私は最近、めちゃくちゃ物忘れが激しい。
若い時は簡単に覚えれた事が、
段々と覚えづらくなっている。
その上、過去の記憶もタラタラとどこか脳味噌の外へ
流れ出しているようで、自分でも怖くなる。
ネット上の同窓会サイトをご存知だろうか?
私はそこへ友人のかおるから紹介されて、
2年前に登録をした。
で、すっかりその登録をした事を忘れていた。(←ボケ)
私はあまりネット・サーフィンってのをやらないのだが、
ある日暇にかまけてやっていたら、
たまたまそのサイトを見つけた。
で、その頃、たまたまセンチメンタル症候群に侵されて、
「大阪に帰りたい」病も併発していたので、
「こんなんあるんやぁ!!!」と喜んで登録をした。
で、その後、自分が卒業した小学校のサイトを見に行き、
ほのぼのまだ残っている学校にホッとして、
でも、私達の卒業制作の品が割愛されているのを嘆いて、
でもでも、前の禿山が緑豊かな小山に変身しているのを
喜んだりしていた。
その後、自分の子供達にその禿山の写真を見せて、
「ママはねぇ、よくこの山の奥の竹やぶに
竹の子を盗みに行ったのよ」と自慢したりして、
その数日後に登録完了後初めてそのサイトを見に行ったら、
なんと二つも自分の名前がジャジャジャーンと
載っかっているのを見て、自分のアホさに脱力する事
なんかも知らずにのうのうと暮らしていた。
で、先の記述の通り、脱力するんですけどね。
後の祭りです。で、もう見ない事にしよう!と思ったのだが、
そうそう上手く行かないのが世の中である。
前回登録した時は、誰からも一度もお便りを頂かなかったが、
今回は二人の人からお便りを頂いた。
お一人は中学生の同級生で、
もう一人の方は小学校の5年生の時に同じクラスの方だった
らしい。
なぜ”らしい”なのか?
はい、私は何も覚えていなかったからです。
これっていうのは、とても衝撃的な事である。
私は、実を言うと、なかなか記憶力が良い、と自分で
この日まで信じて疑っていなかった。
この日、と言うのは5年生の時に同じクラスだった・・・、
そうだな、ここでは仮にM君としておこう・・・そのM君から
お便りを貰った日の事なのだが、
その日を境に私は、自分が自分でないような気持ちになっている。
先にお便りを頂いたのは中学の同級生の方だったのだが、
中学校のその学年は生徒数が800人位いたので、
そこで覚えていられなくっても仕方がない、と
自分で自分を良しとしてた。
(「同じクラスになった事ありましたよね、
覚えてますか?」という件では、ちょっとひるんだが)
だが、M君からのお便りはそんなあまえを私に許しはしなかった。
なぜなら、小学校なんてその3分の1しか生徒もいなかったし。
M君は5年生の最後まで一緒のクラスにいて、
その後、スクールイヤーが終わると共に
隣町へと引越しをして行かれたらしい。
クラスでは、どうやらきちんとお別れ会をやったし、
みんなで色紙に一言ずつ書いて、それを贈ったりもしたらしい。
私も書いたのだろうか?
書いたのなら、何と書いたのだろうか?
それとも、私、休んでいたのか?
だが、この記憶は確かだと思うのだが、
当時の私は悲しい位に頑丈だったような気がする。
その他、M君のお便りには、なつかしい男の子達の名前もあった。
だが、強烈に覚えているのは、I君だけで、
他の男の子達の事は、ややや・・・と思い出すのに
時間がかかったりした。
I君は忘れたくても忘れられない人である。
小学校1年から6年までずっと同じクラスで、
彼は物凄く頭が良かった。
2年生の時、社会科の時間に班で話し合いを
するから机をひっつけて、と言われて隣になったのが
I君だった。その時に何を話したのかは忘れたが、
I君が、
「消防車の赤色は他の車に使えないんだよ」と教えてくれた。
アホな私は、内心”んな事ある訳ないやろ。赤は赤や”と
思ったのだが、後年それが本当だと知り、
「恐るべし、I」と口に出して言わずにおれなかった。
それに、男女がまだ意識をしないでいられた最後の年くらいに
いた私達は良い遊び友達でもあった。(8歳とか7歳でした)
ある日、小学校の前の道を歩いていると、
I君のお姉さんが向こうから歩いて来られた。
したら、男子が一斉に、
「インド人もびっくりI○○子」と歌ってからかうのである。
私がびっくりして黙っていると、
I君もニヤニヤしながら黙っていた。
だが、お姉さんはすれ違いざまに、
「○○○、あんた、覚えときや」と不敵な笑みを洩らしつつ、
I君に向かってささやいた。
こっわー!ドキドキした。大丈夫なんか!?
なので、覚えている。あまりにも強烈だったから。
後、私が覚えている5年生の時の事と言えば、
プールの掃除。水を抜いて、プールの底をゴシゴシと
掃除するのだが、その水が中々抜けなくて、
私達がプールへ降りた時には、まだ足首より上にまで
水が残っていた。それが嬉しくて、嬉しくて、
キラキラと水しぶきの1滴、1滴までもが
特殊効果の如く良い感じに記憶に残っている。
それから高野山への林間学校。
私的には、実を言うと、臨海学校へ行きたかったのだが、
私の小学校は例年、「林間学校」だった。
たった1泊2日だったと思ったのに、
なんと長い1泊2日だった事か。
バスの中でいっぱい歌を歌った。
後、胡麻豆腐が超うまだった。
そうして、「肝だめし」が半端なく怖かった。
人前であんなに泣いた事はなかったと思う。
日暮れ前にお寺のお庭に集められて、
校長までもが陰鬱な暗い声で怖い話をしおってからに、
一体あれに何の意味があったのか、未だ理解しきれない私である。
今思い出しても怖い。
絶対にあの時、お札を貰いに上の墓地へ行った人の
内何人かは霊を連れて帰ったに違いない、と思っている。
ええ、私は行きませんでした。
どさくさに紛れて。途中まで優しい誰かに励まされて
行ったような記憶があるが、逃げました、
すっかり暗闇に入る寸前の所で。
今でも行けるかなぁ、と疑問です。めっちゃ怖い。
そんな私は、そういう狡い所のある女の子だった。
わがままで意地悪(今もやけど)。
今なら、しゃべるのも冗談を言うのも好きだが、
その当時は、冗談の通じない、心の偏狭な女の子でもあった。
また、超負けず嫌い。気が強い(これも今もやけど)。
一度、F君という子とクラスで言い争いになって、
「なんやねん、この○○ノック(はいー、私の旧姓です)!」と
罵られたお返しに、「うるさい、このエンピツ!」と
その子が一番嫌っていたあだ名で応酬した事がある。
F君は地団駄を踏んで悔しがり、
「だからお前はみんなから嫌われるねん!!!」と
言われた事もある。それは、さすがに超悲しかった。
心のどこかで「ほんまやね」と自分で自分に納得したからだ。
2年ずつの持ち上がりだったので、
6年生もメンバー変わらずでそのまま担任の先生も一緒だったが、
正直、身から出た錆ってな感じで、
小学校の最後の年は良い思い出はない。
だが、担任の先生とは、今でも思い出すと涙目になるような
思い出がある。先生もどうしたらいいのかな、と
思っていたのかもしれないな。
若い先生でした。たったの24歳だったと思う。
ありがとう、と思う。
一体、M君には私はどういう風に映っていたのだろうか。
顔もぶっさいくやったし(眉毛がなかった、腹だけ出てた)、
頭も悪かったし、運動も苦手、その上根性めちゃ曲がり。
なんか、恥ずかしいなぁ、と思う。
旅の恥はかき捨てやったんとちゃうんかいなぁ、あ〜あ、
ってな感じである。でも、そういう事はおくびにも
出さずに明るくメールをくれて、
私に脳味噌のリハビリをさせてくれてありがとう、と言いたい。
で、できれば、ぜひ思い出したいと思いますので、
思い出すまで待っておって下さい。
(実を言うと、「あ、もしかして、あの子?」と
いう部分まで来ているのだぁー!>って、違ったりして)

0