大阪人にとって、「笑い」は命の次に重要な意味を
持つ様な気がしてならない。
昔から伝統のある泥臭い上方落語から、
今でも愛されている漫才に到るまで、
「笑い」という物への飽くなき追求は、今も尚、
他地方の追随を許さないのが大阪である。
大阪で生まれ育つ、と言う事は、その時点で、
「お笑いセンス」を揉まれる・・・と言う事に直結する。
その際、自分の父母がどこの出身かは大きく運命を
左右するように思われる。
大阪に何代も続いてい生まれた生粋の大阪人か、
私のように父母の出身地が他都道府県かで、
まずそのスタートが変わって来る。
生粋の家庭に生まれ、育った人間は、幼い時から徹底して
親自ら語られるアホ話を聞いて、
笑いどころを捉える事をこれまた徹底的にしこまれる。
普通の人なら、何でもないような事を、
ツボを押さえつつ、事実を歪曲しないで、
しかし、とても大袈裟に話す術もしこまれる。
自分の父母にも、大抵の場合、ボケと突っ込みという役割が
明確になっているので、その中で育つ子供は、
自然とボケと突っ込みの基本を覚え、
兄弟が多かったりすると、その中で自分がボケになるのか、
突っ込みになるのか、を瞬時に判断できるようになる。
そうして、食事の場は、「笑い」の戦場と化し、
今日あった日常の事をただ話すのではなく、
必ず落ちをつけて話さないといけない。
家族から笑いを取るのは、絶対的な事であって、
その場ですべろうものなら、兄弟達からの
「おもろないねん」というにべもない評価が待っている。
が、私のような家庭に生まれ育つと、
父母共々、そういう環境にないから、笑いの訓練は行われない。
だから、はっきり言って、小学校の間は、
生粋大阪人の間で息も絶え絶えに、
意味も分らず、「お笑い」の修行を積まされる事になる。
その上、相手を陥れての落ちという、上級編の手練手管も
連発されるから、自分のセンスが育っていないと、
腹が立って、ボケる、もしくは突っ込んで笑いを取れる
最高の機会を、無意識に潰してしまって、
顰蹙を買う事にもなる。
だが、そんな生活を6年間続けてみたまえ。
中学に上がる頃にはいっぱしのボケ・突っ込み技術を学校で覚え、
知らない内に、自分も笑いを取っている事があるから、
自分でも驚いてしまう。
しかも、あの「笑い」がドッカーーーンと来た時の爽快感。
あれは、体験した者にしか分らない快感である。
そう言った訳で、例え他都道府県の父母から生まれたとしても、
大阪で切磋琢磨されて育った人間は、
スロースターターではあっても、
ほとんどの場合、お笑い上級者になれるのである。
こうやって書いて来た所からも汲みされると思うのだが、
それ位に大阪人は「笑う」という事に重きを置いているから、
笑いどころが分らない人間には、めっちゃ腹が立ちます。
実を言うと、落しどころで、
「はぁ〜、そうだったんですか」と生真面目に返すような
お笑いセンスゼロの人間に行き当たったなら、
「今は笑う所じゃ、ボケッ!」と頭をはたきたくなる。
もう、暴力を持ってしてでも、笑って頂かないと!と言う、
強烈なジレンマに陥るのである。
そうして、人の集まる所では、もう笑いを取る事を念頭に
話をし始める。お互いに笑かしてなんぼやねんから、と、
拍車をかけて舌を動かす。
時にはボケになり、時には突っ込みになり、
五感肢体をくまなく用い、
自由自在に自分を操り、抜け目無く立ち回る。
つまらない日常に華を添え、
何気ない単語に食らいつき、
噛んだりした人間にもピラニアのように食らいつき、
・・・ああ、宴が終った後は、
テニスを二試合した位に息が切れている事さえある。
私の知り合いに、横浜出身の女の子がいて、
もの凄く良い人だし、笑いのセンスが無い訳ではないのだが、
話に落ちのない人がいた。
その彼女、仕事の関係で大阪支店の人とご飯を食べたら、
食事の終りかけに、
「君、君、笑いどころは分ってるけど、
話に落ちがないわ。僕、いつ落ちがあるんか落ちがあるんか
思て、長い事聞いとったのに、そらあかんでぇ〜。
時間の無駄やがな」と言われたらしい。
「そんな風に言われちゃったんですよぉ〜」と彼女は笑いながら
言い、私も「そうだったんだぁ〜」と笑いながら頷いたが、
心の中は、
「おっさん〜〜〜、よう言うたってくれた、
よう言うたってくれたわぁ〜!
あんた、私もずっと前から思とった事やねん!」と、
大笑いの末の拍手喝采だった。
大阪以外の人が大阪に来て、一番驚くのが、
電車の中の模様らしい。みんな一様に声がでかい、と言う。
地下鉄みたいに騒音が激しい所でも、
しゃべらなあかんから、ついつい声が大きくなってしまうのだ。
そうして、どの人もボケと突っ込みを電車の中でまでも
演じていて、どんなきれいなお姉さんとて、
「なんでやん、あんた、いい加減にしときよ」と、
手の甲で相手の鎖骨下付近をポンを打ったりしている。
もっと恐ろしい事には、
yukoさんのブログにもある通り、
一人でもしゃべるおっさんがいたりする。
大抵は、意味不明な事を口ずさんでいるのだが、
怪訝な顔をする人間は、大阪の人間の中にはあまりいない。
「何を言うとるんやろう」と、大阪人の頭の中は、
文字変換に大忙しとなっている率の方が高いからだ。
で、その意味不明の言葉の内容に行き着くと、
嬉しかったりするので、
ニヤリと意味なく笑ってしまったりもする。
そのおっさんが何故にそこでその言葉を発せねば
ならなかったのかは、依然謎である事に変わりはないのだが、
喜びの方が勝ってしまうのだ。
私は、長く関東に住んだが、ついぞ一度として、
そういうおっさんに出会った事はない。
その上、大阪出身の有名人に会うと、つい声をかけてしまう。
私は一度、円広志さんに出会ったが、
ついつい「いやぁ〜、円さんっ、元気やったぁ〜?」と
声をかけてしまい、円さんも円さんで、
「元気やったわぁ〜、あんたもどないな?」と言ったもんだから、
そこで30分位、まるで旧知の仲の様に話してしまった。
ま、その頃の私はすれ違う人も振り返る程の美人だったから〜。
・・・って、誰やねん。
そうして、今日も大阪人は自分を陥れ、相手を陥れ、
ボケになったり、突っ込みになったりと忙しく、
はたまた、独り言をつぶやいて、
芸人でもないのに、『お笑い人生』に命を燃やすのだ。
さぁ、そこのあなた。
大阪人と話す時は要注意。
笑いどころを逃すと、どつかれまっせ。
こちとら命がけやねんから、よう笑ときよーーー。

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