人間の行為の中でもその許され難さは殺人、差別、無視に勝るとも劣ることのない「変節」。堂々その1位に輝いたのは、正確に言うなら、輝かさせられたのは・・・!「石原慎太郎」!
ご存じ、現東京都知事。
彼のこれまでを大雑把に把握するなら、
1932・9・30=兵庫県神戸市で生まれる
1934・12・28=弟、裕次郎生まれる
1952=一橋大学法学部に入学
1955=石田由美子(18)と結婚
1956・1=『太陽の季節』で第34回芥川賞を史上最年少で受賞
1956・3=一橋大学卒業。
※『太陽の季節』映画化、弟裕次郎俳優デビュー
1957・4・19=長男・伸晃誕生
1962=次男・良純誕生(その後三男、四男を儲ける)
1968・7=自民党より参院選に出馬。全国区で300万票獲得、トップ当選を果たす
1972・12=参議院を辞し、東京2区より衆議院に出馬、当選。
1973・7=渡辺美智雄、中川一郎、浜田幸一らと「青嵐会」を結成
1975・4=東京都知事選出馬。現職の美濃部亮吉に負ける
1976=衆院選出馬、当選。福田赳夫内閣で環境庁長官に
1987・7・17=裕次郎死去
1987・11=竹下登内閣で運輸大臣に
1989・8=自民党総裁選に出馬するも海部俊樹に敗れる
1990=長男・伸晃が衆議院当選、親子で議員に
1995・4=議員辞職表明
1999・4=都知事選出馬、166万票で当選
2003・4=308万票で都知事に再選
2007・4=都知事に3選さる
「変節」の冒頭で書いたが、このランキングのタイトルは「僕の思う政界外御存命変節ベスト10」だ。上記のように既に政治家である石原慎太郎が1位であるが、それは彼の政治家性を否定すると言うことではなく、小沢一郎のように政治家であり続けながら信念を変えるのではなく、「変節」前、彼は文学者だったからに過ぎない。ただ、政治家になることそれ自体が「変節」だとも言い得るのではあるが。
要するに、石原慎太郎の「変節」は文学者、もしくは小説家であったのにという一点だけである。付け加えるとしたら、彼を1位にした張本人としては「あんな小説を書いたのに!」である。
但し、彼を文学者と認めない人もいるし、あの小説を文学と言わない人もいるのは事実だ。
ともかく、石原慎太郎の小説「太陽の季節」は時代を席巻し、時代にもてはやされた。選考委員は斯く言った。
*井上靖*
〜その達者さと新鮮さには眼を瞑ることはできない
〜候補作品中ではこれが出色である
〜のびのびとした筆力も、作品に漲るエネルギーも小気味いい
*川端康成*
〜石原氏のような思い切り若い才能を推賞することが好きである
*石川達三
〜候補作品の最後にこれを読んで、推すならばこれだと言う気がした
〜如何にも新人らしい新人である
*滝井孝作*
〜若々しい情熱には、惹かれるものがあった
*中村光夫*
〜未完成がそのまま未知の生命力の激しさを感じさせる点で異彩を放っています
〜若さとポオズそのもののような小説で〜肩肘はった大袈裟な身振りに意識しない真摯さがあふれていて、この背徳小説の作者は彼自身が意識しているより、ずっときれいな心の持ち主なのです
*舟橋聖一*
〜一番純粋な快楽と、素直にまっ正面から取り組んでいる
という具合だ。だが実はどの評も「太陽の季節」の物語性や構成や文章力に言及していない。それどころか、そうしたいわゆる文学性に関してはいっそ酷評でさえある。上記の高評は中でも好意的、評価的な個所を抜き出したもので、更に、選考委員は他に、宇野浩二、佐藤春夫、丹羽文雄らがいたが、三氏の評文に、この作品への前向きな評価は見当たらない有様である。
つまり、「太陽の季節」は作者の時代への、或いは文学そのものへの攻撃性が評価されたものと言える。上等でも精巧でもないが、とにかく誰もが投げなかった爆弾を投げたという評価である。当時、純文学の芥川賞であるに関わらず、風俗小説と言われた訳がそこにある。
しかし、文学ではなく爆弾、それこそが「太陽の季節」なのである。
そして爆弾は、大爆発ではなくとも、それなりの爆風を起こし、戦後の若者の虚無感とその逆とも言える生命力を主張し、大人たちの既成道徳を問い、文芸誌や週刊誌に賛否半ばして取り上げられながら、やがては暴走族出現への心情的背景とまで言われるようになるのである。
兎に角、石原慎太郎は爆弾を投げた。爆弾を投げたと言う事は何か意思があったはずである。そして、彼の場合、爆弾は本物ではなく、文学という手段に変えられたのである。手段がある以上、目的がある。その目的こそは、はずでも、だろうでもなく、間違いなく自己表現なのである。
『自己表現は必ず自由に向かう』
この文章から「自己」は取っても良いが、これは僕の持論である。勿論、大層で、面映ゆい。でも相手が石原慎太郎だから、恥ずかしいとか言ってられない。
つまり、その時石原慎太郎は、自らを規制し、束縛し、圧迫する何かに対して自由を希求し、爆弾を投げた=文学を書いた=「太陽の季節」に至ったのだ。
それなのに、途中から、いや、結構早くから、政治家という、しかも、保守の権化自由民主党という、やがては都知事という、自由を規制する側に回ってしまったのだ!「変節」ここにあり!
宇宙があって、地球があって、国家があって、最低限の秩序が要るのだとしたら、統治を信託された側が自由を制する者となるのは、必要悪で、仕方のないことだ。つまりは、この宇宙に100%の自由は存在しない。生物が最大限生きていく為の犠牲と言っても良い。だが、だからこそ人は自由を求める。欲しがる。願う。夢見る。
凡そ作家などというものは、それが文章であろうと、映像であろうと、何か立体物であろうと、もともと自己実現という勝手な自由のためにその全身全霊を使う生き物であるのだが、自由の為にそうするのか、それをしたくて自由を求めるのか、それは作家活動が彼にとって手段なのか、目的なのかに因ることでもあるのだが、いずれにせよ、必然的に自由を制限してくる者=体制=時の政府とは敵対する運命を持っているものなのである。
つまり、嘗て文学者ないしは小説家であった石原慎太郎も例え小さくても、よしんば自分の為だけだったとしても、自由を求め、体制側と敵対する者であったはずなのだ!
それなのに!嗚呼、それなのに!これを「変節」と言わずして、何を「変節」と言いうるか!
僕が「太陽の季節」を読んだのは17歳だったと思う。1966年、グループサウンドと、クレイジーキャッツと、ザ・ピーナッツと、モンキーズと、バークにまかせろと、スパイ大作戦と、ナポレオンソロと、潜水艦シービュー号と、逃亡者と、てなもんや三度笠と、シャボン玉ホリデーと、夢で逢いましょうと、エルケ・ソマーと、アン・フランシスと、そして同じクラスのあの娘が好きだった高校二年生。童貞だったし、キスも知らなかった。田舎だったので最大の刺激は毎晩見るエロい夢が最大だった。結局、何がきっかけでその本を手にしたのか。物語も同様に覚束ない。読後の印象を今書いてみるが、恐らくその後、耳にした情報も知らず混入していると思うし、細部は間違っているかも知れない・・・
「大学生でボクシング部の主人公は、ある日、今で言うナンパである女と知り合う。当時の僕はこの、街で知らぬ人に声を掛ける=ナンパという行為に全く現実性がなかった。最初は主人公の方が好きだったのだが、後では女の方が彼を好きになる。ふたりは友達らとよく遊ぶ。それが銀座や湘南や、別荘やヨット。銀座はともかく、湘南は全くイメージが湧かないところだった。別荘にヨットも全く小説の世界でのことで夢物語と言ってよかった。その中で、話題になったシーンが登場する。この本を読もうと思ったのも、ひょっとするとそのシーンの事を聞いていたからかも知れない。<障子破り>と言われたそのシーンは、主人公が彼女がいる部屋の障子を外から勃起した男根で突き破るというものだ。この部分がこの小説の最大評価のように記憶している。が、僕にはさほどの衝撃は無かった。というか、思ったほどエロくなかっただけかもしれない。17歳の僕にはこの文学を味わう力は無かったということか。そして、つけあがる主人公は彼女を5千円で兄に売る。が、彼女は同額の金を兄に突き返した。これは彼女の意地であり、結構純粋な田舎の少年は、彼女の行為を当然だと思い、応援したい気分になったことを思い出す。しかし、そうこうするうちに彼女が主人公の子供を妊娠。田舎の17歳には重い話だ。しかし、煮え切らない主人公。やがて彼女は中絶手術をするのだが、手術後死んでしまう。この原因が思い出せない。最後は彼女の葬式。彼女の遺影を前に、これこそが彼女の最大の復讐なのではと思った主人公は遺影に香炉を投げつけて、その場を去るのだった」
多分、こんな感じ。
若者の虚無感や、生命力や、大人への反発・・・は感じなかった。単に、僕の読解力の問題だろうが、僕の現実世界とは乖離が激し過ぎた。「太陽の季節」は遥か理解の外にあった。
だが実は先の選考委員達は既に見抜いていたのだ。殊に、以下のおふたりは手厳しい。
*宇野浩二*
〜この小説は、仮に新奇な作品としても、しいて意地悪く云えば、一種の下らぬ通俗小説であり、又、作者が、あたかも時代に(あるいはジャナリズム)に迎合するように、〜書きあらわしたりしている〜私が最も気になるのは、案外に常識家ではないかと思われるこの作者が、読者を意識に入れて、わざとあけすけに、なるべく新奇な、猟奇的な、淫靡なことを、書き立てているのではないかと思われることである〜
*佐藤春夫*
〜僕は「太陽の季節」の反倫理的なのは必ずしも排撃はしないが、こういう風俗小説一般を文芸としてもっとも低級なものとみている上、この作者の鋭敏げな時代感覚もジャナリストや興業者の息を出ず、決して文学者のものではないと思ったし、又この作品から作者の美的節度の欠如をみて最も厚かましく押し付け説き立てる作者の態度を卑しいと思ったものである。僕にとって何の取り柄もない「太陽の季節」を人々が当選させるという多数決に対して〜これに感心したとあっては恥ずかしいから僕は選者でもこの当選には連帯責任は負わない〜
文芸に低級があるかどうかはさておき、相当な酷評だ。両者とも作品のみならず石原の人品骨柄まで蔑んでいる感さえある。たまたま書いた小説でそこまで言われたら石原慎太郎もたまったものじゃないだろうと御推察する。
※またしても、字数制限のため、以下は次回!

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