予告通りに、アメリカにおいて子供を育てる事について
書こうと思い、何度も何度もやってみたのだが、
どうもダラダラと長くなり、きちんとまとまらない。
ようやっと、これについて書こうかな、と思った所、
ほぼ書き上がった所で、テキストが消滅・・・。
でも、今ではあれをアップしないで良かったんだな、と思う。
・・・・・、事にする。
色々と思う所は沢山あるのだが、
私が子供をアメリカで育てていながら思う、
『バイリンガル』とはなんぞやについて書く事にする。
それが、ひいてはアメリカで子供を育てる事にも
繋がって行くのではないか、と思うからだ。
バイリンガルとは、二つの言葉を自由自在に操る事を
意味するのだと思うが、そういった意味では、
我が家の子供達は全員バイリンガルだと言えない事もない。
日本語を話せば、一見一聞では何の訛もない、
標準的な日本語を話す。
英語を話せば、顔さえ見なければ、白人アメリカ人を
連想させるような英語を話す。
だが、私は厳密に言うと、言語学的見地では、
彼らはバイリンガルとは言えないと思っている。
バイリンガルと言うには、日本語のレベルが低すぎて、
自由自在に操るとは、もはや言えないからである。
だが、バイリンガルとは本当に言語能力のみの追求を
言うのであろうか?
私は常々思うのだが、本当のバイリンガルとは、
言語能力のみならず、その言葉を話す時に、その言葉が
話される国の文化、習慣を受け入れ、心からその国に
共感できる姿勢をもっている人間の事を
いうのではないだろうか。
人はバイリンガルを育てる、という時、往々にして
言語能力のみに関心を払いがちだが、
本当は、その国の文化や、自分がそういう風に感じる、
考える、という事は二の次の問題としても、
それらを心から尊重する姿勢を育てなければ、
片手落ちも甚だしいのではないか、と感じている。
私達は、アメリカ合衆国へ移住を果たした早々に、
子供のアイデンティティーの確立と、
どういう風に今後日本語と向合って行くべきか、について、
嫌が追うにも考え、決定を下さねばならない状況に
追いやられたので、言語的見地において
「バイリンガルを育てる」という観念は全く抱かずに
ここまでやって来た。
しかし、言語的能力という意味においては、
バイリンガル教育を施す事はなかったのだが、
子供達の「日本人である」というアイデンティティーを
確立した時点で、文化的背景における
バイリンガル教育効果を得られてたんじゃないかな。と。
彼らは「腐っても日本人」だという
自負があるので、兄弟姉妹同士英語で会話をしたとしても、
日本語をすっかり忘れてしまう、いう事態にも陥らなかった。
その上、日本人だと思っているので、脈々と日本人としての
文化や思考も上手い具合に、そのアメリカナイズされた
脳みその中にスペースを見つけて巣食っている。
これは、副産物的結果論で、最初からこうなると
分っていた訳ではないのだが、私が思うに、
彼らの日本語は移住した時点から恐ろしい程に成長の
後がないにも拘らず、私が思う本当の意味でのバイリンガルに
一番近い所にいるのではないだろうか、と。
話す事が残っている彼らは、
「そうなりたい!」と思った時点で日本語の読み書きを
習得する事は可能である。語彙を増やす事も、
一から日本語を学習する人間に比べれば、ある程度の
易しさは約束されている。
私自身も30歳を過ぎてから、英語の読み書きを勉強し、
それでネイティブと肩を並べて大学の授業に出れたのだから、
その点に間違いはないだろう。
その上、何と言っても一番の強みは、
『私は日本人だ』という彼らの中を担う核心である。
今の状態では決して彼らはバイリンガルではないし、
また、後々にも彼ら自身がそれを望まなければ、
彼らがバイリンガルになる事はない。
だが、我が家は我が家で、その選択肢は上手く残せたのでは
ないだろうか、と、私はあの時の苦しい中で
深く考えた状況を今になって、
「色々あって良かったのかもしれない」と思うのだ。
しかし、私は何もバイリンガルを育てる為に、
日本語を自分の子供達に教え導く親御さんを間違いだ、と
言うのではない。それはそれで、後々になってお子さん達は
きっと深く深く感謝されるだろうし、
今の苦労は後の幸せに必ず繋がると祈りたい。
こちらにコメントを残して下さったTAMAさんが
ご自分のお子さんの「セミリンガル」状態を
嘆いていらっしゃるのも、同じ様に高校時代を本当に
ただただ生きていただけの娘を持っていた親として、
深く共感する。だが、その反面、この育って行く過程にいる
お子さんを称して「セミリンガル」と心配されるのも、
「いやいや何をおっしゃる」と思うのも本当の事。
そもそも、我が家の子供達がネイティブな程度に
英語を習得するに到ったのは、日本語なんか微塵も心配せず、
ただただ英語のみに傾倒し、その中で溺れる程の時間を、
つまりは、TAMAさんちのお子さんが日本語に注ぐどんな
些細な時間をもうちは英語に注い事による結果だ。
その代わりに、TAMAさん宅のお子さんが今でも
日本語、英語両書を楽しむ時、我が家の子供達には
そんな芸当は出来よう筈もなく、英書のみにその楽しみは
制限されている。
また、セミリンガルにもなろうものよ、とも思う。
しかし、それは過程にあってのセミリンガルで、
いつまでもセミリンガルである訳がない、とは私の意見である。
先ず、言語は奥が深い。やればやる程、やらねばならん事、
知らねばならん事が泉の様に溢れ出て来る。
それを同時に二カ国語!である。
一カ国語でも頭が捩じれそうなのに、そこにもう一つ、
ねじねじとねじ込まれるのだ。
一過性セミリンガルにもなります。当然です。
結果が出るのは、もうちょっと先だ。
今は情報時代。
何をしても、何を選んでも、外野の声がうるさい時がある。
「どうして、うちはこうならないの?」
「うちの子供は、普通より劣ってる?」
そういう悩みに、心から悩まされる事も多くなる。
だが、この地で子供を育てる時、一番大切なのは、
『隣とうちを比べない』という絶対的なコミットメントだ。
「こうする」と決めたら、誰が何と言おうと、
「こうする」しかないのだ。
我が娘が高校で暗く、友達もなく過ごしたからと言って、
それで娘の真価が問われるのか?いや、とんでもない。
そんな高校の3年や4年で決められてたまるか!
その為に親はおるのだ。
本当の真価を耳元で囁くために、親はおるのだ。
見てごらんなさい、あんなに暗く高校へ行っていた娘も
今ではあんなに明るく大学へ行っている。
英語もすっごく上手になったよ!
何があっても、親が子供の慰めであり、また可哀想な時期にも
心を鬼にして間違っている事は間違っている、と
叱咤するのは、住んでいる国がどこだろうとその事には
変化はない。だが、まるでこの国で上手く
馴染んでいるかどうかのバロメーターの如くに、
ここでは『英語・日本語』という問題がついて来る。
それは、しかし、アメリカに住む日本人の問題のようであって、
実は、個々それぞれの問題、選択による問題に違いがないのだ。
それが『子供にとって良かろう』と思って選択したのなら、
本当に良くなる事を信じて、早急な結果を求めず、
その人が30歳になった時の姿を思い浮かべつつ、
それを全うするしかないのだ。
が、忘れてならないのは、私がどんなに必至に子供に
その信じる所を提供したとて、最後にそれを取るのか、
捨てるのかは、子供の選択にかかっているという事だ。
重ね重ね言うが、子供の人生は私のものではないからだ。
「私は子供により広い門戸を用意してあげておく、
それを選ぶも選ばないも、それはあなた次第」と思って、
何事も精進するがよろしい。
移民の子供は、そう思うより仕方が無い。
それ程までに、アメリカと日本は、異質な国なのだ。
それを受け入れ、口に出して言ってみる事が、
この国と我が母国とを繋ぐ、あるかなしかのパイプに
なるのではないだろうか。
つまりは、絶対的なアンコンディショナル・ラブなんだな。

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