作品も少なくはない。

 「帰りし」の場面が描かれているからと言って、作品全体のクオリティがどうだということにはならない。あっても良いし、なくても優れた作品はたくさんある。しかし個人的には、この日常への回帰が丁寧に描かれた作品は、テンポの良し悪しはどうあれ、何とも言えない愛着を感じさせる。そこに時間の経過を見るからである。あの大冒険を繰り広げたキャラクターが、死線を生き延びてもなお、映画の世界に生き続けているということを実感するからである。そしてそこには常に、一抹の寂しさが付きまとう。すでに冒険は過去のものとなり、主人公たちは日常に帰した。ほんの1時間前の息つく間もない冒険のつるべ打ちも、すでに思い出の一つとなりつつある……。


 映画は非日常の空間へと観客を誘うものである。物語が始まった瞬間から、我々は現実を越えた恐るべき空想の世界へと飛び立ってゆく。しかし物語が終わりを告げようとしている今――主人公たちでさえ日常に帰そうとしている今、帰らねばならない。やがて画面はフェードアウトし、流麗な音楽とともにエンドクレジットが流れだすだろう。その時、作品に対する満足感とともに胸を打つ寂寥が必ずある。それこそが、日常へと回帰した瞬間――「帰りし」瞬間である。素晴らしき物語の、ページが閉じられた瞬間である。我われは映画館を後にして、現実へと帰ってゆく。

 非日常の空間に長居することはできない。長居すれば、そこもまた日常となるからだ。あらたなる「夢」を見るたびに、我々は一度、現実に帰らなければならない。寂寥を胸に抱いて、ゆめへと別れを告げなければならない。それは夢との決別ではなく、新たな夢を見るための「通過儀礼」である。映画館の門をくぐれば、我々はまた、新たな夢に飛べる。非現実の世界へと身を投じることができる。


 「ゆきて帰りし物語」は、映画に魅せられてやまぬ我々自身の生涯のことでもある。スクリーンに投じられる果てなき夢の世界へと人は飛び、そして物語の決着と共に帰ってくる。どちらが欠けてもいけない。現実なきところに、現実を越えた夢の世界は存在しえない。

 今日もまた多くの人が映画館に足を運ぶ。素晴らしき映画の世界へ「ゆく」ために。そして彼らはまた、感動という素晴らしき土産を携えて、こちら側の世界へと「帰って」くる。−−。

2016/10/15

FILE4 再起動(リブート) そのU  先輩 K先生の映画学ガイド

担当者 国語科 小柳優斗

ガイド5「再起動(リブート)−−二つの作品群が描き出す、ヒーローの物語」

※前回を未読の方は、まずそちらからご覧になることをお勧めします。

 
 さて、いよいよ2002年公開の『スパイダーマン』と、2012年公開の『アメイジング・スパイダーマン』の大きな異同を見ていこう。両者がはっきりと分かれるのは、主人公ピーター・パーカーが己の力を見直すきっかけとなる、ベンおじさんの死のシーンからである。

 ベンおじさんの死を知った後のピーターの行動に注目したい。2002年版のサム・ライミ版では、前回でもあったように格闘技に出場して金を稼ごうとした、その帰宅時にベンおじさんの死に直面する。犯人は分かっており、ピーターはプロレスで付けていたマスクを被って犯人を追いつめる。ベンおじさんを殺した犯人は、ここでピーターの手によって処決され、以後物語を引っ張る要因とはならない。(Vでそれが覆ることになるが。少なくとも、Tの間は、この犯人というキャラクターが登場するのはここまでである)。
 
 一方2012年のマーク・ウェブ版では、ベンおじさんの死に直面するが、犯人は捕まらない。ピーターは寸前にその強盗と行き会っているが、記憶があいまいではっきりと覚えているわけではなかった。故に、すぐ強盗を追いかけるということはせず、ベンおじさんの死を前に打ちひしがれるシーンが続く。
 
 原作を読み返してみれば分かることだが、原典に忠実なのは2002年版である。2002年版は、強盗を打倒した後、ベンおじさんが遺した「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉の意味を改めて心に留め、ヒーローとして人を救う道を選ぶ。物語は、ここにスパイダーマンの誕生を見るのである。

 2012年版は、同じ筋道をたどりはしなかった。なぜか――思うに描きたい物語が違うからだ。

 2012年版では、ベンおじさんの死のショックの後でピーターがしたことは、「犯人捜し」だった。簡単な変装で身を隠し、街を飛び回って悪事を働いているゴロツキを片っ端からこらしめて、ベンおじさんを殺した犯人がしていたのと同じ刺青が手首にないか、確かめることを繰り返したのである。この時のピーターは、「ヒーロー」というよりむしろ「復讐者(リベンジャー)」であった。そのついでで悪党を懲らしめるというだけで、2002年版のように人助けを第一義において活動していたのとは、まったく違う。ピーターが本当にヒーローになるのは、橋の上で子どもを救う状況に追い込まれてからである。

 この時にピーターは橋から落ちそうになる車から、一人の少年を助け出す。それまでは身分を隠すための道具でしかなかったマスクにも、新たな意味が加わることになる。そしてこのときはじめて、ピーターは自らを「スパイダーマン」と名乗る。物語は、ここにようやくスパイダーマンの誕生を見るのである。

 原作に準拠すれば、ベンおじさんの死を通して力の持つ責任を痛感し、ヒーローになるという流れの、2002年版の方が正当に思える。ところが、2012年版の持つ、ピーターがスパイダーマンになるまでのこの過程にも、看過しがたい魅力があるようだ。すぐさま正義に目覚めるのではなく、その力の使い方に戸惑い、時には誤り、その果てにようやくヒーローとして生まれ変わる。そこに、ピーターの「未熟さ」、そして「成長」がありありと描かれ、またそれが、「等身大のヒーロー」たる彼への親近感や共感へと繋がってゆく。

 2002年版と2012年版とでは、他にもたくさんの違いがある。が、それらについて一々あげつらうことはせず、その続編たる作品たちにも目を向けてみたい。続編ともなると、描くものが根本的に違ってくる。

 とはいえ、共通している部分も多い。これまでのスパイディのシリーズの1作目で描かれるものがヒーローの誕生だとすれば、2作目は、ヒーローとして生きることの悩みについて重点的に描かれている。
 2002年版の続編「2」は、「ヒーローとして生きるか、人間として生きるか」という葛藤が物語の中心となる。ヒーロー活動のために私生活のほとんどが犠牲となり、立場は好転せず、スパイダーパワーも不安定に……ドン底まで追い込まれ、「スパイダーマンを辞める」という選択をとるピーター。しかし、
メイおばさんの言葉(前回の冒頭に掲げたアレ)によって再び活力を取り戻し、スパイダーマンでい続けることの「責任」を改めて担う――つまり2は「ボーン・アゲイン」の物語なのである。

 一方『アメスパ』の続編はというと、やはりヒーロー活動と私生活との兼ね合いに悩まされるシーンはある。が、ここでの「私生活」は、恋人グウェン・ステイシーとの関係に集約されている。アメスパのピーター――スパイダーマンは、序盤ヒーロー活動を心から楽しんでおり、そのために私生活が犠牲になるという描写は少ない。ただ唯一、彼の心を悩ませたのが恋人との関係である。グウェンの父親は、前作で共に敵に立ち向かい、殉職している。その亡霊が、ピーターを悩ませ続ける。次第に激化する戦いに、もし恋人が巻きこまれ、父親と同じように守り切ることができなかったら……悪夢に悩まされたピーターがとった選択は、スパイダーマンを辞めることではなく、恋人と距離と置き、彼女を蔭ながら見守ることであった。

 ストーリーの際どいところまで踏み込んでいくと、実は『アメスパ』の続編も、「ボーン・アゲイン」の物語なのである。しかし、何から生まれ変わるのかについては、ここでは省略したい。それよりも、その「再誕」にかかわるところで、非常に重要なテーマについて、ここでは言及しておきたい。それはサム・ライミ版の続編にはなかったものである。ストーリー全体を通して、『アメイジング・スパイダーマン2』は、我々にこう訴えかけてくる。


 時間の流れは、決して止められない――と。

 物語は、長い時間のスパムをかけて、ピーターのドラマを描く。それは最終的には喪失と再誕の物語である。かけがえのないものを失えば、時を戻したいと誰もが願う。それなのに時間は進み続ける。過去は変えられない。時は戻らない。失ったものは帰ってこない。その非情な現実に直面して初めて、それまでの何気なかった日々が、当たり前に過ごしてきた時間が、思い出が、悲しいほどに美しい光を帯びて、輝きだすようになる。−−。

 別に、ヒーロー物でなくとも訴えかけられるテーマではある。だが、逆に、このテーマをヒーロー物でやろうとすると、スパイディ以外にない。彼は「われらが親愛なる隣人」――等身大のスーパーヒーローだからである。


 「スパイダーマン」という1キャラクターを題材にして、『アメスパ』は前シリーズとは全く味の違った物語を生みだして見せた。そこにこそ、リブート(再起動)することの意味があると思う。前シリーズの焼き直しではない。技術進化による再映像化ではない。それらをするためには、前シリーズの沈黙期間があまりにも短すぎる。10年を待たずして再び銀幕に帰ってきた『スパイダーマン』、その意味は、前シリーズと異なる方向に、物語の糸を張り巡らすことにあった。

 宣伝などでは、やたらリブート、リブート、「あの名作が、現代によみがえる!」なんてことを強調する。思い入れのある作品が、今の技術で新たに生まれ変わるのは、ファンにとってはうれしくもあるし、不安にもなるだろう。だが思うに、リブートはあくまでも手段であり、最終の目的におくべきではない。大事なのは、物語を描きなおすことによって、どのような新しい意味が作品に加わるかではないか。一つのキャラクター、一つの世界、一つの物語……そこから何か新しいものを、いかにして生み出すか、その試行錯誤と工夫を観ることにこそ、リブート作品を鑑賞することの愉悦があるのではないかと思うのである。


 ちなみに、そうした意味で言うとリブート版『ゴーストバスターズ』は、個人的にはとても楽しい作品だた。元々の作品が男ばかりだったので、今回はリケ女! と、まあ何とも頭の軽い発想だこと……と、最初は考えて劇場に行ったのだが、鑑賞後は素直に反省。DVDでご覧になられる方は、エンドクレジットの最後まで停止ボタンは押さないこと。あのセリフを聞いて初めて、この作品が「再起動」された意味がわかってくる。

2016/10/6

FILE4 再起動(リブート)  先輩 K先生の映画学ガイド


担当者 国語科 小柳優斗

Everybody loves a hero.
People line up for them.
Cheer them.Scream their names.
And years later, they'll tell how they stood in the for hours just to get a glimpse of the one who taght them to hold on a second longer.
I believe there's a hero in all of us that keeps us honest, gives us strength, makes us noble...
...and finally allows us to die with pride.
(誰だってヒーローを愛してる。
 その姿を見たがり、名前を叫び、
 何年も経った後で語り継ぐでしょう。
 どんなに苦しい時でも、あきらめちゃいけないと教えてくれたヒーローがいたことを。
 誰の心の中にもヒーローはいるから、
 正直に生きられる。強くもなれるし、気高くもなれる。
 そして最後には、誇りを抱いて死ねる。)


The future is and should be bright, but, like our brief four years in high school, what makes life valuable is that it doesn't last forever, what makes it precious is that it ends.
I know that now more than ever.And I say it today of all days to remind us that time is luck.
So don't waste it living someone else's life, make yours count for something.
Fight for what matters to you, no matter what.
Because even if you fall short, what better way is there to
live?
(私たちの未来は、輝かしいものでしょう。けれど、短い高校生活と同じように、私たちの人生は、永遠に続くものではありません。だからこそ貴重です。終わりが来るからこそ、大切なのです。
私は知っています。私たちの時間は、幸運の女神によって与えられたものだと。
だから、誰かの言いなりになって生きるなんて、そんな無駄な時間を生きないで、自分の信じるもののために生きましょう。
たとえどんなことが起きても、自分の信じる者のために戦いましょう。
たとえ夢がかなわなくたって、きっと後悔はしないから)



 長々と引用してしまいましたが、上の二つの言葉は、同じキャラクターの、違う続編映画(ややこしいな)の中で登場するセリフです。そう、我らが親愛なる隣人、スパイダーマンですね!
 初代スパイダーマン・シリーズは2002年に始まり、U、Vといずれも大ヒットを飛ばしました。特にUは傑作とされ、アメコミ映画化作品の中でもトップクラスの出来だと高く評価されています。
 初代シリーズはVでいったん休止し、2012年にリブートという形で銀幕に登場したのが、『アメイジング・スパイダーマン』。キャラクターや世界観は原作通りとし、キャストと物語を一新させて、スクリーンにスパイディが返ってきました。この『アメスパ』シリーズにも続編のUが製作されましたが、興業的不振のためにそれ以上の続編は作られず、またも沈黙・・・・・かと思われた矢先、ついに今年2016年MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)にスパイディが登場し、『シビル・ウォー キャプテンアメリカ』でデビュー。MCU単独の『スパイダーマン ホームカミング』も公開予定です。


 個人的には『アメスパU』も、決して失敗作の一言で片づけることができない大好きな作品。しかし正直なところ、2012年に『アメイジング・スパイダーマン』としてスパイディが銀幕が帰ってくると知った時には、「え? 早くもリブートするの?」と思ったことも事実。スパイディの沈黙期間、短すぎない? 2002年版と、結局は同じ話になるんじゃ……という不安は拭えませんでした。


 ところがどっこい、この『アメイジング・スパイダーマン』、ちゃんとリブートした意味がありました。同じキャラクターで、よく似た筋道をたどりながらも、まったく違う物語を描き出していたのです。
 2002年版と2012年版、そしてそれぞれの続編、これらを比較しながら、再起動(リブート)作品の面白さについて、考えてみたいと思います。

 なお今回から、1つのガイドにつき何回かに分けて書いていきたいと思います。今回は結末まで至りませんが、ご了承ください。


ガイド5「再起動(リブート)−−二つの作品群が描き出す、ヒーローの物語」

 ――
家族を愛し、学校に通い、恋に悩み……
    愛すべき1人の青年が今、
    スーパーヒーローになる宿命を背負った。――
 
 心優しいが内向的、化学は得意だが友だち作りは下手……どこにでもいる平凡な青年、ピーター・パーカー。あるとき放射能を帯びたクモに噛まれたことによって、スーパーパワーを手に入れ、これまでの平凡な生活が一変した。敬愛するベンおじさんの死を通して、「大いなる力には大いなる責任が伴う」ことを痛感したピーターは、たとえどんな苦難が前途に待ち受けていようと、授かった力で人を救い続けることを誓うのだった。……。

 アメコミのヒーローを代表する1人、我らが親愛なる隣人、スパイダーマンの超有名なオリジン。あまりに有名なもので、スパイディのことを知っている人なら多かれ少なかれそらんじることができるだろう。むろん、映画化作品に導入されたのも、基本的にはこのオリジンに沿ったものである。ヒーロー映画の宿命として、第一作目にはヒーローの「誕生秘話」が描かれる。2002年、サム・ライミ監督によって生み出された『スパイダーマン』も、2012年、マーク・ウェブ監督によって生み出された『アメイジング・ズパイダーマン』も、基本的にはこのオリジンを描いていた。

 だからこそ、件の疑問が起きたわけである。リブートする意味って……? スパイディの誕生物語なら、2002年に上出来なものがすでにあるのだ。2002年から始まる一連のシリーズをご覧になればわかるように、『スパイダーマン』シリーズは今なお、時間の経過による古びた感じというものが、全くない。オリジナルの製作時代が相当古くて、当時できなかったことを最新の技術で作り直すというならリブートにも意味があろうが、別段古びてもいないものを改めてやったところで、何の意味があるのだろう? 敵キャラが、ヒロインが変わりました、キャストが変わりましたというだけでは魅力に乏しい。裏を返せば、サム・ライミ版の『スパイダーマン』はそれほど満足な出来だったのである。

 ところが2012年『アメスパ』を観て驚いた。映像の進化というところで目覚ましいものも確かにあったが、それよりも目から鱗だったのが、物語のスタイルだった。サム・ライミ版『スパイダーマン』と『アメスパ』を比較すると、同じヒーローを描いていながら、全く異なる物語を紡ぎだしていることに気付くのである。

 結論から言うと、両方とも結局一作目は上記のオリジンを描いている。そして、このオリジンにはいくつかの欠かせないファクターがある。
 @スーパーパワーを得るまでのピーターは、平凡(よりやや下)の高校生であること。
 Aクモに噛まれることでスーパーパワーを得て、まずは利己的な目的に使用すること。
 B強盗によって、ベンおじさんが殺されてしまうこと。
 Cベンおじさんの死をきっかけにして、ヒーローの道を選択すること。

 2002年『スパイダーマン』は、このオリジンをかなり忠実になぞっている。主人公ピーター・パーカーのダメダメっぷりも初めから徹底して描かれるし(ただ演じているのが、トビー・マグワイアというイケメンであることを除く)、Aの利己的な目的というところも描かれている。恋をしている幼馴染のMJに告白するために車を買おうとし、その資金集めのために格闘技戦に参加するのである。ところが主催者が支払いをケチり、怒りを覚えたピーターはその腹いせに、主催者から金を奪った強盗を見逃す。だがその強盗がベンおじさんを射殺してしまうという悲劇を起こすのである。
 
 2012年『アメスパ』も、ここまではよく似た筋道を通る。が、微妙なところで違いがある。ピーターは冴えないながらも、ちょっとした勇気を持ち合わせていて、弱い者いじめをしているクラスメイトを止めようとして逆に殴られるなど、「いいヤツ」の点が強調されている(アンドリュー・ガーフィールドの、「マジで華がない」感も、素晴らしく説得力がある)。Aの部分については、スーパーパワーを手に入れた後は、いきなり金銭目的に使うのではなく、自分の力をあれこれ試すシーンが代わりに挿入される。それに没頭するあまり、家族を顧みなくなるという「利己」が描かれ、それをとがめられたがために怒って家を飛び出してしまう。ここでの「責任」ということに対するやり取りも、2002年版にはなかったものだ。家を飛び出したピーターはコンビニに寄るが、お金が足りなくて何も変えず、その腹いせに強盗を見逃してしまう。ここの「利己」の部分について言うと、『アメスパ』のピーターのほうがやや悪質なものとして描かれている。向こうは別に何の不正もしていない。ただ、金が足りなかったから追い返しただけである。
 この見逃した強盗が、ベンおじさんを殺してしまう(B)。そして物語は、ここから大きく違ってゆくのである。

2016/10/3

FILE3 絶望の中に見えた光  先輩 K先生の映画学ガイド


担当者 国語科 小柳優斗


『エクソシスト』――ご存知ですか? 1973年、ウィリアム・ピーター・ブラッディ原作の同名小説を、ウィリアム・フリードキンが監督して製作されたこの『エクソシスト』は、ホラー映画の頂点として、今も高く評価されています。今、USJでもハロウィンのアトラクションの一つになっていますね。担当者は、誰も一緒に行ってくれる人がいないので、1人で行きました。楽しかったです。

 今回のガイドでは、一本の映画を取り上げて、その魅力について迫っていく方法をとります。40数年が過ぎてもなお、凄まじいパワーで観客を圧倒する『エクソシスト』。むろん、キリスト教的な観点、ホラー映画史的な観点など、様々な観点からの切込みが可能でしょう。このガイドでは、この『エクソシスト』の物語的な観点から切り込んで、映画の奥にある豊饒なストーリー世界に、思いをはせてみたいと思います。

 この恐怖を超えた映画は、いまだ存在しない――ところがこの『エクソシスト』、恐怖・絶望の物語であると同時に、その中で見える、小さな光の物語でもありました。

※本文は『エクソシスト』の物語のクライマックスにまで踏み込みます。未見の場合はご注意を。



ガイド4「絶望の中に見えた光――『エクソシスト』が描き出すもの」

 1973年に公開されるや否や、一大センセーションを巻き起こした『エクソシスト』。その影響は、すさまじいものであった。どれくらいすさまじいかというと、まずそれまでに殆ど知られていなかった「悪魔祓い師」を表す「エクソシスト」という言葉を、世間にがっちり定着させてしまうくらい影響力があった。『ゴッドファーザー』が「ファミリー」という言葉の意味を変えてしまったのと同じだ。

 また「悪魔との対決」を描いた映画としても、とにかくショッキングなものであった。この映画に描かれるのは、ディズニーの『ファンタジア』に描かれる、巨大な角と翼をもつ鬼のごとき、どこかファンタジックなものではない。実はそれ以前から、ステレオタイプな悪魔を描くことを拒む作品が、増えていた。『エクソシスト』の5年前には『ローズマリーの赤ちゃん』があった。『エクソシスト』の3年後には『オーメン』が銀幕を震撼させた。ステレオタイプから解き放たれた悪魔は、より恐ろしく、よりリアルであった。『エクソシスト』は、「悪魔にとり憑かれるこのと恐怖」を、恐ろしいほど精緻なタッチで、淡々と描いて見せた。また、原作者のウィリアム・ピーター・ブラッディが、「これは実話である」ということを頻りに強調したため、よりいっそうのリアリズムを得て、観客を捉えて離さなかった。(実は違ったらしいけど)「エクソシズム」関連の事件が実際に起こり、それはこの映画の持つ圧倒的なパワーの証でもあった。テレビ伝道師によって「悪魔がフィルムを作っている」と、大いに喧伝されたのも肯ける話だ。

 ストーリー自体は、ブラッディの原作『エクソシスト』に沿っている。つい最近、この原作を読み返す機会に恵まれた。原作を読むとわかるが、映画『エクソシスト』は驚くほど原作に忠実に作ってある。もちろん映画の時間制約上の問題で、やむを得ずカットしたシーンはいくつかあるが、全体の流れは原作から逸脱せず、ここぞという見せ場のほとんども、原作の中にあるものだ。2000年のディレクターズカット版で復活したスパイダーウォークすら、その原点を思わせる描写が、ちゃんと原作の中にある。『WILLIAM PETER BLATTY'S EXORCIST』とあることからも、これはやはり、原作者ブラッディの『エクソシスト』であり、フリードキン監督はそれを天才的手腕で見事に映像化したということになる。

 『エクソシスト』の物語は、単純なようで深い。ハイコンセプトにすると「悪魔にとり憑かれた少女を悪魔祓い師が助けようとする話」である。だがそこにいくつもの要素がからんでくる。

 たとえば悪魔にとり憑かれる少女リーガンを取り巻く環境について。母親のクリス・マクニールは父親と離婚している。リーガンが誕生日の日に、お祝いのメッセージをかけてこない父親に、クリスが怒りをぶつけるシーンがある。電話の交換手に怒鳴り散らすクリスの声を聞きながら、沈んだ顔で部屋に戻るリーガンのショットがある。その後に「怪異」が始まるところから見ても、この1シーンは決して看過できない多くの意味を持っている。

 リーガンの様子は、はじめはさほど変わらないように見える。口が悪くなったとか、ぼんやりしているとか……少なくとも、悪魔が取り憑いているようには見えない。そして周囲は、あくまでも科学的・医学的見地から、症状を見極めようとする。様々な薬を試み、様々な検査を行って――この医学的処方が、リーガンの変貌ぶりに拍車がかかるのと並行して、痛々しい、ゾッとするようなものになってゆくのは一考の価値がある。

 『エクソシスト』は随所に恐怖を感じる場面が用意されているが、多くの人が1番怖かったと推すシーンは以外にも悪魔との闘争の部分でもなければ、スパイダーウォークのシーンでもなく、実はリーガンを決さしている病院のシーンなのだそうだ。病院での検査のシーンは何度か出てくるが、そのどれもが翳のあるトーンで重苦しく、リーガンに注射を刺したり電極を付けたり、様々な機械の前に晒したりする様が、まるで中世の拷問のように見えるという。医師たちには、リーガンを害そうという気などまったくない。それどころか逆に、彼女の病魔の原因を探ろうと必死なのである。しかし、彼らの処置は、リーガンに苦痛を与え、彼女を消耗させ、その容貌を変えてしまう。そして何よりも怖いのが、そうした苦痛を味わったというにもかかわらず、それらの診断が一切無駄に終わってしまうという、救いようのない現実である。


 この映画では、悪魔に狙われたマクニール母子が孤立してゆく様が丁寧に描かれる。そもそも、母のクリス・マクニールは無信仰の立場であり、それはこの物語全体のスタンスと共通する。故に医学によってまずは問題を解決しようとする。しかし、それがまったく意味をなさない。側頭葉に異常があると医師は診断し、リーガンに拷問のような検査を何度も繰り返し、精神科への受診を勧め、最後には入院を勧める。何がリーガンをそうさせるのか、真実は全く明らかになることはなく、母親クリス自身のヒステリー気味なコミュニケーションとも相まって、この母子はどんどん孤立を深めることになる。母親に残された道は、すっかり変貌してしまった少女を家に連れて帰り、ベッドに縛り付けておくことであった。マクニール母子が病院から帰宅する時、リーガンは使用人のカールに抱えられて車を降りる。その表情は、大いに隠されて見えない。が、その傍らを歩くクリスの表情が、一切の絶望を物語っている。もはや望みは絶たれた。自分を救ってくれるものは何もなく、隣にいるのは、自分の娘とは到底思えない、変わり果てた何か……。ここに『エクソシスト』が描く究極の絶望を観る。

 医学が匙を投げた後、救いの手を差し伸べたのが「エクソシズム」であった。だが、すぐにすんなり事が運んだわけではない。クリスが頼ったデミアン・カラス神父は、神父でありながら精神科医でもあり、どちらかというと、これまでマクニール母子がさんざん苦しんでその甲斐なかった側から物事を観る人間だったからである。加えて、神父自身も、自分の母を救えなかった罪悪感に悩み、信仰そのものに疑念を抱いていた。

『エクソシスト』が素晴らしいのは、マクニール夫妻の恐怖の物語と、カラス神父の苦悩の物語を同時並行させて語り、最後にそれを繋げることである。カラス神父は、初め悪魔の存在に疑念を抱きながらも、信じざるを得ない状況をいくつも目の当たりにして、ついに教会に悪魔祓いの許可を求める。そうして訪れるのが、最後の登場人物であるランカスター・メリン神父である。

 二人の神父による悪魔祓いが始まる。その凄絶さは、やはり実際にご覧になっていただくほうがよい。ここで特筆したいのは、カラス神父の立ち位置である。この悪魔祓いによって補佐を務めるはずだった彼は、悪魔祓いが佳境に近づくにつれてボロを見せ始める。もともと、悪魔の存在には否定的だったからか、目の前で次々と起こる超自然的現象に言葉を失い、「救えなかった母親」を悪魔になじられて心の平穏をかき乱され、ついにはメリン神父から退出を命ぜられる始末……。このまま終わってしまうのかと、観客の心も絶望に打ちひしがれる。

 しかし、絶望の中でこそ、見えた光があった。

 退出を命ぜられたカラス神父は、一階に降りて項垂れている。そこへ、クリスが声をかける。

 クリスは問う。
 「あの子は――死ぬのですか」



 少し躊躇った後、カラス神父はクリスの目をまっすぐ見て、答える。
 「――いいえ」

 カラス神父は立ち上がり、ゆっくりと階段を上がってゆく。それを、クリスは物言わず見つめている……。

 この瞬間のカラス神父の答え、そしてその表情に浮かんだ確固たるものに、クリスは――観客は残された希望の光を見つける。それは絶望の只中にあって、ようやく見出した光である。誰かを守りたいと思った時に、心を震わせる活力である。一切の迷いを捨て、己の使命感に殉ずる者のみが見せる強さである。カラス神父は階段を上り、ゆっくりと部屋の中に入ってゆく。


 悪魔との闘争がいかにして結末を迎えるかについては、野暮ったいのでここには書かない。以上が、ホラー映画の金字塔『エクソシスト』に対して、担当者が抱く所感である。『エクソシスト』は絶望を描く。どこにも逃げ道はなく、どこにもすがりようのない究極の絶望を描く。そして、その中にあって唯一、輝き続ける最後の希望を見せる。それは、神を信じるか否かという信仰上の光ではない。カラスの目に宿ったのは、今目の前にいる少女を必ず救うという純然たる決意であり闘志である。助けたいという思い――それこそがである。

 


 2000年のディレクターズカットを観てみると、カラス・メリン両神父に限らず、少女リーガンの解放と回復を願っていた者が陰ながらいたということに気付かされて、思わず心が温かくなる。恐怖を描くだけならば、あのエンディングは必要なかった。『エクソシスト』はホラー描写・恐怖演出と同じくらいの凄まじさで、絶望と光のドラマを描いて見せた。ゆえにこそ『エクソシスト』はホラー映画の金字塔として、今後も長く語りつがれるのではないだろうか。

2016/9/25

FILE2 深淵に見つめ返される恐怖  先輩 K先生の映画学ガイド


担当者 国語科 小柳優斗

 
 前回の映画学ガイド、いかがでしたか? 映画や映像が、「錯視」を前提としているというところから映画創生と映画そのものの魅力について語りました。今回も「視る」ということにこだわって、話を進めていきますが、趣向は大いに違います。大切なのは「視る――視られる」という関係です。映画が、いかにそれを巧みに物語の中に活用してきたか、その絶妙な手腕のほどをいくつか紹介して、私たちが映画に対して抱く「スリル」や「恐怖」の謎に、肉薄してみたいと思います。
 それではどうぞ、お楽しみください。


ガイド3「深淵に見つめ返される恐怖――支配関係の逆転」

 2016年現在で007シリーズの最新作といえば、2015年に公開された『スペクター』。個人的にはその前の作品である『スカイフォール』が超良くて(オールタイムベストにも入れているくらい)、それに比べると『スペクター』は期待を100%満足させてくれる映画とは評し難かった。が、グッとくるところはいくつもあって、その中でも特に忘れがたい1シーンがある。それを取り上げて、今回の導入としたい。


 物語中盤。007ジェームズ・ボンドは、敵のアジトに潜入する。そこは大聖堂のごとき広間で、中央に大きく長い机が置いてあり、十数名の幹部が向かいあうようにして椅子に腰かけ、悪事の計画を練っている。二階の廊下には部下と思われる者たちが物言わずずらりと並んで、下で行われる会議の様子を見守っている。ボンドは部下たちの中に潜り込んで、成り行きを見定めることにする。

 ――と、下に集う者たちの中で、首領らしき男が口を開く。男の顔は影に覆われていて、声だけで辛うじて性別がわかるようになっている。むろん表情はうかがえない。何気ない口調で男は言葉を紡ぐが、それは2階に潜入しているジェームズ・ボンドに向けられたものであった。そして男はゆっくりと首を持ち上げ、こちらを――ボンドを見上げるのである。
 
 ボンドは戦慄する。誰にも気付かれず潜入したはずが、男にはっきりと視られていた。彼は大急ぎでその場を逃げ去る。その後息つく間もないカーチェイスが展開され、それはそれで楽しめるのだが、個人的にはこの会議のシーンが、『スペクター』全シーン上で、最も強く印象に残ることになった。


 同じようなシーン、そして同じような心の動揺を、以前にも味わったことがあった。2001年の『ジュラシック・パークV』。恐竜たちの新天地、人間にとっては悪夢の楽園イスラ・ソルナ島では、必死の逃走劇が展開されている。物語も中盤をやや過ぎた頃の見せ場として設定されているのが、翼竜プテラノドンからの逃走――「鳥カゴ」のシーンである。プテラノドンは前作『ロストワールド ジュラシック・パークU』の最後にも登場して、そのクオリティの高さから恐竜ファンを唸らせたキャラクターだが、本作では『恐竜100万年』にも見られたような、獲物を掴んで飛び去る悪役として位置づけられている。『V』ではこのプテラノドンに、エリック少年が連れ去られ、それを勇敢な若者ビリーがパラシュートで救出する。主人公アラン・グラントやエリック少年の両親は、地上(鳥カゴの中)から、二人を追いかけている。

 ビリーはエリック少年の救出に成功するが、今度は自分がプテラノドンに狙われる。パラシュートが崖に引っかかり、何とか川に着水したものの、濁流に足を取られて流される。上空からはプテラノドンの嘴に啄まれ、川の水は赤く染まる。グラント博士たちは川岸までは行けたものの、そこから先に行くことができず見ているばかり。

 カメラは川の流れに乗るように右へと移動していくが、途中から川岸手前に妙なものが映り込む。すらりと長い、何かの影――カメラは川の奥にピントを合わせているのでややぼけているが、その妙な影が中央に移動したところでこっちにピントが合って、それが別のプテラノドンであることを知らせる。観客含め人間サイドがハッとすると同時に、プテラノドンがゆっくりと首を回して、爬虫類の無機質な目で、じっとこちらを睨みつける

 視られていた……戦慄が背中を走り抜ける。

 『ジュラシック・パークV』は90分という時間のほとんどを、恐竜からの逃走に費やしている。スピノサウルス、ヴェロキラプトル、プテラノドン……そのほかさまざまな恐竜との遭遇、そしてそこからの脱出を描く。これでもか、これでもかと見せ場を用意するサービス精神は、まるで遊園地のライドのごとく爽快なものだが、恐怖演出となると心底怖くなるようなシーンは少ない(グロいとか、でっかい音で驚かせるとか、そうしたものでは心底の恐怖は得られない)。そんな中でこのプテラノドンの「睨み」は、恐怖演出としては随一のものであった。特に派手なわけではない。大きな音がするわけではない。カメラスピードはむしろ緩慢なくらいだ。にもかかわらず、あの時背中をつたった冷たい汗の感触は、なかなかに忘れることができないものであった。


 

 この「視られていた」とわかった瞬間に覚える恐怖やスリルというのをひも解いてみると、中々に白いことが分かってきそうだ。それは次元を超え、スクリーンを超え、映画を「視て」いる観客に直接訴えかけてくるスリルであり、恐怖である。安心してシートに座り、ポップコーン片手に映画を楽しんでいる我々の心を刹那、不安におとしめるテクニックである。絶対的安全圏にいる――そんな確信を揺るがすことのできる、素晴らしき効果である。


 実はここには「心霊写真」に我々が感じる恐怖と近いものがある。映画だけでピンとこない場合は、こんな感じのものを想定してみたらどうだろうか。

 海辺ではしゃぐ友だちを映した、何気ない旅の写真。ところがよくよく眺めてみると、水面に見たこともない女の顔が写っている。血の気の失せた、青白い顔。感情のうかがえない目で女は、こっちを見つめている……。

 この時なにゆえに恐怖を感じるのか。女――幽霊の顔が怖いから。いるはずのないところに映っているから。むろん、そうした恐怖もあるだろう。ならば問いを変えて、この心霊写真に対して、一番恐怖を感じなければならない立場にあるのは誰か。撮影した自分か幽霊と一緒に映ってしまった友だちか……。

 これは心霊写真の種類にもよる。被写体の体の一部が消えているなどすると、それは霊傷などと言って、近日中にそこを害する予兆なのだという話もある。が、今回の想定例に限って言えば、恐怖しなければならないのは、カメラを構えていた撮影者である。なぜか。視られているからだ。

 写真を撮影するという行為において、空間支配というやや仰々しい観点から考えてみたい。写真撮影の場合は、空間の支配権は撮影者にある。アイドルの写真集などでも同じだ。撮影者の指示に従ってポーズや表情を変えたり、立ち位置を変えたりする。撮影というのはそうしたもので、どんなものを撮ったって、撮影者の意識なり意図なりがどこかしらに顕れてくる。そもそも「この風景を撮ろう」という選択こそ、「撮影者の意図」そのものではないか。写真撮影において、そこに映されるものの支配権は、ある程度撮影者にある。風の向きや日光、波の具合など自然物に干渉することは不可能だから「ある程度」としておいたが、少なくとも「被写体」である友だちに対する支配権だけは備えている。

 ところがここに――まったく干渉されない異物が紛れ込んで、しかもこちらをじっと視ている。カメラを通して、こっちが視ていると思っていたはずの世界だったが、実は視られていた。ここで空間の支配関係ががらりと逆転する。だから怖いのである。これは人類が生まれながらにして持っている、異的な存在への恐怖、嫌悪と同じ類のものである。自分が支配していたはずだった場所の中に、自分の力ではどうにもならない存在がいる。そいつは確かに自分を見つめている。自分を害する気持ちなのかも分からなければ、仮にそうだとした場合に、どうすれば良いのかも分からない。

この、「日常性から乖離した異物」に対して持つ「わからない」という感情ほど、恐ろしいものはない。人間が抱く恐怖の根源は、ほとんどこれである。

 冒頭で紹介した映画の1シーンは、こうした、人間が根源的に持っている恐怖を引き出してくる。スクリーンを前に、シートに座り、映画を楽しむ我々観客は、自分が絶対の安全圏にいると思っている。目の前でどんな恐ろしいことになっても、それが自分にまで及ぶことはないと思っている。それは真実、その通りである。映画というのは、日常では経験できない(というかしたくない)ものを、見せてくれるものだ。だから観客は、映画を視るということにおいて、支配権は自分にあると思っている。映画に限らず、本でも同じことだ。嫌だったら、本を閉じてしまえば良い。嫌だったら、視るのを止めてしまえばよい。「視る」ということは、自分の意思ひとつで自由にできるものだと思っている。


 そこに、前述したようなシーンが効果的に入ってくると、「視る――視られる」の関係が逆転して、観客はどきりとする。もちろん、物語上の演出としては、首領に視られたのは007であり、プテラノドンに視られたのはグラント博士だ。しかし演出としては、首領もプテラノドンも、こちらを――観客を視た。スクリーンを超え、次元を超え、まるで我々の存在に気付いているかのように……。視られている……そこに恐怖を覚える。これは映画が、一度にさまざまな視点を扱えるからこそ成立する効果である。一つの作品の中で、映画は実に多くの視点を持っている。その視点を巧みにコントロールすることで、感情移入とはまた違った形で、劇中のキャラクターが感じている恐怖やスリルを、我々観客にも追体験させることが可能となる。


 怪物と戦う者は、その過程で自らも怪物とならぬよう心掛けよ。
 深淵を覗き込むとき、深淵もまた、お前を見つめているのだ

 ニーチェが『善悪の彼岸』に記したこの警句は、これまで様々な物語で扱われている。映画のテクニックとして、これを巧みに扱ったものは多い。我々は、映画をただ一方的に視ているわけではない。スクリーンの奥に広がるその世界もまた、我々を視て、訴えかけてくる。様々な手を使って、観客を中に引き込もうとしてくる。観客にとって、それは目の前で展開され、過ぎ去ってゆく虚構の――作り物の世界ではない。たとえ体は安全圏に置いて行っても、心は現実を離れ、スクリーンの中にある。

 視ているのは我々だけではない。映画は常に、我々を見返してくる。





 ちなみに、カメラが映し出す視点――ということを考えた時に特におススメしたいのが『ブラック・スワン』という作品。バレエの主役に選ばれた少女が、そのプレッシャーから次第に狂気に走ってゆく過程を描いているが、これがまた面白い。CG全盛期の現在、我々観客も目が肥えて、ちょっとやそっとの視覚効果では驚けなくなってしまった。『ブラック・スワン』はそれを逆手に取り、観客を惑わす。カメラは少女の視点から多くのものを映しだすが、それが現実か、それとも狂気の妄想なのか、まったく判断がつかない。すべては現実に起こったことなのかもしれず、また一方で、すべては少女の病んだ精神が見せた一切の幻だったのかもしれない。前回のガイドでも触れたように、人間はすべて心でものを見ている。『ブラック・スワン』が描き出すのは、一人の人間の、次第に狂気へと走る心の在り様である。何をどうしたって、絶対に覗き見することのできない世界である。我々はそれを見つめる。そして映画のほう――ありとあらゆる手を使って、我々のことを、見つめ返してくる。


2016/9/23

FILE1 映像の発見  先輩 K先生の映画学ガイド

担当者 国語科 小柳優斗



 今回から映画に関する様々なことを紹介していきます。まずは映画創成にまで遡ることにしましょう。映画誕生のためにはもちろん「映像の発明」が必要不可欠。そして映像の発明のためには、目の前の光景を一枚の静止画に写し取る「写真技術の発明」が欠かせません。ただ、そこまでいくと話が伸びすぎて収集つかなくなるので、今回は「映像の誕生」までにとどめて話をしたいと思います。どうぞ、お楽しみください。


ガイド2「映画創成――映像の発見」

 映画の魅力ってなんだろう? 映画の持つ本質的な面白さとは――それを探るために、映画誕生にまで時空をさかのぼって考えてみよう。いかにして、あのすばらしき魔法は生まれたのか。……。

 1872年のこと。カリフォルニア州元知事であるリーランド・スタンフォードは、当時一般に議論されていたことについて、友人と賭けをした。その内容というのは、

 ギャロップする馬の脚運びで、4本すべての脚が地面から離れる瞬間はあるか ないか」

 というもの。スタンフォードは「ある」側に立ち、立証するためにイギリス生まれの写真家エドワード・マイブリッジに協力を依頼する。マイブリッジは5年と5000ドルという莫大な期間と費用を費やして(賭けとか忘れてるレベルじゃないかしら)、特殊な写真装置を制作。それによって撮影された写真が、長きにわたる論議に決着をつけることとなった。
 それがこちら。
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 マイブリッジの写真装置は、高速シャッタースピード、大口径レンズ、高感度感光材料を備えた撮影機を等間隔に12台並べ、馬のギャロップに合わせて次々にシャッターを切る仕掛けを組み込んだもの。このいわゆる連続写真は、論議に決着をつけてスタンフォードを賭けに勝利させたのみならず(2枚目見たら、あきらか浮いてますよね)、多くの人々から素晴らしき発明と喝采を浴びた。特にこの写真の動的錯覚に目をつけた人は多く、さまざまな幻灯機に、これを基にした写真や絵が使われることになる。
 やがてこの技術に触発され、より洗練されたものを発明した天才がいた。
 発明王――メロンパークの魔法使い――トーマス・エジソンである。

 この12枚の写真を続けてみると、馬が動いて見えるという点にエジソンは眼をつけた。そうして発明されたのが映写機キネトスコープである。ここに映画の萌芽がある。

 「映像」はいかにして動いているように見えるのか、ここでおさらいしておこう。要はパラパラ漫画である。上記の馬の絵を1枚ずつ切り取って12枚重ね、指ではじくようにパラパラしていくと、馬がまるで走っているように見える。−−この見えるというのが曲者なのだがそれは後で説明するとして、フィルムと呼ばれるものはどれほどハイフレームであろうと、基本的にはこの原理に基づく。1枚1枚の静止画が高速で投影されることによって、動いているように見える――それが映像である。

 エジソンのキネトスコープは素晴らしい発明であったが、今の映画とは趣を大きく異にする娯楽でもあった。まず形状の問題がある。キネトスコープは箱の中を覗き込むようにし、内部に投影される映像を楽しむ、「のぞきからくり」のようなものであった。映像をスクリーンに投影し、多くの人々が一緒になって楽しむ「映画」はシネマトグラフという複合機によって撮影されるもので、フランスのリュミエール兄弟による発明であった。このシネマトグラフが、現在まで続く「映画」の起源となる。

 斯様にして映画は誕生した。そのすべては、本当に思いがけない、一つの「賭け」から始まったのである。

 今回のガイドで注目したいところは「映像」が動的錯覚によるものだということに尽きる。映像は、普段われわれが世界を見ているのと同じように、事物の連続した動きをそのまま写し取ったものであると考えている人が多いが、実はそんなことは決してない。上記の映像の説明でも、動いているように「見える」という表現が何度も出てきたように、実は映像を細かく解剖していくと、その基本にあるのは一枚一枚は決して動くことのない静止画の寄せ集めである。それを続けて、高速で展開していくことで、我々にはそれが動いているように見える――ここが面白いところだ。
 
 マイブリッジの上の写真に戻ってみよう。1枚目と2枚目。馬の脚のポーズは明らかに違っている。ここで一つ疑問を持つ。1枚目と2枚目の間には、何があるのか。馬は1枚目のポーズの次の瞬間には、2枚目のポーズになったのだろうか。

 答えは明らかである。1枚目と2枚目の間には、撮影されなかった過程があるはずだ。マイブリッジは12台の撮影機を並べて撮影に臨んだが、これが倍の24台だったら、同じ馬の同じ動きを、同じ時間だけ撮影したとしても、もっと細かい過程を撮影することが可能だったはずである。その倍の48台だったら、それぞれの写真に現れる違いは、おそらく肉眼では確認できないほど微細なものとなるだろう。だがここで注意したいのは、カメラを増やせば増やすほど微細な動きをとらえることはできるが、それでも、次の写真に至るまでに「撮影されなかった過程」が消えるわけでは決してないということである。つまり、1枚目と2枚目は――いや、その二つだけに限らず、連続写真は、連続しているようで実はやはり、刹那の単位でみれば連続してはいないのである。
 
これは静止画の寄せ集めであるという映像の原理の立場からすると、決して逃れられない宿命のようなものだ。1秒間の動きを撮影するのにどれほど多くのフレームを費やしたとしても、細かい間隙はどうしたってできてしまう。人間の目には見えないほど細かい間隙だとしても、人間よりもっと鋭敏な視覚を持つ動物の目には、それがどう映るだろう? 我々には映像と見えるものも、「1枚ずつの写真が、一定の間隔で次々と移り変わるもの」としか映らないかもしれない。

 我々の目が、連続する静止画を「動画」「映像」と認識してしまう、それは錯視である。1枚1枚の静止画、その刹那の狭間にある「撮影されなかった過程」を脳が無意識に補うことで初めて、「映像」は「映像」として認識することが可能になる。それはセルアニメやストップ・モーションアニメーションに限ったことではなく、動いているものをそのまま撮影しているはずのライブ・アクションでも同様であり、映像であるためには人間がこのような「錯視」をもっていることが絶対の条件であった。


さて――ここで映画の魅力というところに立ち返ってみる。


 映画創生・映像の誕生――これらの点から浮かび上がってくるのは、人間の実に信用ならない視覚の特性というやつと、映画が、映像技術がその特性を逆手に取ることで完成される、実に魔幻的な娯楽であるということである。だがこの魔幻的な性質は、映画という娯楽の本質そのものとも非常に相性が良かった。物語であろうと視覚上のものであろうと聴覚上のものであろうと、「現実に起こりえぬことを、さも本当に目の前にあるかのごとく錯覚させ、楽しませる」のが映画の本質である。それは虚構と分かっていても、作り物だとわかっていても、観客の目を奪い、心を弾ませる最高の魅力に他ならない。そこに、映画の持つ力がある。

映画は錯視から始まった。そしてこれからも我々を騙し続ける。我々はそれが虚構であると知りながらも、スクリーンから目を離すことができない。映画は上映が始まったその瞬間から目を耳を、心を現実から引き剥がす。そして夢幻に――無限に――続く恐るべき空想の世界へと我々をいざなう。果てしなき可能性の探求へと、人々を駆り立てる。
 
 映画は人を惑わせ続ける。だからこそ、映画は面白い。





2016/9/16


映画学ガイド1「ご挨拶」

担当 国語科 小柳優斗


 本日より新しいカテゴリが加わりました。「先輩 K先生の映画学ガイド」担当の小柳です。
 どうぞ、よろしくお願いします。

 本題に入る前に、まずは自己紹介を。

 小柳優斗
 大阪府柴島高校30期生にして現在同校の国語科教員。高校時代も現在も和太鼓部に在籍。
 京都立命館で文学を学び、伝承文学研究を専門とするも、卒業論文では江戸川乱歩論を展開。
 趣味である映画鑑賞をタネに、総合学科の授業として「映画学」を作ろうと策略している。


 このカテゴリでは、「映画」の世界を取り上げ、様々な観点からの考察、紹介を行います。今後、「映画学」的な授業が成立した場合、このブログ内容と関連させるなど、多方面で利用していきたいと思っています。趣味全開の文章になりますが、楽しみいただければ幸いです。


 では、本題へと――。
 
 「総合芸術」とも呼ばれる「映画」は、娯楽として楽しむのはもちろんのこと、様々な観点から考察を深めることが可能な、非常に面白いジャンルです。考察の観点としては、たとえば

 ・文学作品としての「映画」――ストーリー面からの考察。
 ・「視覚」観点からの考察――カメラワーク、特殊効果、マットアート、CG技術など。
 ・「映画音楽」――物語と音楽との繋がり、効果などの考察。
 ・「映画史」――映像の発見から現代まで、映画の世界がたどった歴史を概観する。
 ・映画「文法」――ホラー映画を本当に恐ろしく「見せる」ために必要な決まり、文法など。
 ・続編、シリーズへの考察――映画を通じて見えてくるマーケティングの実態
 ・監督名鑑――スピルバーグ作品に共通するテーマ。ルーカスにおける改変問題など。

 などなど、堅苦しく書くとこんな具合です。もちろん、語る人によって切り取り方は千差万別。一つの作品からだって、様々な魅力が引き出せるのが映画の面白い所です。「映画学ガイド」では、そうした「映画」に関する魅力について、ほんとうに一部分――雀の涙にも満たないくらい、ちょっとのところではありますが、紹介できればと思っています。


 と、こんな風に偉そうに書くと、いかにも「映画の専門家」っぽくて鼻もちならないと感じる方がいらっしゃるかもしれません。白状しておきますが、担当者自身も映画に関してはまだまだ素人です。年間で観る新しい映画作品は、劇場DVD合わせても80本程度。多くても100本です。知らないこともたくさん、食わず嫌いもたくさん。まだまだ勉強中の身です。至らぬ点も多々あるかとは思いますが、思い入れのたけを注ぎこんで書きますので、どうぞお付き合いください。

 
 最後になりますが、マイ・オールタイム・ベスト10(洋画版)を紹介して、本日はお開きといたしましょう。映画に限らずマイベストって、その人の性格が露骨に表れますよね。次回から、映画に関する様々なものについて語っていきたいと思います。

 次点  インディ・ジョーンズ 最後の聖戦

 第10位 ポセイドン・アドベンチャー
 第9位 恐竜グワンジ
 第8位 シャイニング
 第7位 スカイフォール
 第6位 シビル・ウォー キャプテンアメリカ
 第5位 ゴッドファーザー
 第4位 イミテーション・ゲーム エニグマと天才数学者の秘密
 第3位 バックドラフト
 第2位 ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還(SEE版)
 

 第1位 ジュラシック・パーク

 
 今後とも、よろしくお願いします。



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