私は子育てをするにあたって、ほとんど子育て本と呼ばれる本は
読まずに来た。毛利子来(もうり・たねき)小児科医の
『赤ちゃんのいる暮らし』、『小さな子のいる暮らし』は
近所に住んでいた先輩お母さんから頂いて、
それは隅々まで繰り返し繰り返し読んだけれど。
だけど、こうやって育てるのが良いとか
こういう風にしないとダメだ、とか、そういうのは
一切読まなかった。興味がなかったのもあるし、
読んでも「そうなんだ」と思う前に、
「そうそう、それ、共感します」と思うか、
「いや、それは違うと思うな」と思うかのどちらかだった。
20歳の頃から子育てをしていて、
もちろん、沢山沢山失敗もした。
教会に通っていたので、陰日向で私の母親ぶりは
同じ教会員の先輩お母さん達からひどく批判されたりもした。
若いという理由だけで色眼鏡で見る人もいたし、
私の本当に足りない所を心配して所見を述べて下さる方もいた。
一番苦しんだのは、長女を愛せない、と思っていた時だ。
彼女は実際、素晴らしい所を多く持った人であったにも
拘らず、私は愛の言葉をかけたり、表現したり、
長所のみならず、短所も含めて愛する、という事が出来なかった。
そして、それは私のせいではなく、全て長女の落ち度なのだと
私は意地をはっていたように思う。
だが、ある日、先輩お母さんの一人に
「それはあなたの落ち度、あなたの失敗だ」とはっきりと言われた。
もちろん、当時27歳になるかならないかの私は、
「私だけの責任?」と問い返したのだが、
その先輩お母さんは「そうよ、あなたが100%悪い」と
はっきりと言った。
晴天の霹靂のような言葉だった。
「そうなのかなぁ」と口を尖らせながら、私は自分の弁護に
躍起になったような記憶があるのだが、でも、
その人の言葉は私の心の奥深い所で長く長く残る事となった。
転機はそれから3年後にやって来る。
ひょんな事から「本当だ、自分が悪いんだ」と思ったら、
とても素直に「ごめんね、愛、お母さんが悪かったかも」と
謝罪の言葉がポロポロと出た。
その謝罪の言葉は、もちろん、表面上はその問題に関してのみの
言葉であったのだが、どういう訳か、私の中では
今までの私のひどい仕打ちの全てに対する言葉として、
後々に意味を持つ様になった。
そこから私達は二人の間に広がっていた溝を埋める事に
一生懸命になり、何年にも渡って築かれずにいた信頼関係を
夢中になって、取り戻すかの様に築き合った様に思う。
今では、その当時の冷戦期間を話し合える余裕も出来たし、
スタートが遅かった割に、なかなか良い関係になったな、と
自画自賛をしたりもする。
愛の心に私がつけた傷が本当に癒えたかどうかは、
別の話しにしても・・・。
どうして、私は子供と言えども別の人格である他人を傷つけても
人を愛する事ができなかったのだろうか、と今になって
振り返る事がある。その時に思うのは、
私は自分で自分を愛する事ができなかったんだな、と思うのだ。
自分を愛せない人間は、他人を愛する事など絶対に出来ない。
それは、単に好きになるとか、それだけでなく、
それ以上の意味があるのだ。
自分の短気を冷静に見つめて、出来る事は出来ると言えて、
自分が頑張った時には「よく出来たね、頑張ったね」と
褒めて上げれる人が他人を愛する事にも長けているのではないか。
私はそれから子供達を褒める事に躊躇がなくなったのだと思う。
褒め方はどうだっていい。自分が自分のやり方、その時の立場、
心のあり方に添って、一生懸命褒めてあげればいい。
親子の関係は、その時代、時代でどんどん変わる。
ふと気づけば、私が子供達に反対に「良く出来たねぇ」と
褒められている時代に突入している。
そうなのだ。親が親として100%主人公的に褒める事の
出来る時代は、思っている以上に短いのだ。
家族の中でお互いに褒め合って私達は成長する。
その土台を築くのが、親の勤めであるのかもしれない。
その為には、私が私を愛せないと話しが始まらないのだ。
それは、何も、お顔の中身が良いとか、スタイルが良いとか、
頭が良いとかそういう事ではないのだ。
私の意地が悪い部分、短気な部分、せっかちな部分も含めて、
それを赦し、それを克服しようとする自分を褒めてあげたく
なる、そういう気持ちが人には必要なのだ。
長女はそれを私にその全存在をかけて、
教え続けてくれている様に思うのだ。
感謝しても、しきれないです。はい。
その謝罪の言葉は、きっと私を赦す言葉でもあったのかも。
「ごめんなさい」は、他人だけでなく、
自分の心も癒すんだな。
そうして、思いも寄らなかった『愛』へと繋がりますから。

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