ところで「大阪には‘不幸な女芸人の伝統’がある」と書いたが、これは自説だ。上方芸能界の常識や定説になっているわけでも無く、また、安藤鶴夫が、中原弓彦が、吉田留三郎が、木津川計が、或いはその他芸能を論評する碩学の誰が唱えたわけでもない。そして説と言うには僕自身の分析や論証が確立しているわけでもなく、ただの思い付きだ。でも、見当外れでは無い・・・と思う。
さて、その伝統ある不幸な女芸人はミヤコ蝶々と、まずもうひとり、京唄子だ。
無論、人間にとって何が不幸で何が幸福かは主観的で、可逆的なものだ。結婚が幸福で、離婚が不幸だとは言い切れない。ただ、京唄子は結婚4回、離婚3回という経歴を持つ。
本名、鵜島ウタ子。1927年、京都市の生まれ。ミヤコ蝶々より7歳年下ということになる。父親の職業はチンドン屋だったという。
彼女も芸能生活のスタートは劇団だ。時まさに終戦の年、1945年の入団。但し、それは宝塚出身の女優「宮城千賀子」の「なでしこ劇団」で、ミヤコ蝶々の旅芸人的なものとは少し違う。敢えて言うならちょっと上等ということになろう。因みにその時の芸名は現在に繋がる京町歌子。
その後、女剣劇の女王と言われた不二洋子、瀬川信子一座と大衆芝居畑を歩む。
最初の結婚がこの頃。相手は浪花五郎という俳優で、5年後に離婚。だが、それが正確に何歳から何歳までかが不明なのだ・・・
※今回、京唄子の生い立ち、過去をインターネットと所蔵する数冊の本で出来るだけ調べたが、どうも細かいところまでの年次、日付が明らかにならない。知り得た範囲でご容赦願いたい。
やがて二人目の結婚相手でもあり、彼女の人生に多大な影響を与えた鳳啓助と出会う。だが、直ぐに漫才コンビを組んだ訳ではない、「ヌードショーの前座で」「吉本新喜劇みたいな芝居」をやっていたという。そんなある日、大鳥敬介という名で脚本、演出、出演、雑用と何でもやっていた「啓ちゃん」が「いつまでもこんなことやってたらあかん。お前を絶対人気者にするから漫才やろう。いやなら、わしと別れよう」と言ってきたのだ。「名も無い女優だったがプライドがあった。漫才がいやでいやで、泣く泣くやった」京唄子であった。
さて、この時二人が結婚していたかどうかが定かでない。鳳啓助の言葉からすれば既に男女の関係ではあったのであろうが。ともかく漫才コンビ結成は1956年ということになっている。初舞台は京都『富貴亭』。
漫才のネタは全て鳳啓助が書いた。「ポテチン」だの「エロガッパ」だのと思いだす(今で言う)ギャグはあったが、僕は「忘れようとして思いだせない」とか「言いそこ間違い」といった妙に耳に付くフレーズの方が好きだった。更に、結構暴力的で、といってもそれは常に女が男に振るうのだが、怒った唄子が啓助を後ろ向きにして上着の背の部分をめくると、シャツの背中が大きく切ってあり肌が露出している。そこをパチンと思いっきり叩く。その勢いのままに啓助を正面に向かせ、蝶ネクタイを引っ張るとゴムが伸び、その手を離すと、再びパチンと今度は啓助の顔に蝶ネクタイの一撃だ。大爆笑。そして、その攻撃を加えてる女性が結構な美人なのだ。だが、思いっきりやる。言葉も「あほんだら、ぼけ!」小気味がいいのだが、師匠方には「あんなもん漫才ちゃう」と受けは悪い。しかし、売れた。
だがそうであっても、この二人の芸人、二人の男女の生き方と愛し方は公私をもろともにするだけに困難は大きく、多い。ご多分に漏れず、夫啓助が浮気。漫才中に喧嘩したこともあると言う。そして結婚11年を経た1965年、ふたりは離婚する。だが、それを世間に発表、もしくは知られることなく漫才は夫婦漫才として続行していく。このあたり、ミヤコ蝶々と重なる偶然は女芸人、女漫才師の必然とも言いうるものかもしれない・・・と、女芸人に幻想を抱く僕は思うのだ。
しかし、私生活の悲しみとは裏腹にふたりの人気は昇り続け、1969年『蝶々雄二の夫婦善哉』にも匹敵するテレビ番組『唄子啓助のおもろい夫婦』が始まる。この番組はその後1985年まで16年間に渡って続き、唄子啓助の名前を全国区にのし上げることになる。
ところが、この番組の勢いが逆に彼らの活躍を狭めた一面がある。1970年、つまり番組が始まった翌年、ふたりは念願のとも言うべき「唄啓劇団」を立ち上げたのだ。それはつまり、漫才からの撤退を意味していた。時と場合に応じて漫才をやることもあったが、確実に唄子啓助は漫才から遠のいていった。既に夫婦ではなく、漫才もやらないふたりが劇団を持ち、本を作り、舞台に立つ。演出は元・夫。演出されるのは元・妻。人気のテレビ番組もあるが、そんな因果をなぜ続けるのか。それは今や一方の京唄子だけに聞いても分からないことだろう。番組があったから劇団もできたのか、劇団があったから番組も続けられたのか。
そんなふたりに再び大きな転機がやって来た。その原因を作ったのはまたしても男の側だった。だが、今回は違った、漫才コンビを組んだり、劇団を作ったりという前向きな人生選択ではなかった、啓助の癌により、1985年3月、『おもろい夫婦』が終了。その2年後、啓助の癌の進行と共に「唄啓劇団」解散。ここに、夫婦漫才唄子啓助の終焉が極まった。
しかし、終わったのは(失礼)男だけであった。女・京唄子はそこから「京唄子劇団」を敢行する。その精神力を思いやることは不可能ではないが、間違いなく誰もが為し得ることではない。実際、劇団のエンジンとも言うべき作家と演出家を失っているのだ。だが、彼女は旗を揚げた。結局、京唄子の人生は初心で目指した「劇団」に拘った人生であったかもしれない。
更に、この間、彼女はもう2回の結婚を経験している。3人目は三田マサルという芸人。そして、4人目が結婚生活20年になるという現在の夫である。
京唄子の人生は、まだあるが、結局鳳啓助に翻弄されたそれではなかったかと思う。だが、翻弄されるがままではなかった。僕は想像する、彼女は離婚してもなお、「番組をやろう」「劇団を作ろう」と言ってくる啓助を憎んだのではないだろうか。「なぜそんなことが出来るの」と、理解しようにもできない男の欲であったのではないか。しかし、彼女はそれを受け入れた。それは愛故か芸故か。この葛藤に生き得たのは、時代もあったろうが、そういう男と女であったと断ずるに如くはない。
こんな「不幸な女芸人」がまずは二人もいるのだ。その芸人として、女としての凄まじき生き方。その伝統はどこへ行ったのだ。
さらにこのふたりの後を追った女芸人がいた。正司敏江である。
1944年、香川県小豆島の生まれ、来阪して‘かしまし娘’のお手伝いさんとして働くが、1962年正司利江の名でトリオ漫才‘ちゃっかり娘’の一員に。ところが他のメンバー二人が‘津軽姉妹’という歌手に転向したためトリオ解消。その頃に、やがて恋人、夫、相方となる玲児と知り合う。
実は玲児は、同じ1962年、松竹芸能に入社、漫画トリオのマネージャー見習いとなるが、2年後、現吉本新喜劇の池乃めだからと‘ピスボーイ’という音楽ショーを結成する。しかし、短命に終わり、あえなく解散。
ふたりが出会ったのはその頃。やがて愛と生活と夢を一蓮托生と誓ったふたりは1966年、周囲の反対を押し切って結婚。同時に漫才コンビともなる。その2年後、師匠から‘正司’の名を許された夫と共に改めて‘正司敏江・玲児’と看板を替え、よく69年、早くも上方漫才大賞新人賞を獲得する。
以降、着物姿の敏江がおでこと言わず、後頭部と言わず、おいどと言わず思いっきりドツカれ、蹴られ、そしてこかされ、あれは漫才ではないと嘗て唄子啓助が言われたことを再び背負いながら、だが敏江玲児のドツキ漫才は爆笑をとり、認知されていくのである。
しかし、10年後、不幸は同じ顔でやって来た。男の浮気である。1976年、ふたりは離婚。だが、彼女らもまた、他人となりながらも漫才は今に至るも解消していない。
三者のこの執念は、一体、女ひとりの体から出たものなのか。それとも、男ありきの妄執なのか。いずれにせよ芸にかける、漫才にかける執念だけが為せる技とは思えない。だとすれば、女は選ばれるのか、この3人でなくてもこの事態は生まれたのか。ならば同時に、相手はどうだ。この男たちでなくてはならなかったのか、それとも・・・僕になぞ出せる答があるとは思わないが、その必然と偶然が‘不幸な女芸人の伝統’を作ったことは、それはそうであろう。
こんな凄まじき女芸人の生き方を伝統というか、今風に伝説と言うかはさておいて、今、それは確実に大阪に無い。
とまれ、大衆が芸=お笑いに何を求めるかは同じではない。ある人は今日の癒しと言い、ある人は明日への活力と言い、ある人は社会批判と言い、また別の人は無意味な笑いと言う。では芸人に何を求めるかといえば、ハレであり、外連であり、非日常、つまりは規格外れであろう。電波や、活字を中心としたマスメディアがそれらの跳梁を彼らこそが規範とでも言うように、訳知り顔で訓導しようとする時代の愚はあろうとも、不道徳な愛、不遜な言動、不埒な芸、不思議な感性、つまり非社会的なあり方こそが芸人の本来ではないのかと、例えアナクロであろうと、僕は団固そう思うのである。
平たく言えば、普通の人間が面白いわけがないのだ!
そうであるが故に、普通の女性が望む幸せに一目散、折角大先輩が作った「大阪の不幸な女芸人の面白い伝統」を中断させた、下手をすると途絶えさせた上沼恵美子に文句とがっかりの僕なのである。
だが、再び書くが、そんなことは上沼恵美子の責任ではない、彼女の自由であり、勝手だ。増してやそこに彼女の意志はあったのだ。問題は芸人でありながら何の見識も意地もなく、普通の幸せに走った海原千里・万里亡き後の大阪お笑い界をあるべき女芸人として席巻すべきだった若き女芸人たちである!嗚呼、二度も書いてしまった。
だが、・・・そんなことが無いものねだりであることは百も承知。けれど、諦めの悪い僕はまだまだ期待するのだ。
「南海キャンディーズ」しずちゃんとやまちゃん!
「男と女」和田(美枝)と市川(義一)!
「でびちねん」知念由美子とデビ!
僕が知ってる範囲の男女コンビだ。大阪に、そして東京にまだまだ存在するかもしれないが、如何せん少ない。勿論、量ではないが、果たして、彼、彼女らの中に不幸を呼び込み、それを糧として、凄まじい芸人魂を見せてくれるコンビはいるのか!
〜ただ、特筆すべきは「宮川大助・花子」の夫婦コンビ。漫才にお芝居に、尽きぬ切磋琢磨をしておられる。そして押しも押されもせぬ日本一の夫婦漫才である。不幸もあった。ただ、失礼極まりない言い方だが、不幸のその質が違う。大助さん、浮気しませんから〜
だが、不幸なる女芸人は必ずしも男女コンビでなければならないわけではない・・・女性芸人に枠を拡大して、期待の輪を広げよう!
「青空」須藤理恵・岡友美!
「アジアン」馬場園梓・隅田美保!
「イー☆リャン」鬼塚和未・兼重泰子!
「梅小鉢」高田沙千子・小森麻由!
「天然もろこし」植山由美子・関根知佳!
「Dr.ハインリッヒ」山内幸・彩!
「ツジカオルコ」!
「いがわゆり蚊」!
その他、漫才の栄光を目指し蠢く明日ある女芸人たちよ、僕は君たちに、非日常、非社会、非道徳を願い、非幸福を勝ち取ってほしいのだ!
ところで、僕はふと思う、あの偉大なる3組、蝶々・雄二、唄子・啓助、敏江・玲児の交流はどうだったのかと。無論ここからは想像だ。互いに先輩であり後輩である。先輩は舞台の出来は勿論、聞こえてくる男女の風聞を知らず知らず気に留めていたのではないか。或いは後輩は先輩に相談に行ったやもしれぬ・・・しかし、それは決して傷を舐め合うのではなく、芸人と して女としての本当の「幸福」を求めてのことではなかったか!
『浪花非情喜劇・蝶々雄二・唄子啓助・敏江玲児・三大夫婦漫才・道頓堀血と涙の大混戦!!!』
この芝居面白そう!ただ、問題は役者だ。
さて、残すは1位のみ!

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