『1番街の奇蹟』
ユン・ジェギュン (監督)
イム・チャンジョン (主演男優)
ハ・ジウォン (主演女優)
2007年制作
日本劇場未公開
☆☆

『
セックス イズ ゼロ』(ユン・ジェギュン監督 2002年)の主演コンビ、イム・チャンジョンとハ・ジウォンを再びフィーチャーしてお届けする韓流ヒューマン・コメディー。地域の再開発を目的とした住民立ち退きのために貧民街にやってきた地上げ屋の下っ端ヤクザが、逞しい住民たちに逆にやっつけられる、という内容のコメディーだろうと思って観始めたのだが…、どうも様子が違った。オリジナルタイトルも「
1번가의 기적(イルボンガエ キヂョk)」=「1番街の奇蹟」。日本版DVDのタイトルでは「奇跡」の字が当てられているが、
AllCinema Online等の映画データベースや
Amazon等のDVDデータベースには「奇蹟」で登録されているようだ。「1」も全角なのか半角なのかよくわからない。英語タイトルは"Miracle on 1st Street"。

韓国のとある都会の片隅(ソウルだと思って観ていたのだが、ロケ地は釜山だそうだ。セリフが釜山方言、ということはないと思う)、急な坂の上のチョンソン(青松)街1番地は、老人と女・子供ばかりが住んでいる貧しい地域。近く再開発されることが決まっている。この町の住民に立ち退きを迫るために派遣されてきた主人公の下っ端ヤクザの男は、住民のしぶとさに手を焼きながらも、時間がゆっくりと流れるそんな町での暮らしを楽しみ始める。強引な手口で止められていた水道を流させ、インターネット回線まで開通させてしまった彼を、町の子供たちは「スーパーマンでは」と噂し慕い始める。男手のないこの町で困っている人に頼られれば、元来気の優しい彼は断り切れない(語られてはいないが、おそらく彼もまた貧しい町で育ったという経緯があるのだろう)。すっかり町の住民と化してしまった彼だったが、そんな暮らしが長く続くはずはなかった。下っ端の彼には再開発計画を止めることはできないのだ…。

想像していたのとだいぶ内容が違っていた。前半は、とんでもなく不便な町に遣わされ、ヤクザも怖れない住民たちや野性味溢れる子供たちに手を焼く主人公の姿をテンポ良くコメディータッチで描いていくが、途中から貧しい暮らしを強いられている人々が(ただ貧しいというそれだけの理由で)虐げられている姿をこれでもかというくらいに見せていく。ここがこの映画の不思議なところで、ヤクザな男が人々との触れ合いを通して本来の人間性を取り戻していく、というヒューマンドラマにするわけでもなく、「『普通の人』はこんなにヒドい。ここの住民には何の非もないのに」と観客に訴えかけるわけでもない。チョンソン街の住民は、暴力的に家を取り壊され、住む家を失い、2人が自ら命を絶つ。散々な目にあったまま、何一つ報われることなく、映画は終わる(ボクサー役のハ・ジウォンなんか、顔面アザだらけ全身血まみれになって結局試合には負けてしまう)。何一つ「奇蹟」は起こらないまま、この映画は終わってしまうのだ。それにも関わらず、本作のタイトルは『1番街の奇蹟』。これは日本の関係者が勝手につけた邦題なのかな?と思ったら、オリジナルタイトルも同じ。いったい何が「奇蹟」だったのだろう?

この映画で描かれている「奇蹟」があるとすれば、それは、どれだけヒドい目にあっても人は絶望できない、人というのはどんな状況におかれても希望をもち続けることのできる存在なのだ、ということに尽きると思う。希望をもっていても報われることはない。しかし、報われないなら希望をもてないというわけでもない。そういう種類の「奇蹟」を描いた映画だとしか考えられない。元々がコメディータッチの映画だけに、むしろ安易なヒューマンドラマ路線に載せなくて良かったのだと思う。
小倉紀蔵の『
韓国は一個の哲学である』(1998年 講談社)なんかを読むと、韓国(朝鮮)の伝統的な哲学の論理(儒教的な世界観)では、人の優劣は人が本来持っている「理(道徳性)」をどれだけ発現しているかによって決まる、とされているのだそうだ。韓国(朝鮮)社会で見られる上下関係というものは、要するに、「正しく生きている」者が上位、そうでない者が下位、ということなのだという。この上下関係は固定的なものではなく、人は誰でも己の道徳性を他者よりも高めることによってより上位に立ち、金と権力を手に入れることができる、と考えられているそうだ。そこに、韓民族の民族的な楽天性というものの根源があるという。

そういう視点でこの映画を観ると、なるほどと感じる場面が多々ある。理屈の上では、誰でも努力によって上位者になれるはずなのに、チョンソン街の人々には己の「理」を高めるチャンスすら巡ってこない。ハ・ジウォン演じる女のコが涙を流すのは、何をやっても無駄だというだけでなく、そもそも自分にはチャンスが与えられないということについてなのだ。彼女、イケイケのボクサー役なのかと思っていたら、過去5戦して1勝も挙げたことがない、というダメボクサー。そんな彼女が東洋チャンピオンに挑戦するという無謀な試みを熱望するのは、「正しく生きている」ことを示すチャンスを求めてのことなのだ。
映画としては、堅気になった主人公の「気はもちよう」というようなセリフで幕を閉じるのだが…、「希望を捨てないこと」はもちろん大事だと思うのだけど、希望を捨てないこと「だけ」ではダメだ、とも思う。貧民街の住民たちは現に貧民街に住んでいるということだけで現実的な不利益に直面しているわけで、ここで「気はもちよう」と言い出したら、現状に甘んじることになってしまう。でも、こう考えるのは日本人的発想なのかもしれない。彼らが「気はもちよう」と言うのは、「貧しくても、気のもちようで楽しい」(『
佐賀のがばいばあちゃん』(島田洋七(著) 2004年 徳間書店)なんかはそれに近いような気がする)ということを言っているのではなく、「努力が報われなくても『何をやっても無駄だ』と諦めたりせずに何度でもチャレンジする」ということを言っているのかもしれない。

と言うわけで、興味深い映画ではあったものの、「良い映画」とまでは言う気にならない映画だったのだが、映像の美しさだけは妙に印象に残った。特に後半に感じたのだが、韓流映画としてはこれまでにない画面の明るさだったり色合いの鮮やかさがあったように思う。単純な話、ちゃんとピントが合っている(笑)。観直してみると、場面の切り替えはリズムが良いし、案外脚本も練られている。2000年代の後半に入って、韓流映画のクォリティーはどんどん上がっているように思う。
主演の2人は、『セックス イズ ゼロ』以来5年振りに共演しているわけだが、2人の年齢差がグッと開いた感がある。逆に言うと、『セックス イズゼロ』でのイム・チャンジョンがムチャクチャ若作りしていたのか、ハ・ジウォンが5年経っても若々しいのか。ハ・ジウォンは監督の最新作『海雲台(ヘウンデ)』(2009年)にもヒロインとしてキャスティングされており、監督のお気に入りの女優さんなのかもしれない。

この映画、ちょっとした端役の熱演に助けられている映画でもある。特に幼い兄妹を演じたパク・チャンイクとパク・ユソンは息の合った演技を見せてくれる(2人とも姓が同じだけど、実の兄妹? でも、パクという姓は多いからなぁ…)。映画の成功(成功していない?)の何割かは彼らのおかげだと思う。ボクシングジムの館長を演じるチュ・ヒョン(『友へ チング』(カク・キョンテク監督 2001年)、『
ファミリー』(イ・ジョンチョル監督 2004年)、等)はベテランらしい落ち着いた名演。パク・チャヌクの映画(『
サイボーグでも大丈夫』(2006年)や『
親切なクムジャさん』(2005年)、等)で独特の個性を発揮しているベテラン女優のイ・ヨンニョも、出演シーンは少ないもののインパクトを残していると思う。また、あまりキャリアのない俳優だと思うが、サイドストーリーとして挿入されている、イ・フンとカン・イェウォンの2人によるラブストーリーもなかなか良い感じ。
今日の一言韓国語は、「
그런데요, 살다 보변요, 그 보다 더 아픈 게 많아오.(クロンデヨ、サルダボミョンヨ、クボダ トー アップンゲ マナヨ)」=「でもね、生きているとね、もっと(心が)痛いことがたくさんあるの。」 泣くな! ハ・ジウォン! 泣くな!

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