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菊陽病院家族会会長  飲酒のように、ピアサポートによってタバコをやめようとする意志を強化し、互いに励ましあうための仲間との話し合う場が必要ではなかろうかと思うのです。

 現代人の心の健康は大変脅かされています。精神保健福祉を話題の中心にして、少しでも早期発見・早期治療に向かって、皆様と一緒に進んで行きたいと思います。イギリスのメリデン・プログラムが理想でみんなねっと
という全国組織に団結して運動をやっていきたいと考えています。

 手話言語法の制定を求める意見書が、西原村議会でも採択され、政府に送付されました。手話言語条例の方も制定されるように、まずは私自身が手話つきで一般質問ができる程度にはなりたいものだと思っています。

  
     
日本共産党の西原村議員・田島敬一 861-2403 熊本県阿蘇郡西原村布田834-160 096-279-2705

2006/8/7

復活したプリンター  プロフィール

 どういう風の吹き回しなのか、自分のプリンターの調子が悪くなっていましたが、今日きれいに埃を掃除してきれいにした上で、祈るようにパソコンから印刷をクリックしたところ、機嫌をなおしてくれたのか、今度はプリントできました。

 やはり機会にも真心とか愛情が通じるのかもしれませんね。時々はお神酒を上げるぐらいの気持ちで大事にしたいと思います。

 ともあれ久々のプリンター復活で機動力も復活。嬉しくなりました。黒のインクが切れかかっているため、早速買いに行かねばなりません。
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2005/12/30

皆さんと一緒に申し入れをする田島敬一です。  プロフィール

◎ 1953年(昭和28年)5月3日、熊本市二本木5丁目の生まれクリックすると元のサイズで表示します
 この写真は、中学校の歴史教科書採択にあたって、歪曲して描いている教科書を採用しないようにと教育委員長に申し入れをする際に撮影したものです。

 左側後ろに写っている人は、韓国のインターネット新聞・オーマイニュースの記者です。当日は、熊本県と姉妹提携をしている忠清南道の教師や市民グループなどの人々と、熊本のクリスチャンとの合同行動でした。

 私は、韓国に出現したインターネット新聞という、全く新しいメディアに注目しています。紙の形ではなく、ネット上に新聞を作るということは一体どんなものだろうか? 日本でも新聞社がネットでもニュースを配信していますが、それは無料。つまり紙の新聞から収入を得ているのであって、ネットに出しているのは、余芸という感じです。しかし、オーマイニュースの方は、まったくネット上だけで運営しているものであり、どうやって収入を得ているのか、不思議です。

 益城町から西原村役場まで、そして南阿蘇村、さらに大津町役場への移動の車に、ぜひにと要望してオーマイニュースの記者さんに同乗してもらいました。
 記者さんもはじめて日本共産党の議員なるものの実物に出会ったようで興味津々、根掘り葉掘りインタビューしてメモをしていました。
 何か向こうの新聞の記事になったものでしょうか?調べてみると面白いと思いますが・・・
[マジカルメーカー終了のお知らせ]

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2005/12/25

ハガキの達人目指して  プロフィール

  先月だったか、バイクで新聞配達するようにしてから聴けなくなっていたラジオの『心の時代』を、偶然テレビで見ることができました。紹介されていたのは『ハガキの達人』と言われている人で、毎日せっせと日記がわりにハガキを書いて出しておられて、筆を取ると手が勝手にすらすらすらと動いてハガキ一枚書きあがるという境地にまで至ったというのです。


  私もそれほどではありませんが、比較的マメなハガキ人間ですので、親近感を覚えました。特に年賀状を書くシーズンになると、誰もそうかもしれませんが、普段携帯メール人間でいたのが急にハガキ人間に変身します。


  しかしその人が『達人』たる所以は、そこから先があるのです。ただ出す回数が多いだけでなく必ずコピーしてから出しておられるというのです。たしかにメールの場合は送信歴が残るので日記がわりにはなるけれど、ハガキは出してしまえば手元に残らないので、後で参照したくとも思い出せなくて困ります。


  私の場合は、特に50円の郵便代を最大限に生かすために表から裏までびっしり書きますので、1枚書いただけでもふうっとため息をついて休憩するほどですからなおさらです。コピーをとるにはできるだけ安上がりなようにと、ある程度書きためてから…と考えるとハガキを出すタイミングが遅れてしまうのでその点は加減しながら…


  最近の人はメールや携帯電話という便利な通信手段が普及してきたので、逆にハガキが届いた時のインパクトが強く感じられる時代になりました。一枚のハガキに切々と『西原村に風の里のイメージソングをお願いします』と書いて出したことで誕生したのが、日本作曲家協会メンバーでもおありの古家建雄さんによる『夢運来風』という名曲なのです。しかもタダで…


  このように、通常の日記が自分しか読み手がないことを想定しているのに比べて、ハガキは誰かに何かを働きかけるという特性があります。現在私が働きかけているのは、

● 西原村から始めて県内のご当地ソングを次々にハングルに訳すこと…
● 宮崎滔天を顕彰しながら孫文生誕140周年を記念するドキュメンタリー映画『孫中山と九州朋友』のロケを阿蘇・西原に誘致すること…

● 一年間に熊本市の人口の約半分近く韓国人が観光に訪れている阿蘇管内を『ドル箱』ならぬ『ウォン箱』にするために、別府市外国人観光振興協会がやっているような日本円と韓国・中国・台湾通貨との交換サービスをするよう提案すること…
● ハングル訳もできた『夢運来風』のゆったりしたメロディに合わせて太極拳をやってはどうかと提案すること(歌は韓国語で踊りは中国?)
● ユビキタス社会という『指たすき』をイメージさせる言葉が叫ばれており、誰でもどこでも気軽にインターネットという意味でしょうが、スローな阿蘇観光に結びつけることで、経済活性化に結びつけること。
 × とくに要所要所にQRコードによる地域情報の表示をすること。
 × 携帯からメーリンガルという韓国語でも中国語でも英語でもメールの送受信可能な状態にするサービスを利用して、阿蘇を通り過ぎて別府に宿泊してお金を落とす現在の外国人団体ツアーバスのパターンを、阿蘇周遊バスに小グループに分散して乗り換えてもらってゆっくり地域にお金を落としていただくバターンに切り換える戦略を、採用してもらうこと。


日中韓の友好交流・相互理解を促進しながら西原・阿蘇・熊本の観光収入を増やし、東アジアの共存共栄をはかり、平和な国際環境を作り上げようという私の強い願いがあるのです。



よし、私めも今回の年賀状書きを機会に『ハガキ達人』の仲間入りします!(@_@)
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2005/11/9

若い人に心を開くこと  プロフィール

   『星むぅすぅめぇぇ』などと歌った『星のフラメンコ』、大岡越前の守などで一世を風靡した西郷輝彦が、例の細木数子に『あんたは自殺することになるよ』と図星を刺されて、涙が今にもこぼれそうにキラキラした目で絶句して聞き入っていました。

これで細木人気がさらに沸騰するのは間違いありません。

まあ多少西郷さんがエンターテイメント風にサービスした応答をされたものかもしれませんが…

 でも『自分の胸にあるものをさらけだして若い人と交流をしなよ』
という意見は、私にもあてはまる部分だと思ってうなづいて聴いていました。

このブログにあてはめると、お体裁ではなく、きついことはきつい、つらいことはつらいと本音の部分をさらけだしていくことかな。



 さてさて驚いたことに、西郷輝彦さんは自分の手でブログを作っていました。上の名前にカーソルをあててクリックしてみてください。直接メールが送れるかもしれませんよ。

 西郷輝彦さんも、ブログ日記を書くことによって自分をさらけ出すことは自然にできるようになったと書いておられます。


 ぐっと身近な人になりますね。
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2005/11/6

水俣病と私  プロフィール

 古町小学校の5年生の時に、池田小学校に転校しました。

 道路の建設にともなって、移転を求められて、終戦直後父が手作りしたバラックに近い小さな、雨漏りしたり少し傾いたところもある懐かしい家を去り、池田町の山ノ下市営住宅に移転しました。

 ハーモニカのような長屋のような市営住宅で、熊本電鉄の電車(菊池電車)が轟音を立てて目の前を走り去る踏み切りのまん前でした。

 ちょうどそのころ、熊日新聞では、水俣病の悲惨さを連日掲載していました。企業の横暴に、腹が立つとともに、それが資本主義社会の限界だろうと思いました。私は、技術的に水俣湾の水銀汚染を取り除くことはできないのだろうかと、将来そんな方面に進みたいと思いまして、結局宮崎大学工学部の応用物理学部に入学することになりました。

 しかし、私は、数学や物理なんかより、英語が好きで、済々こうでの英単語のテストではいつもいい成績だったように、どちらかというと文系に適性があったようで、そちらに進めばよかったのかもしれないと後悔する気持ちもいくらかあります。

 でも、水俣病の悲惨を知って、社会の矛盾に立ち向かおうと考えたことが、日本共産党への入党に進んだ要因だと思います。そして、やはり父や親戚、そして学校の先生、図書館の本を読んで、戦争の悲惨に接して、平和な世界の環境を作りたいという気持ちもありました。なにしろ憲法記念日が誕生日の私という存在でしたからね。短い人生を何のために燃やしたらいいのかと考えたら、国際の平和へ少しでも貢献して一生を終わりたいという熱情は強いものがあります。

 ですから、文系・理系、いずれの道へ進んだとしても、結局は私の心の中に小さい頃からもっていた素質から考えて、戦前・戦中、あのアジア各国に侵略戦争をしかけた動きに命をかけて反対した日本共産党へ接近する方向は辿っていったのではないかという気がしています。

 高校の頃より中国語の本屋さんから買って独習したり、NHKラジオテキストで学び、3級を取得しました。今、アジア諸国との交流の中でも韓国語の重要性が増していると感じて、数年前に韓国語1級を取得。(これは、初級という意味)
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2005/11/6

短歌・紙飛行機  プロフィール

◎ たまさかに 家に戻りてまだ出てく 紙飛行機を 娘に投げて


◎ 燕かな くるり返りて 戻り来る 紙飛行機を 娘に投げて


◎ 寒さゆえ バイク停めては ビラ配り ハッハ・ホッホと 走りに走る


◎ 雪景色 阿蘇のトンネル 走り込み オレンジの灯に ホッと息つく


◎ トンネルを 抜ければそこに 風力の 巨大なタワー 西日に向かう


◎ バイクにて 配れば寒さ いやまさり 停めてはビラを 配り暖む


◎薄紅の 腰果鶏丁(ヤオクオチディン)は サイコロの 指輪の手もて 揉みて作れる


◎白菜は 斜めに切ると すき透る 凛と講ずる 声すき透る


◎全羅の羅 新羅の羅とは ローマかな シルクロードは 東西結ぶ


◎京劇の 見栄を切りたる 姫のごと 麻婆豆腐は 胡椒の色に


◎中華鍋 油を丸く 引きながら しゃもじせわしく 回転すなり


◎アフリカゆ 地峡・海峡 砂漠を越えて 辿り着いたる アルゼンチンは

◎お預けと 命じておけば 捕らわれて 綱をはなせど じっと見つめる

◎脳内を 明るく照らす 携帯の ラジオポッケに サクサク歩む

◎君が代の 行進進み 敬礼す なぜに多いか 三菱キャンター

◎海面を 飛ぶが如くに 高速船 航跡もなく 波は過ぎゆく

◎凧糸も なくて揺れ浮く カモメかな 高速船尾 風強けれど


◎Kリーグ 大津キャンプの その地から 山のかなたに 風力発電


◎冬明かり 誘い絵になる サッカーの 勝者ならでは 韓国テレビ


◎こんな時 活かせハングル 突撃だ 冬あかりとは かくなるものと


◎幻想の 冬明かりをば アルゼンの 人に見せたし 西原村の

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2005/10/3

父の戦友の思いを受け継ぎ、戦争をなくすことが生涯の目標  プロフィール

 今では認知症がひどくなっている父ですが、若い頃、戦争のことをそれほど詳しくではありませんが語ってくれた片言隻句が、私の胸に強く刻まれています。
 私は日本共産党に入ってもうはや三十年になります。戦争を世界からなくしたいと思い、戦前への回帰をしようとする動きに抵抗し、とくに多数党が四割台の得票で七割・八割もの絶対多数の議席を占める小選挙区制に反対していこうと今日まできた、その原点は、やはり父から聞いた戦争の思い出ですから、多少不正確な点はあるかもしれませんがここに書いておきたいと思います。

 旧満州の満鉄に勤務後、佐世保で海軍に応召。海軍精神注入棒と称するバッタでよく尻を叩かれていたとか。
 幼い頃に両親と死別し、遠い親戚に預けられて育った父が、どういう経緯で満鉄などという立派な?ところに勤務できたのか不思議ですが、機関車の整備か何か下働きをやっていたのではないのかなと思うのですが、どうもよく分かりません。休暇には旧満州のあちこちに足を延ばしたこともあったようです。

 その後、セレベス島のメナドの海軍航空隊基地で、戦闘機の整備兵をやっているうちに終戦を迎えたそうです。これまた満鉄で整備をしていたことから、機体の整備ということになったのでしょう。自分が整備して出撃する飛行機を帽子をふって見送るけれども、その機が帰ってこない時はさびしかったことでしょう。
 のぎく荘で、『同期の桜』を歌わせられることになると、必ずといっていいほど、顔をくしゃくしゃにしてボロボロ涙をこぼしていたのは、きっと出撃したまま帰ってこなかった若い戦友たちのことが脳裏に浮かぶからではないでしょうか。

 メナドとは、地図で調べると、インドネシアのセレベス島の、北に左腕のように伸びた半島の北端にあるようです。緒戦で空挺部隊による落下傘降下作戦が初めて行われたところであるようで、『空の神兵』という軍歌はその時の情景を描いたものでしょうか?父に聞いてもその軍歌には覚えがあまりなく、戦地ではそれどころではなかったのでしょう。

 苦しかった戦争がようやく終わり、さて懐かしい日本に帰国しようとする時に、全員整列した兵の中から大声で『田島。こっちへ来い』と上官に呼ばれました。
 上官は飛行機でベトナムのサイゴンへ飛び、その他は船で帰国することになりました。よくからだが動く父は上官から重宝されて飛行機に同乗することになりました。ところが、船で帰国の途についた兵たちは、米軍が湾口などに敷設していた機雷に触れて全員海のもくずとなってしまいました。
 ですから父には戦友と言える人はひとりもいないのです。どんなに懐かしい日本の家族のもとに帰って、平和な国・日本を建設したかったでしょう。遠い南の島で苦しみに耐えながら待ち望んだ帰国なのに……それを思うとたまりません。父はたまたま偶然の巡り合わせによって九死に一生を得ただけで、その生あったればこそ私という人間がこの世に生まれることができました。

 私は、父の戦友たちの残念な思いを受け継ぎたいと思うのです。まったく会ったこともない顔も知らない父の戦友たちですが、いつも私を見守ってくれているような気がします。

 いつの日にかセレベスの海にお参りをすることがあるでしょうか。海のかなたの海深く沈む父の戦友たちの、声なき声に背中を押されて、平和な国・戦争のない世界のために、残りの人生も生きていきたいと思います。
 
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2005/9/29

二本木の思い出  プロフィール

 1953(昭和28)年5月3日 憲法記念日に熊本市二本木五丁目に生まれました。あとから考えるとこの年は、朝鮮戦争の休戦協定が結ばれた年でもあり、平和を求めて生きていく運命を象徴しているのかもしれません。
 また、626水害で熊本市内はひどい被害を受けた年でもありました。幸いに二本木の私宅あたりは周辺部より少し高かったのか水には漬からなかったようですが・・・それにたまたま私はその時花園の親戚の家に預けられておりました。

 以前遊郭があったことで有名な二本木町でしたが、そんなことはあまり記憶にありません。私が生まれたのは、古町小学校の西側で、古町幼稚園から古町小学校へと、歩いて近い距離でした。近くに豊肥線の踏み切りや操車場があり、機関車の物悲しいポーっという汽笛は幼い頃からのなじみでした。

 田崎の陸橋を越えて、田崎映画に両親に連れられてたまに見に行くのが楽しみでした。今から考えるとあんな身近なところによく映画館があったものだと思います。幼い足で田崎陸橋を越えて歩いていくときの、長い長い距離感が印象に残っています。

 花陵中学校にあがるつもりでしたが、五年生のときに熊本駅から南下してくる道が拡幅される余波で、池田町の山下市営住宅に移り、池田小学校から京陵中学校へと進むことになりました。

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