P.6
ルール(規則、標準、通例、物差し)への問い
Georg FranckによるChristian Kerezとの対話
Christian Kerez:あなたの最新の本「Architektonische Qualität」は、建築の質についてのものだ。以前の本「Mentaler Kapitalismus. Eine politische Ökonomie des Geistes」は、メディア時代における建築の知覚についてのものだった。今、あなたが質を尋ねたり、あるいは、善し悪しの間の差異を調べる時、あなたはメデイアを考慮しない。私が建築を見るところ、私はあなたが善し悪しの間の差異についての一般化(普遍化)を作ることができるとは思わない。私は世界をあるより良い場所にする普遍的に確かなモデル(方式、方法)を持っていない。あなたは建築の倫理(道徳)を定式化(公式化、考案)しようと試みているが、私のアプローチにはア・プリオリに(前もって考えられた、論理に基づいた)倫理的(道徳的)正当化(弁明)などない。それはただ、スペシフィックな(特定の)プロジェクトに関して、そして、その事実の後に、ケースバイケースでなされうるだけだ。
それがなぜあなたへの私の最初の質問が、なぜあなたは私のワーク(作品、取り組み)にまで興味があるのかという理由だ。
Georg Franck:矛盾のないテンション(緊張、均衡)はない。ある程度、それは私にとってもまた困惑(板ばさみの境地)だ。一方で、その本は如何に素晴らしいマナー(手法)が建築では重要かということを強調している。現今では、建築は都市のスプロール化(不規則に広がること)のコンテキスト(文脈)の中での建築であり、それゆえ他の建築との一団の中の建築である。都市のスプロール化をそれだけ悲惨な(みすぼらしい)ものにしているのは、ランダムにばらまかれた建物がお互いに何も会話するものを持っていないということだ。それらは建築的に目立つ外部空間の壁を形作ることに協力しない。つまり、それらはあるアイデンティティー(同一性)やある特徴を持つストラクチャー(構造)を形作ることに提携しない。そして、あなたの建築は、これらの社会的な徳(善)が関わっているかぎり、完全に非難の余地がないわけでない。しかし、私の本の別の論点、すなわち、建築的な質の正反対は、醜いものではなく気まぐれな(恣意的な、任意の)ものであるということに関しては、それは確かに非の打ちどころがない。美しさと醜くさはそれだけ隣接していて、それだけ緊密に関係しているから、それらは混同されやすい。つまり、今日醜いものは明日には美しく思われるかもしれないし、今日美しいものは明日には醜く思われるかもしれない。しかし、気まぐれさ(恣意的さ、任意)の印象があるとき、美との如何なる関係も抑制される。あなたの建築について私に興味を抱かせるものは、(実際鋭い、なぜならそれは証明を提示するから)、如何に有効にそれがこの質の明確さを実行しているかということだ。それは人が如何に気まぐれさ(恣意的さ、任意)を縮小することに取り組みうるかを明らかにする。もし人があなたのアプローチへのメソッド(方法、手段)があると言えるなら、それは、ある解答を見つけるために真っ向からデザイン(設計)の問題に取り組む代わりに、ほとんどまるでまったく解答がないかのように思われる程度まで、あなたはそれを悪化させるということだろう。事実、それがより悪くなればなるほど、それはより冷酷な(容赦のない)ものなる。建築における冷酷さ(容赦のなさ)は、原因となる、あるいは、論理的な必然性と同じものではない。それはあなたが別の解答が存在するかどうかさえも尋ねることができないことを意味する。
Markus Breitschmid:あなたはかつて「結局は、‘ただ’アブストラクト(抽象的)な建築」を作ることを目指していると宣言した。より最近では、あなたは非-参照的に発明(創案)された何かとアブストラクション(抽象)との間を区別している。なぜあなたは今その2つの間に差異を設けているのか説明してもらえませんか?
P.207
Peter Eisenman:ダイアグラムが理論的な再生(復活)を持ってきた様に思われるここ数年でやっと今、同じサブジェクト(主題)の30年間の私達のワーク(作品、取り組み)が今日的になったことはアイロニック(皮肉的)の様に思われる。
P.208
Peter Eisenman:ある意味で、この本はその再生(復活)の一つの批評(批判)としてあるし、別の意味では、プロジェクトが大きくなればなるほど、如何なる建築家でも、たとえどんなプロセスでも、コントロールを失っていくということを認めることだ。政治と経済が支配的な要因になるとき、如何なる批評(批判)も(しかしそれはおそらくより必要(必然的)なのだが)またより疑わしい(はっきりしない、不覚的な、問題のある)ものになる。同時に、より大きなプロジェクトでは、それほど容易くファンクション(機能)をまるっきり置き換える(正常な場所からはずす)ことは可能ではない。それゆえ、もし人がファンクション(機能)を置き換える(正常な場所からはずす)ことができないのなら、それはそのワーク(作品、取り組み)のイデオロギー的なトロープ(ことばのあや)であるが、そのワーク(作品、取り組み)それ自身は再検討されなければならない。
今なおサイズ(規模)はこの変化を説明する唯一の要因ではない。ダイアグラムはリーディング(読むこと)の戦略から心底の(本能的な)体験の方策(作戦)まで満たされたサークル(円)に到達した。と同時に、ダイアグラムは建ったワーク(作品、取り組み)から消えてしまったかの様に見える。「ヴァーチャル・ハウス」や、「スタテンアイランド」、「IIT学生センター」の様なプロジェクトでは、それはプロジェクトの中で明示的(明確)になるよりもむしろ、事実上(幾分)ヴァーチャルな存在(実在)になる。
P.209
Peter Eisenman:これは、そのダイアグラムがそれ自身をフィジカル(物質的、身体的)な現実へと変容させる何かよりもむしろ、そのプロジェクトの中のエンジン(動力源)以上のものになるからだ。
外部のダイアグラムは、ある建築的なコンテキスト(文脈)でフォーム(形態、形式)やストラクチャー(構造)やファンクション(機能)が与えられたとき、これらのフォーム(形態、形式)に、ある知られている内在性から到来するものとして理解されることを許さなかった一連の(一続きの)フォーマルな(形態の、形式の)関係性と組織化(すなわちそれはフォーム(形態、形式)とファンクション(機能)との間に沈殿した関係性)を提供した。最後に、そしておそらく同じく重要なことだが、これらのダイアグラムは、リーディング(読むこと)の戦略の焦点をフォーマルな(形態の、形式の)関係性とそれから言語(学)のテクストの(文の、逐語的な)関係性の中のその起源から、身体の体験それ自身の中の感情の関係性を読むことの可能性へとシフト(変化)した。ダイアグラムのネイチャー(本性)と使用の中のこのシフト(変化)は、ワーク(作品、取り組み)の展開(発展、案出)の中で批評的(批判的)だった。もし人がそのワーク(作品、取り組み)を再検討するべきならば、これらのダイアグラムの批評的(批判的)分析は非常に重要である。だから、この本はそのプロセスの始まりである。
GORDON MATTA-CLARK:彼らはそれを蛮行で破損した。[笑いながら]基本的に彼らがしたことは、彼らの理解(識別、見解)に従って、それを安全にすることだ。彼らは手摺(柵)を取り付け、私が半分に切った(私が中ほどの位置で半分に桟橋を切った)場所を横切ってとてもきちんとした小さな橋を架けた。そしてそれから彼らはすべての表面にある入り口(すべてのものが外部からのアプローチを許されていた)を立ち入り禁止にした。
GORDON MATTA-CLARK:いいえ、その空間の基本的なネイチャー(性質)は、鳩が再びそれを持っていってしまったことを除けば、そこにある。あるいは、その中に漂っている、あるいは、吹き込んでいるどんな種類の破壊物の破片でも、まさにそれを満たしている。かつて幾らかのよく意図されたインターベンション(介入、干渉)があったことが明白な場所は、今そのインターベンション(介入、干渉)は、それによって少し折り合いをつけられてしまった。
Robert Smithson:一つとして、私が直ぐに思い浮かぶのは、彼らがニュートラルな(中性的な)空間にいることよって影響されるということだ。彼らはギャラリーの白い壁やその種のニュートラリティー(中性)に慣れている。だから直ぐに彼らは、ギャラリーの中のオブジェクト(もの、客体)や壁の絵画の様な、彼らが慣れ親しんでいるその種の表現に本当に基づいていないエリア(領域)に対処しなければならない。他の言葉で言えば、彼らは白い部屋の狭量(島国根性)よりもフィジカルな(自然の、地勢の、物質の、形而下の、物理学の、身体の)ランドスケープに対処しなければならない。殆どのギャラリーはまさに今みんな白だ。ニュートラル(中性)でない室内で展示する幾つかの試みがあるが、殆どの部分で、ニュートラリティー(中性)への強い依存がある。ニューヨークの白いギャラリー・スペースは50年代の終わりあたりに本当にとても念入りに作り上げられ、それからそれが加速(増進)されたと思う。人々が最初、壁に、目の高さで絵画を展示し始めたとき、私はしばしば実際に位置することに興味があった。(ジェームズ・マクニール)ホイッスラーは目の高さに絵画を置き、その壁をフラット(平面)で、ニュートラル(中性)な色に塗った最初の人であると誰かが私に言った。私はそれが定かかわからないが、それは、殆ど人類学的な研究あるいはアートの展示の考古学の様に、興味深いサブジェクト(主題)だろう。基本的に人はこれらのフラグメント(断片)すべてを集め、それらを一緒に囲われたところ(つまりミュージアム、言ってしまえば、だからサブセット(下位集合、部分集合)がギャラリーだ)に持っていき、これらのすべてがお互い供給し合っている。
Peter Eisenman:私は視覚的なスペクタクル(見世物的、壮観)のセンス(意味、感覚)でオプティカリティ(視覚的さ)に反抗している。私はハネケの映画の様に、イリジビリティ(読みにくさ)に興味を持っている。例えば、「Caché(隠された記憶)」の最後で、あなたは「誰がその登場人物にそれらのビデオテープを送っていたのだろう?」と言う。しかし、映画制作者はあなたがその問いへの答えを知ろうが知らまいが知ったことではない。ハネケのワーク(作品、取り組み)は、非-レジブル(読みやすさ)へのムーブメント(動き)であり、映画の中のファンクション(機能)とミーニング(意味)を扱うことの非-スペクタクル(見世物的、壮観)な方法である。もしあなたがオーディエンス(観衆)に情報を与えるなら、その時は映画制作者として、あなたは彼らがその映画を見ながら、まさに椅子に深くすわってくつろごうとしているのを知る。しかしもし、「Caché(隠された記憶)」が提示するように、映画の答えがわかることについてのものではなかったら、それはイリジビリティ(読みにくさ)を伴ったある経験(体験)を持つことについてのものではないのか?他の言葉で言えば、スペクテーター(見物人、観客)は能動的ではないが、その代わりにブランショが非-受動的な受動性と呼ぶものだ。レムがその言葉ニュートラル(中性)を使う時、私は彼が意味しているものを理解していると思う。なぜなら彼はあなたがその経験(体験)を越えていくことを保つことができないことを、あなたがますますクレイジーになることを保つことができないことを意味してその言葉を使っているからだ。その向こうにはクレイジーさの十分な例がある。
P.50
Richard Serra:重力を使用するということは構造力学上の素晴らしいレッスンを教えてくれる。荷重支持の伝達が垂直方向との関係のみを必要としていないことが明らかになった。コンポジション(構成、組み立て)から、テンション(引っ張り、応力)へ、斜めの力へ、片持ち梁へ、トポロジカル(位相幾何学的)な表面組成の重力原理へ、そして、それらの荷重支持の受容力へ、変えられるエネルギーシステムの中にある広大な範囲(領域)がある。鉛の支柱の構築術は、安定性と不安定性やバランスと転覆(崩壊)への傾向である工学技術原理の最も基本的なことに拠っているし、それを明らかにする。
P.51
Richard Serra:「The Blob(しみ、ぶよっとした塊り)」や「To Lift(持ち上げること)」の様なピース(作品)は、ゴムの曲がりやすいシートへの重力の効果をはっきりと示している。私は一貫して、ある道徳的(倫理的)あるいは論理的な規範としてではなく、建てることの共通感覚の問題として構築術を透明に(わかりやすく)しようとしてきた。与えられた制限の下でそれらのファンクション(作用、機能)を果たすコンストラクション(構築)の原理は、如何なる人のインスピレーションにも開かれている。私はアートの目的のために工学技術の構築術と関わっていない。スペクタクルな(見世物的な、壮観な)構築術は、ディテールをフェティッシュなものとして崇拝したり、あるいは、ポストモダン建築の中で特に明らかな様に、それ自身の目的としてストラクチャー(構造)のシナグラフィー(遠近図法)を過度に強調し過ぎる。
考えること(思考)、知覚、ワーク(作品、取り組み)は、歴史的に拘束されていて、私達各々異なっている。白紙のページや、真っ白なキャンバスのノスタルジック(懐古趣味的)な概念は、偽物のアイデア(考え、観念)だ。実験はこのジレンマ(板挟み)の一つの方法(道)かもしれないが、私達が歴史を一掃することができ、まっさらのスレート(石版)から始めることができると考えることは、イリュージョン(思い違い)だ。歴史を乗り越えることは、自ら課した制限を乗り越えることと同じである。どのように人がソリューション(解釈、解法、解答)を評価するかが重要である。ソリューション(解釈、解法、解答)は時間的(一時的、世俗的)であり、すべてのソリューション(解釈、解法、解答)は次の問題の種を含んでいる。ワーク(作品、取り組み)はワーク(作品、取り組み)から現われる。
P.103
Krijn de Koning:今日の奇妙な文化の中では、美がすべてではない。忘却やユニークさ(唯一無二)あるいは極度の興奮の様なことがまさに重要だ。しかし、まるで初めての様に物事を見ながらそれが何であるのかということは、まだ焦点を合わせるということ注意を向けるということについてのものである。つまり、それは今ここについてのものであって、昨日や明日についてのものではない。勿論、この中にも美はある。私はそれが初期のアーティスト達が自然の世界を描いた理由だと思う。なぜなら自然は、彼らが模倣することができた手近の美を提供したからだ。ケルンあるいはデュッセルドルフで、私はかつて天使の群れによってキリストが天国へと運ばれてゆく中世の絵画を見た。もしあなたがその絵画を見れば、あなたはその作者の深い信仰を感じることができる。
P.105
Krijn de Koning:今そんな絵画を創作することは不可能だろう。なぜなら私達はもはやそのような信仰を持っていないからだ。しかしすべての人はそのような信仰、そのような美の経験への憧れを持っている。
Krijn de Koning:おそらく私はとてもクラシカル(古典的、伝統的)なアーティストだろう。私のワーク(作品、取り組み)はまさに美についてのものであり、私はまさにクラシカル(古典的、伝統的)なことを扱っている。
Rutger Wolfson:私はまたそれをオランダの伝統の一部としても見ている。
Krijn de Koning:私はまさにどれだけリートフェルトやモンドリアンと類似性があるのか考えている。つまり、私のワーク(作品、取り組み)は確かにこれとは関係しているが、どれだけ私が伝統の中にフィット(適合、調和)しているのかまだ定かではない。おそらくそれはまだ言うには早過ぎる。そのことに関しては、ドナルド・ジャッドのミニマリズムや、ゴードン・マッタ・クラークとロバート・スミッソンの作品も私のワーク(作品、取り組み)に影響を与えた。
Madelon Vriesendorp:レムは私に「Tom of Finland」の様な、ゲイのセックス・マガジンのスタイル(様式)でこのドローングを描くように頼んだ。私は彼に、誰にも言わないという条件なら、そのようにすると言った。つまり「あなたがそれを見つけたふりをしなくてはいけないでしょう」と。なぜならそれは全体として面白く、それはあなたがあなたの理論の証明(証拠)、ボクシング・グローブで牡蠣を食べる証明(証拠)を見つけるということだったから。
P.21
Peter Zumthor:かなりの程度まで、デザイン(設計)することは、オーダー(秩序、理法)のシステム(組み立て)を理解し確立することに基礎が置かれる。さらに私は私達が探し求めている建築の本質的なサブスタンス(本質、実質、物質)は感覚と洞察から生じると信じている。直観の貴重な瞬間は忍耐強いワーク(取り組み)の結果である。内なるイメージやドローイングの中の新しい線の突然の出現とともに、全体のデザイン(設計)が変化し、ある瞬間の断片の中に新しく定式化される。それはまるで強力なドラッグ(薬、麻薬)が突然効き始めたかのようだ。私が創り出しているものについてその時までに知っていたすべてのことが、明るい新しい光によって照らされる。私は喜びと熱情を経験し、私の中の深いところにある何かが、「私はこの家を建てたい!」と断言しているように思われる。
空間の中の構成
Peter Zumthor:幾何学は、空間の中の線や平面的なサーフェス(表面)や3次元的なボディー(物体、塊)の規定(法、理法)についてのものだ。幾何学は私達が建築の中で空間をどのように扱えばよいのか理解することを助けることができる。
P.22
Peter Zumthor:建築では、空間的なコンポジション(構成、組み立て)の基本的な可能性が2つある。それは、それ自身の中に空間を分離(隔離、特定)する閉じた建築的ボディー(物体、塊)と、終わりのない連続(連続体)と接続されたある空間の領域を包含する(に等しい)開いたボディー(物体、塊)である。空間の拡張はある部屋の空間的な広大な広がりの中に自由に配されたあるいは列をなして並んでいる床や柱としてのボディー(物体、塊)を通して視覚化されうる。私はどんな空間が本当にそうなのか知ることを主張しているのではない。わたしはそれについて長く考えれば考えるほど、それはますます謎めいていく。しかしながら、一つのことについては、私は確信している。私達が、建築家として、空間と関わるとき、私達は地球を取り巻いている無限の中のちっぽけな一部だけでなく、各々のそしてすべての建物がその無限の中で唯一無二の場所をマークする(しるしをつける、跡をつける、特色づける)ということと関わっているということだ。
この心の中の考えとともに、私は私のデザイン(設計)の最初の平面と断面をスケッチすることから始める。私は空間的なダイアグラムとシンプル(単純)なヴォリュームを描く。私はそれらを空間の中にある正確なボディー(物体、塊)として視覚化しようとし、それらがどのようにそれらを取り囲んでいる空間から内部の空間の領域を明確にし分離するのか、あるいはそれらがどのようにある種開かれた容器の中で無限の空間的な連続(連続体)の一部を包含するのかを正確に感じることは重要であると感じる。
強いインパクト(衝撃、影響力)を持つ建物はいつもそれらの空間的な質の強烈な感覚を伝える。それらはある特別な方法の中で空間と呼ばれる謎めいた(神秘的な)ヴォイド(空隙)を包含し、それを鳴り響かせる。
P.26
Donald Judd:私はかつて、彼のワーク(作品、取り組み)が幾らか政治的なあるアーティストによる展覧会の中止に対する議論の中で、その美術館の賃貸契約書の中で政治的なアートを展示することはできないと謳われているとグッゲンハイム美術館のキュレーターに言われた。それは私のワーク(作品、取り組み)が、所謂アブストラクション(抽象主義)として受け入れられるもので、政治的なミーニング(意義、効力、目的、意味、考え、底意)を持っていないことを意味しているから、私は腹が立った。視覚的なものと文学的なものが異なって強調されるワーク(作品、取り組み)がある。私にとってはより視覚的なものの方がより良いが、純粋なフォーム(形態、形式)はない。勿論、純粋なコンテント(内容、意味)も存在しない。多くの哲学は、何が与えられたのかということの再整理だ。フォーム(形態、形式)やコンテント(内容、意味)や思考や感覚などの幾らかのカテゴリー(範疇)は、カテゴリー(範疇)ではありえないように思われるし、ほかにカテゴリー(範疇)が作られる必要がある。この社会の最も一般的な問題は、戦争や貧困には及ばないが、大抵の活動とカテゴリー(範疇)が、それらが分離されるべきでないときに、それらが一緒にも分離もされるべきでないときに、一緒になっているということだ。
もしあなたが、アートはあなたがメタフィジックス(形而上学の体系)と主義(宗教、信条)の中にそれを置く(位置付ける)危険を冒す知を提供すると(当然のこととして)主張するならば、両方とも破壊的なイリュージョン(幻想、思い違い)だ。
P.27
Donald Judd:それはサイエンス(科学)に代わる一種の知では絶対ない。アートは私達とのその類似の中で一般的(普遍的)であり、サイエンス(科学)は広大な世界を扱っているけれども特別だ。サイエンス(科学)の知はそれ自身の方法で成し遂げられるスペシフィック(特異)な種類のものだ。まさに私達がサイエンス(科学)のプロセスを通り抜けることなしに世界のネイチャー(性質、本質)について多くを語ることができない様に、アートもまた多くを語ることができない。というのも、その誠実さの中では、それがサイエンス(科学)のプロセスを組み込むことができる道がないからだ。コンテンポラリー・アートに借用されるべきサイエンス(科学)に関しての唯一の態度は、アートは今知られていることに一致(調和)するアピアランス(外観、様相、感覚的印象)とインプリケイション(掛かり合い、言外の意味、含意)を持つべきだということだ。アートは無知(無学)でありえない。反対に、アピアランス(外観、様相、感覚的印象)とインプリケイション(掛かり合い、言外の意味、含意)は、知られていることを侵犯することができない。少なくともアートは間違った事実についてのステイトメント(声明)を含意するべきでなはい。
P.90
J. Christoph Bürkle:あなたがより小さな事務所を運営していれば、その様な仕方で運営するのもより容易ではないですか?あなたはほぼ25人のスタッフを雇っている。
Peter Zumthor:ええ、それは可能だろう。あなたはあなたが寝るベッドを整える。私は決して大きな事務所にしたくはなかった。私の焦点は、言ったように、作家建築を生み出すことだ。つまりその作家とは、紙の上だけでなく、プロセスの中で精力的に参加しなければならない。作家は彼自身を複製することができない。つまり25人の人々とともに、私は既に限界を押し進めている。それは今ではより容易だ。なぜなら私はもはや誰にも教えたり、ほとんどレクチャーをしなくていいからだ。今私は単にこの事務所にいるだけでいい。私は毎年1つか2つ以上のプロジェクトを実現できる。経験もまた助けてくれる。だから私はいつデザイン(設計)が悪い方向に向かって進んでいるかを直ぐに認め、より早く言う。「もしそれが既にそのように始まろうとしていても、私達はまさにそれを忘れることができる。」と。30歳なら、あなたはまだそのことを知らない。
J. Christoph Bürkle:さらに、あなたはプロジェクトを選ぶ立場にいる。あなたはすべての依頼を受けない。
Peter Zumthor:しかし私はまた困難なことをしたり、不可能に挑戦することを楽しみもする。しかし私は如何なる「商業的なもの」あるいは、誰かが単に私の名前が欲しいだけのプロジェクトはしない。私はまた建物の一部だけをまさにデザイン(設計)することもできない。例えば、建物の外観をしたり、まさに並の建物の内部をしたりすることだ。私はそれらのどれもしないだろう。それは選択肢にない。
P.91
J. Christoph Bürkle:高い質の建設工事の状態は、スイスでは現在とても素晴らしい。しかし、もしますます多くのディベロッパーが増え、建設活動が一般的な建設業者あるいはdesign-build contractor(設計施工業者)によってますます決定されるなら、この10年をどのように見ますか?
Peter Zumthor:その方向に向かっている様に思う。しかし、その後直ぐにいつも反動があると経験はまた示している。建築が商業的になればなるほど、それはますます単に装飾やファサードになる。つまりこれ故にそれは、本質(物質、実質、永遠のもの)あるいは質への要求が再び現われる様なものだ。あなたはまたそれをいくらか波(うねり)の様に見るにちがいない。私はあなたが質から人々を引き離すことができるとは思わない。突然人々はよい服を買い出す。つまりもし私が人生(生活)を正確に観察していれば、それは何度も起こっている。勿論、多くのことが変化するが、それが起こるとき、私達は何がこれらの変化について良いのか、それらが持っているのはどんな効果(結果)なのかを想像することは全くできない。十分に作られたものは残る。如何なる前進も基本的に胡散臭いと思う人々もいれば、それを無批判に奉ずる人々もいる。一般的に、各々の世代はその変化のマグニチュード(大きさ、重要性)を過大評価するものだ。
P.75
Philip Ursprung:「美しさ」は今日のアートについての議論の中でかなり両面的な言葉だ。多くのアーティストや批評家にとって、美しさの概念は時代錯誤(時代遅れ)である。つまり、それは殆どタブーであるかのように思われる。それは18世紀と19世紀の美学的な論争を思い出させ、芸術的なイデアル(理想、典型、観念)のイデア(考え、観念)や、規範と規則のイデア(考え、観念)を喚起し、それらは古代やルネッサンスに起源を持っている。アートについての議論の中の美しさへの一途な(険しい)言及は挑発になりえる。なぜならそれは直ちに権威への問いを起こすからだ。即ち、何が美しいのかそうでないのかを誰が決めることができるのか?ということだ。もし私達が、むしろ純真に(うぶに、だまされやすく)、美しさを、その感覚的印象によって私達が直ちに圧倒され、決して見飽きなく、それに対してシンパシー(共感)を持ち、共鳴(同一視)すらし、私達を取り囲むものを新鮮に見せる何かとして理解するならば、私はあなたのインスタレーションの多くを美しいと言うだろう。しかし、あなたはあなたのまさに最初のインスタレーションのタイトルの一つに「美しさ」を選んだにもかかわらず、私は決してあなたが美しさについて多くを語ったのを聞いたことがない。あなたの美しさの理解について話してもらえませんか?