今日は6月23日。御存じか、67年前の今日、沖縄に配備された第32軍の司令官牛島中将が司令部があった摩文仁の洞窟で自決し、沖縄における日本軍の組織的抵抗が終結した日とされている。
今それは『沖縄慰霊の日』と呼ばれている。
今日、テレビは沖縄で催されたその式典『平成24年沖縄全戦没者追悼式』の様子を伝え、例えば毎日新聞はこう伝えた。
――沖縄は23日、沖縄の全戦没者の霊を慰める「慰霊の日」を迎えた。1945年のこの日、沖縄戦で旧日本軍の組織的戦闘が終結した。本土復帰40年を迎えた今も続く米軍基地の過重な負担に対し沖縄県民の怒りと悲しみは増している。糸満市摩文仁の平和祈念公園では、県主催の「沖縄全戦没者追悼式」が営まれ、野田佳彦首相や仲井真弘多知事、遺族ら約5500人が参列した。
(中略)
野田首相は挨拶で、沖縄戦を戦った大田実・海軍中将が自決前に海軍次官に送った「沖縄県民斯(か)く戦えり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」との電文に言及。「私たちは常に問い返さなければならない。沖縄が抱く思いをすべての日本人で分かち合おうとする努力を尽くしてきているだろうかと」と述べた。そのうえで「基地負担の早期軽減に全力を尽くし、目に見える形で進展させる」と述べたが、普天間やオスプレイなど具体的な問題には触れなかった。
仲井真知事はこれに先立つ平和宣言で「今なお県民は負担を背負い続けている。日米両政府に対して一日も早い普天間飛行場の県外移設を強く求める」と、昨年に続いて追悼式で県外移設を要求した。
公園内にある犠牲者の名を刻んだ平和の礎(いしじ)には今年、36人の名前が追加刻銘され、総刻銘者数は24万1167人となった――【井本義親】
僕が‘沖縄’のことを知り始めたのは1971年からだった。今思えば、それまで僕は沖縄のことなど眼中になかった。
1971年、それは僕が周囲よりはやや遅くれて大学に入った年であった。地方の三流国立大学とはいえまだまだ大学紛争の風と埃は間違いなく残滓としてのみあの長良川キャンパスに舞ってはいた。
つまり、所謂学生運動は69年1月の東大安田講堂陥落を最後に意気消沈し、消滅させられつつあり、後に連合赤軍となる共産主義者同盟赤軍派と京浜安保共闘が断末魔のあがきを演じていた。その彼らが群馬県の山中の浅間山荘と妙義山で狂気の挙句壊滅するのは1972年の2月のことである。
一方、大衆的(?)な闘争は時代を映して営続していた。その大きなもののひとつは三里塚闘争であり、ひとつは沖縄施政権返還闘争であった。
我がキャンパスにはその内の沖縄闘争と、学生自身が問題の当事者であった中教審闘争の二つがあった。(※三里塚は民青が逃亡し、革マルだけが叫んでいた)。
後者は平たく言えば授業料値上げ反対運動である。1ヶ月1000円の授業料を来年から3倍にし、やがては私立大学と同じレベルにまで持って行こうとする政府自民党の策略に対する抵抗運動であった。
授業料闘争は置くとしよう。
何故学生が沖縄返還に反対していたのか。彼らの要求は「核抜き本土並み返還」だったのだが、現実の返還は確かにそうではなかった。協定では沖縄の米軍基地は殆どそのまま残り、県民の要求からもかけ離れた内容だったのである。
その中で、僕はクラスで或いは寮(大学の男子寮。その名を望峰寮といふ)で浅いとはいえ、沖縄の現状と歴史を勉強することになった。勿論、返還協定の欺瞞性もである。
但し、学生の思いはそうであったが、沖縄県民の中には祖国(日本)復帰を望む声も少なくはなかった。だが、そうした日本に救いを求める思いは、返還後、変わらず基地が残り、生活格差が広がり、また米軍の事故や犯罪が起こるたびに反問され、煩悶されるのであった。
そうして知った沖縄は蹂躙され続けているというのが勉強の結果の僕の認識だ。
ある時期からの沖縄の歴史を概況してみる。
――1429年、沖縄(琉球)に琉球王国が誕生する。それまでは内乱の時代といってよい。つまり、そのころまでは蹂躙はされていなかったのだ。
――15世紀後半、世界的な大航海時代の訪れと共に、琉球にもその余波が届き始める。
――先ずやって来たのは薩摩藩である。薩摩の島津氏は戦国時代に疲弊した財政立て直しを目論み、琉球を通じて中国の明と貿易することを望み、琉球に対する圧力を強めたため、琉球はその対応に迫られることとなった。
――その後にやって来たのが豊臣秀吉だ。朝鮮出兵(1592年、1598年)の際に、琉球に対し兵糧米の供出などを命じたのだ。
――時代は変わって徳川の御代。明(中国)との貿易を望む徳川幕府は、明への服属を避けるために琉球を介した間接貿易を画策。だが承諾は日本への隷属だと考えた琉球王府は幕府の申し出を拒否。これに対し幕府は武力で承諾させようと、薩摩藩主島津忠恒に対して琉球への侵攻を許可したのだった。
――そして1609年、3000の島津軍が徳川幕府の命によって琉球に上陸、4000の琉球軍は武器と戦略において圧倒され敗北。4月首里城は陥落し、幕府は琉球の支配権を薩摩藩に許した。
――それ以降ほぼ明治維新まで、琉球は国家の存続を犠牲に薩摩藩と江戸幕府に忠誠を誓いつつ。清(中国)にも朝貢貿易(中国の皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ、これに対して中国側が恩賜を与えるという形式を持って成立する不平等貿易)を続けるという三重の桎梏に喘いだ。
――そして幕末の1844年、琉球にイギリスとフランスが通商を求めて来た。薩摩藩は幕府に対応を求めたが、阿片戦争(1840年)の情報を受けていた幕府は、その軍事力に恐れをなし、琉球に限って薩摩の対英仏通商を許可。1847年、薩摩が琉球を英仏に開港した。
――続いて1853年には米国のペリー提督が日本来航の前に琉球を訪れ、強制上陸。琉球国王に米大統領からの親書を渡す。続いてペリーは江戸幕府と交渉。1854年、日米和親条約締結。日本は開国。黒船騒動である。
――なお、ペリーは最初の来航の際に、大統領から通商の為に日本・琉球の武力征服もやむなしと告げられており、場合によってはアメリカによる日本占領も考えられたのだが、自国で南北戦争が起きアメリカの圧力は弱まったのであった。
――やがて明治維新。新政府は1871年(明治4年)廃藩置県を実施。翌年、琉球王国を強制廃止して琉球藩を設置した。これは琉球王国を一国家としてではなく属国として扱い、更に我がものにするという日本の新しい夜明けを目指す新国家の理想はどこに行ったのかと言わざるを得ない暴挙である。これを第一次琉球処分という。
――しかもこの日本のやり方に清が反発、遂には1874年の台湾出兵にまで及ぶが、その決着は日清戦争まで待たねばならなかった。
――一方、未だに日清両国におもねる琉球国(藩)にごうを煮やした日本政府は遂に1879年4月4日、琉球藩に軍隊と警官を派遣し日本の一県として廃藩置県を断行し、鹿児島県に編入した。これを第二次琉球処分という。
――次いで同年中に沖縄県を設置。しかし日本政府が危惧した清国の武力介入は行われず、琉球王国は中央集権的近代日本国家に組み入れられて消滅したのであった。国王(藩主)であった尚泰は侯爵に叙せられ、東京への定住を命ぜられた。第二尚氏家系は現在も続いている。
――そして1894年、日清戦争。敗れた清は台湾を割譲、同時に琉球に対する日本の主権を承認した。
――琉球処分以降の中華民国の尖閣諸島を含む沖縄諸島の認識は、日本領として正式に承認し、両国間では一応の決着がついていたことが判明している。だが2012年現在、これが揉めている・・・・
――ここまで400年の間、ひとつの国でありながら国として認められなかった琉球国。だが本当の蹂躙はここからである。それは蹂躙される側の知識と意識の高まりと共に蹂躙が権力の横暴として成立し行く過程なのである。
――正式に日本の領土とされた沖縄県であるが、日本政府による皇民化計画は時局とともに強まり、1890年1月、天皇への崇敬心を養うことを目的に、沖縄の土着的伝統的神社や拝所は村社として整理・統合され神道の布教が実施された。
――それ以降、
•1898年 徴兵令施行。
•1899年 沖縄県土地整理法施行。地租改正に着手。
•1903年 土地整理事業完了。先島諸島の人頭税廃止。
•1912年 衆議院議員選挙法改正により沖縄県に同法を適用。
などの改革が行われたが、しかしこれらはいずれも本土より10年から25年遅れで施行されたものであった。
――いずれにせよ、明治新政府により沖縄の歴史や独自性を無視した日本化が強制された続けたのである。
――そして1941年12月8日の大平洋戦争勃発。
――その末期、沖縄は本土決戦の捨て石、天皇の楯とされた。1945年4月1日、米軍は55万人の兵力で沖縄本島に上陸。沖縄県民も老若男女分け隔てなく戦闘に駆り出され、旧制中学校の生徒から成る鉄血勤皇隊、女子生徒中心のひめゆり学徒隊・白梅学徒隊などが組織された。
――しかし圧倒的なアメリカ軍の火力の前に沖縄戦の犠牲者は日本側の死者・行方不明者188,136人。沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人である。アメリカ軍側の死者・行方不明者は12,520人で、負傷者72,012人であった。このほか、朝鮮半島出身の作業員や慰安婦など1万人以上が統計から漏れているとの見方もある。
――組織的戦闘は第32軍司令官牛島満が自殺した6月23日に終結、実質的な戦闘は7月4日に終了し、9月7日に降伏文書が取り交わされた
――そして戦後、沖縄はアメリカの軍政下に置かれた。そこへ、1950年朝鮮戦争が起こる。沖縄はアメリカの「東アジアの要石」へと変化し、アメリカにとっては無くてはならない最前線基地となった。
――やがて1952年(昭和27年)4月28日発効の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で、アメリカは潜在的な日本の主権は認めながら、琉球政府を創設。正式にアメリカ軍の管理下に置き、各地にアメリカ軍基地・施設を建設した。これに対し県民は「島ぐるみ闘争」と呼ぶ抵抗運動を起こし、同時に日本復帰を目指した祖国復帰運動を行い、1960年(昭和35)に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)を結成した。
――しかし、ベトナム戦争(1960年or1965年から1975年)の激化によりに沖縄は更に重要基地となり、正に基地の島となったのである。これに伴ってアメリカ兵や軍による事件・事故も増加。また爆撃機が沖縄から直接ベトナムへ向かうことに対し、復帰運動は反米・反戦色を強め、沖縄はアメリカとアメリカに手を貸す日本に蹂躙され、時代の波に翻弄され続けたのであった。
――そんな状況下、第61,62、63代内閣総理大臣佐藤栄作は就任翌年の1965年8月19日、「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」と声明を発し、沖縄返還を行程に上げた。
――そして1969年の日米首脳会談で、米大統領ニクソンはベトナム戦争の近年中の終結を鑑みて、安保延長と引き換えに沖縄返還を約束した。それを受けて1971年沖縄返還協定調印、翌1972年5月15日に沖縄は日本へ復帰したのであった。
――しかし県民の期待とは裏腹に、アメリカ軍基地を県内に維持したままの返還であり、「核抜き・本土並み」のはずであったが、その裏には佐藤栄作とニクソンとの間の非核三原則の拡大解釈や日本国内へのアメリカ軍の各種核兵器の一時的な国内への持ち込みを容認する秘密協定など、アメリカの要求を尊重した密約が存在したのであった。
――そして現在、沖縄には在日米軍基地の75パーセント(面積比)が在り、基地の騒音・移転問題も解決されておらず、また米兵による県民への暴行事件などもしばしば起きている。特に1995年(平成7年)の少女強姦事件は日米地位協定の理不尽さを露呈させ、県民総決起の抗議が続く中、米軍基地の早期返還を求める声が再度強く挙がり、1997年、日米両政府は普天間飛行場の全面返還を発表。その後、民主党政権も普天間基地県外移転構想などを打ち上げたが・・・・・・・沖縄は今に至るも、日米の思惑に不幸な歴史を積み重ねるのみで、琉球王国誕生以来500年間、真に解放された歴史を持ち得ないままなのである。
何故沖縄はそんな目に!
これを何条件というのか、先ずは地理的環境があるだろう。地理的不幸、或いは不運といってもよい状況だ。
大アジアの東。中国から800km、台湾から600km、そして日本(鹿児島)から600km。この事実が生んだ禍ということは出来る。
だが、東西冷戦が無ければ、中国が社会主義でなければ、朝鮮戦争が無ければ、ベトナム戦争が無ければ、或いは豊臣秀吉の性格が違っていれば、日本がああでなければ・・・・
そのうちどれか一つでもいい、そうであったら・・・・
地球上の位置は、神か、もしくは何十億年という時間だけが変えられるのであろう。
だが人間にも歴史は変えられる。とりわけ戦争だ。やるべき戦争、必要な戦争などこれまでにもこれからも無い。やめられた戦争、やめるべき戦争ばかりなのだ。結局、沖縄を沖縄たらしめたのは人間なのだ。
僕はこれまでに何度か沖縄に行ったことがある。だがいずれも放送作家としてである。つまり番組がらみである。僕にはそれは幸いだと思う心がある。
正直に言う。沖縄はいつも居心地が悪い。僕にはどの面下げて沖縄へ行けばいいのかという思い(上がり)がある。
僕がプライベートで沖縄へ行くとしたら、目的は、用事は何だろう。嘉手納基地を見て、ひめゆりの塔を回って、摩文仁の丘へ登って帰って来るのだろうか。
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『コント衛門・5』面構え公演が終わりました。
その日、6月19日は台風4号が近畿地方を直撃という日でしたが、にもかかわらずおいで頂いた皆さん本当に有り難うございました。
色んな警報や注意報が出される中、外出を諦めた方もおられたようで、何とも申し訳ない一日でもありました。
それにしても、『コント衛門』当日の天候の悪い事と言ったら!これまで5回中4回雨!もしくは雨模様!
僕が雨男だと言う説もあるようで、だとしたら、来年は是非‘梅雨’は避ける方向で対処せねばなりません。
次回は今秋、11月を目論んでいます。是非是非のおいでを心よりお願い申し上げます。
有り難うございました。
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そして、とうとうあの訃報が舞い込んできた。
伊藤えみ!!!!!!
御存じでしょうか、ザ・ピーナッツ!
彼女はその双子デュオの姉でした。
こんな仕事をやっている僕は、いつかあのお二人と仕事が出来る日が・・・と思っていたのでした。
或いは、それが叶わぬまでも、ひょっとして何かのきっかけでカムバック、もしくは再デビュー、一時の復活・・・・・
全部叶わぬ事となってしまいました。
今は、彼女の御冥福を祈りながら、せめて何処かのテレビ局が彼女の為の特番を作ってくれることを期待しているのです。
享年71歳。お疲れ様でした。

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