自殺する人の多くは、衝動的に自らの命を絶つ、と聞く。
しかし、『衝動的に』死の恐怖を凌駕出来る程の衝動ってなんだろう、と思う。
かつて私は自殺する人の話しを聞くと、
「いやだ、お願いだから生きて。死ぬ事が出来るんだったら、生きて」と
思ったものだ。多分、今でも根本にその感覚は根ざしていて、
その感覚故に自分は自分の生を保持していられるのかもしれない、と思っている。
知り合いに友人を自殺で亡くした人がおり、その人からその亡くなった人の
話しを聞いた時、私はまさしく、文字通り、上記の言葉を言った訳だ。
しかし、それはその人には単なる『正論』と聞こえたに違いない。
なんだか、色々と言われた。私自身が責められている様なき持ちになった。
ただ、正論を振るっている気持ちはない。
ただ、「嫌」なのだ。死を凌駕するその精神が、私にとってきっと謎なのだ。
理解できない。生きる事の方が理解しやすい。
しかし、生きる事も死ぬ事も、思えば、単に人生に五万と溢れる、
選択の一つに過ぎないのにも関わらず。
私は生きるだ、死ぬだ、と大騒ぎをして生きる事を選んでいるのだ。
そして、また悲報を聞いた。
私は考える。
生きる事を衝動的にでもやめさせる心の闇とは何だろう?
だが、闇だと思っているのは、実は私の決め付けで、本当は闇ではない?
闇ではないのではないだろうか。
生きている事こそが闇だから、だから、人は生きる選択を捨てるのではないか。
生きる事は辛い。
他人様から見て、それのどこが辛かろうと思う様な事でも、
時に、その人にとっては大きな問題で、比類のしようもない問題で、
誰かが「もっと大変な事があるんだよ」と説いても、
そんなの何の助けにもならずに、
ただただ全てを飲み込んでしまうブラックホールとして
眼前に広がる、絶望、なのかもしれない。
だから、私から見れば自殺する事は心の闇のなせる事なのだとしても、
その人達にとっては、新たな希望への旅立ちなのかもしれない。
生と死の境界線を越える事によって、その人達は新たな夜明けを迎えるのか。
先日、ある人が自分に言った言葉を思い出したら、突然、涙がこぼれた。
自分でもその意味不明さに泣き笑いし、つくづく、つくづく、
自分でも時々こんな風に自分の事が理解しえない事があるのに、
ましてや、他人の事なんて知り尽くし様もないのだ、と痛感した訳で。
だから、もう、決めつけるのはやめるのだ。
「いやだ、死ぬのは絶対にだめだよ」は自分にのみ言える言葉で、
生きるという闇から解放されて、あちら側に行ってしまった人には、
エールを贈るのではどうだろう。
もし、本当にあの世というのものが存在するのなら、
本当に本当に、ここで生きる事を自分の意思で辞めた人達が
幸せであります様に。楽しい気持ちで満たされています様に。
選択が間違っていなかった、と安堵の吐息で思っています様に。
心がほっこりしてるんだよ、と言えています様に。
そういう風に願って止まない。
心からご冥福を祈ります。

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