さて、次の番組だ。
C『シリーズ証言記録・兵士たちの戦争「西部ニューギニア 見捨てられた戦場〜千葉県・佐倉歩兵第221連隊〜」』
(8/12〈日〉NHK・BS 46分)
千葉県・佐倉第221歩兵連隊の兵士3,300名は昭和19年5月、中国大陸から西部ニューギニアに派遣された。彼らに下された命令は、ニューギニア島の北に浮かぶ小島・ビアク島を防衛する事だった。ビアク島は南洋諸島の制空権を握る為の要の地で、飛行場建設に適した島であった。しかし、昭和19年5月27日、連合軍が先に上陸、戦いの主導権を握られてしまう。
止む無く連隊はニューギニア島北部のふたつの町(マノクワリとソロン)に分かれて上陸。ところが連合軍はフィリピンの決戦を想定し、兵力を温存する為、ニューギニアには上陸せず、空襲や艦砲射撃で日本軍を攻撃、武器、弾薬、食料などを積んだ艦船を沈め、日本軍の補給と輸送手段を断ったのである。忽ちにして連隊はニューギニアの密林に閉じ込められ孤立してしまう。
しかし、そうした戦況を把握理解しないまま戦闘命令は下され、数100キロに及ぶジャングルの中を行軍。飢餓とマラリアが彼らを襲い、その結果、221連隊は一度の戦闘も経験することなく、3000の兵士、即ち連隊の9割を失ったのである。
因みに、その命令を下したのは天皇を崇拝し、国体護持だけに生きた当時の第二方面軍司令官・阿南惟幾である。その後の8月14日、既に無条件降伏を知った阿南は自刃したが、無駄死にした3000の若き命を思う時、遅きに失したというべきである。
番組は221連隊の生存者8名と、221連隊ではないが、この作戦に加わった中現地住民を処刑したことにより戦犯とされたひとりの兵士の証言により、その時そこで何があったかを報告する。
証言する元兵士に敬意を表し、ここにその名前を書く。
宮崎 喜重(歩兵)
板垣 正雄(歩兵)
小川 昌康(歩兵)
白石 忠 (歩兵)
彦久保基正(通信兵)
内田平八郎(歩兵)
野口 大吉(歩兵)
ここまでが221連隊
飯田 進 (調査)
村田 登 (35師団大尉)
以下はその証言からの抜粋である。
「制空権、制海権、全部抑えられてこっちから行くに行けない」
「我々は、マノクワリもソロンも戦いやってませんよ、一日もね」
「一番最初にやった事は、ジャングルを切り開いて、畑を作って、サツマイモを作る事だった。けど、そのサツマイモも4ヶ月経たないと食べられない」
「爆弾仕掛けたり、塹壕作ったり、それが終ると作戦道っていう、自動車が行ける広い路を作ったのが、うちの連隊が死んだ一番の原因ですね」
「全部手作業ですから。掘るのも、シャベルなんかありません」
「司令部の偉いのが、馬から下りて、棒持って、叱咤する。ぶっ殺してやろうかと思いましたよ」
「物を食わずに10日も20日も歩けって、それも鉄砲と背嚢しょってですよ」
「途中幾つも川があって、1本急流があってね、渡る時に5、6人流されたのをこの目で見たけど、どうしようもなくて、見逃してそのまま前進したわけだけど」
「雨が降るでしょ。そしたら、段々兵隊が欠けて行くんです。マラリアなんかで、食べるものは無いし、もう置いていくよりしょうがない」
「後から来いよなんて言ってくけど、誰もきやしない」
「行くとこ行くとこいっぱい死んでるんです。屍累々。道が臭いの。人間の死体の臭いって特別ですね」
「補充兵だと思ったけど、朝起きたらジャングル入っていくの。大便かと思ったら、ドカーンて、手榴弾で自爆しちゃったんだね。それぐらいつらい行軍ですよ」
「みんなガイコツですよ。ガイコツに皮がついてるようなもんです」
「トイレ行こうと思っても倒木があるでしょ。10cmか20cm。けど足が上がらないの。それが超えられなくて、こうやって自分で自分の足持ち上げていくの」
「毎日20人とか30人とか死んでいく。死ぬ間際になると、何万引きという蟻が来る。目とか鼻とか口が蟻で真っ黒になっちゃう。蟻がきたらダメだって言ってね。どうする事も出来ない。惨めだったね」
「最後には、水が飲み込めないんだ。悲惨なもんです。地獄です」
「先に上陸した海軍は食料持っててね、『やたらに農場内に入れば豚と見なして撃ち殺すから気を付けてください』と書いてある」
「海軍の食料をかっぱらって、軍法会議に掛けられて、自殺を命じられて自殺した人がいました」
「はじめの内に亡くなった人は火葬してましたけど、途中から腕だけになって、最後は小指だけを焼きました」
飢餓と病気とだけ戦った221連隊。彼らは終戦後もアメリカの監視下に置かれ、生き残った300名が帰国したのは翌年の5月末だった。しかし、彼らは決して温かく迎えられたわけではなかった。
「初めの内は、恥ずかしくて外へ出られなかった」
「何か悪い事をして帰って来たようで、外へ出るのがおっくうで」
「(周りの人も)せがれや弟なりがみな死んでるでしょ。そしたら、『何だ、帰って来たのか』っていう態度ですよ」
終章近く、ナレーションが語る。
〜戦後62年経った今も兵士の心には深い悲しみや憤りが刻み込まれています。戦うことなく次々と命を落としていった戦友達。彼らは何故死ななければならなかったのか。自分がニューギニアに行ったのは一体何の為だったのか〜
「悲しいね。馬鹿なことをするだけでね、戦争だけはしちゃだめだよ」
「今思えば本当に可哀相だよね。20、21、22ぐらいの友がみんな死んじゃったんだからね。一緒に教育して、立派に戦死したっていうならいいけど、食い物が無くなって野垂れ死にしたっていうんじゃ、そこの家行って言えないもん」
「名誉の戦死をした英霊という言葉からはね、飢え死にした兵隊達の責任は誰が取ったらいいかという問題は一切浮かび上がって来ない。私が我慢できないのは、戦後62年、そういう事に対し全て蓋をして来た。過去のそういう醜い歴史を見据えて考えていかないと、また似たような問題が起こる可能性が十分ある」
この証言を最後に、番組は221連隊中の幾つかの中隊のうちのある一隊の薄く茶色に変色した一葉の記念写真を写して終る。
↓ ↓ ↓
これほどの悲劇はあるまい。同時にこれほどの喜劇もあるまい。
ではテストです。次の事柄は悲劇か喜劇か、よく考えて答えなさい。
@お国の為に戦争に行って、一発の弾を撃つことなく餓死した兵士。
A鬼畜米英を倒すぞと戦争に行ったのに、敵と戦うことなく病死した将校。
B天皇の為にと戦争に行きながら、天皇の赤子たる兵士の殆どを飢えで亡くした上官。
C戦場で、敵の攻撃に負傷した兵士でなく、腹の減った兵士の世話をしたが、食べさせるものが無く殆どを死なせた衛生兵。
D戦場で、敵の攻撃で負傷した兵士でなく、マラリアに罹った兵士を診たが、薬が無く、「頑張れ」的なことばかり言っていた軍医。
E戦争へ行き、戦友が餓死、或は病死する中、敵とも戦わず、随分痩せたものの、無事日本へ帰ってきた兵士。
F戦争へ行った途端、マラリアにやられたが、その後治って日本へ帰ってきた兵士。
G何もしないのに、今日も日本兵が何十人も死んだと報告を受けるアメリカ将校。
H戦争から帰ってきた息子に戦争の事を聞くと、必ず話をそらされるおかん。
I戦争から帰ってきた息子に「どんな戦争やった?」と聞くと、いつも「何もしとらん」と言われ、謙虚な息子やとまた息子を誉めるおとん。
J戦争から帰って来て、陸軍省への報告書の成果の欄に何も書けず、提出を一日延ばしに延ばしている連隊長。
K戦況に合致しない無謀な命令で多くの兵士を死なせたのに、その後陸軍大臣にまでなった阿南惟幾。
L独善的な独断命令により多くの兵士を死なせた阿南惟幾を陸軍大臣にした首相、鈴木貫太郎。
さて、あなたは悲劇が幾つで、喜劇が幾つだった。因みに、喜劇が3個以上あったら、あなたは人間として〇〇〇です。そういう私は喜劇が〇個でした。

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