2008/10/31
『韓』の字は、葦の繁茂しているという意味では… 隣国との友好と平和
二千年前に韓国南海岸地方に存在していたカヤ韓国のシュロ王に、インドから船に乗って嫁ぎにきた王女がいたという驚くべき伝説を、福岡県自治研の三上禮次先生から伺ってからというもの、私の空想の翼は羽ばたくばかりです。
さて、この少ない情報からいかに西原村おこしに向けて我田引水の話を展開していくか…
嘘から出た真。ホラを吹いているつもりでも色々な事実との整合性を考えてつじつまを合わせていくうちに、真実に接近した説が誕生することがあるかもしれません。だから思いきって空想をたくましくしてみたいと思います。
私の(直感考古学)の手法の一つとして、まずは韓国の【韓】の字を、穴があくほど見つめてみました。
するとあ〜ら不思議・不思議…皆さん!【葦】の字と【韓】の字との共通性に気付きませんか?
韓の字の左側は、絵解きをしてみると背の高い草むらの中に入り込んだ人が、チラチラと太陽が照りつけているのを見ている姿が浮かびます。
右側のつくりは【葦】の字から草冠を差し引いた形をしています。左側が草冠の代わりになりますから、結局【韓】=【葦】ということになりはしないでしょうか。
つまり、【韓】の字は、まさしく豊葦原瑞穂国を一字で表現したものだと私には思えてきました。
あれ?それは日本の美称だったのではないのかな?なぜに韓国の韓の字が?と怪訝に思われるかもしれません。
しかし、世界地図で顔をインドにくっつけるようにしてから日本の方向を見てみれば、韓国も日本も区別はつきません。
あるいは豊萱(かや)原…
古代人にとって屋根を葺く大事な建材である葦とか萱が、付近に豊富にあるかどうかは、インドや東南アジアなどから移住してきた南方系の民族にとっては、定住できるかどうかを考える時、建材が手に入るかどうかは、大事な要素だったに違いないと思うのです。
なぜに吉野ヶ里は佐賀県のあの場所なのか…当時は、今よりずいぶん海面があがっていた時代でしょうが、有明海の干潟に面して葦や萱は、そのあたりまでたくさん繁茂していたに違いありません…
干潟は同時に、攻めにくさがあり、天然の防塁としても重宝がったのではないでしょうか。
邪馬台国が島原にあったという宮崎康平氏の論を映画『マボロシの邪馬台国』の中でどのように展開されるのか楽しみではありますが、私は天草と島原との狭い水道は、敵の侵入を防ぐ最前線であったろうと思います。
つまり陸の視点でばかり邪馬台国を探そうとすれば、ポイントを考えてしまいますが、インドや東南アジアあたりから海を越えてやってきた海洋民族であったとしたら、海からの視点をもっていたであろうと思います。
これは熊日新聞で紹介されていた、誰かの言の受け売りではありますが、直感考古学の私も本当だと思います。
つまり海からの防衛の要に位置していた、島原と天草との間の両側は、広大な邪馬台国の一部であったのではないかと思います。
もちろん筑後川や菊池川や白川・緑川の遡って湧水地を確保したでしょうから、お池さんのような腐らない水の確保は、海洋民族にとっては最優先であったことでしょう。
つまり西原村のお池さんという場所は、邪馬台国の聖地であったでしょうし俵山を聖なる山として崇めたに違いないのです。
お池さんのすぐ近くにツンガ塚または馬頭山という、意味深な名前の古墳みたいな不思議な形をした丘があります。
誰か邪馬台国の卑弥呼と言わないまでも、誰か古代王朝の要人が眠っているのかもしれません。
つまり西原村も邪馬台国であったに違いないのです。
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さて、この少ない情報からいかに西原村おこしに向けて我田引水の話を展開していくか…
嘘から出た真。ホラを吹いているつもりでも色々な事実との整合性を考えてつじつまを合わせていくうちに、真実に接近した説が誕生することがあるかもしれません。だから思いきって空想をたくましくしてみたいと思います。
私の(直感考古学)の手法の一つとして、まずは韓国の【韓】の字を、穴があくほど見つめてみました。
するとあ〜ら不思議・不思議…皆さん!【葦】の字と【韓】の字との共通性に気付きませんか?
韓の字の左側は、絵解きをしてみると背の高い草むらの中に入り込んだ人が、チラチラと太陽が照りつけているのを見ている姿が浮かびます。
右側のつくりは【葦】の字から草冠を差し引いた形をしています。左側が草冠の代わりになりますから、結局【韓】=【葦】ということになりはしないでしょうか。
つまり、【韓】の字は、まさしく豊葦原瑞穂国を一字で表現したものだと私には思えてきました。
あれ?それは日本の美称だったのではないのかな?なぜに韓国の韓の字が?と怪訝に思われるかもしれません。
しかし、世界地図で顔をインドにくっつけるようにしてから日本の方向を見てみれば、韓国も日本も区別はつきません。
あるいは豊萱(かや)原…
古代人にとって屋根を葺く大事な建材である葦とか萱が、付近に豊富にあるかどうかは、インドや東南アジアなどから移住してきた南方系の民族にとっては、定住できるかどうかを考える時、建材が手に入るかどうかは、大事な要素だったに違いないと思うのです。
なぜに吉野ヶ里は佐賀県のあの場所なのか…当時は、今よりずいぶん海面があがっていた時代でしょうが、有明海の干潟に面して葦や萱は、そのあたりまでたくさん繁茂していたに違いありません…
干潟は同時に、攻めにくさがあり、天然の防塁としても重宝がったのではないでしょうか。
邪馬台国が島原にあったという宮崎康平氏の論を映画『マボロシの邪馬台国』の中でどのように展開されるのか楽しみではありますが、私は天草と島原との狭い水道は、敵の侵入を防ぐ最前線であったろうと思います。
つまり陸の視点でばかり邪馬台国を探そうとすれば、ポイントを考えてしまいますが、インドや東南アジアあたりから海を越えてやってきた海洋民族であったとしたら、海からの視点をもっていたであろうと思います。
これは熊日新聞で紹介されていた、誰かの言の受け売りではありますが、直感考古学の私も本当だと思います。
つまり海からの防衛の要に位置していた、島原と天草との間の両側は、広大な邪馬台国の一部であったのではないかと思います。
もちろん筑後川や菊池川や白川・緑川の遡って湧水地を確保したでしょうから、お池さんのような腐らない水の確保は、海洋民族にとっては最優先であったことでしょう。
つまり西原村のお池さんという場所は、邪馬台国の聖地であったでしょうし俵山を聖なる山として崇めたに違いないのです。
お池さんのすぐ近くにツンガ塚または馬頭山という、意味深な名前の古墳みたいな不思議な形をした丘があります。
誰か邪馬台国の卑弥呼と言わないまでも、誰か古代王朝の要人が眠っているのかもしれません。
つまり西原村も邪馬台国であったに違いないのです。

2008/10/30
畜産臭気対策会議・乳酸菌を投与してモニターが効果をチェックする 村のあちこち村おこし
今日は、役場太会議室で畜産臭気対策会議が午前10時から開かれました。
『乳酸パワー』を豚の餌に混ぜて腸内の改善を図りながら、どれだけ周辺の臭気が改善されるのかをモニターを選んで測定協力を求めることになりました。
高遊と化粧塚に挟まれた一ヶ所の豚舎が、実験場として三ヶ月にわたってモニター十名ほどが臭いの強度と快・不快の度合いをA・B・Cの決められた地点まで出かけて行って毎日記録していくのです。
私も地元議員として会議に参加はしたのですが、後で嗅覚に自信がないので家内とバトンタッチをしたいと申し出て了承されました。
乳酸菌を飼料に混ぜて豚に与えることは、排泄物の臭気を無くすばかりか豚を健康にして病気によるロスをなくし、良質の肉を出すことができるという計算ができれば、多少の経費増を乗り越える勇気が経営者に生まれるのではないかと思います。
その上で、村としてどれくらいの補助ができるかどうかの検討が行われるべきだと思います。
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『乳酸パワー』を豚の餌に混ぜて腸内の改善を図りながら、どれだけ周辺の臭気が改善されるのかをモニターを選んで測定協力を求めることになりました。
高遊と化粧塚に挟まれた一ヶ所の豚舎が、実験場として三ヶ月にわたってモニター十名ほどが臭いの強度と快・不快の度合いをA・B・Cの決められた地点まで出かけて行って毎日記録していくのです。
私も地元議員として会議に参加はしたのですが、後で嗅覚に自信がないので家内とバトンタッチをしたいと申し出て了承されました。
乳酸菌を飼料に混ぜて豚に与えることは、排泄物の臭気を無くすばかりか豚を健康にして病気によるロスをなくし、良質の肉を出すことができるという計算ができれば、多少の経費増を乗り越える勇気が経営者に生まれるのではないかと思います。
その上で、村としてどれくらいの補助ができるかどうかの検討が行われるべきだと思います。

2008/10/29
鰯雲の秋空は賑やかに去っていく…空中戦の思い出とともに 村のあちこち村おこし
大空に 近道はなし 鰯雲
五十嵐哲也
大空には近道だらけで、一直線に飛べるはずなのに、この五十嵐哲也さんの俳句はなんだろうとジッと見た時にハッとさせられ、想像の翼が羽ばたきました。
確かに鰯雲が高く低く違う方向に流れていく空の風景は、ぶつからないように飛ぼうと思ったら右に左に迂回しなければなりません。
もちろん飛行機なら鰯雲にはおかまいなしに飛べるのでしょうが、鰯雲の存在感に圧倒されて避けながら飛びたいのでしょう。
いつの間にか飛行機の操縦席にまで、想像の翼は連れて行ってくれました。
地上から視線を送る自分と、空中のコックピットから首を回して上下左右・斜めを見回している自分とが二重映しに浮かんできました。
ゼロ戦の操縦桿を握る白いマフラーです。鰯雲の動きを避けながら飛べるのは、宙返りもできるゼロ戦です。
(平和のためにあなたは働いてくれているだろうか)
空のかなたのあなたは私を見下ろしていますね。
空いっぱいに広がる鰯雲は、かつてのB29の太編隊でしょうか…
阿蘇の上空でB29に体当たりした紫電改と墜落しゆくB29から落下傘が次々と開いて降りる光景まで見えてきます。
『大空に』の一言だけで、空中戦に散った無数のたぎる命が、浮かんできます。
あなたたちはあの世でもう還暦を過ぎました。続々とこの地上に生まれ変わって、戦争のない世の中をつくるために一緒に立ち上がってくれないだろうか…
大空に 近道はなし 鰯雲
五十嵐哲也
そう、地上にも近道はなし。
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五十嵐哲也
大空には近道だらけで、一直線に飛べるはずなのに、この五十嵐哲也さんの俳句はなんだろうとジッと見た時にハッとさせられ、想像の翼が羽ばたきました。
確かに鰯雲が高く低く違う方向に流れていく空の風景は、ぶつからないように飛ぼうと思ったら右に左に迂回しなければなりません。
もちろん飛行機なら鰯雲にはおかまいなしに飛べるのでしょうが、鰯雲の存在感に圧倒されて避けながら飛びたいのでしょう。
いつの間にか飛行機の操縦席にまで、想像の翼は連れて行ってくれました。
地上から視線を送る自分と、空中のコックピットから首を回して上下左右・斜めを見回している自分とが二重映しに浮かんできました。
ゼロ戦の操縦桿を握る白いマフラーです。鰯雲の動きを避けながら飛べるのは、宙返りもできるゼロ戦です。
(平和のためにあなたは働いてくれているだろうか)
空のかなたのあなたは私を見下ろしていますね。
空いっぱいに広がる鰯雲は、かつてのB29の太編隊でしょうか…
阿蘇の上空でB29に体当たりした紫電改と墜落しゆくB29から落下傘が次々と開いて降りる光景まで見えてきます。
『大空に』の一言だけで、空中戦に散った無数のたぎる命が、浮かんできます。
あなたたちはあの世でもう還暦を過ぎました。続々とこの地上に生まれ変わって、戦争のない世の中をつくるために一緒に立ち上がってくれないだろうか…
大空に 近道はなし 鰯雲
五十嵐哲也
そう、地上にも近道はなし。

2008/10/29
カヤの国と西原村 村のあちこち村おこし
伽耶(ニンベン付き)の国が、かつて韓国南海岸の釜山寄りにあったと言います。
カヤの国とは、インドのお釈迦様が修行したブダガヤのガヤかもしれないし、『豊芦(アシ)原の瑞穂の国』の向こうを張って、『豊萱(カヤ)原の瑞穂の国』というのでしょうか。また、インドの王宮の寝室につっていたであろう蚊帳に因んだのでしょうか。
やけに日本語みたいな地名ではあります。
そういえば筑紫の国にはツクシが春にたくさん頭を出していたのかもしれないと想像させるし、阿波の国は(粟の国)、それとも鳴門の渦潮の(泡の国)なのか?両方かけたのかもしれません。
さらに紀の国には確かに今でも『木』がたくさん生えているようです。
伯耆の国は、箒の国でしょうか。伊予と湯は何となく…音が似ているようで…
地名にはしきりに植物を意味するヤマト言葉がつく例があまりにも多く目につきます。
伽耶の国の初代首露(シュロ)王は金の卵から生まれたという伝説があり、金氏の流れの源流のひとつになっているとか言いますが、しかしまあシュロ王とは南の国の植物を思わせます。偶然でしょうか?
その王のもとにインドのアユタ国の王女がはるばる船に乗って、嫁ぎにきたという話が、三国遺事に書いてあるという。
私は名前からしてシュロ王自身もひょっとして南の地方出身なのかもと感じるのですが…
王女が仏教に帰依していたとしたらブダガヤのカヤが語源かもしれません。ならば仏教伝来は、公伝よりもかなり早かったのかも…日本へも…
そう言えば思いあたる節は韓国の将棋(チャンギ)には、中国のシアンチーにも日本の将棋にもない象の駒があるのは、インド生まれの王妃が船旅の退屈しのぎに持ち込んだ光景までおぼろに浮かんできます。
ともかくこのカヤの国は、やがて滅ぼされ日本に多数逃れてきたらしい。
つまり、九州のどこかに集団移住をしたに違いありません。
中国のシアンチーの駒はみな丸くて同じ大きさなのに、韓国のチャンギは太・中・小がありなおかつ八角形をしているところが山鹿・菊池の境に立っているククチ城の八角堂を連想させます。
もう一度じっくり八角堂を見に行き、インドの面影がないか心眼で確認してみたいと思います。
古代インドのアユタ国が南朝鮮への航路を持っていたなら、静かな入り江を持つ当然有明海にも来ていたに違いないのです。
邪馬台国は島原にあったと考えた宮崎康平氏を描いた映画・『マボロシの邪馬台国』が、吉永小百合も出演して来月から掛るようですが、そもそも邪馬台国についての魏誌倭人伝の描写が、まるで熱帯の風俗みたいな印象があり不思議に思っていたのですが、そんな出自が反映しているのかもしれません。
実は伽耶韓国の別名は、狗耶(くや)韓国です。どこか狗那国の響きがありはしないでしょうか?つまりそれを菊池に比定すれば…
環黄海に環日本海、そして環有明海は、相互にリンクしているようです。西原村が友好関係を結ぶとしたら、伽耶の国あたりを考えてみるのがよいかもしれません。
数ヵ月前に西原村に来られた農協組合員は巨昌郡からでしたが、古代伽耶の国あたりでしょうか?
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カヤの国とは、インドのお釈迦様が修行したブダガヤのガヤかもしれないし、『豊芦(アシ)原の瑞穂の国』の向こうを張って、『豊萱(カヤ)原の瑞穂の国』というのでしょうか。また、インドの王宮の寝室につっていたであろう蚊帳に因んだのでしょうか。
やけに日本語みたいな地名ではあります。
そういえば筑紫の国にはツクシが春にたくさん頭を出していたのかもしれないと想像させるし、阿波の国は(粟の国)、それとも鳴門の渦潮の(泡の国)なのか?両方かけたのかもしれません。
さらに紀の国には確かに今でも『木』がたくさん生えているようです。
伯耆の国は、箒の国でしょうか。伊予と湯は何となく…音が似ているようで…
地名にはしきりに植物を意味するヤマト言葉がつく例があまりにも多く目につきます。
伽耶の国の初代首露(シュロ)王は金の卵から生まれたという伝説があり、金氏の流れの源流のひとつになっているとか言いますが、しかしまあシュロ王とは南の国の植物を思わせます。偶然でしょうか?
その王のもとにインドのアユタ国の王女がはるばる船に乗って、嫁ぎにきたという話が、三国遺事に書いてあるという。
私は名前からしてシュロ王自身もひょっとして南の地方出身なのかもと感じるのですが…
王女が仏教に帰依していたとしたらブダガヤのカヤが語源かもしれません。ならば仏教伝来は、公伝よりもかなり早かったのかも…日本へも…
そう言えば思いあたる節は韓国の将棋(チャンギ)には、中国のシアンチーにも日本の将棋にもない象の駒があるのは、インド生まれの王妃が船旅の退屈しのぎに持ち込んだ光景までおぼろに浮かんできます。
ともかくこのカヤの国は、やがて滅ぼされ日本に多数逃れてきたらしい。
つまり、九州のどこかに集団移住をしたに違いありません。
中国のシアンチーの駒はみな丸くて同じ大きさなのに、韓国のチャンギは太・中・小がありなおかつ八角形をしているところが山鹿・菊池の境に立っているククチ城の八角堂を連想させます。
もう一度じっくり八角堂を見に行き、インドの面影がないか心眼で確認してみたいと思います。
古代インドのアユタ国が南朝鮮への航路を持っていたなら、静かな入り江を持つ当然有明海にも来ていたに違いないのです。
邪馬台国は島原にあったと考えた宮崎康平氏を描いた映画・『マボロシの邪馬台国』が、吉永小百合も出演して来月から掛るようですが、そもそも邪馬台国についての魏誌倭人伝の描写が、まるで熱帯の風俗みたいな印象があり不思議に思っていたのですが、そんな出自が反映しているのかもしれません。
実は伽耶韓国の別名は、狗耶(くや)韓国です。どこか狗那国の響きがありはしないでしょうか?つまりそれを菊池に比定すれば…
環黄海に環日本海、そして環有明海は、相互にリンクしているようです。西原村が友好関係を結ぶとしたら、伽耶の国あたりを考えてみるのがよいかもしれません。
数ヵ月前に西原村に来られた農協組合員は巨昌郡からでしたが、古代伽耶の国あたりでしょうか?

2008/10/28
産山村の中学生同士のヒゴタイ交流は、稔り豊かであるようで感心させられます。学びたいもの 隣国との友好と平和
先日、熊本教育の日・阿蘇フォーラムへの参加ということで、西原村の教育関係者と一緒に産山村の小中学校の会場まで行って研修をしたわけですが、西原村の三分の一という小さな自治体であるにもかかわらず、自立を目指す気概をそこはかと感じました。
少年の主張コンクールで、産山の中学生・中村那津三さんが九州大会でもよい成績で、いよいよ全国大会へ進出したという記事が、熊日新聞に見えていますが、教育の充実ぶりを示しているようです。
また、ヒゴタイ交流というのが、始まって20年?になるにもかかわらず、中断せずに続いているというのも、校門のところにタイの象の像と、肥後とタイとの友好を横断幕でデカデカと掲げているところを見ても伺えました。
韓国プヨとの交流を中断して久しい西原村を含む南阿蘇は、残念なことです。国際的な感覚と地球的な視野を持って将来を志そうという子どもを育てるのに、このような国際交流は大きな役割を果たすものと思います。
昨日の夕刊に、植木町議会が熊本市との合併について二度目の否決をしたとの記事が出ていましたが、産山村もそれこそ合併でもすれば、このような企画は中止に追い込まれるのではないかと思えるのです。
大きければ大きいほど、細かいところに手が届かなくなるというものです。『大きいことはいいことだ』という発想はやめにした方がよかろうと思うのです。
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少年の主張コンクールで、産山の中学生・中村那津三さんが九州大会でもよい成績で、いよいよ全国大会へ進出したという記事が、熊日新聞に見えていますが、教育の充実ぶりを示しているようです。
また、ヒゴタイ交流というのが、始まって20年?になるにもかかわらず、中断せずに続いているというのも、校門のところにタイの象の像と、肥後とタイとの友好を横断幕でデカデカと掲げているところを見ても伺えました。
韓国プヨとの交流を中断して久しい西原村を含む南阿蘇は、残念なことです。国際的な感覚と地球的な視野を持って将来を志そうという子どもを育てるのに、このような国際交流は大きな役割を果たすものと思います。
昨日の夕刊に、植木町議会が熊本市との合併について二度目の否決をしたとの記事が出ていましたが、産山村もそれこそ合併でもすれば、このような企画は中止に追い込まれるのではないかと思えるのです。
大きければ大きいほど、細かいところに手が届かなくなるというものです。『大きいことはいいことだ』という発想はやめにした方がよかろうと思うのです。

2008/10/27
俵山トンネルが開通してからまだ5年しか経過していないとは・・・ 景観を守るための条例制定を
先日、俵山トンネルを高森方面から走ってきてくぐろうとしたら、通行止めになっていました。仕方なく懐かしい俵山越えの道路をバイクで登ったのですが、後で聞くと合志市の御代志のお二人がトンネル内で壁に激突して死亡されていたのでした。
俵山越えの道は、巨大な10基の風力発電機が迫力満点でしたが、ふと、トンネルが開通したのはいつのことだったろうと思いました。検索してみるとなんとまだ5年しかたっていないということはちょっと不思議な感じでした。2003年とは、西原中学校の電話番号(279−2003)と同じ年号でした。覚えやすいですね。というのも山西小学校の電話番号は279−2004(ニーシ)山西だからヤマ・ニーシ(2004)ですぐ覚えましたが、西原中学校は山西小学校の子供たちからすれば2003=ニーさん(兄さん)ですから。俵山トンネルは兄さんたちが開通する前に歩いて通ったことがありましたね。
それはともかく、俵山トンネルが開通してから車の流れが増えましたが、西原村の温泉にとどまっていた客がトンネルをくぐって南阿蘇の温泉に直行するようになったのかなという感じがします。商業的にはプラスになった面とマイナスになった面とがあい半ばしているのかもしれません。
このトンネル効果で湧水の近くで宅地の乱開発が見られるようになったことには警戒の必要がありますし、効果的な条例を制定して規制することで美しい村を維持していかなくてはならない時点にさしかかっています。
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俵山越えの道は、巨大な10基の風力発電機が迫力満点でしたが、ふと、トンネルが開通したのはいつのことだったろうと思いました。検索してみるとなんとまだ5年しかたっていないということはちょっと不思議な感じでした。2003年とは、西原中学校の電話番号(279−2003)と同じ年号でした。覚えやすいですね。というのも山西小学校の電話番号は279−2004(ニーシ)山西だからヤマ・ニーシ(2004)ですぐ覚えましたが、西原中学校は山西小学校の子供たちからすれば2003=ニーさん(兄さん)ですから。俵山トンネルは兄さんたちが開通する前に歩いて通ったことがありましたね。
それはともかく、俵山トンネルが開通してから車の流れが増えましたが、西原村の温泉にとどまっていた客がトンネルをくぐって南阿蘇の温泉に直行するようになったのかなという感じがします。商業的にはプラスになった面とマイナスになった面とがあい半ばしているのかもしれません。
このトンネル効果で湧水の近くで宅地の乱開発が見られるようになったことには警戒の必要がありますし、効果的な条例を制定して規制することで美しい村を維持していかなくてはならない時点にさしかかっています。

2008/10/27
太極拳はみなの前で披露してほしかったけれど・・・西原秋のスポフェスにて 健康
昨日の西原村『秋のスポーツフェスティバル』のプログラムの中で、『生涯学習講座・学童スポーツ等紹介』があり、剣友会やバレーボールなどとともに太極拳の生涯学習参加者も、グラウンドを一周しました。
アナウンスがひとつひとつを紹介していましたが、なんだかイマイチな印象がありました。ただ歩いて回ってどんな顔ぶれが参加しているのかはよくわかりましたが、それだけではなくて、実技披露ができる種目であればやってもよかったのではないでしょうか。
たとえば、剣友会だったら、型の披露はできたでしょうし、太極拳だったら中央でお一人指導者の方によって模範演武をしてもらったら、やってみようかと思う人も出てきたのではないでしょうか。
これは感想として体育協会にはがきを出してみたいと思います。
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アナウンスがひとつひとつを紹介していましたが、なんだかイマイチな印象がありました。ただ歩いて回ってどんな顔ぶれが参加しているのかはよくわかりましたが、それだけではなくて、実技披露ができる種目であればやってもよかったのではないでしょうか。
たとえば、剣友会だったら、型の披露はできたでしょうし、太極拳だったら中央でお一人指導者の方によって模範演武をしてもらったら、やってみようかと思う人も出てきたのではないでしょうか。
これは感想として体育協会にはがきを出してみたいと思います。

2008/10/26
西原村・秋のスポーツフェスティバルでの長縄跳びは意外に難しかった 村のあちこち村おこし
昨日は、阿蘇一の宮まで行き、阿蘇オンブズマンの会議に参加しました。
今日は、秋のスポーツフェスティバル(村民体育祭)です。
区の対抗という形式ではありますが、100メートル走者などは公式記録方式で厳密に行われました。なかなか農繁期やサラリーマンもハードな勤務状態の人が多くなってきているご時世ですから、村民総参加とはいかなくなってきていますので、開催方法も検討を加えているところのようです。つまり参加総数はそう多くはなかったというのが実情で…
私は、ムカデ競争と長縄跳びに布田チームの一員として参加しました。綱引きはメンバーがそろわないとかいうことで、補欠として待機していましたが、ついにメンバーがそろったため、出場はしなくて済みました。綱引きは、翌日は体中がこわるほど、懸命に力を入れてしまいますからね。
長縄跳びに参加するのは実のところこれまでの人生で、そう多くはありません。2回目ぐらいでしょうか。
今回は、…繩回しのスピードが遅かったのでタイミングが合わずにうまくいきませんでした。滞空時間を稼ぐために着地の前に脚を縮めたところ、立ち上がることができなくて転んでしまって、観客の皆さんには見苦しい所をお見せしてしまいました。
さて、運営のやり方はよかったと思います。
記録会方式であり、いわゆる日本式の運動会ではありません。欧米式あるいはオリンピック方式と言いますか。ひょっとしてジェイスンさんあたりのアドバイスがあったのでしょうか?
走者にはスタート時にいちいちマイクを向けて名前を名乗らせていました。フライングは、きっちりと宣告しており、一度などは百メートル全力疾走し終わった後で、
『今のはフライングでしたので、もう一回やり直してください』
とアナウンスされたこともありました。選手たちはどっと疲れが出たのではないでしょうかね。ピストルの2発目がうまく撃てなかったみたいですね。
それくらい厳密に記録をとっていたということではあります。
オリンピックと同じく大勢の観衆の中での名誉が与えられる訳ですから、参加者の中にはニコニコ笑顔でリラックスしている人もありましたが、必死の形相で走っている人もありました。
優勝者の名前と記録の発表は、後で閉会式の時に村長から表彰状を授与される際にみんなにいちいち公表されました。誉れを求めて精進するという不思議な動物ですからね。人間は…
曇天の少し肌寒い会場に、タイミングよく曽我敏秀教育長よりアナウンスが流れました。
神奈川県横浜市で行われていたジュニアオリンピックにおいて、中1部門で西原中の満崎千里さんが走り幅跳びに出場し、5メートル27センチの記録で全国優勝を果たしたと。語呂合わせ記憶法は(こ〜ぶ〜な527釣〜りしかの川〜)
日本1です。
また、中3の藤本優未さんが、100メートルハードルに出場。準決勝まで進出するも残念ながら決勝まではいけませんでした。しかしそれでも記録は熊本県新記録でした。
西原村の子どもたち2名のこの大健闘に、村民グラウンドに集まった会場いっぱいの人々から熱い拍手が湧きました。
西原中学校卒業生の中にはこれまでも、武田兄弟や箱根駅伝に出た松浦さん…
来年の正月の箱根駅伝にも2名が走る大学が出場権を獲得したという連絡が届きました。
これらのニュースは、他の分野で頑張る西原出身者をも大いに奮い立たせることでしょう。
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今日は、秋のスポーツフェスティバル(村民体育祭)です。
区の対抗という形式ではありますが、100メートル走者などは公式記録方式で厳密に行われました。なかなか農繁期やサラリーマンもハードな勤務状態の人が多くなってきているご時世ですから、村民総参加とはいかなくなってきていますので、開催方法も検討を加えているところのようです。つまり参加総数はそう多くはなかったというのが実情で…
私は、ムカデ競争と長縄跳びに布田チームの一員として参加しました。綱引きはメンバーがそろわないとかいうことで、補欠として待機していましたが、ついにメンバーがそろったため、出場はしなくて済みました。綱引きは、翌日は体中がこわるほど、懸命に力を入れてしまいますからね。
長縄跳びに参加するのは実のところこれまでの人生で、そう多くはありません。2回目ぐらいでしょうか。
今回は、…繩回しのスピードが遅かったのでタイミングが合わずにうまくいきませんでした。滞空時間を稼ぐために着地の前に脚を縮めたところ、立ち上がることができなくて転んでしまって、観客の皆さんには見苦しい所をお見せしてしまいました。
さて、運営のやり方はよかったと思います。
記録会方式であり、いわゆる日本式の運動会ではありません。欧米式あるいはオリンピック方式と言いますか。ひょっとしてジェイスンさんあたりのアドバイスがあったのでしょうか?
走者にはスタート時にいちいちマイクを向けて名前を名乗らせていました。フライングは、きっちりと宣告しており、一度などは百メートル全力疾走し終わった後で、
『今のはフライングでしたので、もう一回やり直してください』
とアナウンスされたこともありました。選手たちはどっと疲れが出たのではないでしょうかね。ピストルの2発目がうまく撃てなかったみたいですね。
それくらい厳密に記録をとっていたということではあります。
オリンピックと同じく大勢の観衆の中での名誉が与えられる訳ですから、参加者の中にはニコニコ笑顔でリラックスしている人もありましたが、必死の形相で走っている人もありました。
優勝者の名前と記録の発表は、後で閉会式の時に村長から表彰状を授与される際にみんなにいちいち公表されました。誉れを求めて精進するという不思議な動物ですからね。人間は…
曇天の少し肌寒い会場に、タイミングよく曽我敏秀教育長よりアナウンスが流れました。
神奈川県横浜市で行われていたジュニアオリンピックにおいて、中1部門で西原中の満崎千里さんが走り幅跳びに出場し、5メートル27センチの記録で全国優勝を果たしたと。語呂合わせ記憶法は(こ〜ぶ〜な527釣〜りしかの川〜)
日本1です。
また、中3の藤本優未さんが、100メートルハードルに出場。準決勝まで進出するも残念ながら決勝まではいけませんでした。しかしそれでも記録は熊本県新記録でした。
西原村の子どもたち2名のこの大健闘に、村民グラウンドに集まった会場いっぱいの人々から熱い拍手が湧きました。
西原中学校卒業生の中にはこれまでも、武田兄弟や箱根駅伝に出た松浦さん…
来年の正月の箱根駅伝にも2名が走る大学が出場権を獲得したという連絡が届きました。
これらのニュースは、他の分野で頑張る西原出身者をも大いに奮い立たせることでしょう。
