この度、英語は教育がテーマで、性別関連の読み物から
今や教育関連の読み物に移行し、これまた
「これでもかっ!これでもかっ!これでもかっ!」と
死ぬ程読んでいる。もう、目がしょぼしょぼ。
だが、性別関連物より余程興味があるので面白い。
私はアメリカの学校システムは日本の物より相当良い、と
思っている。もちろん、メリットばかりでデメリットが
一つもない、とは思わないが、日本よりも余程物事を
掘り下げて考えるし、掘り下げて書かせるし、
そもそも学問とは何ぞや、を幼少の頃より身に付かせる
システムが日本よりも余程充実している、と思っている。
しかし、世の中この様に進歩し改善されて行くのは、
何事にでも改善点を見つけて、それを口にされるリベラルな
方が沢山おられるからなんだな、とまたもや改めて思った。
それ位に公立の学校システムにダメ出しする方が多いのだ。
その方々の言い分は、まだ2つしかアーティクル読み終わって
いないけれど、つまりアメリカの学校教育は子供達に
自分で考え、自分で決断し、自分で人生を切り拓いて行く事を
身につけさせない物で、とても意味のない物だ、と
断罪しているのだ。
感想:「えっ!本当に〜〜〜?」であった。
もうアメリカ学校信者みたいな私には晴天に霹靂な読み物で、
だが、読んで行く内に子供達の学校での『暮らし』と
そこでリポートされている『暮らし』の間にいささかも
大仰なく間違いがなく、いかにもそれは事実の証明であり、
私はアホの様に大口あけて茫然と思考を巡らす糸口を
探さねばならない程の衝撃を受けた。
なんだか、自分は大草原の大地にしっかりと足を踏ん張って
いる気でいたのに、ハッと気づくと、実に足下は崖っぷちで、
しかも足の裏の半分くらい向こう側に出ていて、
カラカラカラカラ・・・等と石ころが落ちて行っている・・、
みたいな状態にいたような気持ちだ。
しかし、もっと怖い、と思ったのは、
このアメリカ教育がダメだったら、一体、日本の教育って?
・・・もう、鳥肌が立った。
アメリカ教育でも問題点として挙げられているのは、
『長い物に簡単に巻かれる人間を育成する』事である。
長い物に簡単に巻かれる人は、あまり深く物事を考えない。
権威に迎合し、他や自己を疎んじる。
物事の決断には、その権威の意思が大いに関係し、
結局の所、権威に迎合するのも自身の決断ではあるが、
しかし、自身という域を完全に抹殺した、あるいは誰かに
簡単に意思決定の責任を転嫁出来る様な決断しか出来ない人間を
多数創造する事にある。
そんな事言われたら、日本なんか、もう終わってるじゃないか、と
膝をついて泣きたくなった。
私の目から見ていると、日本人程『長い物に簡単に巻かれる』人種は
いない。大抵の場合、皆さん、なんでも集団の中の
自分、という立ち位置において物事を考えていらっしゃる。
平気で「それは仕方ない、みんなそうだから」とおっしゃる。
それは規律を乱さない、集団で生活する、という観点においては
大変な美徳だが、しかし、負へ動き始めると、大して深い意図なく、
大変残酷な決断にいとも簡単に到達する。また、その事実に対して、
多くのそういう方達は深い疑念も抱く事がないのだ。
何故なら、「それは仕方ない、みんなそうだから」で、
自身は「集団の中の一人」だからだ。
ある種のグループに属して行動を取るのは楽な事だ。
自分の存在が、自分の中でさえクローズアップされる事なく、
段々に薄れて行くからだ。
自分の意見を言っているつもりでも、それは誰かその場の権威が
言った事を、反芻しているだけの事もある。
そして、自分の中でさえ自己の確立がしっかりされていないから、
日々の行動の一々が自己の決断によってなされている、という
意識が全くない。そして、その事によって何か不都合が起ると、
大抵の人は自分が負うべき責任をも他人の、社会的に見て弱い
立場におかれるであろう人間に委ねようと試みる。
それは、自己がない、からだ。
常に誰か、それは見えない誰かに頼って生きているからだ。
そして、日本の学校は特に、中高からそれが顕著になる。
もうそろそろ自身の判断で生活せなばならん子供に、
校則をあてがって、いかにも教師、つまり学校生活における権威が
扱いやすい人間の育成に日々力を入れ、
内申書という言葉で子供達を囲い、
ああ、どこまでもその読み物の言う通りな状態ではないか。
どうして日本の人達が簡単に自己を放棄するような言葉を
それと意識せずに言えるのか、
物事を突き詰めて考えない傾向にあるのかが分るような気がした。
人間という物体が一番に柔らかく、感受に富む時期に
知らず知らずの内に「そのようなものだ」と擦り込まれれば、
多くの人達がそうなるのも頷ける、と実感した。
みんながみんなとは言わない。
でも、多くの場合が、自分の経験を踏まえても、そう思うのだ。
あんなに学校に行けない子供達が増えているのにも頷ける。
そういう学校教育に加えて、そういう学校教育で大人になった
人間が意識なく日々の選択を行い、ある程度は責任転嫁しながら
親をやっているのだ。教師も権威。親は奴隷にして権威。
なんて複雑で厄介な状況なんだろう。
学校教育って何だろう?
集団で生活する以上、何かしらの規律を守る必要はあるだろう。
権威を尊重する必要もあるだろう。
でも、どういう状況にあっても、「選択しているのは自分」と
いう芯が体を貫いていたら、そんなに大きく人間のバランスを
崩す事はないのだと思う。
そして、アメリカ人も多くの場合、責任転嫁するのが好きだ。
時として、『アメリカ人』という座を勝手に築き上げて、
日本人なんか足下にも及ばない責任転嫁を繰り広げる。
そういう事なんか、とちょっと納得したりする。
結局、学校教育に人間育成の全てを預ける事なんかできないのだ。
得手不得手はあったとしても、子供に一番最初に一番大きな
影響を与えるのは『親』だ。それは否定し難い事実だ。
そしてバイオロジカルな儀式の果て、期せずして親に
なったにしても、その選択の意味は重くのしかかり、
逃げ出せば悲惨な結末が自分をも含めて複数の人間に降りかかる。
人はどういう選択をするか、で人を判断しがちだ。
でも、本当はその結果にどういう風に向合うかで人を判断すべきだ。
確かに、今の学校教育で、それは教えてはくれん。
増々、親としての責任は重大だ、との結論に達した今日この頃。
学校教育の是非は、その人の学ぶ姿勢で、少なくともカレッジ位
からは変わるんだな。そう、痛感。
何故なら、私は日々、本当に学んでいるから。
こういう事を学んでいるから。

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