今しがた、朝青龍が、14勝1敗同士で、白鵬との優勝決定戦に右すくい投げで勝利し、大横綱北の湖に並ぶ幕内通算24回目の優勝を成し遂げた。
昨日まで13戦全勝の朝青龍だったが、今日千秋楽の結びの一番で白鵬の豪快な投げに屈し、14勝1敗で並ばれた末の勝利だった。
僕が応援していたのは朝青龍。ひとつには取り口だ。白鵬が泰然として懐の深い、優雅ともいえる相撲を取るのに対し、朝青龍は、集中力と瞬発力で攻める相撲を見せつけてくれる。優雅に対する勇猛である。更にこのところの低迷を鑑みるなら悲壮とも言える勝負への執念を感じることができる。
もうひとつは体。白鵬は胸板も薄く、決して筋肉質とは言えない体だ。だがその体型は異能の横綱輪島に酷似している。無論、それゆえに懐は深く、相手の当たりを吸収してしまう竹の如き強靭さを兼ね備えてもいるのだ。対する朝青龍は体の隅々まで膂力漲る筋肉が行き渡って、全ての部位が全体に比して太く、その瞬発力の強大さを誇示している。仕切りの時の背中から腰にかけての反り返った曲線は猛獣のそれである。
更には、顔だ。白鵬はともすると茫洋とした顔立ちである。失礼だが勝負師としての究明性を感じさせない。対する朝青龍の顔に僕は仏像の趣を見るのだ。その極めつけは瞼(まぶた)である。あのS字を成す曲線は正に仏像のそれである。――あの曲線には何か名前が付いているのではないだろうか、それほどに固有な魅力的なそれであることだ――仏像にも時代があり、その様式には流行り廃りがあったようだが、何かで一度ご覧になるといい、朝青龍のあの瞼をした仏像があるのだ。
そんなこともあって、僕は朝青龍に仁王像を彷彿とさせられる。
だから両者ともに魅力的なのだが、つまるところ朝青龍の反発心とそれを体現する容姿が魅力的だというところだ。
さて、そんなふたりが今日の千秋楽、二番を闘った。
本割(結びの一番)では、一気の出足から、白鵬が豪快に朝青龍を投げ飛ばした。朝青龍の転がり方は横綱にあるまじき背中にも土俵の土を付けられての完敗だった。こんなに力の差あったっけ!という白鵬の、意地というよりは、ふたりの現状を見せつけてやるという意図的な相撲の上の勝利であったと推察する。完勝である。
千秋楽を迎えた時点で星一つの差というのはともするとリードしている方に油断が出易い。二番の内どちらか勝てばいいのだと。その余裕が一番負けたことで、もう一番しかないとなり、一挙に追いつめられる。一方、勝った方はもう一番この調子でと勢いづく。
嘗て三代目横綱若乃花(お兄ちゃん)が千代大海に同じ状況で千秋楽に突入。本割で圧倒され、その心の崩壊のまま決定戦に臨み、またもや完敗。横綱として初優勝のチャンスを一挙に潰してしまったことがある。しかも、若乃花はその後横綱として一度の優勝も果たしていないという不名誉を背負うことになってしまう。
しかし、朝青龍は違う。これは戦う前からの僕の予測なのだが、朝青龍こそは二番とも勝ちに行く、そして行ける横綱なのだ。無論、先に一勝すれば二番目は無いのだが、彼はそんなイメージと集中力で結びの一番に臨んだに違いない。
だが、あっという間の敗戦。苦笑いするしかない負け方だ。確かに負けた直後、朝青龍は土俵上でやや中空を仰ぎ、笑った。しかし、実力の差を思い知らされたというような完全敗北の現状を誤魔化すようなそれではなかった。きっと彼にすれば、嗚呼、一勝しかできなくなっちゃった!なのだ。ここが凄い!そして、次に勝つ方法をそこで手にしたのだ。同じ相手に続けて負けることはない。朝青龍の相撲だ。
ところが対する白鵬は、思ったとおり力の差をまざまざと見せつけての勝利だ。やっぱり、あいつと俺の差は今やこれくらいなのだ。慢心だ。油断が出た。
果たして、優勝決定戦、「もう一丁行くぞ!」と攻めの朝青龍と「まだ来るのか」と守りの白鵬が立ち合った。低く当たり、前まわしを引き、頭を付けるまでして休まず攻める朝青龍。しかも、最後はその時の相撲の流れからすると虚を衝く左下手投げ!白鵬をお返しとばかりに横転させた。
おまけにガッツポーズの朝青龍明徳。本名、ドルゴレスレン・ダグワドジル、その日は29歳の誕生日だった!
勿論、以上は僕の想像と創作です。でも、朝青龍はこんなんだと思う。
ところで、今回の朝青龍の優勝について横綱審議委員会の内館牧子委員が「優勝はまぐれ」と吐いたそうだが、言っておく、横綱の優勝にまぐれは無い。横綱とは毎場所、優勝を使命づけられた存在なのだ。たまたま優勝してしまったということはあり得ない。では、更に上げ足を取るが、あれがまぐれなら、まぐれで優勝するような横綱を選んだのはあんたがただ!ということになる。内館委員は横綱審議委員として言ってはいけないことを言った。
ともかく、オメデトウ朝青龍!
来場所も頑張ってね!
はははは、何だか大人げないことを書いたような気もしないではないが、さあ、ここからは本題の「漫才アワード」です。でも、ここからも結局、大人げない事を書くのです。
続きからです。
1回戦・第4試合
「天竺鼠 VS 藤崎マーケット」
■天竺鼠(川原克己・瀬下豊)■
――オッと思わせる言葉が二つあった。「ひとつだけ残念なお知らせがあるんですね。今日来てくれているお客さん全員、僕ら出演者、そしてスタッフのみなさん、み〜んな全員、いつか死ぬんですよ」と「最近、自分に足りないものは何かって考えだしたんやね」。何れも、川原の台詞だ。
――どちらも、それだけで一本の漫才が、それも10分を超える漫才が出来るテーマ性を持つ。僕は惜しいと思うが、彼らはそんな事に頓着せず、わが漫才を行く。
――川原ならではのくすぐりを入れながら、脈絡の無い、謂わば独自な展開を見せる。その上で、強烈な何かを訴えることができるなら構わないが、以前にも書いた、この形式はやはりそれ以上にはならないと。
――しかし、例えば、先日の「キングオブコント」で見せた2本のコントは見事に一慣性があった。「大声で喋り通すというアホな世界」「スローにしか動けないコンビニの老人と老人の強盗という時間ノリ」。
――その方が圧倒的に訴求力がある。それは彼らの個性を見せつけることにもなっている。それはコントだからか。漫才はこういう脈絡のないモノで行くのか。そこに成算はあるのか!
――ところで、この日の天竺鼠に関して、ある理由から態と何度もやっているあのネタをやったと聞いた。そして彼らは負けた。その伝聞によれば、それは彼らの意志であり、目論見であった。ある理由は書けないが、だとしたら、僕は賞賛の拍手を送りたい。思わせぶりですいません。
――感性と欲求は高いものを持つコンビだ。お笑いの不自由さも認識しているようだ。あとは、それをどこまで実感し、飽くなき追求ができるかだ。期待大也!
■藤崎マーケット(田崎佑一・藤原時)■
――田崎がふる。「久しぶりに実家に帰ったら、最近飼った犬が僕を部外者やと思って警戒しよる」。
――無理のない導入だ。しかし、インパクトは弱い。どうなるんだろうと思わず続きを聞きたくなる、というようなことはない。しかし、懐かない犬と何とか仲良くしようと悪戦苦闘する漫才(コント?)は楽しそうだ。
――が、僕の期待するように事は進まない。そこからは犬役の藤原のボケの連発だけで、懐かない犬に田崎が振り回されることも、いらいらすることも無い。ただ、ボケのバラ売りだ。
――物語を展開させることで、人物が浮き彫りにされ、その関係から、例えばイライラが高じることで笑いも取れるし、その役を演じることも楽しくなるのだ。更に、フリが利けばオチも際立つのだ。このコンビに限った事ではないが。折角のフリを何故無駄にする。何故有効に使わない!
――ラララライを封印して頑張っているコンビだ。藤原のボケはいまひとつ精彩を放っていないが、独特の匂いを持っている。勇躍を待っている。
その結果!
480点 対 520点
勝利したのは、藤崎マーケットでした!
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1回戦・第5試合
「ヒカリゴケ VS オジンオズボーン」
■ヒカリゴケ(国沢一誠・片山裕介)■
――3分という時間をどう演出するか、なぜその計算をし、自ら漫才を楽しまないのか。3分間の最後に向かって物語を構築していく。そして、最後にあっと言わせるオチで漫才を終える。それこそが漫才の醍醐味ではないのか。推理小説における主人公による謎解きの快感である。それとも、3分だから、短いから、ボケのバラ売りしか方法が無いというのか。
――その指摘はヒカリゴケだけに言いたいのではないが、例えば彼らの漫才で見ると、
〜一誠「高校球児って、夢に向かっててかっこイイと思う」
〜裕介「いや、球児にサイン出したり、アドバイスしたりする監督の方がかっこイイですよ」
〜一誠「魅力が判らんから、俺、選手するから監督やって、魅力教えてくれよ」
〜と、ネタへ入っていく。以下、ボケは監督役の裕介。
〜先ずは監督の体を使ったサイン。「シャツ入れろ、かかと踏むな、チャック上げろ!」
〜何かと砂を持って帰らそうとする。
〜「野球の事言え」と言われて、「ピッチャー、キャッチャー、バット、ボール、来る、打つ、野球!」
〜監督が急に女子高生のような態度と言葉使いになり、恥ずかしそうに指示を出す。それもホームラン。やっと伝えられて、「言えたぁ」と喜ぶ。
〜「監督なら、選手を励ませ!」と言われて、「あんな真っ青な顔したピッチャーの球、思いっきり打ったれ!」ところが「それにしてもあいつしんどそうやな。何か悪いもんでも、食べたのかな・・・」どうやら監督がピッチャーの食事に何かを入れたようなのだ。ムッチャ悪い顔をする裕介。しかも、自分も中ってるみたいだ。又砂を拾う。
〜「チャンと励ませ」と再度言われて、何やら物腰が柔らかくなって「代表が見てくれてる。代表というか、神様みたいな存在の人も見てくれてる。辛いことあったら何でも僕に相談して。今度よかったらセミナーあんねんけど」「お前、何かやってるよな」「やってるというより、大いなる意志の元に集ってる。私たちは光に集まる蛾です」と、膝を折り中空の何かに祈るような表情をする裕介。一誠がツッコム「崇めるな!」
――こうして見ると、惜しいばかりだ。ボケのバラ売りではあるが、もう少しで物語が出来上がるのに。
――そうする為にはツッコミの台詞を熟考、精選することだ。「監督の方がカッコいい」とボケが言い、一誠がそれを一端「魅力」という言葉に置き換える。「魅力を教えてくれ」と言い直す。何故?遊び易いのは「カッコいい」方だと思うのだが。監督という存在をどう遊びたいのか判然としない。しかも、この後、別に魅力を教えはしない。
――判り易く言うなら、考え付いたボケが出来るようにフッテいるだけだ。全体の流れは考慮されていない。しかも、それが上手く対応できているとは思えないのだ。当然だが、ツッコミは次のボケへのネタフリ=ボケの注文でもあるのだ。既に魅力を教えるからは離れてしまっているのだが、例えば「監督の得意なプレー教えて下さい」「監督は誰が応援に来てくれたら頑張れたんですか?」「精神集中はどうやってたんですか?」「野球を始めたきっかけは?」「野球が無くなったらどうします」「自作の野球の歌ってないんですか?」「あ、妖怪野球せせりだ!」。勝手な思いつきだが、「励ませ」よりはボケ易いと思うのだが。って言うか、相方なのに何でもっとボケ易いフリをしてやらないのか!
その上で、一慣性=物語性が要ることは言って来た。
――「励ませ」と言われて、相手のピッチャーに毒をもったというのは如何か。そのズレ、もしくは飛び具合が面白いのだというなら何をか況やである。そして、もし毒を盛るなら、例えば「相手の弱点を付け」というフリの方が判り易く、笑いに繋がると思うのだが。
――続いて「チャンと励ませ」といわれて、宗教にハマった奴が出てくるのはいいが、言葉として、分かり易く励ます言葉が最初に出てくるべきだろう。いきなり「代表」を出すのではなく、「あなたは今何かにすがりたいはずだ!」とか。
――ま、相当、重箱の隅をつつきましたが、如何でしょうか。
――ところで、何でヒカリゴケなんでしょう?僕はヒカリゴケと言うと、武田泰淳の人肉食の小説しか思い出さないのですが。で、もうひとつ引っ掛かっているのが、片山くんてそんなに気持ち悪い?相方に比べてそんなに不細工?僕はあまりそうは思わないんだけど。もっと、普通に構えてみたらなんて思いますが。まだまだ試行錯誤か!
■オジンオズボーン(篠宮暁・高松新一)■
――「部活紹介」ネタだ。
――篠宮が次々と色んな部を紹介する。
「登山部」「サッカー部」「お笑い同好会」「オセロ部」「弓道部」「射撃部」「お笑い同好会」「るるぶ(部)」「バブ(部)」「ラブラブ(部)」「ごぶごぶ(部)」「大丈夫(部)」「お笑い同好会」「続きはウェブで部」の12種14部。
――秋田實分類による笑いの方法に倣うと、予期せぬ答えあり、洒落あり、誇張あり、或いは繰り返しありといった態であるが、単発に終始している。こういうネタ展開に対しても一慣性を、ストーリーをという訳ではない。彼らが意図として羅列ネタをやっていることは承知している。ならば、もっと破壊力が要る。見たことも、聞いたことも無いような一発が、いや、数発が!
――どうだろう、彼らはこのネタを作りながら、「もう無いな、これ以上はもう無いわ。部活の名前のネタはこれが最高や」と思ったのだろうか。そこまで行ったのだろうか?そう思って、これで勝つんだと、あるいは、これで負けたら今回はやることやったんやからしゃあないわと覚悟して当日を迎えたのだろうかと!ま、正論過ぎて聞いてられないかもしれませんが。
――賞レースだけでなく、いろんなところで彼らを見て来た。最初に見た時から華はあり、何かカラーを持っているようなのだが、未だにそのカラーが鮮明になっていない。活かすのは断然篠宮をだ。ふたりの色調が一致していない感がある。高松のツッコミの再点検が必要だろう。奮闘あるのみ。
そして結果です。
315点 対 685点
予想外の大差でオジンオズボーン、勝利!
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1回戦・第6試合
「スマイル VS span!」
■スマイル(瀬戸洋祐・ウーイェイよしたか)■
――「最近、僕、家で暇な時に考えてしまうことがあるんです。例えばですけどね、火事現場に遭遇した時に、中に子供がひとり取り残されている。そういう時に、助けに行くような勇敢な男って、カッコ良くて、ヒーローになれるんちゃうかなと思うんです」。うううん、何か余分な言葉がいっぱいひっついているような。家で暇な時に何思おうと自由ですが、ちょっと整理した方がいいのでは。
――しかし、そこからはよしたかを生かした、動きも言葉も不足の無い笑いの取れる漫才が終始する。
――敢えて言うなら、意図だ。彼らは何故火事現場で子供を救うネタをやろうとしたんだろう。敢えて比較させて貰うが、そこには笑い飯が「民族博物館」をやった意図的な狙いや、千鳥が「中世の騎士」をやった面白がり方といったものが感じられない。(二組のネタとしては古いのを引き合いに出してスイマセン)無論、スマイルとその二組の原点や漫才への考え方、色の違いはある。しかし、スマイルには漫才と言うネタはやっているが、瀬戸とよしたかという人間が出ていない。彼らは本当に火事現場で子供を救いたいと思ったのだろうか。漫才にそれを求めてもと言う人がいるなら、それは芸人でも、素人でも、その人達は漫才に期待しない人々だ。つまり、漫才を育てない人たちだ。
――既に個性が確立しているといってよいコンビだ。しかし、それが壁になりかけている感も無いではない。だからこそここからの飛躍の端緒はネタだ。どこかで誰かがやっていたような「火事現場」のネタではなく、他を圧倒する彼らの人命救助をやって頂きたい。
■span!(水本健一・マコト)■
――「ここでやってみたい事がある。ルパン3世って知ってる?ふたりで怪盗になってお宝盗みに行くシーンやろ」という水本のフリで所謂泥棒ネタへ。
――(高い塀の中の様子を確認する為に肩車)(塀を通り抜ける)(警報器が鳴る)(警備から逃げる)(外に止めている車で逃げる)といった展開の中で、しっかりと笑いは取っている。だが、そこに怪盗であることを上手く使った流れは無い。
――それに、折角のお宝も出てこない。入ったら直ぐ警備員に見つかって一目散のふたりだ。だったらフリは変えなければ。
――あのフリなら、お宝が何で、それが大きいなら大きいで、重いなら重いで、或いは生きているなら生きているで、どうやって盗むのかが一番の遊び場であり、見せ場である筈だ。そこが全く無い!折角ルパン3世をフリに使ったのに。
――ところで、今回は何度もフリが重要だと書いてきた。フリが笑いを取り易くし、漫才の出来を良くし、また上手くも見せてくれる。例えば強盗に入る前に、「そこは相当古い豪邸らしい。築300年らしい。塀はむっちゃ高い。凄い番犬がいるらしい。警備員はお爺ちゃんばっかり200人いる。お宝はピカソの絵、時価5億円。幽霊が出るらしい。落とし穴とか仕掛けがいっぱいやから気をつけろ・・・・」などなどとフッておけば、ボケはし放題だ。しかもフリが利いている。
――残念だが、出来の悪いネタと言わせて頂く。しかし、このところの力量の増強は着実だ。更にそれを見せつけ、自らも漫才を楽しむために、しっかりと構成の取れた漫才を作られんことを願う。
そして、1回戦、最終決戦は、
414点 対 586点
span!の勝利!
ということで、二回にわたり1回戦、6対戦を見てきました。
今回、既に9000字超!
はははは、相撲が長いっちゅうの!
2回戦と最終戦は次回以降に!

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